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ピズモのブログ一覧

2017年06月17日 イイね!

近江八幡散歩

近江八幡の水郷は、琵琶湖八景の一つ「春色・安土八幡の水郷」に数えられています。ヨシは春に芽吹きはじめ、夏になると青々と4m近くに成長し、秋が深まるにつれ葉を落とし黄金色に変化、冬にはヨシ原で刈り取り風景が見られます。また芽吹きを良くするため、3月上旬頃に行われる「ヨシ焼き」は水郷の早春の風物詩となっています。
近江八幡は豊臣秀吉が甥の豊臣秀次に命じて、廃城となった安土に変わり近江の国支配の中心地として八幡山城を築かせたことに始まります。秀次は琵琶湖を行き来する全ての船を城の内堀ともいうべき八幡堀に引き入れることで近江国の経済の中心地となり、後の近江商人発祥につながりました。。
水郷めぐりは秀次が宮中の舟遊びに似せて、豊年橋から広がる水郷地帯へと近従と共に船めぐりをしたのが発祥といわれています。

近江八幡水郷めぐり (1)
近江八幡水郷めぐり (1) posted by (C)pismo


近江八幡水郷めぐり (2)
近江八幡水郷めぐり (2) posted by (C)pismo

近江八幡水郷めぐり (3)
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近江八幡水郷めぐり
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近江八幡水郷めぐり (4)
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近江八幡水郷めぐり (5)
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近江八幡水郷めぐり (6)
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近江八幡水郷めぐり (7)
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近江八幡水郷めぐり (8)
近江八幡水郷めぐり (8) posted by (C)pismo

近江八幡水郷めぐり (9)
近江八幡水郷めぐり (9) posted by (C)pismo

近江八幡水郷めぐり (10)
近江八幡水郷めぐり (10) posted by (C)pismo

近江八幡市立八幡小学校は、大正9(1920)年に田中松三郎氏の設計で建てられた校舎です。NHK朝の連続ドラマ「はっさい先生」の収録に使用されました。
近江八幡市立八幡小学校
近江八幡市立八幡小学校 posted by (C)pismo

アメリカ人のウィリアム・メレル・ヴォーリズは、明治38(1905)年にキリスト教の伝道を目的に、現在の八幡商業高校に英語の教師として来日しました。
その後は、建築家として、「建築物の品格は人間の人格と同じく、その外装よりもむしろ内容にある」との考えをもとに、建築活動を展開しました。
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)は、ヴォーリズが大正期に手がけた初期の作品で、アメリカ開拓時代を象徴するコロニアルスタイルと呼ばれる建物です。
以後、東京お茶の水の「山の上ホテル」、「大丸心斎橋店」、「関西学院大学」など、全国に約1600に及ぶ建築を手がけました。そんな彼を内村鑑三は、「ヴォーリズ君は世に希に見る建築術の天才であり、また深く正しく日本を解し、これを愛する米国人の一人であります」と評価しています。
ヴォーリズは、建築の他にも、メンソレータム(現メンターム)を日本に輸入したことでも知られ、伝導・医療・学校教育・出版・社会教育・商業など、多方面に渡って活躍した人物で、近江八幡市民の名誉市民第一号に選ばれています。
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) posted by (C)pismo

池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) (2)
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) (2) posted by (C)pismo

池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) (3)
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) (3) posted by (C)pismo

本願寺八幡別院は、浄土真宗本願寺派の寺院です。
創建は永禄元(1558)年、顕如上人(本願寺第11世)が開基となり開いたのが始まりと伝えられています。
当初は金台寺と称し、蒲生郡蒲生野にありましたが天正8(1580)年に織田信長が安土城の築城に際しその城下に移され、文禄元(1592)年に豊臣秀次が八幡城を築いた際現在地に移されました。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が宿営地として利用し、江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所や休息所にもなりました。
享保元(1716)年に建てられた本堂、明和4(1767)年に建てられた表門、天明2(1782)年に建てられた裏門、文政8(1825)年に建てられた鐘楼が滋賀県指定文化財に指定されています。
本願寺八幡別院 (1)
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本願寺八幡別院
本願寺八幡別院 posted by (C)pismo

