またも長編です。
言わずと知れたスカイラインのストーリー。あまりにも有名ですが、あえて書かせていただきます。プロジェクトXでも紹介されたのでプロジェクトX風に書きたいと思います。ただし内容は一部異なります。
~誕生と苦悩~
戦後、例のGHQの指令で、わが国日本での飛行機製造は禁止された。飛行機会社はすべて飛行機製造を止められた。
立川飛行機、中島飛行機もその中にあった。
この二つの会社は戦闘機を作る上で今で言う提携(?)の色が濃かった。
中島飛行機はその後、分割を余儀なくされた。その一部は、飛行機技術を用いて自動車製造会社となり、後に「富士重工(スバルですね)」を立ち上げた。
立川飛行機(一部中島飛行機)は下請け会社の製造する自動車に注目し、自動車のノウハウを学んで行った。しかし、立川飛行機は解体。
わが国は戦後の不況で燃料不足にクルマは悩まされていた。木炭車があるような時代。立川飛行機から自動車部門が東京電気自動車となり、「たま電気自動車」という電気自動車を製造した。今では電気自動車技術は最新とされているが、既に戦後、電気自動車が存在していたのだ。のちに「たま自動車」に改名。
中島飛行機解体の一部は、「富士精密工業」となった。「たま自動車」はガソリンエンジンのノウハウが乏しく、「富士精密工業」は「たま自動車」からの依頼でガソリンエンジンを製作した。
「たま自動車」はガソリン車の「プリンスAISH型」を発売。
会社名を改め「プリンス自動車」が発足したのだった。
そして、中川一郎氏をはじめ、プリンス自動車開発陣はコンパクトでありながら当時、他の国産メーカーがまだ採用しなかった当時の最新技術を盛り込んだ車種「スカイライン」を開発。デビューを果たした。
技術をアピールしようと、当時まだ産声を上げたばかりのモータースポーツに参戦。「第一回日本グランプリ」にエントリーした。
事前に出場するメーカー全ては、打ち合わせで「チューニングはやめよう」という事になり、そのままエントリー。レースは散々だった。事前にチューニングはやめる事となっていたのだが、どのメーカーもチューニングをしていたのだ。
中川一郎氏はプリンス自動車工業の社長に怒鳴られた。「バカ正直にもほどがある!」
「勝てないクルマじゃ、いらない」「どうしてくれるんだ?」「スカイラインを乗っているのが恥ずかしい」
ユーザーにも散々だった。売上が下がった。
有名デザイナー、ミケロッティにデザインを依頼し「スカイライン・スポーツ」を開発。流れるフォルムは魅力的だった。
しかし、現在の時代と違い、庶民にクルマを所有する事ができなかった。当然、売れなかった。生産中止になった。
Posted at 2005/02/21 23:40:40 | |
トラックバック(0) |
クルマ | クルマ