1997年頃から2000年にかけてということなので、今から12~15年前の動画がVHSの状態でかなりザクザク出てきたので、ここで紹介だけしたいと思います。
先日、紹介したものも含んでいるので多少重複してますがそこはお許しを。
それと、まだあとVHSのテープが2~3本転がっているので近いうちにソチラも公開するかもしれません。
なにやら「トライアル」などという文字も見受けられるのでもっと古いかも?
ではでは、始めます。
◆
1998年12月21日 スーパーハード年忘れ走行会(動画チャンネル)
えっと、TVの画面を直接写しているだけという雑なキャプチャーなので画質がかなり粗いのと音声が小さいのはご了承ください。
スーパーハードは確か97年の初頭に出来た、岡山県の県北の林業をされていた山の一部を持ち主が開拓して開かれていたコースで、コースオーナーのU田氏(通称:ジャパネットU田)が運営されていました。
(コースは2003年頃に閉鎖)
この動画でも、どこからか甲高い声で高笑いするのが入ってたりしますが(だからジャパネット)、彼とはいまだに付き合いがあり、この時期になるともう頭が「雪中行軍」でいっぱいの雪中大魔王に変身します(笑)
ですので、興味のある方は、また雪中のお誘いをここでしますので、岡山県の県北の雪中事情にやたらと詳しい、彼の案内で雪中に行きましょう。
この動画では、正規の巡回コースの入口にあった、ジグザグに植えていた丸太のポイントと、その上にあった角材を植えていたポイント、タイヤを大量に置いていたポイントなどの動画が中心です。
この日は、コース全体の動画を残していたハズなんですが、上書きしたのか見つかりませんでした。
まぁ、当時の雰囲気はよくわかるのでヨシとしておきましょうか・・・。
◆
1998年頃 京都のT田親分を某所に迎えて(動画チャンネル)
う~ん、ランクル界では超有名人だし雑誌にもバンバン出てたので伏字にする意味あるんか?とも思いましたが、一応「て●だ親分」としておきます(笑)
動画は広場で、T田親分のフランケンシュタイン号(こんな名前だっけ?)を舐めまわすように撮っている動画から始まります。
この車、BJ40系をベースに「ポルシェ1台分くらい」の改造費をかけていろいろ手を入れていた車で、当時は、エンジン&ミッションを、ランクル80系の1HZ(4.2リッターの直6ノンターボディーゼル)とF151Fミッションを放り込んでいた車です。
ちなみにこのF151Fミッションは、上級グレードの1HD-Tなどのターボエンジンに付いていたミッションより低いギア比になっているのと、トランスファーのローレンジも、通常の40系や70系が減速比が約2倍なのに対し、2.5倍と非常に魅力的な組み合わせでした。
今では、4倍減速のローギアなどが出回っているのでそれほど貴重というわけでもないのですが、当時としてはなかなか画期的というか、「さすがランクルの神様」的な発想だったと思います。
(ちなみにうちに転がっている80も、1HZとF151Fの組み合わせです)
この日の動画は主に「ムーミン谷」が主戦場になってますね。
当時、倒木を利用したポイントがあったのですが、皆、その倒木の切り株(?)で大苦戦(笑)
この日は珍しいことに、ほぼ一発でスパーンと抜けたのは僕の車だけでした。
この日、T田親分はトルコ製だかなんだか忘れましたが、工場の隅に転がっていた直径900のタイヤが履きたくて無理やり増し板してたってのもあって、ガチガチの脚回りと「ランクラットタイヤか?」というくらいガチガチのタイヤとが相まって走破性としてはかなり怪しい感じでした(笑)。
◆
2000年頃 スーパーハード走行会(動画チェンネル)
この頃、僕の車を見てみると「どうしたん?!」っていうくらい凸凹化が進んでいるので、正直見たくないんですが(大汗)、
確か、この日がTu-16(チルホール)を初めてコースで使ったんじゃなかったかな?
動画内でもI上のタッチャンに「まだお金を払ってない」って言っているので、この日、コースで手渡ししてもらったんじゃなかったのだろうか?
確か新品のワイヤー付きで5000円だったと記憶しています。
動画はS村さん(ヒモパンさん)のBJ70VのV字のアタックから始まってるのですが、確か当時は、アイアンバールカップに出るとか出ないとか言っていた頃だったとおもうので、各人の車の装備もバール参戦に向けたものに変わって行っていた頃でしたね。
僕も自分の動画を見て驚いたのですが、本当に短期間使っていた、純正の横型ウインチを搭載してますね。
この当時、4/4回転でグチャグチャになったボディを、ボンネットだけ今のベージュ色のBJの物と交換していただけで、自分が見てもギョッとするほどドイヒーな状態でしたね(大汗)
「こんな車で会社に来るな!」ってことで、左遷されたのも納得です(おいおい)。
・・・それにしても、自分の走りを見てたらストレスが溜まるというか、なんというか、テレビモニターを見ながら
「おいおい、そんなラインで走るわけないやろが~!」とか、
「アクセル吹かせすぎぢゃろが~!(岡山弁)」とか、
「無駄な操作しやがって~!!」と吠えまくってました(>。<)
それにしても、なんちゅ~下手クソや~。
確か、この日は「オープン縛り」ってローカルルールで遊んでいたと思うのですが、なんでこんなに溝に平気で落としていたのか意味がわかりません。
(先行車が溝に落としてたので、それに対抗してたのか??)
今なら、なるべく車が水平になるようなラインを、それこそタイヤのブロック1個分くらいを出し入れするような感じで、超低速でジワジワとクローリングで進んでいく処を、この頃は勢いで通過してますからねぇ(大汗)
そりゃ、ボディも凸凹になるわなぁ。
悪い見本ってことでご勘弁ください。
■走りの変遷がよくわかる
こんなふうに昔の動画を見てたら、本当に”走り方の変遷”がよくわかります。
四駆に乗り始めた93年くらいから95年くらいまでは四駆でクロカンをしてたら楽しかった時期。
95年~98年頃は、トライアルに熱中してた時期。
98年~01年くらいにかけては、ボディの損傷をもろともしないようなメチャクチャな走りをしてた時期。
02年くらいからが、おそらく今みたいに、エンジンを極限まで粘らせた超・低速クローリングと、牽引を重視したスタイル。
共に同じクラブに所属していて、クロカン歴もほとんど同じの二人の走行スタイルが随分と違ってきているのがお分かりいただけますか?
「なんでここまで走り方が変わったん?」とJr.にも聞かれましたが、おそらく自分の中では「ドアを外してクロカンするようになった」ということが、走行スタイルを180度変える大きなキッカケになったと思っています。
それまでは、ボディの損傷をもろともしないような、思い切りの良さで勝負するような走り方でしたが、ドアを外し、タイヤの接地状況が直接目で見てわかるようになった頃から、タイヤのブロックの1個分くらいを出し入れするような精密な操作を重視する、今みたいなスタイルになってきたんだと思ってます。
・・・まあそれにしても、今みたいな走りのスタイルになってからまだわずか10年ほどしか経ってないし、そのうち3年ほどは完全に引退してた(汗)なので、まだまだだなぁと思いますね。
また、がんばって走り込みしよ(^^;;