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ピズモのブログ一覧

2017年05月20日 イイね!

大覚寺・桂離宮・京都国立博物館「海北友松」

大覚寺は、嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院で嵯峨御所ともいわれています。後宇多法皇が院政を行い、法皇の系統が大覚寺統と呼ばれ、南朝のルーツになりました。
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したといわれ、時代劇のロケなどにも使われています。
大覚寺 (1)
大覚寺 (1) posted by (C)pismo

大覚寺 (2)
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大覚寺
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大覚寺 (3)
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大覚寺 (4)
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大覚寺 (5)
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大覚寺 (6)
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大覚寺 (7)
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大覚寺 (8)
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大覚寺 (9)
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大覚寺 (10)
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大覚寺 (11)
大覚寺 (11) posted by (C)pismo

今年2回目の桂離宮一般参観に参加しました。
→今年1回目 桂離宮・中村軒

昨年からも当日参観が早い者勝ちでOKとのことで、10時頃から並んで11時に参観券?をゲット。
お目当ては、前回見ることができなかった松琴亭です。襖には青と白の和紙が市松模様に貼り合わされ,斬新な意匠で一度見てみたかったのです。3月に訪れた時は修復工事中ということで見ることができませんでしたが、今回ようやく念願が叶いました!
桂離宮 (1)
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桂離宮 (2)
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桂離宮
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桂離宮 (3)
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桂離宮 (4)
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桂離宮 (5)
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桂離宮 (6)
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桂離宮 (7)
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桂離宮 (8)
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桂離宮 (9)
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桂離宮 (10)
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桂離宮 (11)
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桂離宮 (12)
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桂離宮 (13)
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桂離宮 (14)
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桂離宮 (15)
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桂離宮 (16)
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桂離宮 (17)
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桂離宮 (18)
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桂離宮 (19)
桂離宮 (19) posted by (C)pismo


この絵師、ただ者ではない」海北友松展。5月21日までということで5月20日に駆け込みで訪れました。確かにただものではなかった・・・歳と共に画風が変わってきたり、浅井氏、斎藤利三や春日局とのつながりも興味深い。夜の京都国立博物館もなかなか雰囲気があります。
京都国立博物館
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京都国立博物館 (1)
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京都国立博物館 (2)
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京都国立博物館 (3)
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京都国立博物館 (4)
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京都国立博物館 (5)
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京都国立博物館 (6)
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Posted at 2017/06/21 23:33:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月13日 イイね!

丹波・但馬の藤など

兵庫県ではレッドデータブックBランクに指定されているクリンソウの群生地・妙高山のクリンソウ群生地です。クリンソウはサクラソウ科、サクラソウ属の多年草で丹波市での自生は珍しく、兵庫県ではレッドデータブックBランクに指定されている絶滅を危惧されている貴重な植物です。花の見頃は5〜6月で、大きな根性葉から高さ30cm〜50cmほどの花茎をだしピンク色のかわいい花を車輪状に数段つけます。兵庫県道541号神池寺線沿いの丹波市市島町多利地区の妙高山のふもとで平成22(2010)年に発見されました。
花の見頃は5月中旬から6月始めで、地元の住人や自然研究家、植物愛好家の「妙高山のクリンソウを守る会」によって遊歩道整備や花の見守りが行われています。
(現地説明板などより)
妙高山のクリンソウ (2)
妙高山のクリンソウ (2) posted by (C)pismo

