ふと、フェアレディのモータースポーツへの参歴を省みたときに、意外に淑女との関係が面白い事に気付いた。
まぁ、相変らずのファンの戯言で恐縮なんだが、まず、こう思い立ったのは、一体フェレディ(フェアレデー)の最初のレースは何だったのだろうか?からなのだ。
そこから見えたのは、レース当初からフェアレデーのレース活動にはレディが絡んでいるという事だった。そうなるとさらに詳細を知りたいと思うのが人情で・・・
ちなみに私は間違っても日産の社員でも関係者でもない(大体、今の日産に魅力を感じないのが事実だ。感性とか歴史観の欠如した企業に魅力も感じないし、その際たるものがリーフだ。リーフなんて、美しさ機能美、リーフでなければならない・・・というメーーセージ性の欠片も感じられない酷いクルマだ)ので、趣味で集めた資料しか手元に無いので、そこから、詳細を調べるしかないのだが、なかなかこれは!と思う資料が無く・・・そういった時には折角、関東にいるのだから・・・という事で、国会図書館に足を向けたのだが・・・いやはや、逆に蔵書や資料が多過ぎて的を絞れないと言う有様。。。。
それでも分った事は、
1963年の日本GP。第一回の日本GPでのB-2クラスでフェアレデーSP310がブッチギリの優勝をした事は有名だが、実は、その下のB-1クラスで、何と「塚本 育子」という女性が操る、フェアレデーSPL212が出走13台中完走8台中、一台は失格となり、最終的に完走は7台となり、塚本のフェアレデーは総合6位であった。
ちなみにフェアレデーの歴史は
発掘 フェアレディSR311にファーストバックがあった・・・
https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/183384/
に少し触れているのでご参考あれ・・・閑話休題
この「塚本 育子」という女性、実は翌年の第二回日本GPにも出走しており、この時はトライアンフで参戦したのだが、俗に言うスカG神話の陰の立役者になってしまったのだ・・・
そんな日本のモータースポーツの黎明期から、フェアレデーと淑女の関係があったんだと感心していると、北米の友人から面白いハナシを聞く事になった。その内容は、
「北米のダッツン(北米でのDATSUNの呼び方)フリークで有名なハナシで、北米での最初のフェアレデーのモータスポーツでの活躍は女性絡みで凄いらしい」
というものだった。そして送られて来た画像が、TOP画像中央のもの。
僕もこの画像を頼りにあらゆる手を尽くしたのだが、諸説が有って真実は闇の中というのが事実。
【諸説1】
1962年4月。USSC(全米スポーツカークラブ)主催のレディースカップで、ミセス テーラーの乗るフェアレデーSPLがブッチギリの優勝をした。
【諸説2】
1961年7月8~9日。Mrs Norah Taylor (ノラ テーラー)が ポモナ race track で、北米日産の 財津正義 がバックアップし、フェアレデー初のレースをした。
という二説まで絞れた。
諸説2で出てくるネーミングで調べると、彼女の旦那の Sam Taylor は、かなり有名なドライヴァーだったらしい事も分った。
さらに、ようやく入手したポモマでのレースのエントリー表にも、彼女と彼女の旦那、そして我らがフェアレデーの名前を見る事ができるのだが・・・しかし、名前は分ったが ノラ・テーラーの顔も、一切分らないというのが実に悔しい。
フェアレデー(フェアレディ)と、淑女との関係は、まさに謎が多いのだ。
日本代表の「塚本 育子」と、亜米利加のミステリアスなレディ Mrs Norah Taylor ・・・・
どなたか、この秘密の鍵を開いて頂けないでしょうかねぇ。
Posted at 2010/05/14 03:06:21 | |
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