金曜に休みを取って木曜の晩から気仙沼に行っていました。
正月帰省から戻って間もない10日に施設から電話があって「昨晩から熱を出して肺炎の疑いがあるので病院を受診します」という事でした。
年末年始に面会した様子ではかなり意識レベルが低く、誤嚥による肺炎だろうと思われました。
その後、病院の担当医と話して、所見を聞きます。
やはり肺に影があって肺炎とみられるので抗生剤の投与と食事の中止で様子を見るが、かなり体力も落ちているので厳しい状況であるとの事でした。
今からだと病院が開いている時間に間に合わないので金曜に休みを取って医師と面談するという事と連絡先の親戚が仕事などで今日対応はできず明日以降対応になると伝えて、職場に休暇届を出してひとまず対応できる事はやったと思ったら、次々親戚から電話が掛かってきます。
あまり大事にしてもどうにもならないので最小限の身内だけに入院した事を伝えていたのですが、どうも施設の方が申請してある連絡先全員に電話しまくっているようでした。
こちらから施設に電話すると「付き添いでいった者が拘束されて戻れないから誰か出して欲しい」という事でした。病院とは明日入院手続きなどやると話が付いていると思ったのですが、病院に電話してみると入院させる部屋が決まらなかったがさっき決まったので施設の付き添いの人に移動させてもらったところ、との事。
誰がハンドリングしてるのかサッパリで、施設に電話すると「先ほど帰るところと連絡があった」と。
おかげで親戚全員の知るところとなり、仕事中もその電話対応ばかりやっていました。
こうなるといつも見舞いに来ていた知り合いにも伝えないといけないので、帰りながらそんなことをやっていました。
一日仕事をしていろいろ準備し、木曜の晩にやや仕事を早上がり気味に退社して気仙沼に向かいます。
道中の雪はほぼ心配ありまませんでしたが折からの寒波でとにかく寒い。
普段なら東北道で標高の高い那須高原付近が最も気温が低いのですが、今回は福島や宮城の内陸で氷点下8度の表示が出ています。
前走車の巻上げた融雪剤を落とそうとウィンドウウオッシャー液を噴霧したら不発。
あれ?壊れた?と思いリア側を作動してみると、こちらも不発。
どうやらあまりの寒さにノズルかタンク内で液が凍ったようです。
前が見えないほどでもないのでとりあえずこのまま走ります。
85km/h前後で走っての高速燃費は20.7km/L。
深夜1時45分に気仙沼の家に到着。
とりあえずカップラーメンでも食べて寝ようとしていたら、突然家の障子がガタガタと揺れ始めます。
すわ、高速を降りた時に轢かれていたタヌキの遺体を道路脇に避けた霊障か!?と思ったのですが、地震速報を見ると気仙沼直下でここらへんだけ揺れたようです。
長距離運転の直後なので体がふわふわした感覚で普段なら地震と分かる初期微動もぜんぜん分かりませんでしたのですこしビビりました。
ちなみにこの家の廊下やトイレの照明はセンサーライトにしてあって便利なのですが、寝ていると夜中に勝手に点くことがあります。
虫が入ったか、掛けてあるタオルが揺れたか、と思うようにしています(笑
金曜日。
施設最寄りの登米市の病院に入院となったので、気仙沼の自宅からそちらに向かいます。
今回はこれまでお世話になった親戚ではなく連絡を受けて入院当日に駆けつけた従姉、母からすると姪が入院手続きなどをしくれていて、今日も来てくれていましたので二人で医師の話を聞きます。
インフルエンザ予防で面会は制限されていたのですが持参した入院用の身の回りの品を持ちこむ時に顔を見ていきますか?というのでベッドに案内されました。
てっきり部屋かと思ったらナースステーション目の前の、つまり一番目が離せない位置のベッドが宛がわれていました。
酸素マスクはしていましたが熱は落ち着いており、目を開いて話しかける人の方を見たりとつい数日前の目も開かない、呼び掛けにも揺すったりしても反応しなかったのからするとずいぶん良くなったように見えました。
ただ何か言いだけでしたが声は出ないようでした。
医師に呼ばれ、所見を聞きます。
やはり寝たきりによる誤嚥性肺炎で抗生剤などが効いて熱は上がったり下がったりといったところ。
まず体力が落ちているところでの肺炎なので予断を許さない、このまま亡くなるケースもあり得ます。肺炎が回復しても、多臓器不全に陥っているので一時的に持ち直しても以前のように回復する可能性はほぼありません。といった非常に厳しいものでした。
まだ若い女医さんでしたがはっきり言うのでかえって状況は分かりやすかったのですが、人によっては冷たい、もっと親身になってほしいと思うかもしれません。
もちろんこの人も良くなる可能性があればこんなネガな事ばかり並べないのでしょうけど、それだけ厳しいといったところでしょうか。
落ち着いた場合、食道と気道を分離する手術があるそうですが、どうでしょうか?と聞くと、その質問は予想外だったようでしたが全身麻酔を伴う手術になるので体がもたないと思います、全国どの病院でもまず受けてくれるところはないのではないか、との事。
