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2012年04月30日
いよいよこのドライブも最後です。
金森宗貞邸跡は、茂住、和佐保銀山の開祖、金森宗貞の屋敷跡と伝えられています。
金森宗貞は、茂住宗貞ともいい、飛騨に入部した金森長近に登用されました。鉱山資源の開発に尽力し金森姓を賜り、金森宗貞と名乗りました。
四方に高さ約3mの石塁を構築し、その上に高塀をかけ四隅に櫓を建て、南・北・東に三つの隅櫓を設けていたと推定されています。寛延年間に白雲山金龍寺が移築され、明治初年には産土神神明神社が新たに造営されました。
また、国道41号の改修により、北東側の石塁に現状変更が加えられました。
伝えられている屋敷跡は、四方に高さ約3mほどの石塁を構築、その上に高塀をかけ四隅に櫓を建て、南、北、東に三つの隅櫓を設けたものと推定されています。
金森宗貞邸跡 - 1
金森宗貞邸跡 - 1 posted by (C)pismo

金森宗貞邸跡 - 2
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金森宗貞邸跡 - 3
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金森宗貞邸跡 - 4
金森宗貞邸跡 - 4 posted by (C)pismo

高田神社の祭神は高魂命、創建時期は不明です。
建武の新政に功績のあった姉小路家綱は、建武元(1334年)年に飛騨国司に任命されます。家綱は高田神社を崇敬し、隣接して館を設け飛騨の政治の中枢となりました。
江戸時代は「白山社」「白山権現宮」に改称されますが、文化年間に吉田家により白山社が式内社高田神社であることが確認され、高田神社に改称しました。
明治3(1870)年に正式に式内社高田神社と称することが認められました。明治40(1907)年、諏訪神社、多度神社、加茂神社を合祀しました。
髙田神社 - 01
髙田神社 - 01 posted by (C)pismo

髙田神社 - 02
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髙田神社 - 03
髙田神社 - 03 posted by (C)pismo

十楽観〔姉小路氏館〕です。姉小路家綱は、建武の新政の功績で飛騨国司に任じられ、高田神社の隣接地に十楽観(館)を設けました。
小島城を築き詰めの城としたと思われます。
高田神社の社務所裏側に館跡の歌碑が、高田神社の境内には飛騨国司姉小路氏顕彰碑が建っています。
髙田神社・飛騨国司姉小路氏顕彰碑 - 04
髙田神社・飛騨国司姉小路氏顕彰碑 - 04 posted by (C)pismo

髙田神社・十楽観 - 05
髙田神社・十楽観 - 05 posted by (C)pismo
Posted at 2012/05/28 22:56:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ
2012年04月30日
城生城(じょうのじょう)は、南北朝時代に築かれた城で斎藤氏の居城です。
斎藤氏は婦負郡南部を領した豪族で約200年余にわたりこの地に大きな勢力を振っていました。
戦国時代の天正年間には斎藤信利(信和)、信吉兄弟は上杉謙信の配下となっていましたが、謙信の死後織田信長へ誼を通じ、信吉が上杉方の越中国今泉城を落城させるなど織田方の越中進出に積極的に協力しました。
しかし数年後には再び上杉景勝に接近、織田方へ反旗を翻し佐々成政に敵対したため天正11(1583)年に成政の攻撃を受け落城しました。城主斎藤信和は飛騨へ落ちのび、後に徳川氏に仕えました。
城はその後佐々与左衛門が入り、前田氏支配時は青山佐渡守・篠島織部らが城に入りましたが慶長年間に廃城となりました。
城跡は、曲輪や堀切がはっきりと残っています。主郭周辺の堀は深く、見応えがあります。
主郭には「城生斎藤家城址」の石碑が建っています。
城生城 - 01
城生城 - 01 posted by (C)pismo