妙高山のクリンソウ (3)
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妙高山のクリンソウ (4)
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妙高山のクリンソウ (5)
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妙高山のクリンソウ (6)
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白毫寺
→平成25年 白毫寺の九尺藤
白毫寺 (1)
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白毫寺
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白毫寺 (2)
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白毫寺 (3)
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白毫寺 (4)
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白毫寺 (5)
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白毫寺 (6)
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白毫寺 (7)
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白毫寺 (8)
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白毫寺 (9)
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白毫寺 (10)
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丹波市氷上町にある一の宮神社は上成松四方の京尾山の麓に鎮座しています。
参道を登ると正面には本殿、真向かいに舞堂があります。
「境内に鐘楼あり、建築も又甚だ優雅である」と記されているように本殿周りの彫刻は、実に美しく質素の中に豪華さが漂っています。
境内を埋め尽くすキリシマツツジは、樹齢300年とも言われ、紅色の花が見頃を迎える4月下旬から5月上旬頃には、境内が真っ赤に染まります。
(現地説明板などより)
一の宮神社 (2)
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一の宮神社 (3)
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一の宮神社 (4)
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竹田城
→平成23年 雲海の竹田城とその城下町

竹田城 (1)
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竹田城
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竹田城 (2)
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竹田城 (3)
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竹田城 (4)
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竹田城 (5)
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竹田城 (6)
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竹田城 (7)
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竹田城 (8)
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竹田城 (9)
竹田城 (9) posted by (C)pismo


白井大町藤公園は、山陰随一の規模を誇る藤の公園で、平成11(1999)年に開園しました。
約7,000平方メートルの敷地に総延長500mの藤棚があり、5月上旬から中旬にかけて全国の珍しい藤の花が咲き乱れ、幽玄な空間を創りだしています。
(現地説明板などより)
白井大町藤公園 (2)
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白井大町藤公園 (3)
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白井大町藤公園 (4)
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白井大町藤公園 (5)
白井大町藤公園 (5) posted by (C)pismo

白井大町藤公園 (6)
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白井大町藤公園 (7)
白井大町藤公園 (7) posted by (C)pismo

白井大町藤公園 (8)
白井大町藤公園 (8) posted by (C)pismo

白井大町藤公園 (9)
白井大町藤公園 (9) posted by (C)pismo

白井大町藤公園 (10)
白井大町藤公園 (10) posted by (C)pismo

白井大町藤公園 (11)
白井大町藤公園 (11) posted by (C)pismo
Posted at 2017/06/20 22:44:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月04日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(2日目その4・森町)

蓮華寺は、山号は八形山、天台宗の寺院です。
当山は慶雲元(704)年文武天皇の勅願により行基菩薩が開創しました。
飛鳥時代から建立された法相宗の東海の本山として千三百年の歴史と多くの傑出した高僧を生み出し、武将の尊敬を受けて遠州文化の発祥の地となり、現住職は第139世です。
平安時代の天長8(831)年第代住職円仁慈覚大師は、天台宗に改宗し一山三十六坊を建立し七堂伽藍の整備を行い比叡山延暦寺第三世座主となりました。
嘉応元(1169)年に比叡山の高僧皇円阿闍梨を招来して山頂奥の院に正覚院を建立し、衆生済度の大願をたて三七晝夜の念仏三昧の修業をなし大竜神を感じ遠州桜ケ池に入定したと伝えられています。以来上人三十三回忌までは春秋彼岸に赤飯供養と念仏三昧が禅勝上人によって盛んに行われ十七夜などの字名が残されています。また森町はかつて鍛冶や鋳物業が栄えた町ですが、蓮華寺は周辺の鋳物師らを取りまとめていました。今川氏はこの寺を通じて、鋳物師に特権を与え職人らを厚遇したといいます。
室町時代の元亀3(1572)年、武田軍の兵火により三十六坊が焼失しましたが、時の天皇正親町天皇の勅命により徳川家康が五十五石の寺領を寄進して再興しました。
江戸時代の寛政12(1800)年6月2日、千体仏の発願をたて全国遊行僧の木喰上人が訪れ一晩で子安地蔵尊を彫刻安置しました。木喰上人83歳の傑作にして全国的にも有名です。
また、蓮華寺は萩が自生し萩寺としても有名です。花の開花は5月から9月頃まで赤、白色の花が咲き乱れます。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第17回「消された種子島」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
蓮華寺 (1)
蓮華寺 (1) posted by (C)pismo

