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まとめ記事
御朱印放浪記(東京都)
ぎるでぃさん
2017/04/03
2,057
東京都での御朱印迷走を(電車移動ばっかりでしたけれども)
2017年3月25日「愛宕神社」「増上寺」「芝東照宮」「乃木神社」「日枝神社」「靖国神社」「寛永寺」「上野東照宮」「神田神社」
2018年1月20日「浅草寺」「明治神宮」「東郷神社」「浅草神社」「矢先稲荷神社」「鷲神社」「吉原神社」「石浜神社」「橋場不動院」「今戸神社」
2019年3月2日「高尾山」「氷川神社」「武蔵御嶽神社」「住吉神社」「塩船観音寺」「常保寺」「日吉神社」「子安神社」
2019年5月1日「明治神宮」「靖国神社」
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總持寺の後に電車で愛宕神社(あたごじんじゃ)へと行ってみました 毎度のことですがうぃきに頼りますと(他人任せですねぇ・・・) ・・・ 愛宕神社(あたごじんじゃ)は、東京都港区愛宕一丁目にある神社である[1]。山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高26m)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社である。 防火・防災に霊験のある神社として知られる。 ・・・ だそうでして・・ まぁ・・ワタシは某ゲームの漫画で興味があったともいえるのですが・・・ さてさて こちらは参道の石段が有名なのらしいのですが まぁ・・大都会の中の神社ですし・・山寺ほどのことはないのぢゃぁないかなぁ・・ と・・甘く考えていたりしていたのですが・・ なにこれこゎぃ(急こう配) まぁ・・なんとか上って・・鳥居をくぐり抜けますと 流石に都会な神社なだけに並んでいますし さてこちらで参拝をしまして・・(中で挙式中でしたけれども) 御朱印帳(東京用(?))も新調して記帳していただきました ・・帰りは下りが怖いのでエレベーターで降りちゃいました(←ヘナチョコデスミ ...出典:ぎるでぃさん
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愛宕神社の次には浄土宗の大本山 増上寺(ぞうじょうじ)へと行ってみました(徒歩移動) こちらは江戸の裏鬼門の芝の抑えと 徳川家の菩提寺だそうでして・・ さて こちらの三解脱門(三門)をくぐり抜けまして・・・・何故か白い壁で覆われちゃっていましたけれども こちらの大殿でお参りをして・・・ 此の紋所が・・目に留まってついうっかり購入して記帳をしていただきました出典:ぎるでぃさん
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増上寺の次には芝東照宮(しばとうしょうぐう)に行ってみました いつものごとくうぃきに頼りますと ・・・ 芝東照宮(しばとうしょうぐう)は、東京都港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。 ・・・ だそうです さて こちらの鳥居から・・境内に入りまして 参拝を・・ こちらも挙式中♪ さて・・さらにうぃきをたよりますと ・・・ 3代将軍家光により寛永10年(1633年)に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となった。寛永18年(1641年)には移転改築がなされた。駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整った。 明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。明治6年(1873年)郷社に列した。本殿は大正4年(1915年)、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物(現行法の重要文化財に相当)に指定された。しかし、昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウ ...出典:ぎるでぃさん