近江八幡市立資料館では、「郷土資料館」「歴史民俗資料館」「旧西川家住宅」の3施設を管理・公開しています。また、公益財団法人八幡教育会館の管理する、市指定文化財「旧伴家住宅」もあわせて公開しています。
郷土資料館は、かつて海外で活躍した近江商人・西村太郎右衛門邸跡に昭和49(1974)年3月1日に開設され、旧市街地の中心・新町通りに位置し、八幡商人のふるさととしての歴史を伝えています。
建物は、明治19(1886)年八幡警察署として建設され、昭和28(1953)年大幅に改築され、現在の形になりました。この時改築の設計をヴォーリズ建築事務所が行っています。
館内には、市内の考古・民俗・美術工芸・文書などが常時展示されており、年に数回、特別展も開かれます。
歴史民俗資料館は、森五郎兵衞の控宅で、江戸時代末期の民家を修復し昭和54(1975)年に開館しました。近江八幡の商人が使用した道具類を展示したり、当時の生活ぶりをそのまま再現しています。
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (1)
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (1) posted by (C)pismo

近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館)
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) posted by (C)pismo

近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (2)
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (2) posted by (C)pismo

近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (3)
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (3) posted by (C)pismo

旧伴家住宅は、江戸時代八幡町の中でも一等地であった京街道と新町通の角地に建つ八幡商人の隆盛を物語る建物の一つです。
伴庄右衛門家は江戸時代初期から活躍した八幡商人の一人で、屋号を「扇屋」といい、主に畳表・蚊帳を商い豪商となりました。5代目の伴庄右衛門資芳は隠居後京都で暮し、伴蒿蹊と称して国学の道に進みました。当時のベストセラーとなった「近世畸人伝」でも知られています。
今に残る旧伴家住宅は7代目が文政10(1827)年より天保11(1840)年の10数年をかけて建築したものです。当時としては珍しい三階建ての極めて規模の大きな建物で、地震に耐えうる堅固な建物を目指して建てたとの記録が残っています。
隆盛を誇った伴家でしたが、江戸時代の末期から急速に家運が衰え明治期には商家をたたみ、現在は子孫も途絶えています。
後、明治になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校として利用されました。戦後は近江兄弟社図書館となり、のち近江八幡市立図書館として親しまれていました。平成16(2004)年4月より現在の形で公開しています。なお、管理・公開は公益財団法人八幡教育会館が行っています。
旧伴家住宅
旧伴家住宅 posted by (C)pismo

旧伴家住宅 (1)
旧伴家住宅 (1) posted by (C)pismo

旧伴家住宅 (2)
旧伴家住宅 (2) posted by (C)pismo

森五郎兵衛邸は、新町通にある近江商人の屋敷の一つです。
初代五郎兵衛は、伴傳兵衛家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商いました。やがて、呉服・太物など取り扱い商品を増やし、江戸日本橋や大阪本町にも出店するなど活躍しました。「昭和6年:1931年」村野藤吾設計により東京日本橋室町に地上7階の「近三ビル」(屋号:近江屋の「近」、三左衛門の「三」より命名)を建築し、現在も近三商事として健在です。なお、市立資料館の一部である歴史民俗資料館は森家の控宅で、昭和54(1979)年に市へ寄贈されたものです。
森五郎兵衛邸
森五郎兵衛邸 posted by (C)pismo

現在も歴史的建造物を活用して営業している西川庄六邸です。
2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳・綿・砂糖・扇子などを商いました。
3代目の頃になると、江戸日本橋4丁目にも出店し、薩摩藩島津氏の指定御用商人になるなど本家(西川利右衛門)に次ぐ豪商となりました。
8代目は文人墨客との関わりも深く、一燈園「西田天香」氏らとの交流もありました。
現在も、東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として営業中です。
当建物は江戸中期の建物で間口は13.0m、奥行は14.9mあります。左側には座敷部分が張りだし、他にも「でみず間」「化粧間」「板塀」「表土蔵」などがある大変規模の大きな町家です。
観光シーズンの土日祝には扇子、数珠、押絵のギャラリー&ショツプが営業しています。
西川庄六邸
西川庄六邸 posted by (C)pismo

西川庄六邸 (1)
西川庄六邸 (1) posted by (C)pismo

西川家は屋号を大文字屋と称して蚊帳や畳表を商い、江戸、大坂、京都に店を構えた近江八幡を代表する近江商人の一人です
西川家の家訓は「先義後利栄・好富施其徳」。
人として行うべき正しい道を第一とし、利益追求を後回しにすることが商売繁盛となり、得られた富に見合った人間形成を行えと説いています。
昭和5(1930)年に後継者が無いまま11代目徳浄氏が亡くなり、約300年にわたって活躍した西川家は終焉を迎えました。そして、分家の西川庄六家の厚意により市に土地建物共に寄贈されたものです。
現在資料館として入館できる施設は3代目によって宝永3(1706)年に建てられたものです。
また蔵は天和年間(1681〜1683)に建てられた全国的にも珍しい三階建て土蔵(三階蔵)となっており、当時の西川家の隆盛を偲ばせます。
昭和58(1983)年1月に国の重要文化財に指定され、昭和60(1985)年10月より33ヶ月の工期を経て、市立資料館の一部として開館されています。
旧西川家住宅 (1)
旧西川家住宅 (1) posted by (C)pismo