蓮華寺 (2)
蓮華寺 (2) posted by (C)pismo

蓮華寺 (3)
蓮華寺 (3) posted by (C)pismo

蓮華寺
蓮華寺 posted by (C)pismo

蓮華寺 (4)
蓮華寺 (4) posted by (C)pismo

蓮華寺 (5)
蓮華寺 (5) posted by (C)pismo

蔵雲院は、山号は松厳山、曹洞宗の寺院です。
正保4(1647)年の「蔵雲院門前屋敷諸役免許に関する書状」によると、天方郷18代の地頭山内山城守が、崇信寺5代の助吟和尚を請じて山居に開山したと伝えられます。
山門を潜って階段を登ると、正面に本堂が建ち、本堂の背面に位牌と開山堂が続き、本堂の東に庫裏が繋がっています。
棟札によると、現在の本堂は延享5(1748)年に上梁を迎え、それから3年後の寛延4年には花島善兵衛によって須弥檀前の前机が奉納されており、このころには内部の造作も完了していたと考えられます。
西側には、天方氏の墓と伝えられる五輪塔印塔が苔むしています。天方氏三代の墓がありますが、誰のものかはっきりしていません。
(現地説明板などより)
蔵雲院
蔵雲院 posted by (C)pismo

天正3(1574)年の夏、徳川家康は、武田方の天野氏の居城、犬居城を攻めましたが、天候に災いされて、止むなく軍を撤収することになりました。徳川方は、この信州街道を撤退する途中に天野軍の厳しい反撃にあい、山岳戦に不慣れな徳川方は思わぬ惨敗を喫して、多くの武将を山で失い、川で血を流しました。
その時、この附近の小高い山に三葉菱の旗を立てて退散しました。後に徳川の天下になると
この山を天下山と言うようになり、家康の内府、右府と出世したことにちなみ、土地の名も川の名も大府川と言うようになったと言われています。
また、その時の戦で傷を負った徳川方の武士が落ちて来て、この土地の嫁であったおこよに助けを求めました。おこよは山道を案内して武士たちを無事に逃してやった。帰路を急ぐおこよは、不運にも追撃して来た天野方の兵に見つかり、厳しい追求を受けました。
既に身ごもっていたおこよは、折檻にも似た追求に耐えられず、あえなく命を絶ってしまいました。
土地の人々は、このおこよの死を悼み、そこを嫁田と呼ぶようになりました。さらに非業の死をとげたおこよの霊をなぐさめるため、嫁田の中ほどに弁天様をまつって供養をしたということです。
弁天様の傍の松を、人々は、おこよの松と言い、今も生き続ける松は、戦国の秘話を今に伝えています。
(現地説明板などより)
嫁田
嫁田 posted by (C)pismo

鵜殿藤五郎光成戦没之地・鵜殿渕です。
天正2(1574)年4月、徳川家康は兵2千を率い、犬居城を指して信州街道を北上しました。一の瀬より大久保、田能を経て、気田川のほとり、犬居の瑞雲寺に本陣を張りました。たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激しい雨は2日2夜降り続いた。気田川は増水して各所で氾濫しました。
徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、信州街道を一の瀬さして撤退することになりました。
一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、一旦は気田に退いていましたが、徳川軍の動きをいち早く察知するや反撃に転じ、猟師姿の兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍におそいかかりました。
徳川軍の武将は善戦しましたが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けました。ついにこの一の瀬で徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死を遂げました。時に天正2(1574)年4月6日であったと「三河物語」は伝えています。
(現地説明板などより)
鵜殿渕 (1)
鵜殿渕 (1) posted by (C)pismo

