ナンバープレート・カヴァーの是非が問われているという。
犯罪発生時に、カヴァーが邪魔をしてナンバーが判読できない。。。とか、違反逃れで装着しているという声が大きいからだという。
確かに、それはある意味間違い無いだろう。
街を走っていて、本当に見づらいくらい着色されたカヴァーを付けたクルマや、明らかに何某かの光などを反射するようにできたカヴァーを装着しているクルマが結構いる事は事実だろう。
しかし、それだけでカヴァーをつけているクルマが多いという思想は大きな過ちだろう。
カーショップや通販で、どうしてこれだけの種類のカヴァーが売られているか?コレだけを見ても、単純にカヴァーを装着する意味を考えるべきではないだろうか?
ひとつは、ナンバープレートのデザインが、クルマのエクステリアとマッチしていないという事と、もっと拡大的に解釈すれば、装着している姿が、街やクルマが走っている姿にマッチしていない・・という、人間本来の美的感覚とズレ、つまりデザインやサイズに問題があるからではないだろうか?
さらにもうひとつは、ナンバープレートとしての機能や、天邪鬼的だがクルマへ装着した姿を、クルマ同様に美しく維持したいという欲求から、カヴァーを装着しているという需要も大いにあるという事も忘れてはならないだろう。
僕もナンバープレート・カバーを装着しているのだが、ひとつはクルマに装着した雰囲気を崩したくない・・という事で、ごく薄いカラーの入ったモノを愛用している。
さらに、高速を走る機会が多いドライヴァーなら分かると思うが、「虫」が付着した場合の除去が如何に現在のナンバープレートが困難であるか、小石などが飛来して意図も簡単に凹みや傷が付き易いかという事から、それを防止するために僕はカヴァーを付けているのだ。
「汚れれば手入すればいいではないか」
という声もあるが、それはナンバープレートを本当に掃除した事の無い連中が言っている戯言だ。
実際に掃除してみれば分かるだろうが、特に数字の部分の「グリーン」の塗色は、擦ったり、間違ってもWAXなんてした暁には、簡単に色が落ちるし、WAXが残って白っぽくなって、ますます見栄えが酷くなるモンだ。
外的要因で意図も簡単に変形などする、対候性の無さも本当にイヤになるモンだ。
そこで、それらを防御するためにカヴァーを付けているのだが、考えてみれば、ナンバープレートのデザインなどが、クルマやクルマが走行するシュチエーションにマッチしていれば、カヴァーの需要は必然的に減ってくるだろうし、「虫」の付着や、外的要因による変形などに強いナンバープレートであれば、そういった防止策でカヴァーを付けるといいった重要も激減するに違いないだろう。
そういった
本質 を見極めないで、短絡的な「悪意のある需要」ばかりに目を向けて全てを規制してしまおうというお上の考え方には、ほとほと呆れてしまう。
「行為」というモノには、そこに至る要因や原因が幾つかあって、それらを全て考慮考察した中で、良否を判断できなければ、真に国民にとって有意義な法律、規制とは言えない事を、考慮して欲しいモンだ。
そういった事が為されないで、カヴァーの規制をすれば、悪意のあるカヴァー装着の連中は、カヴァーに頼らない別の対抗策を取るだろう・・・いや、すでに透明なスプレーなどで、そういった取り締まりの機器で撮影できなくするアイテムが出回っているのが実情なのだ。
そういった連中を取り締まるのは、外観的にカヴァーの有無で判断している現状よりますます難しくしてしまっていると思わないだろうか?
そして、ナンバープレートとしての機能や、デザインを維持しようとカヴァーしているオーナーにとっては、実情に合わないナンバープレートを維持管理するために、今以上に手間を掛け無ければならないという現実が待っている事は明白だろう。
例えば、まぁ実際にやっているドライヴァーがすでに居るが、ナンバーが新しいウチに、表面に「クリアー」を吹いておくとかだ。
そこまでしなければ、汚れや変形に対応できない現行のナンバープレートは、本当に実情に即していない・・と僕は思うのだが。。。
どちらにしろ、またまた 「本質」 を見極めないで、短絡的なモノばかり見据えて、ドライヴァーの首を絞めようとする、国などの動きには大いに失望を隠しえないというのが僕の感想だ。
クルマを造る事は一流になったが、それを管理する連中の思考回路は、まだまだそれに追従していないという現実を突きつけられた様な、今回のカヴァー騒動だと僕は感じている。
ドライヴァー不在の、この国の行政はいったい何時まで続くのだろうか?
まったく頭の痛い問題である。
.
ブログ一覧 |
クルマ | クルマ
Posted at
2007/09/30 04:41:16