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芝東照宮の後に(東京タワーに立ち寄ってから)乃木神社(のぎじんじゃ)へと行ってみました(徒歩移動) ・・・・地図で見たら結構近いかな?と思って歩いてみたのですが ・・意外と距離があった誤算^^;(あと東京って結構平らでわ無いのですね・・・) さてこちらは 明治時代に活躍した軍人であり明治天皇の崩御の際に殉死した乃木希典将軍を祀った神社。 です (まぁ・・私が知ったのはむかぁし目にした某仮想戦記(の別エピソードだったかな?)ですが・・・) まぁ・・さて こちらの鳥居から境内へ こちらの拝殿で参拝をして記帳をお願いしていましたら 直後に挙式の列が現れてまして・・ ふみゅう・・・都会の神社は忙しそぉ・・・ 何てことを考えつつ・・ 次の移動へと疲れたからと目の前にあった乃木沢駅に入ってホームで電車を待っている途中ふと・・ 御朱印帳を乃木神社の社務所に預けたままなのを思い出して慌てて戻ろうとして改札口から出ようとして ・・・改札のドアが閉まっちゃったりして一人混乱していたのは・・ ・・・うん・・ワタシ・・ボケ始めていますね出典:ぎるでぃさん
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乃木神社の次に日枝神社(ひえじんじゃ)へと行ってみました(地下鉄移動) さてこちらは日枝神社のホームページの由緒によりますと ・・・ 当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築きました。 やがて天正18年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されました。 (以下略) ・・・ だそうでして・・ 国会議事堂の裏っぽいところに鎮座していまして・・ 地下鉄の国会議事堂前ってところで降りたのですが 普段からなのかこの日は特別なのか警備が厳しいのか それとも私が不審者だからなのか警備の方に声をかけられちゃったり^^; (まぁ・・日枝神社の場所を聞くことができて私も助かりましたけれども) さて こちらの鳥居から境内へ(ちょっと形が独特?) い・・石段・・ 石段を上ってこちらの神門か ...出典:ぎるでぃさん
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日枝神社の後 靖國神社(靖国神社、やすくにじんじゃ)へと行ってみました(地下鉄と徒歩移動) こちらは国内外にも有名どころなので個人的に一度は行ってみたかった所の一つです さて こちらの大鳥居から(かなり大きくて・・ごっついです)境内へ入りますと (参道の幅も広い^^;) 大村益次郎さんがお出迎え さらに進みまして 横断歩道を渡りますと (こちらも巨大でごっつい)青銅大鳥居が そしてこちらの神門をくぐりまして こちらの拝殿で参拝を 流石に人がいっぱいで警備の方も大変そう(外国の方も結構来ているのですね) さて・・御朱印をと参集殿へと行ってみたところ 創立150周年記念御朱印帳が目に留まっちゃったので・・・ こちらには出かけた時に各県の護国神社を見かけたら 護国神社の御朱印を纏められたらいいかなぁ・・と妄想をしながら購入を・・(そんなに続けられるかなぁ・・ワタシ出典:ぎるでぃさん
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靖国神社の次に寛永寺(かんえいじ)へと行ってみました(徒歩と電車移動) ・・まぁ・・この辺りになると日ごろの運動不足がたたって足ががくがくになってきているのですが・・ね さてこちらは天台宗関東総本山で徳川将軍家の祈祷所・菩提寺だそうです かつては今の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内だったそうですが うぃきでながめたところ幕末から明治にかけて中々波乱な歴史のご様子で・・ こちらの本堂(根本中堂)の堂内でお参りをして御朱印も記帳していただけました出典:ぎるでぃさん
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寛永寺の後に上野東照宮(うえのとうしょうぐう)へと行ってみました(徒歩移動) こちらは上野公園の中に鎮座しているかたちにあるのかな? この日の上野公園は普段からそうなのか花見の季節が近いからなのか 結構人が沢山いるなぁ・・と思いながら公園のなかを歩いて東照宮へと行ってみますと 屋台が?・・お祭りのご様子で 混みっぷりに怯えながら 何とか境内へ・・ こちらで(ここの東照宮は金ぴかだなぁ・・と・・思いつつ)参拝をして記帳を・・ ・・・・(拝殿を拝みに中へ行き損ねてたことに今気づいた・・疲れているなぁ・・)・・・・ そして・・お祭り中は記帳していただけなくって書置きで・・とのことで・・ ちょぴり心残りですから機会があったら拝殿を観に(記帳も?)もう一度行ってみたいかなぁ・・ト・・思ってみたり出典:ぎるでぃさん