鵜殿渕 (2)
鵜殿渕 (2) posted by (C)pismo

鵜殿渕
鵜殿渕 posted by (C)pismo

七人塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将達の眠る供養の塚です。天正2(1574)年4月徳川家康は、自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました。折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻どころか、ついには兵糧がつき一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。一方この状況をいち速く察知した天野軍は、直ぐ様反撃に転じ、田能・大久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川軍に、地の利を生かして襲いかかったのです。徳川軍は深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。応戦しようものなら雲を霞と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
徳川軍は一の瀬まで退く間に、多くの武将や兵士が討死したり負傷したりしました。古い資料によると、討死した武将は、鵜殿藤五郎、堀平八郎、堀小太郎、小原金内、大久保勘七郎、玉井善太郎等20余人と記されています。
土地の人々はこの将兵たちの亡骸を葬り、「七人塚」とよんで香華を手向け、盆には僧侶を招いて読経をするなど、四百年もの間、手厚く供養をしてきました。
夏の日、塚の前にたたずむと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の心ばえを思い、昔日の姿が目の前に彷彿として感慨一入であります。
(現地説明板などより)
七人塚
七人塚 posted by (C)pismo

この地域一帯は、浜松城の徳川軍と犬居城の天野軍(武田軍)の戦った古戦場です。戦いを優勢に展開した天野軍がこの付近で勝どきをあげたのでここを「万歳坂」と呼ぶようになったと言われています。
近年まで、武士が着用した鎧などの金銀を含んだ「銀石」という石が出ると伝えられ、子供達はその石探しに興じたものです。むかし、秋葉街道が賑わったころは、この付近に法度、掟書や罪人の罪状を記した立札の立てられる高札場があったといわれています。村の子供達は、秋葉山に参る「秋葉道者」のあとを追いながら、「道者道者一文おくれ。くれる道者は米道者。くれぬ道者は糠道者」とはやして、この万歳坂を上り花立の茶屋まで後を追ったそうです。
(現地説明板などより)
万歳坂
万歳坂 posted by (C)pismo

中野のここ半明(昔は家康にちなみ半命)に、昔から長く続いた田口家という旧家がありました。この田口家の家紋は、徳川家の三つ葉葵ならぬ「二つ葵」という珍しい家紋です。この二つ葵が田口家の家紋となった経緯はm実は戦国の時代の徳川家康とのかかわりに端を発すると伝えられています。
田口家に伝わる話では、元亀3(1572)年の暮、三方原の戦いで家康は武田勢に惨敗したのです。その時追われて、この半明まで逃げて来て、田口家の裏山の森の玉の木(和名・タブノキ)の空洞に身を隠し、武田方の探索を逃れたということです。
しかし、家康がこの地を敗走したのは、むしろ天正2(1574)年の犬居城攻めではなかったと、田口家の人々も、この点に疑問を抱いております。むしろその方が信憑性があるように感じられます。
います。
徳川家康が、犬居城攻めをあきらめて引き揚げたのは、天正2(1574)年4月のことでした。撤退する途中、あの猿皮空穂(猿皮靫:矢を入れる道具)を背負った天野軍の待ち伏せに遭い、田能、大久保で思わぬ大敗を喫しました。
家康は敵の追撃を逃れて、この椎の大木が繁る森にかくれました。その森の中の湧き水で傷を洗い、口をすすぎ、やっと一息つくことができたと言われています。
その時助けられて立ち去る時に家康は、「余が天下に号令するようになった時は、遠慮なく申し出よ。今日の事は生涯忘れぬ。その証として家紋は二つ葵とするがよい。」と厚く礼を言ったということです。
その後、田口家では二つ葵の紋とし、今でも使われています。後に家康が権現となったのにちなみ、ここを権現森と言うようになりました。
(現地説明板などより)
権現森と息継ぎの井戸
権現森と息継ぎの井戸 posted by (C)pismo