城生城 - 02
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城生城 - 03
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城生城 - 04
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城生城 - 05
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城生城 - 06
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城生城 - 07
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城生城 - 08
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城生城 - 09
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城生城 - 10
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越中八尾観光会館(曳山展示館)は、5月3日に八尾町で開催される曳山祭を中心としたこの地の文化資料を展示しています。
曳山は井波の彫刻、高岡の彫金、城端の漆工などがこの地の美術工芸の粋を極めた作品です。
ふるさと八尾の風景を描いた林秋路の作品や、この地の主要産業であった養蚕業の資料展示などがされています。
越中八尾観光会館(曳山展示館) - 1
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越中八尾観光会館(曳山展示館) - 2
越中八尾観光会館(曳山展示館) - 2 posted by (C)pismo

若宮八幡社・蚕養宮です。若宮八幡社の創建は元禄6(1693)年、富山藩2代藩主前田正甫が誉田別尊の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。
蚕養宮の創建は天明元(1781)年山屋善右衛門が奥州から神霊を勧請し城ヶ谷に養蚕宮(さんようぐう)を建立しのが始まりと伝えられています。蚕養宮は明治11(1878)年に若宮八幡社に合祀し社殿を改築しました。
現在の社殿は大正12(1923)年に建てられたものです。
蚕は古くから八尾町の基礎産業として隆盛しました。しかし、戦後は衰退してしまいました。蚕養宮は、八尾町民の日常生活にかかわり生活文化を形作ってきた象徴です。蚕養宮は、平成13(2001)年、富山市(当時八尾町)の指定民俗文化財となっています。
若宮八幡社(蚕養宮) - 01
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若宮八幡社(蚕養宮) - 02
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若宮八幡社(蚕養宮) - 03
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若宮八幡社(蚕養宮) - 04
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若宮八幡社(蚕養宮) - 05
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若宮八幡社(蚕養宮) - 06
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若宮八幡社(蚕養宮) - 07
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若宮八幡社(蚕養宮) - 08
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諏訪町本通りは、富山市八尾地区にある石畳の通りで「日本の道100選」に選ばれています。
5月の越中八尾曳山祭りや9月の「おわら風の盆」もこの周辺で行われるそうです。
八尾町道諏訪町本通り - 01
八尾町道諏訪町本通り - 01 posted by (C)pismo

八尾町道諏訪町本通り - 02
八尾町道諏訪町本通り - 02 posted by (C)pismo

八尾町道諏訪町本通り - 03
八尾町道諏訪町本通り - 03 posted by (C)pismo

諏訪社は南北朝時代に八尾を治めた領主、諏訪左近の崇敬社と伝えられています。
日本の道100選に選ばれた諏訪町本通りの名の由来する神社です。
諏訪社 - 1
諏訪社 - 1 posted by (C)pismo

諏訪社 - 2
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諏訪社 - 3
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八尾おわら資料館は八尾の伝統的な町屋を再現した館内におわら中興の祖、初代おわら保存会長の故川崎順二氏にまつわる資料を中心に展示しています。
八尾四季を詠んだ小杉放庵や野口雨情ら多くの文人墨客との交流についても展示がされています。
また、映像展示室では「おわら」の映像を大型スクリーンで楽しむことができます。
八尾おわら資料館 - 1
八尾おわら資料館 - 1 posted by (C)pismo

八尾おわら資料館 - 2
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聞名寺は、山号は桐野山、浄土真宗本願寺派の寺院です。
正応3(1290)年美濃国各務郡平島村に、本願寺三世覚如上人の高弟願智坊覚淳が創建した寺院です。
その後飛騨に教線を拡げたため、照蓮寺(現、高山別院)との軋轢を避けるため応仁2(1468)五代覚玄が越中に進出し、飛騨、越中を転々と居所を移した後。天文20(1551)年に現在地に移りました。
神保、斉藤、秀吉、前田、金森氏など歴代武将の崇敬厚く、関係古文書類などを多く所蔵しています。
寛永9(1632)年に県下最古の寺子屋を開設しました。
また、聞名寺は境内に東西町など四筋の家並み建設を認め、それ以降八尾は聞名寺の門前町として栄えました。
現本堂は文化9(1812)年のに建てられたもので総欅造り、京都の名匠柴田新八郎貞英の傑作です。
(説明看板などより)
聞名寺 - 01
聞名寺 - 01 posted by (C)pismo

