今から40年近くも前、日本でポルシェ・ワークスを交えた激しい戦いがあった事を知っているだろうか?
1969年10月10日
快晴の富士スピードウェイに、色とりどりのマシンが集結した。
そう
69年日本グランプリ がその舞台であった。
観客動員数10万人、これ以降のレースでも10万人という動員数は記録した事が無かった。
日産は6リッターV12気筒という空前絶後のエンジンを搭載した「R382」で参戦。
R382に搭載された「GRX-Ⅲ」エンジンは、排気量5954CC、最高出力は580PS/7200min-1に及んだ。
このエンジンを当時、コスワースが日産に購入を打診した事は、一部に知られた事実である。
一方のトヨタは5リッターの「トヨタ7」で戦いを挑んだ。
しかし一番の注目は、国際レースで優勝し、マニファクチャラーズ・チャンピオンにもなっていた、4.5リッター水平対向12気筒エンジンを搭載した
「シュツットガルトの白い巨人と言われたポルシェ917」
が急遽空輸された事だ。
しかも、ワークス・ドライヴァーで当時世界最速と言われた「ジョー・ジェファード」までが来日し、まさにポルシェはフルワークス体制で乗り込んで来たのだ!
レース前に日産を視察に来る余裕を見せていたポルシェだが・・・
午前11時10分
世紀の「日産vsトヨタvsポルシェ」の戦いの火蓋は切って落とされた。
ローギアードなセッティングの「トヨタ7」が一気に先行し、それをポルシェ、ギヤリングが高くスタートで出遅れたR382が追う・・という形でスタートした。
スタートで出遅れたR382だが、走り出してしまえば、排気量と馬力の差で、あっと言う間に「トヨタ7」をぶち抜き、替わりにトップに立っていた「ジェファートのポルシェ」を「高橋」、「黒澤」と「北野」のR382が追い回すという展開になった。
12周目、日産R382は次々とポルシェ917に襲い掛かり、なんと3台共ポルシェを抜き去ってしまった。。。
これには、世界の巨人のポルシェ・チーム内に動揺がはしった!!
31週目
トップを走っていた「高橋国光」にトラブルが・・・燃料噴射系のトラブルで修理に手間取り、大きく順位を下げてしまったが、依然1-2は「黒澤」、「北野」のR382が一周1分48秒前後の平均時速200Km/h近い驚異的なタイムで周回を重ねていた。
バンクを走行するR382のフロント・フェンダーに、想像を超える速度による空気抵抗で凹みが発生した事が、後日の新聞記事の写真で発覚したほどだ・・・
一方、「高橋国光」は18位まで順位を下げてしまったが、その遅れを取り戻すため、終盤、本番用のファイヤーストン・タイヤから、コンパウンドの柔らかい予選用のグッドイヤー・タイヤに履き替えて、「黒澤」「北野」を上回る速度で追い上げを開始したが、100週目に今度はエンジン本体にトラブルが発生してリタイヤしてしまった。
このレースから「高橋国光」の事が
「無冠の帝王」
と呼ばれるようになった。
高橋がリタイヤした後も、「黒澤」と「北野」のR382は快調に飛ばし、2位以下を完全に周回遅れにしてチェカーをくぐったのだ。
3位から5位まではトヨタ7が、最初トップを快走していて、日産に抜かれてからはペースを乱してしまったポルシェは6位に入ったに過ぎなかった。
優勝した「黒澤」のR382に報道陣が殺到した!
余りにも完璧なレース運びに敬意を示し、「黒澤」に握手を求めようとした「ジェファート」でさえ、容易に近づく事が出来なかったほどである。
黒澤のR382は、途中一回の燃料給油、タイヤ無交換、ドライヴァー一人・・という4時間近い戦いを戦い抜いた。。。
しかし、レースが終わり最終車検で、JAFの検査員が驚きの声を上げた!!
左フロントタイヤは、もはやトレッドが無く、キャンバスが露出していたのだ。
これでは、あと一周はおろかコースの1/3も走りきれなかっただろうと・・・
40年近くも前に、日本の自動車技術が、ポルシェの野望を打ち砕いた事は、日本人として決して忘れてはならない偉業であっただろう。
Posted at 2005/07/03 16:41:05 | |
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