田口家跡
田口家跡 posted by (C)pismo

山本勘助が一夜の宿を借りた際にこの家の主人に商いをすすめたといわれる若杉家の屋敷跡です。
交通が近代化された今、このあたりの昔の繁栄を知る由もありませんが、室町時代の終わりごろ、秋葉街道と百古里街道が交差していたために人の行き来もあり、ここに山田家という店ができました。この山田家が商いを始める前に、武田方の軍師山本勘助が一夜の宿を借りた折り、この家の主人に商いをすることをすすめたといわれています。その後、土地の産物や米、塩などを一手に扱う店になりました。
さらに、山田家では、三丸山の湧き水を利用して酒を造り「若杉」と名づけてこれを商いました。この酒が有名になり、やがて若杉は山田家の屋号となりました。
幕末から明治にかけて結構繁盛しましたが、この街道が役目を終えた明治30(1897)年頃、当主山田最一郎の代を最後にこの里を離れて行きました。今は茶畑になっていますが、矢場跡、ツキヤ沢、屋敷跡などに昔をしのぶことができます。
(現地説明板などより)
若杉家の屋敷跡
若杉家の屋敷跡 posted by (C)pismo
Posted at 2017/06/16 23:52:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月04日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(2日目その3・牧之原市・御前崎市)

勝間田城は、この地を領有していた勝間田氏の城です。
勝間田氏はこの地方を本拠地とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となった。元弘の乱には河内の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録にみられます。
室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱や永享の乱に活躍し、応仁の乱が起こるや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に文明8(1476)年ついに落城しました。勝間田氏の一族は四散し、一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられています。
応永年間に勝間田定長が築城したとされている勝間田城は、中世の代表的な山城で、牧の原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、東部の尾根には他の城跡には例を見ない鋸状の堀切が見事に残っています。
文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たりませんが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められます。
(現地説明板などより)
勝間田城
勝間田城 posted by (C)pismo

勝間田城 (1)
勝間田城 (1) posted by (C)pismo

勝間田城 (2)
勝間田城 (2) posted by (C)pismo

勝間田城 (3)
勝間田城 (3) posted by (C)pismo

勝間田城 (4)
勝間田城 (4) posted by (C)pismo

勝間田城 (5)
勝間田城 (5) posted by (C)pismo

勝間田城 (6)
勝間田城 (6) posted by (C)pismo

勝間田城 (7)
勝間田城 (7) posted by (C)pismo

井伊家の救世主として語り継がれる新野左馬助親矩の墓・左馬武神社です。
新野親矩は今川氏の一族で、遠江国新野の領主、左馬助と称しました。
永禄(1564)年、今川氏に背いた引馬城主飯尾連竜を攻めた時に戦死しました。
親矩の妹は、井伊直盛の妻となっています。そのため永禄5(1562)年、井伊直親が氏真に謀反の疑いをかけられ殺された時、親矩とその妻が直親の遺児(虎松・万千代、後の徳川四天王の一人井伊直政)をかくまい、養育したことは有名です。井伊家は左馬助の忠義を歴代語り伝え、幕末に新野家を再興しました。後年、井伊家の子孫によって、左馬助の墓と思われる五輪塔がこの場所で発掘されました。
幕末の大老井伊直弼は、家来に親矩の墓を訪ねさせ、また自ら弔祭しようとしましたが、安政7(1860)年の桜田門外の変に倒れ、叶えることができなかったといわれています。
墓石は、左馬助の墓と伝えられる五輪塔で、新野村誌によると「古来、山の中腹に墳墓の地と称するあり。人これに触れれば祟ると。人を雇いてあまねくこれを発掘するに石棺あり。紋所は丸に堅中黒にしてこれぞすなわち新野氏の紋所なり。石棺内に五輪の塔あり。」と伝えられています。
この五輪塔の部材は地輪がなく、空風輪が1つ、水輪が2つしかありません。しかし、火輪が3つあることから元は3基あったと考えられます。向かって左側の五輪塔は、火輪と水輪のセットに別基の空風輪をのせ、地輪を復元してあります。また、石廟の破片が残されていますが、造立年代については不明です。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第11回「さらば愛しき人よ」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (1)
左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (1) posted by (C)pismo