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上野東照宮の後に神田明神(かんだみょうじん)「神田神社」へと行ってみました 正直へとへとになってきましたのでJRで上野から(坂を上る気力もないので)御茶ノ水駅へ行ってそこから徒歩移動しました いつものうぃき頼みによりますと ・・・ 一ノ宮に大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)、 二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)、 三ノ宮に平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様) の3柱を祀る。 ・・・ 将門様・・・(こ・・・怖いイメージが・・・) さてこちらの鳥居から 隨神門をくぐり抜けて(流石にこちらも人が^^; ) こちらに拝殿で並んで参拝をして記帳を・・・ していただくために待っている間に 挙式が始まったりして(この日は結婚式によく巡り合ったなぁ・・) 疲れたし日も暮れてきましたので今回はこれで帰宅しました。 御朱印・・・・・どこかで見かけたような書体・・・(まぁ・・群馬では結構見かけましたけれども^^;)出典:ぎるでぃさん
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坂東三十三箇所観音霊場巡りを忘れていたわけではないのですけれども 浅草は浅草寺(せんそうじ)へと行ってきました こちらからイメージをするのは昭和脳なワタシですと 寅さんか・・はたまた両さんか・・?(意表をついてメガゾーンか?) 最近お方だとどうなるのかな? まぁ・・ワタシなんかの拙い印象ですと東京のお寺さんでは真っ先に思いつくところです ただ・・観光客が多そうですので尻込みもしているのですが さて いつもの様にうぃきによりますと ・・・ 浅草寺(せんそうじ[1])は、東京都台東区浅草二丁目にある、東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に収まっている[2]。 ・・ ...出典:ぎるでぃさん
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弘明寺の次に明治神宮(めいじじんぐう)へと行ってみました ここもまた有名どころですけれども 前回東京を彷徨った時にも行ってみたいとは思っていたけれども 時間も体力も気力も尽き果ててたどり着けなかったことは・・・・ここだけの内緒です こちらはうぃきによりますと ・・・ 明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社。明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。初詣では例年日本一の参拝者数を誇る。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない「明治神宫[1]」。 明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする[2]。境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。 ・・・ となっていまして・・ 創建は大正9年(1920年)と結構新しい神社だったりもしますところが ・・・以外というか・・・まぁ考えてみますれば明治天皇が御祭神ですので・・ ...出典:ぎるでぃさん
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明治神宮の次に 東郷神社へと行ってみました こちらもうぃきによりますと ・・・ 東郷神社(とうごうじんじゃ)は、東京都渋谷区神宮前一丁目に鎮座する神社。東郷平八郎元帥を祀る。 ・・・ となっていまして・・ こちらも創建は昭和15年(1940年)と結構新しいのですけれども 某ゲーム的に個人的に一度は行ってみたいと思っていたところの一つだったり ・軍神ですし・・つまり正真正銘提督の神様ですし(多分) さてこちらは明治神宮から原宿駅を挟んで徒歩で行けるほどに近くに鎮座していますけれども 原宿・・竹下通り・・・ 若者の街 まぁ・・ワタシには竹下通りを歩くなんてほぼ罰ゲームな状態でしたが;; (改めてマップ見直しますと竹下通り通らなくても行けたのね・・) こちらから境内へ・・ と・・立ち並ぶ翩翻とひるがえるZ旗の列・・ そうですよねぇ東郷元帥といったら 日本海海戦で Z旗ですよねぇ♪(個人の感想です) Z旗の幟の列に 若干わけのわからないテンションになりつつも 参道を進みましてこちらの神門をくぐり抜けまして こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました そ ...出典:ぎるでぃさん
