〜「トップ屋集団」三田コンと「ルバング島の秘密指令」〜
創刊第2号の目次を眺めながら、さまざまな往時の記憶が一挙に蘇ってくるのに、驚いている。そうだった、創刊号の準備と並行して、それなりの準備に腐心していた編集部首脳。外部の力を大胆に起用していたのだ。
特集記事が3本。その中でいわゆる「トップ記事」と呼ばれ企画が『ルバング島の秘密指令』。そう、それから10年後の昭和49年3月にフィリッピン・ルバング島から帰還したあの小野田寛郎少尉の存在を、その母親・玉江さんのひたむきな救出請願活動を枕にして、その背後にある、旧陸軍の特殊スパイ養成機関「中野学校」の存在をクローズアップしていた。
創刊号の発売前日だった。もちろん見本誌はもう出来上がっていたが……。現場の心は既に、第2号へ集中していた。
「おい、新入り。東京駅の八重洲口で、自分の息子はルバング島で生存している、比政府は射殺しないでくれ、と訴えている母親を撮って来い!」
早速、当時、写真部から特例で専属配備されていた1年先輩の根岸秀廸さんと一緒に音羽を飛び出し、タクシーで東京駅の八重洲口へ向かった。この先輩カメラマンは5年後にフリーランスとなり、野上透の名前で活躍「文士の肖像」などのいい仕事を遺しながら、2002年に足早に彼岸の人となっている。
*向かって左がカメラマンの根岸秀廸さん 真ん中は唐沢明義さん(現・展望社社長)
次の日。記事班のリーダー、松井勲さんに連れられて、赤坂の小さいけれどえらく活気のある事務所へ。入り口には「三田コンサルティング」のネームプレートが初々しく貼り付けられていた。ここが噂の『三田コンか!』胸が躍った。読売新聞の花形記者、三田和夫氏はその前年(昭和33年)に 東洋郵船の横井英樹社長殺害未遂事件にからむ、安藤組の犯人隠避事件の責任を取って、読売を退社し、取材から完成原稿までを引き受ける物書き集団(のちにトップ屋とよばれる)を立ち上げたところだった。
妙齢の女性秘書に導かれて社長室へ通された。七三に分けた髪型、ピシッと背広を着こなしたメガネ姿は、今でも鮮やかに思い出すことができるほど、印象が強烈だった。
初対面のわたしをすぐに紹介してくれる。
「この新入社員、早稲田の剣道部で副将をやっていて、四段の腕前です。それと、これが昨日撮ってきた小野田少尉のお袋さんです。で、原稿、上がりましたか?」
まっすぐに、紙焼きを渡しながら、松井先輩が切り出した。
「はい、どうぞ三田コンからの初荷です」
こう言って、引き出しから茶封筒を、三田和夫社長が重々しく取り出す。表書きに大きくペン書きの文字が躍っていた。
『ルバング島の秘密指令……中野学校は小野田少尉に何を命じたか』
「読ませてもらっていいですか?」
「どうぞ」
二人の間で一瞬、火花が散った。そうか、新入社員の編集者教育のために、執筆者を目の前にして原稿を読む度胸を持て、と無言で教えてくれているのに、わたしは気づいていた。
*執筆者が「三田和夫」であることは、事情を知るものなら即座にわかっただろう。なぜなら、三田和夫本人がシベリア抑留から帰ってきた経験の持ち主だったから。
以下、この機会に、さらにレポート紹介を一歩深く、踏み込んでみる。10年後、それは現実となった。
そして「週刊現代」創刊第2号のこのレポートは、最後に訴えていた。
……「秘密戦とは誠なり」と、そう教えられ、そう信じきった小野田少尉は、それこそ忠勇義烈の人であるあるならば、今でも、ルパングのジャングルの中で、自分に最後に命令を下した参謀の面影を描きながら、「離島残置諜者」としての任務に邁進しているのであろう。(中略)命令下達者が一日も早く、小野田少尉に”内地転属”の新命令を与えてもらいたいのである。
ルパングの二人の元日本兵を射殺されたりすることなく救出するには、もはや全国民的規模の救出運動を起こさねばならない。
なんという因縁めいた組み合わせだ、と今にして気づく。
まず、小野田少尉。週刊現代が創刊第2号のトップ記事で、大きく取り上げていたことも、10年後に帰還してその手記取り合戦で、小野田さんが週刊現代=講談社を選んだ一因であり、さらにちょうどその時、わたしは「月刊現代」の編集長として最初の号を手がけていて、表紙の人物画を小野田さんに差し替え、「大正人間の逆襲」という特別対談(聞き手は国際事件記者で名高い大森実さんを起用)までお願いすることにつながる。
*三田レポートの解析通り、発令者である谷口上官が現地ルバング島に赴いての呼びかけに応じ、小野田少尉は無事帰還した。
そして三田和夫さん。このあといくつかの「トップ記事」を提供してもらうのだが、2年後に「三田コン」は破産。雌伏の時代をやむなくされるのだが、昭和40年にわたしが女性週刊誌「ヤングレディ」に配属されたのを機に、ふたたび交流がはじまり、いくつかの「スクープ記事」に関わってもらう。取材のツボをどう抑えるのか、を伝授される関係にまで発展。その後の彼はやがて個人ペーパー『正論新聞』をおこし、ジャーナリストとしての晩年を、それに傾注する。
最後に松井勲さん。三重県出身で、東亜同文書院(この国が中国大陸に覇権を唱えていた時代、世界に通用する人材の育成を目指して上海に設立された私学校)に在籍、終戦により帰国後、東大に入学。講談社では出版部に在籍、司馬遼太郎さんと親交が深く、週刊現代2代目編集長を務めた後、『正岡子規全集』をスタートしたが、志半ばで病に負けてしまった。
先に触れたわたしの「告訴第1号」事件の時の編集長でもあり、「責任は我にあり」と闘いの先頭に立ってくれ、どれくらい恩義をいただいたか測り知れない先輩編集者であった。叶うなら、いずれ「子規全集」の編集部にスカウトしていただこう、とも願っていたのに。
*向かって左が松井勲2代目編集長 右が初代編集長の大久保房男さん
第2号の目次を見ながらの回想はここまでにして、『天皇制に石を投げた世代』は必ず次回で……。
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つれづれ自伝 | 日記
Posted at
2016/07/04 02:59:10