左馬武神社(新野左馬助親矩の墓)
左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) posted by (C)pismo

左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (2)
左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (2) posted by (C)pismo

左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (3)
左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (3) posted by (C)pismo

左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (4)
左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (4) posted by (C)pismo

左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (5)
左馬武神社(新野左馬助親矩の墓) (5) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城〔舟ヶ谷の城山(ふながやのしろやま)〕は、今川一族で新野領主新野左馬助親矩の居城と伝わる山城です。
新野左馬助は、虎松(後の井伊直政)の命の恩人で、井伊家と深いつながりのある武将です。
城はV字形に大きく切られた掘切と横堀を多く持つ点に特色があります。現在は採土によって残っていませんが、本曲輪、二の曲輪は土塁で囲まれ、本曲輪には、南と東に低い土塁を構えた帯曲輪が付いてきていました。現在の遺構は、天正期、高天神城を中心とした武田・徳川両軍の攻防の頃、武田軍により改修されたものと考えられています。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第11回「さらば愛しき人よ」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
舟ヶ谷城
舟ヶ谷城 posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (1)
舟ヶ谷城 (1) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (2)
舟ヶ谷城 (2) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (3)
舟ヶ谷城 (3) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (4)
舟ヶ谷城 (4) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (5)
舟ヶ谷城 (5) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (6)
舟ヶ谷城 (6) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (7)
舟ヶ谷城 (7) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (8)
舟ヶ谷城 (8) posted by (C)pismo

舟ヶ谷城 (9)
舟ヶ谷城 (9) posted by (C)pismo

牧之原市史料館は、相良城本丸の跡地にある牧之原市の歴史等を学べる史料館です。
田沼意次を中心に、相良氏や田沼氏、本多氏といった、牧之原市にゆかりのある人物に関連する史料約150点や、相良油田などの史料約100点などの歴史的な史料が展示されています。相良城落成の祝宴の際に使われた「飯びつ」や「刀だんす」などの展示物からは、「田沼時代」の様子を感じる事が出来ます。
また、「平田寺」が所蔵(非公開)する、国宝「聖武天皇の勅書」のレプリカを見ることが出来ます。
牧之原市史料館
牧之原市史料館 posted by (C)pismo

相良城は、天正3(1575)年諏訪原城を落とされ、牧ノ原台地を経由する高天神城への支援ルートを失った勝頼は、小山城から遠州灘沿いのルートを確保するため天正4(1576)年高坂弾正に命じて相良城を築かせました。
天正10(1582)年武田氏滅亡後、天正14(1586)年相良城は天野三郎兵衛康景によって徳川家康の相良御殿が営まれました。
宝永7年(1710)寺社奉行であった本多忠晴が相良1万5千石を領して陣屋を構え、その後板倉氏、本多氏が藩主となり、明和4(1767)年7月に田沼意次が10代将軍徳川家治から築城の命を受け近代城郭として相良城の築城を開始しました。翌明和5(1768)年、老中にのぼり5万2千石に加封された意次は、相良城の築城に着手し、安永9(1780)年に石垣造りの城を完成させました。
その規模は東西500m、南北450m、約7万坪ありました。
それまであった相良御殿を改修し、萩間川、天の川を外掘として構え、本丸、二の丸、三の丸を巡らしました。
しかし完成したのもつかの間、松平定信の台頭により田沼意次は失脚し、完成から約8年後の天明8(1788)年に相良城の取り壊しが決定し横須賀藩主の西尾隠岐守忠移、浜松藩主の井上河内守正甫、田中藩主の本多伯耆守正温が相良に着き、その検分を行いました。その後、天領となりましたが、文政8(1825)年、陸奥下村から田沼意正が1万石で相良に復帰し、以後3代続いて明治を迎えました。
城跡は牧之原市役所相良支所、相良城史料館が本丸跡に、牧之原市立相良小学校が二の丸跡、静岡県立相良高等学校が三の丸跡にあたります。相良小学校には二の丸の土塁が校門脇に残っています。
相良城 (1)
相良城 (1) posted by (C)pismo