聞名寺 - 02
聞名寺 - 02 posted by (C)pismo

聞名寺 - 03
聞名寺 - 03 posted by (C)pismo

聞名寺 - 04
聞名寺 - 04 posted by (C)pismo

聞名寺 - 05
聞名寺 - 05 posted by (C)pismo

聞名寺 - 06
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八幡社は、誉田別尊(応神天皇)を祭神とし、葛城宮司の祖卜丸正位が天平年間に金剛蔵王権現を勧請したのが始まりといわれています。
天正4(1576)年、八尾町発祥の地といわれる現在地に社殿を建て、天保2(1645)年八尾産土神龍谷神社(祭神聖徳太子)及び瀬戸山蓮勝院を合併し、八尾総社として尊崇され、大正13(1924)年郷社に列せられました。
現社殿は天明元(1781)年に再建されたものです。
昭和57(1983)年には旧小矢部落の牛獄社(祭神大国主命)をも合併しました。
春季例大祭の神輿渡御は、露払いとしての獅子舞、随行としての六本の曳山(県・町指定文化財)の豪華絢爛さと相まって、県内屈指の祭礼として知られています。
(説明看板などより)
八幡社 - 1
八幡社 - 1 posted by (C)pismo

八幡社 - 1
八幡社 - 1 posted by (C)pismo

八幡社 - 2
八幡社 - 2 posted by (C)pismo

八尾の町並み - 01
八尾の町並み - 01 posted by (C)pismo

八尾の町並み - 02
八尾の町並み - 02 posted by (C)pismo

八尾の町並み - 03
八尾の町並み - 03 posted by (C)pismo

八尾の町並み - 04
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Posted at 2012/05/28 00:12:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ
2012年04月30日
放生津城は、放生津潟の西側にあった平城です。
「太平記」には、元弘3(1333)年鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護の名越時有が一族と共に放生津の城で最期を遂げたと記していています。
室町時代には、越中守護畠山氏の重臣で、射水郡・婦負郡の守護代である神保氏の居城となりました。
明応2(1493)年、室町幕府10代将軍足利義材が京都の政変を避けて越中に逃れました。
義材は放生津城主神保長誠に支えられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙しました。
義材のもとへ、公家・大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れました。かくして、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えました。
永正17(1520)年、神保長誠の子慶宗が越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)の侵略を受けて自害しました。
このため、神保氏は拠点を富山城に移しました。安土・桃山時代には加賀前田氏の武将が入り、江戸時代の初め頃までに廃城となりました。
江戸時代後期には加賀藩の蔵屋敷となり、明治時代になって新湊高等小学校(現在の放生津小学校)の校舎が建てられてました。
江戸時代の記録では、城は本丸、二ノ丸からなり、本丸は南北約126m、東西81m、二ノ丸は南北約50m、東西約36mの大きさでした。
現在、城の遺構は全て地下に埋もれていますが、昭和63(1988)、平成元(1989)、平成3(1991)年の試掘調査では、南北朝〜戦国時代の遺構や、青磁、白磁土師器皿、珠洲焼、越前焼、漆器椀、中国銭などが見つかっています。
平成15(2003)年、射水市(当時新湊市)の文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
放生津小学校の北側の緑地に説明看板や石碑が建っています。土塁のようにみえる盛土は、放生津城とは関係がないそうです。
放生津城 - 1
放生津城 - 1 posted by (C)pismo