旧西川家住宅
旧西川家住宅 posted by (C)pismo

旧西川家住宅 (2)
旧西川家住宅 (2) posted by (C)pismo

八幡堀は、八幡城を築いた豊臣秀次が、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港させるため造られました。
近江商人の活躍と近江八幡の繁栄に八幡掘は大きな役割を果たしました。
しかし、昭和になり運河の機能を失った堀は、川底にヘドロが堆積し、悪臭を放つようになったため、埋め立ての計画が持ち上がりました。近江八幡青年会議所の努力で「よみがえる近江八幡の会」が設立され、浚渫工事や石垣の復元が行われました。
堀に沿って、白壁の土蔵や旧家が立ち並び、華やかだった当時の様子が伝わってきます。時代劇のロケなどにもよく使われているそうです。

八幡堀 (1)
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八幡堀 (2)
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八幡堀 (3)
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八幡堀 (4)
八幡堀 (4) posted by (C)pismo

八幡堀
八幡堀 posted by (C)pismo

白雲館は明治10(1877)年に八幡東学校として建築された建物です。
八幡商人や地域住民の人々の熱意と協力により当時6千円の費用をかけて建設されました。
学校として使用された後は、役場、郡役所、信用金庫などを経て、平成6(1994)年に建設当時の姿に復元されました。白雲館の名称は藤原不比等の和歌
「天降の 神の 誕生の 八幡かも 比牟礼の杜に なびく白雲(あまふりのかみのみあれのはちまんかも ひむれのもりになびくしらくも)」から名付けられた説や、鎌倉時代の臨済宗の僧白雲彗暁(はくうんえいぎょう)の徳を偲んだことによるとの説があります。
現在は近江八幡観光物産協会の施設として、観光案内所などに活用されています。白雲館
白雲館 posted by (C)pismo

日牟禮八幡宮は、誉田別尊(応神天皇)、息長足姫尊(神功皇后)、比賣神を祭る神社です。近江商人の信仰を集めている神社として知られています。
成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのがはじまりとされています。その後応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたといわれています。
正暦2(991)年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀り、更に寛弘2(1005)年、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付けました。
天正13(1585)年に豊臣秀次が八幡山城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀しました。
3月の中旬の土日に行われる「左義長まつり」と4月中旬に行われる「八幡まつり」は有名です。「左義長まつり」は、織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行い、自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭で、信長亡き後、豊臣秀次が八幡山城を築き、安土から移住した人々によって城下町が開町された時、町民は日牟禮八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚き、これに対抗して、町開町による新進気鋭の喜びと感謝の意を込め、厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を奉納したと云われています。
日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮 posted by (C)pismo

日牟禮八幡宮 (1)
日牟禮八幡宮 (1) posted by (C)pismo

八幡城〔八幡山城〕は、天正13(1585)年豊臣秀吉の甥で養子の豊臣秀次が近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む標高271.9mの八幡山に築城しました。秀次は琵琶湖から水を引いた八幡堀をめぐらし、安土城から住民を移し城下町の建築にも力を注ぎました。天正18(1590)年、秀次は尾張・伊勢を与えられ、清洲に移ると、京極高次が近江八幡に入りました。高次は大津城を築き、八幡城は廃城となりました。
八幡山ロープーウェイで登ることができます。眺望が素晴らしく、二の丸付近からは近江八幡の城下町や安土城、観音寺城を見ることができ、北の丸付近からは長命寺山や琵琶湖を見ることができます。
八幡山城 (1)
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八幡山城 (1)
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八幡山城 (2)
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八幡山城 (3)
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八幡山城 (4)
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八幡山城
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八幡山城 (5)
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八幡山城 (6)
八幡山城 (6) posted by (C)pismo