相良城
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相良城 (2)
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Posted at 2017/06/16 23:24:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月04日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(2日目その2・掛川・諏訪原城)

陣場峠は、掛川市杉谷と板沢の頂点境で、もとは青田嶺といわれ、市の中心までは約1㎞の位置で二つの峰からなっています。西を西陣場その西を蛇バミ峠といい東を東陣場といいます。
永禄11(1568)年、徳川家康は武田信玄と大井川を境にして駿河・遠江を分割することを約束し、遠州に進攻しました。同年12月今川氏真は信玄に駿府を追われ、掛川城の家臣朝比奈泰朝に身を寄せました。そこで、当時26歳の家康は6ヶ月にわたってこの城を攻めた。この掛川城攻めの際この山上を陣地としたので陣場峠とよばれるようになりました。ふもとには、取手、矢崎などの地名が残っています。
また、天正2(1574)年、武田勝頼が高天神城を攻めると、城主小笠原長忠は奮戦して浜松城の家康に援軍を求めました。家康は使者に向って、「援軍が必要な時には青田山(陣場峠)に狼煙を揚げよ」と言いました。しばらくして青田山より狼煙が三回ほど揚げられたが援軍は来ず、城兵の食料はなくなり、力がつきてついに武田氏に降参することになりました。
当時、ここを高天神城の信号所として家康は目をつけていたのです。
(現地説明板などより)
陣場峠 (1)
陣場峠 (1) posted by (C)pismo

陣場峠 (2)
陣場峠 (2) posted by (C)pismo

陣場峠 (3)
陣場峠 (3) posted by (C)pismo

陣場峠
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陣場峠 (4)
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陣場峠 (5)
陣場峠 (5) posted by (C)pismo

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の5代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平5(935)年、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興味され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3(940)年2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3(940)年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。
将門と共に供養されているのは相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高です。
また、永禄5(1562)井伊直親が従者19人ととも殺害された場所とも言われています。桶狭間の戦いで、今川氏の当主義元が織田信長に討たれたことにより遠江は混乱状態に陥り井伊家当主の直盛も桶狭間の戦いで討死しました。新たに井伊家の当主となった直親は、遠江を手中にしょうとしていた三河の松平元康(徳川家康)から、今川氏を見限り徳川に付くよう誘いを受けたとされています。直親が家康の誘いに乗ろうとしていると井伊氏の家老小野政次(道好)が今川氏真に伝えたため、氏真は激怒、井伊氏を討伐しようとしました。直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かいましたが、途中の掛川にて今川氏家臣の朝比奈泰朝によって殺害されました。その場所が掛川の十九首とされています。
直親の子直政の長男直勝の子直好は、後に掛川藩主となりました。そしてこの地にあった十九首八幡宮は、池辺神社に遷座したことから井伊家の関与が想定されています。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第12回「おんな城主直虎」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
十九首塚 (1)
十九首塚 (1) posted by (C)pismo

十九首塚
十九首塚 posted by (C)pismo

東光寺は、山号は醫王山、掛川市十九首にある曹洞宗の寺院です。
養老年間に行基菩薩が開基し、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、十九首塚に平将門らの首級を葬った時にここにあった草庵に祀り、「医王山平将寺」を建立しました。
天文年間、永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗し、東光寺と改称しました。慶応3(1867)年玉澗観嶺大和尚が一宇を建立し、法地とし現在に至っています。
東光寺本堂の東側に成田山不動の祠があります。将門に関係のある十九首町において東光寺の鎮守として祀ろうと明治10(1877)年千葉県の成田山新勝寺から勧請して祀り、不動堂を建立しました。大正14(1925)年堂を増築し成田山新勝寺から遠州唯一の遥拝所として認可を得たもので、毎月28日の縁日には大変賑わったといわれています。
(現地説明板などより)
東光寺
東光寺 posted by (C)pismo