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東郷神社の次に再び浅草へと戻りまして 浅草神社へと行ってみました こちらもうぃきによりますと ・・・ 浅草神社(あさくさじんじゃ)は、東京都台東区浅草の浅草寺本堂右隣にある神社である。通称に三社権現(さんじゃ ごんげん)、三社様(さんじゃ さま)。5月17日の例大祭は三社祭という。 ・・・ となっていまして・・ 浅草名所七福神の恵比須さま です さて 流石に朝方の時と違いまして参拝客が沢山いらっしゃいますが こちらから早速境内へ こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました で。。。記帳している時にふと社務所を眺めまわしていますと 浅草名所七福神 のご案内と色紙がありまして・・ 移動距離が7キロちょっとの4時間位(だったかな?)って書いてありまして ふと時計を見てみますと すでに午後二時・・・・ まぁ・・半分くらいは廻れるかなとか思いつつせっかくだから色紙も購入しちゃったりしてしまうワタシ・・出典:ぎるでぃさん
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浅草神社の次には再び 七福神の色紙に記帳していただくために もう一度 浅草寺へと立ち寄ってから とぼとぼと歩きで 矢先稲荷神社(やさきいなりじんじゃ)へと行ってみました こちらは 浅草名所七福神の福禄寿さま の御朱印がいただけるところでもあります さて こちらから境内へと こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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矢先稲荷神社の次に ふたたびとぼとぼと歩きまして 鷲神社(おおとりじんじゃ)へと行ってみました 結構距離があったりもしまして普段歩かないワタシにはちと疲れつつ^^; ・・・・すぐ近くへの移動でも車を使っちゃう私なんかよりも都会の方々の方がよっぽど歩いているのだろうなぁ・・とかも思いつつ まぁ・・さて こちらはうぃきによりますと ・・・ 鷲神社(おおとりじんじゃ)は、東京都台東区千束3丁目にある神社である。「おとりさま」の通称でも呼ばれ、11月の例祭は「酉の市(とりのいち)」として広く知られる。 ・・・ となっていまして・・ 浅草名所七福神の寿老人さま です さて こちらから境内へ こちらの社殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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鷲神社の次に 吉原神社へと行ってみました(こちらへも歩いて・・少し近めでした) こちらは吉原神社のホームページによりますと ・・・ 吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社です。五つの稲荷神社とは玄徳(よしとく)稲荷社、明石(あかし)稲荷社、開運(かいうん)稲荷社、榎本(えのもと)稲荷社、九郎助(くろすけ)稲荷社の五社で、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を御祭神としています。 また吉原弁財天の御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、吉原神社にお祀りされていると共に、現在でも本宮が大切にお祀りされていて信仰が続いています。 ・・・ となっていまして・・ 浅草名所七福神の弁財天さま です さて こちらから境内へ こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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吉原神社の次に 石浜神社(いしはまじんじゃ)へと行ってみようかと が・・ ふと時計を見てみますと既に午後三時半・・・ 最初に貰ったパンフレットの地図によればこの辺りが半分くらいな感じですし 次のところまでは結構距離がありそうですし 何となく半分まで来たからこの辺りが引き時の様な気分も若干あったりもし始めてもいたけれども ・・・・ まぁ・・・行動してみてから後悔してみようかなともおもいなおして(未練かも もしこし頑張ってみることに 徒歩での移動でしたけれども 気がせいて少し早めなペースで・・(でも走り出せる気力は・・無かったり 運動不足な私には疲れも出ていることもありまして結構きつめな距離だったですが なんとか・・間に合ったヾ(o´∀`o)ノささやかな努力が報われた(午後三時五十五分・・・ さて こちらもホームページに寄りますと ・・・ 当社は、聖武天皇の神亀元年(724)9月11日、勅願によって鎮座され、以来1294年の歴史を持っています。 文治5年(1189)、源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安4年(1281)、蒙古襲来の折、必勝を祈念しての、鎌倉将軍家お取り次 ...出典:ぎるでぃさん
