先日2011.8.2、出雲大社の先にある、島根県出雲市大社町にある日御碕灯台(ひのみさきとうだい)へ日帰りで行きました。
ここに掲載の写真は灯台の全容ですが、残念ながら写真撮影は失敗し、ピザの斜塔のように斜めに写してしまいました → このたび追記するにあたり角度を修正しました。
そして先日2012.8.1の日、CD250Uバイクのオイル油温測定も兼ねて再度ここへ訪れたので、主にシグマのコンデジDP1xで撮影した写真を大幅に追加して、文面を書き換えました。
なんとこの灯台、業務に支障なき時には入場料200円也を受付でお支払いすると、灯台のてっぺんまで登れるという珍しい灯台?で、灯台の中には急傾斜のらせん階段が163段もあります。
(フラッシュも焚かずカメラの感度も上げ損ねたため撮影に失敗した、らせん階段の0段目)
2012.8.1の訪問時は、バイクのオイル油温測定などを行きの道中に何度もしたため、ここへの到着が閉館時間ギリギリになり、慌ててらせん階段の上り口を撮影したのでフラッシュを焚くのを忘れたうえISO100のままで撮影したため、お恥ずかしながらノイズがいっぱいの撮影写真となっちゃいました。
しかもこれ1枚しか撮影しなかったので露出を大幅に補正したうえで、仕方なく失敗写真をそのまま掲載です。よって以下のらせん階段の写真はISOを200に変更し、フラッシュを焚いて撮影しました。
(日御碕灯台の急な163段もあるらせん階段 : 2012.8.1 筆者撮影)
まず入り口で靴を脱ぎ猛暑のなか、高さにして30何mかのらせん階段を上がると、灯台の電気発光部分の部屋へたどり着きます。昔の建物なので板張りの部屋です。猛暑の中なのでさすがに息切れしましたよ。また夏休み中でもあるので親子連れのご家族の方も多かったです。
(日御碕灯台の電球発光部分 : 2012.8.1 筆者再撮影)
(日御碕灯台のレンズ部分 : 2012.8.1 筆者再撮影)
この日御碕灯台、今から100年以上前の1903年(明治36年)に完成ですでに齢108歳。当時はまだコンクリートは一般的でなかったことから、写真でも判別がつくとは思いますが、すべて石造りで出来ています。そして、わが国ではいまだに灯台の高さの最高値46.65mを誇っています。
そして、ここ日御碕には“経島”と書いて「ふみしま」と読む、国の天然記念物「経島ウミネコ繁殖地」に指定されている、ごくごく小さな無人島が日御碕の沖合い100mあたりにありまして、数千匹の渡り鳥“ウミネコ”が、初冬から初夏の間までここにいて産卵・繁殖するので有名だそうです。
(ウミネコの模型)
(日没直前の日御碕にある経島)
ウミネコがいる時期にここへ行きますと、いつもネコさながらにいたるところから鳥が「ニャ~ニャ~」「ニャ~ニャ~」といっているのが聞こえてきます。
日御碕灯台のご案内は、いちばん下部にある【関連情報URL】に記載しました。
(日御碕灯台から見た日御碕の海 : 2011.8.2 筆者撮影)
ここに掲載した日御碕灯台から見た日御碕の海の写真は、灯台のてっぺんから写した海岸の写真ですが、じつはこの灯台に興味があったのは、ここの海岸の先の海中にどうやら石造りの古代遺跡が眠っているらしきことが近年分かってきたからです。
1999年の末頃、たまたま海中に潜ったダイバーによって発見されましたが、どうやら古代ギリシャにも負けないような高度なものが存在するようですが、なぜかいまだに正式に調査は行われていないようです。ここが正式に調査されれば、日本の歴史が大幅に書き換えられることになるかもしれません。
2000年に出雲大社境内で発見された、鎌倉時代に建っていたと思われる当時高さ48mにもなる出雲大社の古代神殿の柱といい、この出雲の地は太古から、なにやら奈良の大和とはまた違った、高度な文明が発達していたのかもしれません。