池辺神社八幡社(上屋敷八幡宮)は、十九首宇佐八幡宮と称し元は掛川市十九首の地にありました。
井伊谷の領主井伊直親(幼名亀之丞)が今川家に謀反を疑われ、永禄5(1563)年、その釈明に駿府に向かう途中掛川領主朝比奈泰朝に主従19人が謀殺されました。よってこの地に祀り八幡宮を建てたと大池のほとりにあった旧家(現掛川大池こども園)ねんや(禰宜家)鈴木家文書に記されています。
井伊家は彦根本家とは別に直親の曾孫直好から4代にわたって掛川領主を務めています。
元禄4(1692)年直好が城主の時上屋敷の大池に遷座され現在に至っています。
慶応4(1868)年東征大総督有栖川宮熾仁親王は官軍を率いて江戸に向かう途中掛川に宿泊大池の八幡宮を参拝されました。
目と鼻の先に池辺神社が祀られており池に面して二つの神社があることは歴史的な背景を物語るものと思われます。
(現地説明板などより)
池辺神社八幡社(上屋敷八幡宮)
池辺神社八幡社(上屋敷八幡宮) posted by (C)pismo

池辺神社八幡社(上屋敷八幡宮) (1)
池辺神社八幡社(上屋敷八幡宮) (1) posted by (C)pismo

池辺神社八幡社(上屋敷八幡宮) (2)
池辺神社八幡社(上屋敷八幡宮) (2) posted by (C)pismo

諏訪原城は天正元(1573)年、武田勝頼の臣馬場美濃守信春を築城奉行として築かれ、東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害でした。
天正3(1575)年、長篠の戦いで武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗れましたが、家康は遠江から武田氏支配の城への攻勢を強め、諏訪原城にも攻撃をかけました。
城主今福浄閑斎は戦死し、城は落城しました。諏訪原城は武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祭ったことから諏訪原城と呼ばれていましたが、徳川氏はこの城を牧野城と改め、武田氏の攻略を強めました。ちなみにこの城は他にも牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称があるそうです。
遺構は、本丸、二の丸、三の丸、大手郭、帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の八郭からなり、茶畑になっているところもありますが、その規模といい、遺構の保存状態といい、素晴らしい城跡です。
昭和29(1954)年1月30日、城跡の一部が静岡県の史跡に指定され、発掘調査を経て昭和50(1975)年11月25日には国の史跡に指定、平成14年(2002年)12月19日には一部区域が追加指定を受けています。
平成29(2017)年4月6日、続日本100名城(146番)に選定されました。
諏訪原城
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諏訪原城 (1)
諏訪原城 (1) posted by (C)pismo

諏訪原城 (2)
諏訪原城 (2) posted by (C)pismo

諏訪原城 (3)
諏訪原城 (3) posted by (C)pismo

諏訪原城 (4)
諏訪原城 (4) posted by (C)pismo

諏訪原城 (5)
諏訪原城 (5) posted by (C)pismo

諏訪原城 (6)
諏訪原城 (6) posted by (C)pismo

諏訪原城 (7)
諏訪原城 (7) posted by (C)pismo

諏訪原城 (8)
諏訪原城 (8) posted by (C)pismo

諏訪原城 (9)
諏訪原城 (9) posted by (C)pismo

諏訪原城 (10)
諏訪原城 (10) posted by (C)pismo

諏訪原城 (11)
諏訪原城 (11) posted by (C)pismo
Posted at 2017/06/16 00:31:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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