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石浜神社の次に 浅草駅へとの帰り道へと付きまして すぐ近くですし通り道沿いですしで 一応眺めるだけでもと思い 橋場不動院へと行ってみました こちらも浅草名所七福神の案内によりますと ・・・ 布袋尊をお祀りしている不動院(橋場不動尊)は、天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。当初は法相(ほっそう)宗でしたが、長寛元(1163)年に時の住職教円(一説には長円)によって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。 ・・・ だそうでして こちらは神社ではなくてお寺さんでして(浅草寺もお寺さんですが) 浅草名所七福神の布袋尊さま です まぁ・・・とりあえず こちらから境内へいってみますと 参拝を済ませたらしい雰囲気のお方がたとすれ違い・・・ まさか・・・ ちょっぴりだけ光明が?(結構日は傾いているけれども) 閉まりそうな気配があるようなないような お堂でお参りをしてから ちょっとドキドキ緊張しながら御朱印どうでしょうかお聞きしたところ(も ...出典:ぎるでぃさん
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橋場不動院の次に まぁ・・もはや暗くなりつつある道を 疲れで今一上がらなくなった足を引きずりつつ帰り道へと ・・・そういえば道は真っ直ぐ南下すればいいはずだったと思いつつ ふとパンフレットを探してみると ・・・・?ない(無くした あ~~ぁ・・(深いため息 まぁ・・もう帰るだけですし多分隅田川沿いに下っていけば何とかなった気がしたから(曖昧な記憶 とか思いつつ歩いていきますと 途中で神社な気配が (いや・・でももう暗いし)とか思いつつ 50メートルぐらい素通りしてから ・・・まぁ・・・次の機会のために下見でもしてみようかなとか思い直して 境内を覗いてみますと ・・・・・? なんか人の列が見える? ・・・・・まさかね。。(もう午後4時25分だょ・・) 間に合うのかなと思いつつ そんなこんなで・・ 今戸神社(いまどじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地 ...出典:ぎるでぃさん
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3月2日 高尾山へと行ってみました こちらは一度くらいは行ってみたいなとか思いつつ ・・・どう考えても混んでいる気配がしていて二の足を踏んでぐずぐずしていたのですが この間江ノ島に行ってみた時に圏央道の高尾山インターがあるのに今更ながら思い出し ・・・春も夏も秋も混むだろうから今なら少しは? とか妄想しつつ でもちこっとばかし調べたらやっぱり駐車場を考えると早めに行った方がイイかなとかも思いつつ 4時ちょっと前に出発 今回も慣らしを兼ねての移動ですのでビート君での出撃で まぁ・・流石の早朝の高速(しかも大半の方々と逆な流れ)は快適な流れですので 朝日が出る前に到着♪ 薬王院の駐車場に停めるも・・・まだ二台しかいない^^; ま・・・まぁ・・早い分にはいいかな?とか思いつつ 橋を渡って まずは案内図を 眺めつつ 当然の様にこの時間はまだケーブルカーは運行していませんですので こちらの方(1号路)からチャレンジを(6時5分 とぼとと・・ 途中朝日のさす方向は少しかすみがちでよく見えませんでしたが 一応ケーブルカーのところまでは到着しましてこれでち ...出典:ぎるでぃさん
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3月2日 高尾山薬王院の次に 氷川神社 (ひかわじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 氷川神社は、応永年間(1394~1427年)に片倉城主大江備中守師親が、武蔵一ノ宮氷川神社の祭神を勧請したのが始まりとされている。古くは下椚田村大牧(椚田町)にあったと伝えられ、寛文2年(1662年)に再建造営され高尾の鎮守となる。祭神である素盞鳴尊は、生贄にされそうになった奇稲田姫命を、櫛に変えて髪に挿し、ヤマタノオロチを退治、後にお妃に迎えた。縁結び、五穀豊穣、開運、登山安全、厄除けのご神徳があると伝えられている。例祭に奉納する獅子舞の神事は、1872年(明治5年)狭間の氏子が奉仕したが、現在は原の氏子が奉仕している(昭和35年指定市無形民俗文化財)[1]。 ・・・ となっていまして・・ こちらから境内へ こちらの拝殿で参拝をしまして 御朱印を無事頂きました出典:ぎるでぃさん