そしてダメだった時。これは電話で話した時に決断を保留していたのですが、延命措置をしてもその後回復する可能性は低いが患者には苦痛を伴う措置である、という事だったので心肺停止の場合は無用な延命措置はしないようにお願いしてきました。
従姉にも以前から血液検査の結果が良くないのでいつ急変するかわからないと伝えていたので覚悟はしてくれていると思います。
とりあえず母の身の回り意の事は比較的近い従姉にお願いして別れました。
施設の方に連絡すると、入院になったので施設の方は退所していただくので部屋の荷物を取りに来て欲しいとの事だったので、車で10分の距離、というかわざわざ気仙沼から取りに来ると1時間半、東京からだと6時間掛かるので気仙沼に戻る前に寄って荷物を受け取ってきました。
老健は長居する所ではないのであまり荷物は持ち込まないようにしていたつもりですが、大きな段ボール2箱とテーブル二つを積めたのはやはりFitの積載力のおかげ。
翌土曜日。
親戚の家に行く前に買い物をし、道中に家を建てた同級生に新年?の挨拶に立ち寄ります。
挨拶だけしてしてすぐ帰るつもりがけっこうな長話になってしまいました。
これから行く親戚んと墓をどこにするか揉めそうと言うと「すぐに納骨しなくてもいいんじゃないの?」ということで百科日位まではひっぱれるかな、と思えたのは無駄足にはなりませんでした。
夕方前、電話だけ受けて心配しているであろう親戚に説明に回ります。
とはいえ、この日は気仙沼地区では正月期間最後の区切りという事で皆、挨拶回りなどで出払っていました。
とりあえず高齢で出歩けない従姉の実家の叔父義叔母のところに行きました。
もっとも話は従姉からずいぶん伝わっているのであまり話す事もないのですが。
そろそろ帰って来たかと他に回りますが、お婆さん一人(若いのは居るけど出てこない)だったので、また終戦の頃からの昔話を聞かされました。
いろいろあって、母がまだほんの子供の頃、納屋で一緒にご飯を食べた間柄だから他の親戚とは違う思いで見てて、なんでこんな目に遭うんだかなぁとボヤいておりました。
他にもいろいろ血圧が上がるような話もあるのでなんとかそっち方向に話がいかないように相槌を打ちながら家人が帰って来るのを待っていたのですが、どうも挨拶回りが遅くなるようなので、あまり長居すると晩御飯を食べていきなさいと言われ始め、それはそれでありがたいのですが、自炊の用意をしてあるのでと断って帰ってきました。
日曜。
仕事もあるので東京に戻らなくてはなりません。
もっとも、登米の病院は面会制限で面会できる時間帯が12-13時と18-19時の一時間ずつしかないので、そうすると12時に面会してその足で東京に帰らないと、翌日の準備が出来ませんので午前中に気仙沼を出発します。
無駄に快晴ですが、去年からそうですがずっと風が強くて疲れます。
登米の病院は先日までいた施設に向かう道と同じ道で最後だけ曲がらずにまっすぐ行くようになります。
12時。病院に着くと休日の受付が裏だとか、裏から入ったら入り口はあっちとか右往左往です。
おまけに面会は先週から受け付けていません、というので東京から来た息子なんですがと言って10分だけ入室を許されました。
通常ダメなのが許されるというのも、なんだかそれほど悪いのかと思ってしまいます。
一昨日ははっきり目を開けていたのですが、今日は年末の施設で見たようにいびきをかいて寝ており、呼び掛けても反応しませんでした。
しかし看護師が糖尿病のインスリンを注射しますよ、と言うと眉間にしわが寄ったので、この人、やっぱり起きてるな、と思えます。
ただ、聞こえていても反応する体力というか気力がもうないのかもしれません。
こうやって顔を見られるのもあと数回くらいでしょう。
短い面会を終えて東京に向かいます。
東北道には築館ICから乗ります。
その途中は自動車専用道路でスイスイでした。
そして伊豆沼。
水を抜いた田んぼには渡り鳥が数多く羽を休めていました。
東北道は順調でしたが、東京で荷物の再配達を受け取れる時間に間に合いそうなので、泉から国見のあたりの80km/h規制の区間以外は100km/h巡行で東京を目指します。
久しぶりの仙台大観音。
そして夕景の富士山。
燃費の方は首都圏に入ってペースが落ちた事もあって20.8km/L。
冬場でもこれくらいで収まるなら普段から100km/h巡行でもいいような。
東京の自宅には18時過ぎに到着。
荷物の受け取り、給油、洗車を済ませ、翌日に備えて買い出しなどをして、お終いです。
母の容体はどう推移するか分かりませんが、回復したらそれはそれで今度はあれだけ苦労してようやく決まった施設探しが振出しに戻ってしまいました。
それにしても今回は従姉にずいぶん助けられました。
子供の頃は世話焼きでずいぶんお姉さんという感じの人でしたが、この局面で頼る事になるとは思っても居ませんでした。
まったく人付き合いは普段から疎かにせずきちんとやっておかないといけません。