放生津城 - 2
放生津城 - 2 posted by (C)pismo

放生津城 - 3
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放生津八幡宮は、天平18(746)年、大伴家持が越中国司として赴任した際、九州の宇佐八幡神を勧請して、奈呉八幡宮と称されたのが創始であると言われています。
後に北条時政が再興したと伝えられています。
正和年間(1312-1317)、放生津城主名越時有が社殿を造営しました。永禄年間(1558-1570)上杉謙信の兵火にかかり社殿が焼失、神保長職が再興しました。
嘉永3(1850)年4月、13代加賀藩主前田斉泰が放生津の砲台場を検分した際、参拝奉幣しました。
安政4(1857)年7月、当地出身の知恩院第71世萬誉上人の依頼により、左大臣近衛忠煕が真筆の神額を奉納しました。
現在の社殿は高瀬輔太郎が棟梁となり、文久3(1863)年に再建したものです。拝殿には矢野啓通作の大狛犬が安置されています。
(現地説明板などより)
放生津八幡宮 - 01
放生津八幡宮 - 01 posted by (C)pismo

放生津八幡宮 - 02
放生津八幡宮 - 02 posted by (C)pismo

放生津八幡宮 - 03
放生津八幡宮 - 03 posted by (C)pismo

放生津八幡宮 - 04
放生津八幡宮 - 04 posted by (C)pismo

放生津八幡宮 - 05
放生津八幡宮 - 05 posted by (C)pismo

放生津八幡宮 - 06
放生津八幡宮 - 06 posted by (C)pismo

放生津八幡宮 - 07
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海王丸パークは、平成元(1989)年9月に退役した航海練習船海王丸の係留・展示施設として、平成4(1992)年7月にオープンしました。
4月下旬から11月初めまで、年間10回の総帆展帆が行われます。
海王丸パーク - 1
海王丸パーク - 1 posted by (C)pismo

海王丸パーク - 2
海王丸パーク - 2 posted by (C)pismo

海王丸パーク - 3
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Posted at 2012/05/27 20:38:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ
2012年04月30日
千歳神社は天照大神、豊受大神を祭神とし、富山の土地神として最も古い神明社であり、相殿には誉田別之命を祀っています。
天正9(1581)年、佐々成政公が、越中54万石を領して富山城主となった時、この神明社を産土大神として崇め、城下町富山を東西に二分し、東は北の神明、西は南の神明と称し、それぞれに富山の守護神としました。
当神社は北の神明にあたり、当時は蛯町の地に鎮座していましたが、富山藩祖前田利次公が入場後、寛文年間城下の町割に際し現在地に移られました。
相殿は文化7(1810)年、九代藩主前田利幹公が、東田地方(今の城北町)に八幡神社を創立し、鬼門除けの宮としていましたが、明治45(1912)年、当社に相殿として合祀し、神明社を千歳神社と改称しました。
千歳の称号は、十代藩主前田利保公が、嘉永2(1849)年東出丸(今の桜木町)に隠居所として千歳御殿を造りこれより神通川の下流奥田あたりまでを千歳川と名付け、桜を植えて千歳桜と呼び、富山の名所としたことに因みます。
昭和20(1945)年8月戦災によって社殿は悉く焼失しました。
現在の本殿及び拝殿は昭和31(1956)年、氏子有志によって再建されたものです。

千歳神社 - 1
千歳神社 - 1 posted by (C)pismo

千歳神社 - 2
千歳神社 - 2 posted by (C)pismo

磯部の一本榎です
この地にはかつて榎の巨樹が茂り、神通川を行き交う人々の目印となっていました。
富山城主佐々成政と愛妾早百合との「磯部の一本榎」の悲話が伝えれています。
天正12(1584)年暮れ、成政は徳川家康に共に羽柴(豊臣)秀吉と対抗することを説くため、厳冬の冬アルプス越え(さらさら越え)を決行し、浜松に赴きますが家康を説得できず、空しく富山に戻りました。
富山城に帰った成政は、愛妾早百合が、留守中に近習と不義を働いていたという噂を聞き、嫉妬に狂い無実を訴える早百合を一族十数人とともにこの一本榎の下で切ったと伝えられています。
このとき、早百合が、苦しい息の下「立山に黒百合の花が咲くときに、私の恨みであなたを滅ぼしましょう」という呪いの言葉を残し果てたという「黒百合伝説」があります。
しかし、佐々成政は富山では佐々堤を築くなど善政を行ったことでも知られており、この「黒百合伝説」は後世により前田氏に広められたといわれ、江戸時代世間に流布したものとされています。
(現地説明板などより)