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3月2日 氷川神社の次に 少し山の方に行きまして 武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は、東京都青梅市(武蔵国多磨郡)にある神社。武蔵御岳山の山上に鎮座する。櫛真智命などを祀る。中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。式内社の大麻止乃豆天神社(武蔵国の式内社一覧参照)であるという説があり、旧府社である。現在は神社本庁に属していない単立神社である。犬を祀っている所から、願掛けのため、犬を連れた参拝客が近年増えている。 ・・・ となっていまして・・ こちらから山道をクルマで上りまして・・・ 駐車場からは こちらは素直にケーブルカーに頼ってさらに上の方に 上の駅につきましたら早速参道を 25分?高尾山で疲労している私の足ではどうなることやら・・ まぁ・・・ とりあえずとぼとぼと・・ 幸いこちらの参道は(ケーブルカーで上っているから)平坦で楽ちんかなぁ・・とか思っていていたけれども ・・・鳥居の向こう側に見えるところまで行くのかし ...出典:ぎるでぃさん
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3月2日 武蔵御嶽神社の次に 住吉神社へと行ってみました こちらはうぃき・・が見つけられなかったので 某ホムペによりますと ・・・ 住吉神社は、南北朝時代の応安2年(1369)延命寺の開山・季龍和尚が故郷の住吉大社を勧請し、伽藍鎮守として奉斎したことを創祀とする。戦国時代の永承10年(1513)領主の三田氏宗・政定父子が拝殿を再建、種々の神宝を奉納して青梅村の総鎮守とした。江戸時代に造営された本殿・幣殿・拝殿が一体として残り、また青梅宿の町人文化の高さを伝える遺物が残されていることから青梅市の史跡に指定されている。 ・・・ となっていまして・・ 実は最初今回は訪問する予定にはなかったりもしていたのですが 境内が賑わっていましたので ついふらふらと で・・参道をとぼとと・・ ひぃ><石段!? 何とか無事に上って 参拝をしまして 記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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3月2日 住吉神社の次に 塩船観音寺(しおぶねかんのんじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 伝説によれば、大化年間(645年 - 650年)に、若狭国の八百比丘尼が、紫金の千手観音像を安置したことに始まるという。また「塩船」の名は、天平年間(729年 - 749年)に行基がこの地を訪れた際、周囲が小丘に囲まれて船の形に似ているところから、仏が衆生を救おうとする大きな願いの船である「弘誓の舟」になぞらえて、名付けられたものと伝えられている。貞観年間(859年 - 877年)には、安然が12の坊舎を建てるなど、興隆を極めたという。 鎌倉時代には武蔵七党の流れを汲む金子氏の庇護を受け、室町時代には青梅・奥多摩方面に勢力をもっていた三田氏の帰依を得て栄えた。 室町時代後期に建てられた本堂、阿弥陀堂、仁王門は、本堂内の厨子とともに国の重要文化財に、本尊の十一面千手千眼観世音菩薩(千手観音)像、眷属の二十八部衆像などは東京都の有形文化財に指定されている。 また、ツツジが有名で、毎年春(特に5月)にはつつじ祭りが開催されている。多くの観光客が押し寄せるが、この ...出典:ぎるでぃさん
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3月2日 塩船観音寺の次に 常保寺へと行ってみました こちらはうぃきが見当たらなかったりもしますが アートな御朱印があるとのことでして 早速こちらから境内へ さてこちらは最初に御朱印の種類を選んでからお参りをとのことで・・ 御朱印帳を預けましてから こちらの本堂でお参りをしまして 無事記帳もしていただきました あと・・こちらも 期間限定っぽい ひな祭りと 派手な雰囲気についこちらの御朱印も♪出典:ぎるでぃさん
