政府や共産党に対する批判はタブー、というイメージが強い中国だが、かつて批判が許されたことがあった。それは1956年から57年にかけて毛沢東が提唱した「百花斉放百家争鳴」運動だ。
この時、数多くの学者や有識者らが共産党に対する批判的な言論を発表した。しかし、批判の噴出に危機を感じた毛は程なくこれを撤回、一転して党への批判者を厳しく弾圧する反右派闘争を展開したのである。このあまりにも強烈な「しっぺ返し」が、今に至るまで体制批判をタブー化させる一因となっているのだ。
中国メディア・捜狐が26日に掲載した、中国の教育の問題点を指摘する記事のなかで、「批判的な思考を持つ教育」の欠如について言及されている。見方によっては体制批判とも取られかねない内容で、その舌鋒は鋭い。
まず、「国家というものは、国民全体によって建設されるものである。国民が聡明になり、知恵を持ち、創造力が高くなるほど、国は強くなる」とし、政府が持つ最大の役割は「公正かつ透明な競争のルールを作り、民衆の中から優れた人材を輩出すること」であると論じた。そして、批判的な思考を持つ教育は高等教育の基本であり、「日本ならずとも、正常な国ならどこでもこの点に力を注ぐ」とした。
一方で、「専制国家はどうして嫌われるのか。それは、民衆に知力の低下を強要し、統治者の知恵を際立たせようとするからだ」と指摘。競争のない統治者はどんどん愚かになっていき、やがて国自体も愚かになり、最終的には民族全体が生存能力を失うことになるのだと論じている。
そして、今の中国の教育は「依然として押し付け的な教育により、残酷にも子どもの自由な天性を抑圧し、多くの子どもを学習嫌いにさせている」と断じ、「この現状を変えたいのならば、教育を学校に戻し、智慧を子どもに返さなければならない」とした。記事はさらに、中国の教育について「子どもたちは教育という製造ラインの上で厳しく矯正され、低品質で廉価な標準化された製品となる」とも評している。
記事は「今の中国は専制国家で、愚民政策を続けている」とは明言していない。しかし、専制国家による愚民政策を持ちだしたうえで、現在の中国の教育を「低品質で廉価な標準化された製品の製造ライン」と批判していることから、両者を関連付けようとする意図が伺えるのは明らかだ。このまま批判的思考を抑圧した教育を続けていくのか、自由な思考と言論を生む教育へとシフトしていくのか。昨今議論が活発化している中国の教育問題は、これからの国の行く末を占う岐路であると言えそうだ。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:(C)dewater/123RF) サーチナ 2016-10-28 09:51
Posted at 2017/10/13 07:38:29 | |
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