磯部の一本榎・磯部のさくら - 01
磯部の一本榎・磯部のさくら - 01 posted by (C)pismo

早百合観音祠堂は、早百合伝説の一本榎のそばに住んだ作家でジャーナリストであった翁久允(1888~1973)の手により昭和29(1954)年、建立されたものです。
早百合は五福村の農家の娘で、織田信長の武将佐々成政が富山に入城した折、召し出された娘のひとりといわれています。成政は心根の優しい早百合をことのほか寵愛したのでほかの娘たちから嫉視されていました。
天正12(1584)年、成政が厳冬立山のざらざら越えを敢行し、浜松城の徳川家康に豊臣秀吉との対決を促しましたが、同意を得られず空しく帰城しました。そこに早百合不義の噂を聞き、怒り狂ったといわれています。彼女は無実無根と訴えましたが聞き入れられず、磯部堤の一本榎に吊され斬られました。いわれのない罪に彼女は「立山のざら峠に黒百合の花が咲くときあなたを滅ぼしましょう」という呪いの言葉を残して果てたという「黒百合伝説」が今も語り伝えています。
この伝説は、後に越中を支配した前田氏が、治国の策として成政を暴君に仕立てるために作られたともいわれていますが、江戸時代には限りなく哀れな郷土の物語として民衆の間に広まっていきました。
今は彼女が惨殺された一本榎のあった場所に「磯部さくら」の碑が建てられ、富山市五福の長光寺には彼女の墓が残っているだけです。
この祠堂の建立は早百合の成仏を願い、また昭和20(1945)年8月の富山大空襲の際に神通川原で無残な死を遂げた多くの人々の霊を供養するため発願されたものです。
(現地説明板などより)
早百合祀堂 - 1
早百合祀堂 - 1 posted by (C)pismo

尻垂坂古戦場・薄地蔵です。
元亀3(1572)年8月、上杉謙信は、上洛を妨げる越中の一向一揆を討つために、常願寺川近くの新庄に陣を構えました。
謙信の約1万の軍勢は新庄に結集、富山城の一揆軍の討伐の作戦を図りました。
勇猛果敢な謙信勢とは、同年5月に続く二度目の対戦を迎えた一向一揆軍は、わずか4千の兵力とあって総指揮を担当する瑞泉寺の杉浦壱岐玄任は、加賀の坪坂伯耆らに頼み、江沼・能美両郡からの援軍を求めました。
こうして新庄城と富山城との間で激しい攻防戦が展開されました。
尻垂坂は西新庄の正願寺前辺りから田中町の間の、びや川の堤の登り口地域にあり、すさまじい合戦が繰り広げられました。
両軍が激突したころから幾日も雨が降り続き、多数の戦死者の流血によって、びや川の流れが真赤に染まったと言われています。そして一揆は敗れました。
堂宇の薄地蔵はそれを埋めた首塚に自然石の石塔を立てたものが残ったといわれています。
昔、この地蔵をしばれば、おこり(今日のマラリア)が治ったと伝えられています。なお、謙信は戦死者を弔い、経堂も建てたので、この辺りの地名を「経堂」といいます。
(現地説明板などより)
尻垂坂古戦場・薄地蔵尊 - 1
尻垂坂古戦場・薄地蔵尊 - 1 posted by (C)pismo