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3月2日 常保寺の次に 日吉神社へと行ってみました こちらもうぃきがみつからないので・・ 某ホムペによりますと ・・・ 日吉神社の創建は不明ですが、江戸時代初期、天正年間(1573-1591年)、隣接する大日堂再興の折に旧拝島村総鎮守山王社として現在地に建立されたと言われています。さらに桜町天皇の寛保元年( 1741 年)九月五日に宗源宣旨を受け山王大権現の称号を賜りました。その栄誉を記念して、氏子一人毎月一銭の積立が始まり、その積立により明和四年( 1767 年)に御社殿を再建修理され神輿を新造して第一回の祭礼を行っています。これが現在も例祭(毎年9月)の前夜祭である榊の渡御(榊祭)として残っています。 現存する社殿は安政2年(1855年)の再建とされています。(幣殿、拝殿、神楽殿新営、鳥居、神橋、石燈篭再建)本殿はそれ以前の建立とされています。 山王大権現社は明治2年(1869年)の神仏分離によって日吉神社と改名し、密厳浄土寺と別れて独立し現在に至っております。 ・・・ となっていまして・・ 早速こちらから こちらの拝殿で参拝をしまして 記帳を・・・お願いしま ...出典:ぎるでぃさん
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3月2日 日吉神社に御朱印帳を預けてから 子安神社へと行ってみました こちらもうぃきがみつからないので・・ 某ホムペによりますと ・・・ 子安神社は天平宝字三年(759年)に橘右京少輔という者が時の天皇のお后さまの安産祈願のために創建したと伝えられています。ご祭神は「木花開耶姫命」であり、神話において、自ら火を放った産屋で無事に出産した神様として知られています。 それ故、今日まで子安神社は安産の神社として崇敬を集めています。 また古来より武将からの尊崇も篤く、源義家が奥州下降の際には戦勝を祈念して欅(けやき)を船形に植樹しており、今でも境内には多くの欅が生い茂っています。 船形に植樹した欅はやがて森となり、子安神社に隣接する船森公園や船森保育園等、現在に至るまで「船森」という名で地名として残っています。 近世では徳川家光以降代々の将軍家から朱印を受けており、それ故、当社の御紋は徳川家の家紋である三つ葉葵です。 (以下略) ・・・ となっていまして・・ 境内にクルマを置かせてもらいまして こちらから 境内へ こちらの拝殿で参拝をしまして 記帳を・・・御朱印帳は ...出典:ぎるでぃさん
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令和元年5月1日 令和が始まる最初の日ということで せっかくですので早起きをしまして 明治神宮へと行ってみました こちらは前回にも来たことは一応あるので二度目の参拝になるのですけれども とりあえず・・・ 朝8時に無事表参道側の南の鳥居に到着♪ この時点では 思ったより参拝者が少ない? なぁ~~んて 淡い期待をしちゃったりもしていたのですが 参道を歩いていきますと なにこの行列?(/ω\)知りたくない 恐る恐る・・ Σ(゚∀゚ノ)ノキャー三の鳥居の手前で行列折り返してる・・ いったいこの列は何所へ行くのか・・ 行列はみるみる伸びるし 本当は良くないけれども焦る気持ちに負けて参拝前に列に並ぶ決断を(スミマセン しかもこの時点で神社関係者が待ち時間は3~4時間との話でしたが・・実際は;; しかし今回のワタシは一味違う! 秘密兵器・椅子付きリュックの出番が♪ (いゃ・・まぁ・・リュックと椅子を別に用意した方が軽いし安上がりではあるのですけれどもね) でもまぁ並んで待っている最中 何やら行列が・・行ったり・・8:54 来たり・・10:46 したりも遠目で眺めるこ ...出典:ぎるでぃさん
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令和元年5月1日 明治神宮の次に 靖国神社へと行ってみました こちらも以前参拝したことがありますが うぃきによりますと ・・・ 幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航(いわゆる「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ(詳細は「祭神の内訳」を参照)。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する[9]。 本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、1959年(昭和34年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀 ...出典:ぎるでぃさん
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