それにしても今の出雲大社も、現在修復工事中ではありますが、全国の神社の中で最も大きな高さを誇る神殿(24m)なのですが、太古は雲太(うんた)と呼ばれ十六丈=48mの高さだったといい、とにかくこの出雲の地と人々はご祭神の名 「大国主(おおくにぬし)」 という名が示すとおり、とても大きなものがお好きなようです。
海底遺跡に関するTV,6分17秒-神々の海、日御碕に眠る「海底遺跡」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところで日御碕灯台ですが、受付に簡単なパンフレットが置いてありこれによりますと、明治初頭はやはり外国の技術者に指導してもらって全国各地に灯台を造ったようですが、明治も終わりになると自力でつくらざろう得なかったようです。
お城にしてもあの大きな石を人力で!うまく運んできて綺麗に積み上げているのですから、灯台建設も可能だったとはいえ、さぞかし大変だったろうと思いますしその技術もあったのでしょうね。
そしてこの灯台と同じ頃に造られた有名な建築物と言えば、鉄道好きな私の場合は真っ先に兵庫県の日本海に面した「餘部鉄橋(あまるべてっきょう)」を思い浮かべます。
鉄橋の高さは約41m弱もあり古代出雲大社と同じくらいの高さがありますね。そしてつい先ごろ老朽化のため、新品のコンクリート橋に架け替えられました。
ひと昔前の方ならご存知でしょうが、吉永小百合さん主演のNHKドラマ「夢千代日記」のオープニングが流れているときに出てくるあの高~い高~い鉄橋、それこそ天かける鉄橋です。
不幸にも昭和の終わり頃、回送列車が転落してその下敷きとなった地元の方がお亡くなりになられました悲しい歴史もあります。
ちなみに鉄骨を用いた旧餘部鉄橋は一部を除きすでに撤去されたので、下の写真は借用しています。
(1912年/明治45年に完成した旧余部鉄橋 : ウィキペディアより 2006.3.7撮影)
(新しくコンクリート橋に架け替えられた新余部鉄橋 : ウィキペディアより 2011.8.12撮影)
明治のころに造った日御碕灯台や餘部鉄橋も100年以上も頑張っていますが(いましたが)、不幸にも鉄橋のほうは列車転落事故 (回送中の客車) が起こってしまいました。
転落事故は刑事裁判にもなって、現場の人(列車の司令員ほか)が責任追及されたようなのですが、実はどうもあの転落事故の遠因というのが、昭和40年代に行われた鉄橋改修工事にあるのではないか、という説があるのです。
明治時代に造ったこの餘部鉄橋、非常によく設計されていて、あの風雪強い日本海の海岸のそばで、70年以上も! 列車が一度たりとも落ちたことがなかったのが、太平洋戦争中に十分管理できず、しかも塩分が飛んでくる海の側なので鉄骨が劣化してしまったようなのです。
そこで戦後の昭和の時代に安易に補強工事と部材の一部取替え工事を行った結果、風が吹くと鉄橋全体が変に振動するようになったらしく、事故当時の写真を見てもなぜかレールが不自然に大きく変形しています。
旧鉄橋は完全な直線区間なので、もし軽量客車が海からの横風に吹き飛ばされただけなら、レールは大きく変形せずそのまま真っ逆さまに下へ落ちそうな感じなのですが、真相はいまだに闇に閉ざされたままです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(江戸中期の1744年に造営された現在の出雲大社本殿:出雲大社のホームページより)
(高さがなんと48mもあった、木造による古代出雲大社の想像図)
上の挿絵は、季刊大林と私の手元にもある学生社から刊行されている「古代出雲大社の復元」という本の表紙にも掲載しています、古代出雲大社の神殿の想像図なのですが、諏訪大社の御柱祭のときに柱を立てるやり方、つまり掘立柱(ほったてばしら)という工法で建てられたようなのです。
(学生社刊 古代出雲大社の復元 : 筆者の手持本の表紙を撮影)