尻垂坂古戦場・薄地蔵尊 - 2
尻垂坂古戦場・薄地蔵尊 - 2 posted by (C)pismo

尻垂坂古戦場・薄地蔵尊 - 3
尻垂坂古戦場・薄地蔵尊 - 3 posted by (C)pismo

新庄城は、太田新城・辰城とも呼ばれていました。
東に常願寺川、西に荒川を望む要害の地にあり、北陸道に面する交通の要衝でもあったため、早くから軍事上の拠点として重要でした。
永正17(1520)年、越後の長尾為景は、神保慶宗らを討つため越中に侵攻、新庄に陣し、慶宗を敗走させて自刃に追い込みました。これが記録の初見です。この頃、新庄城は長尾方によって整備されたと見られます。元亀3(1572)年、上杉輝虎(謙信)の武将鯵坂長実が在城し、5月一向一揆が富山城を攻略すると、新庄城は上杉氏の富山城攻めの前線基地となりました。
天正8(1580)年、織田信長方の神保長住が新庄城を攻めており、佐々成政が富山城を拠点にした越中平定時には、新庄城は佐々方の城になります。
天正13(1581)年上杉方の土肥氏勢が一時新庄城を奪いますが、その後前田氏の城となり、元和元(1615)年までには廃城となったと思われます。
江戸時代の記録によれば、城の規模は東西約140m、南北100m以上で、本丸と二の丸で構成されています。周囲には土塁と幅約8mの堀がめぐり、本丸と推定される高台は、かって御屋敷山と呼ばれていましたが、今は新庄小学校のグランドになっています。
周囲には、古城跡割・馬場・屋敷割などの小字がかって残っていましたが、現在は宅地化が進み城の面影はありません。
(現地説明板などより)
新庄城 - 1
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佐々成政剃髪址です。
天正13(1585)年、富山城主佐々成政が、豊臣秀吉の越中攻めで先鋒前田利家の軍に敗れ、その際に成政がこの地で髪を剃り僧衣を着けて服従の意思を示したとされています。
当地の字名を道心山(仏道を信仰する)といっているのは、それに由来すると伝えられています。その後、成政は肥後(熊本県)に国替えされ、天正16(1588)年、秀吉の逆鱗に触れ、摂津尼崎の法園寺で切腹を命じられました。
辞世の句は「何事もかわりはてたる 世の中に 知らでや 雪の白く降るらん」です。
(現地説明板などより)

佐々成政剃髪址 - 1
佐々成政剃髪址 - 1 posted by (C)pismo

大峪城(おおがけじょう)は、豊臣秀吉が富山城の佐々成政を攻めた天正13(1585)年頃のもので秀吉側の軍勢が陣地とした白鳥城の出城として、婦中町の安田城(国史跡)とともに築城されました。
前田利家の家臣片山伊賀守延高が城を守りこれにちなんで「伊賀城」とも呼ばれました。
文化9(1812)年に測量を行った富山藩士渋谷孝本・安達直章らの記録によれば、城の構造は、本丸とその東にある二の丸、これらを取り巻く総曲輪からなり、南側を流れる井田川から水を取り込んで、周囲に堀をめぐらしていたことがわかります。
現在、城跡は五福小学校となっていて、校舎のある高台が本丸跡と推定されています。
(現地説明板などより)
五福小学校の入口付近に説明板が立っています。
大峪城 - 1
大峪城 - 1 posted by (C)pismo

長岡御廟は、富山藩前田氏歴代の廟所です。
この地は、初代藩主前田利次が居城として百塚城を築こうとした場所です。しかし財政難などにより百塚城の建設は中止され、加賀藩より富山城を譲り受けて居城としました。富山城は加賀藩領内にあったため、万治3(1660)年に加賀藩と領地交換を行いました。
2代藩主正甫は、富山城の計画があった百塚山西側に、初代藩主利次の菩提を弔うため延宝3(1675)年廟所を設け、利次菩提寺である光厳寺の末寺である真国寺を置いて廟所の管理を行わせました。これが長岡御廟の始まりとされます。
現在この廟所には、初代藩主利次から11代藩主利友までの墓と、正室側室等一族の墓があります。
長岡御廟 - 01
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長岡御廟 - 02
長岡御廟 - 02 posted by (C)pismo

長岡御廟 - 03
長岡御廟 - 03 posted by (C)pismo

長岡御廟 - 04
長岡御廟 - 04 posted by (C)pismo

長岡御廟 - 05
長岡御廟 - 05 posted by (C)pismo

長岡御廟 - 06
長岡御廟 - 06 posted by (C)pismo

そうけ塚は、天正6(1578)年、上杉謙信が越中の武将轡田豊後守の居城であった大村城を攻略した際、城の内外を望見するため、近村住民に、「そうけに一杯の土砂を持ち来たる者には銭三文を与えん」と命じたところ、一夜のうちに、 大丘が築かれたとの伝えから、日方江の「そうけ(筒箕)塚)」また「三文塚」とも呼ばれています。
現在は、直径約20メートル、高さ約5メートルの砂山が残っています。
(現地説明板などより)
天神社の境内に説明看板が建っています。
そうけ塚 - 1
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そうけ塚 - 2
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そうけ塚 - 3
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浜黒崎の松並木は、慶長6(1601)年、加賀藩二代藩主前田利長が参勤交代の際、街路の美観と冬季積雪時の往来の弁を考えて北陸道に植樹したのが始まりと伝えられています。
松は多幹性の黒松で、かつては東岩瀬から浜黒崎に至る約8kmの道の両脇に立ち並び、江戸時代の浜街道の景観をとどめていました。
昭和40(1965)年1月の指定時には、29本ありましたが、その後枯死などで現在14本になっています。
この浜街道は、一般に「古志の松原」といわれ、近くには「古志の松原記念碑」が立っています。
(現地説明板などより)
浜黒崎の松並木 - 1
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Posted at 2012/05/27 17:14:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ
2012年04月29日
安田城は、天正13(1585)年、全国統一をめざす豊臣秀吉が越中の佐々成政を攻めた際、秀吉の本陣となった白鳥城の支城となった城です。
天正13(1585)年、前田家の部将岡嶋一吉が城主となった後、代官の平野三郎左衛門が居城しましたが、後に金沢に帰還し、 廃城になったと伝えられています。
城の規模は、東西約150m、南北約240mで、本丸・二の丸・右郭の3つからなり、井田川から水を引き入れた堀がめぐらされていました。本丸、二の丸には、高さ約2.4mに復元される土塁が存在していました。
昭和52(1977)年〜昭和53(1978)年の発掘調査が行われ、昭和56(1981)年2月23日に国の史跡に指定されました。平成2(1990)年度〜平成4(1992)年度の整備事業により復元され、史跡公園として公開されています。
駐車場横には安田城跡資料館が併設されています。

安田城 - 01
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安田城 - 02
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安田城 - 03
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安田城 - 04
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安田城 - 05
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安田城 - 06
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安田城 - 07
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安田城 - 08
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安田城 - 09
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白鳥城は、呉羽丘陵の最高峰にあり、眼下に富山平野を一望できる場所にある山城です。
寿永2(1183)年、 源義仲の武将今井四郎兼平が陣を張ったとするのが最初の記録です。
戦国時代には、天文12(1543)年に、神保長職が富山城を築城した前後に、富山城の支城として築かれたました。豊臣秀吉の陣が富山城の佐々成政を攻めたときに陣を構えたといわれています。
その後、越中国の内、砺波・婦負・射水三郡が前田利家の領地となり、白鳥城に岡島一吉に入りました。
慶長2(1597)年、岡島一吉は白鳥城から安田城へ移り、白鳥城は廃城になったとされています。
現在、城山には遊歩道が設けられ、公園として整備されています。
白鳥城 - 01
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白鳥城 - 02
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白鳥城 - 03
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白鳥城 - 04
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白鳥城 - 05
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白鳥城 - 06
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そして、この日は富山市で宿泊しました。
夜、富山城のライトアップを見に行きました。
平成19(2007)年には、昼間に訪れています。
(氷見で鰤づくし~能登・越中ドライブ(その6 富山城))

その時訪れてからの変化としては、千歳御殿の門が、明治時代に移築された豪農の赤祖父家から本丸東側に再び移築され、平成20(2008)年、移築された千歳御門の横に、市が整備していた石垣が完成しています。
富山城 - 01
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富山城 - 02
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富山城 - 03
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富山城 - 04
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富山城 - 05
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富山城 - 06
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Posted at 2012/05/24 23:41:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ
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