掲載した本を読みますと、またNHKでも「巨大神殿は実在したのか~古代出雲大社のナゾ」という番組で2001年のお正月に放送されましたが、大林組の方が現代の建築基準法で解析計算すると、木造ということもあり震度7以上の地震にも耐えうる構造なのだそうです。
今から900年前の平安・鎌倉時代に、それだけの知識と技術を持った素晴らしい宮大工たちがいて、あのような木造構造物を人力で造ったのですからすごいことです。もう人間技ではないですね、きっと。
それでも海の側で地盤があまり強固でもなく、しかも神殿に昇る階段の長さが100mちょいあったといいますから、この長い階段が徐々に沈下したりして、それに引きずられて本殿が幾度も転倒したらしいです。
はっきりした原因は未だ不明?なようですが、頭でっかちの神殿や超長い階段が風にあおられるためなのか、もしくは100mもの長い階段が徐々に沈下してきて本殿が引きずられたためなのか、あるいは木造なので木も腐ってくるためなのか、
何回もこの出雲の巨大な木造本殿が転倒してはその都度再建していたといいますから、古代出雲の人々が大社に寄せる思いは並大抵のことではなかったはずです。
(当時は海に面していたと思われる古代出雲大社の想像図 : 島根県)
(古代出雲大社の模型 : 写真はウィキペディアより)
上の古代神殿の模型は確か10分の1の模型だったと記憶していますが、出雲大社の東横にあります古代出雲歴史博物館の展示品だと思われます。
そしてちなみにここは、一昔前までは出雲大社とは言わず「杵築大社(きづきおおやしろ)」と呼ばれていました。
エジプトの有名なクフ王のピラミッドも、最近の研究によりますと決して奴隷が嫌々ながら造ったのではなく、現代で言う不況克服を兼ねた公共事業で行われたことが判明しているようですが、それと同じなのかもしれません。
(エジプトの三大ピラミッド : 壁紙Linkさんの画像より)
【2013.7.19 追記】
最近話題になりましたが、「ピラミッド5000年の嘘」という映画が世に出ました。
私はこの映画を見たわけではありませんが聞くところによると、
ピラミッド、
この場合はエジプトのギザにある巨大でとかく有名な
“クフ王のピラミッド” のことを指すものと思われますが、今までの考古学者の通説では、クフ王の時代に20年かけて造られた…ということになっています。
ところが近年、この通説に疑問を持った人が幾人か出てきまして、エドカー・ケイシーのリーディングではありませんが、どうやら今から12000年ぐらい前に200年ぐらいかけて造られたのではないかという説です(これはケイシーのリーディングによる説です)。
200万個もの精密に切られた石を、重機も無い時代にわずか20年の期間で建造できないだろう、というのが、この、「ピラミッド5000年の嘘」の映画で力説されているみたいです。
その公式サイトのリンクは こちら です。リンクを貼りました。
まあ、現代人が考えているよりもはるかに古代人はものすごい技術を持った人もいて、この映画の紹介サイトでは、現代の建築技術をもってしても、あのような精密でかつ精巧な物はなかなか造れない、との結論ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、ここからは2012.8.1の晴天の平日の人の気配が少なくなった夕方6:00すぎに私が訪れた時の、現代の出雲大社を参拝した時の様子をご紹介していきましょう。
なお恥ずかしながらここからの掲載写真、露出補正をなぜか+2.0前後で撮ってしまっていたため特に白い雲部分の白飛びが激しく、RAW現像に際し極力修正してみたものの限界があり、雲が変になっている写真ばかりでお見苦しくて申し訳ございません。
なにせこのDP1x、カメラ背面の液晶画面の画質が極端に劣悪で、撮影の際に全く気づかずに露出オーバーなまま撮影してしまいました。新しくなったDPメリルシリーズでも露出補正のボタンの位置が悪く、知らないままに露出補正がかかっていてビックリすること度々です。また機会があれは撮影しなおすつもりです。
まず出雲大社の参道のいちばん最初の入口です。
ひと気のない落ち着いた雰囲気のなか、なが~い なが~い参道をゆっくりと歩いていきます。
そして左側にお手水があり前を見ますと、60年に一度行われます平成25式年遷宮のご案内板と出雲大社の神紋が入ったちょうちんが両脇にあり、質素な鳥居をくぐると現在は仮本殿へと出ます。
(出雲大社の神紋 二重亀甲に剣花角)
(出雲大社 仮本殿 : 2012.8.1 筆者撮影)
現在は60年に一度のご本殿の修復中のため(2012年度)、ここの奥にあります本殿は現在閉鎖中でご神体はこの仮本殿(拝殿)の中にございます。
また、ご神体を仮本殿に移設したあとのわずかな期間でしたが、この本殿の修復工事にかかる前にご本殿の見学が許されまして、これは60年に一度しかないチャンスだそうですが、私はなんとか2008.8.17の本殿公開最終日の日、ぎりぎりの日にこの本殿に参拝することが出来ました。
残念といいますが当然といいますか、写真撮影は一切禁止でしたので本殿内の撮影写真は1枚もございません。
ただしNHKのハイビジョンTVカメラが、ご神体移設の式典を収録・放送した際に、このご本殿内部も撮影し放送していましたので、本殿の天井に描かれています美しい7つのヘビといいますか龍のような天井画も撮影されていましたので、私は見逃さず録画しておきました。
たとえ本殿が修復されましても、ここの中への参拝は神職の方以外は、たとえ天皇家の方でさえ古来からの慣わしとして本殿内への参拝はまず許可されないそうなので、私が訪れたときはセミがみ~み~と鳴いていた真夏の最も暑い時期でしたが、本当に貴重な体験ができました。
(巨大な出雲大社名物の1.5トンもあるしめなわ)
左隣にある神楽殿のしめなわは長さ13m・重さ5トンで日本一だそうですが、こちら仮本殿(拝殿)のしめなわも少し小ぶりとなるけれど、それでも長さ6m、重さは1.5トンにもなるそうです。
(修復中の本殿2枚 : 2012.8.1 筆者撮影)
(本殿修復前の出雲大社 : 2006.12.22撮影 ウィキペディアより)
こちらの写真は修復工事終了後の2013.7.22に訪問したときのもの。
この写真のみ新しいDP3メリルでの撮影です。
(2013.7.22 60年ぶりにきれいに修復された出雲大社のご本殿)
ちなみに現在の出雲大社ご本殿は江戸中期の1744年(延享元年)に造営されています。
高さは8丈 24mだそうですが、それでも神社建築の中ではいちばん大きいそうです。
ただお寺まで含めますと東大寺大仏殿とか法隆寺の五重の塔などがあり、
現代の出雲大社の本殿では最も高いとはいえませんね。
(出雲大社境内にて掲示されている古代神殿の説明看板)
(発見された古代神殿の3本の木を束ねた心御柱の実物大の模型)
(2000年に地下祭礼室工事中に発見された、1248年のものと思われる心御柱)
この心御柱の発見により、今まではあくまで伝承の域を出なかった16丈48mの巨大神殿が、実際に建っていたことがほぼ実証されまして、地下祭礼室の工事は中止されて元に埋め戻されまして、その柱があった位置には現在それを示すマークが専用タイルによって示されています。
(発見された心御柱の位置に、実物大の柱の位置を示すタイルのマークがある)
そして国旗とか旗をかかげるこの高いポールは、
当時の古代神殿に敬意を払って高さを1m低くした47mのポールだそうです。
これは私が以前に神社の方に聞いて確認しました。
そしてこのポールの真下にくれば、平安・鎌倉時代初期の人ならず、
現代人でも当時の出雲大社の神殿の巨大さには驚かざろう得ないですよね。