旧八幡郵便局は大正10(1921)年に建てられたヴォーリズ建築の建物です。
郵便局として使われなくなった後は、民間の手に移り、長らく空き家として放置されていましたが、平成9(1997)年にまちづくり団体「一粒の会」が保存再生に取り組み、平成16(2004)年に復元されました。
旧八幡郵便局 (1)
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旧八幡郵便局
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アンドリュース記念館は、近江兄弟社の創立者ウイリアム.メレル.ヴォーリズ(日本名 一柳米来留)の大学時代の親友であり、ヴォーリズに導かれてキリスト教信者となり、若くして召天した故ハーバート・アンドリュースを記念して、アンドリュース家から贈られた資金を基にしてヴォーリズ氏が自らの貯蓄金全部を捧げて、自らが設計し、明治39(1906)年9月24日に京都の木曾田梶之助請負師に総工費3,600円で発注し、明治40(1907)年2月10日に建てられたヴォーリズ建築最初の建物です。尚、760㎡(230坪)の土地は、西 幸次郎氏、千貫久次郎氏が提供してくれたものです。会館はアンドリュース氏を記念して、「ハーバート・アンドリュース記念近江八幡基督教青年会館(YMCA)」と称しました。
現在の会館は、昭和10(1935)年6月15日に、最初の建物の位置から12m東側に、移築したものであり、外部デザインは一部変更されているが全体の面積は同じです。同会館に存する記念室は、祈りの部屋と呼ばれ、設立当時にヴォーリズが、過ごした一続きの書斎と小部屋は当時のままを保存しており、この部屋で捧げられた創立者たちの熱い祈りから近江兄弟社は生まれました。この部屋は以前2階にありましたが、同じ方角の1階に移されています。この会館は、近江兄弟社が創設された原点の記念すべき建物ですが、本来学生基督教青年会館として建てられたもので、永年この会館を中心にこの地方の基督教青年会運動が進められ、社会の先駆的役割も果たしてきました。
昭和62(1987)年にYMCA会館としての使命が終わり、会館が使用されなくなり20年が経ち、相当傷んでいましたが、平成19(2007)年2月10日に会館竣工100周年を迎えるところから、「近江兄弟社創立100周年記念事業」として、(株)近江兄弟社の寄付などにより、会館の保存再生を図りました。
今後、会館は、高齢者・障害者等の介護予防拠点や、キリスト教の伝道その他地域活動支援施設として、近江兄弟社創立者W.M.ヴォーリズ(一柳米来留)の創立の精神を継承しつつ、キリストを模範とした社会奉仕活動に使用する予定です。
(現地説明板などより)
アンドリュース記念館
アンドリュース記念館 posted by (C)pismo

旧近江兄弟社地塩寮は、昭和15(1940)年6月に近江兄弟社の独身青年社員宿舎としてヴォーリズ氏により建てられました。寮の名は「あなたがたは地の塩である」という聖書の言葉に由来します。1階は社員の語らいの場であったロビーと5つの個室、2階も同様の個室を有します。住む人の健康な生活を願い、各室は南側の庭に面し、太陽の光を十分に取り入れるなどの工夫がなされています。
昭和59(1984)年、近江兄弟社と関係の深い近江八幡教会が取得し、翌年改築されました。現在、1階は教会の集会や会議に使われ、2階は牧師家族の住居として用いられています。外観は現在も建築当時のままの姿を残しています。
旧近江兄弟社 地塩寮
旧近江兄弟社 地塩寮 posted by (C)pismo
Posted at 2017/07/11 23:38:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年06月03日 イイね!

水口・日野ドライブ

昨年は5月21日におとずれた大池寺。まだ小堀遠州の蓬莱庭園にサツキが咲いていなかったので今年は少し時期を遅らせて訪れました。
昨年よりは咲いていて、いい感じ。
昨年の様子→ 甲賀・日野
大池寺 (2)
大池寺 (2) posted by (C)pismo

大池寺 (1)
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大池寺
大池寺 posted by (C)pismo

大池寺 (3)
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大池寺 (4)
大池寺 (4) posted by (C)pismo

大池寺 (5)
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大池寺 (6)
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大池寺 (7)
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大池寺 (8)
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水口岡山城は天正13(1585)年に、豊臣秀吉の家臣、中村一氏が大岡山(古城山)に築いた山城跡です。元々はこの城を「水口城」と呼んでいました。徳川将軍家の上洛の際の御殿として築かれ、加藤氏の居城となった江戸期の水口城と区別するため「水口岡山城」「岡山城」「水口古城」などと呼ばれています。
城は、豊臣政権の地域支配の拠点として、東海道を見下ろす要衝の地に築城され、水口城と呼ばれていました。中村一氏の後は、五奉行の増田長盛、長束正家が居城しました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦の後、当時の城主、長束正家は西軍に味方したため廃城となり、その後は、徳川政権による直轄支配が始まりました。寛永11(1634)年、将軍家の宿館として新たに築かれた水口城には、この城の石垣が転用されたとされています。
麓から100m高い山頂には、江戸時代の絵図に「天守」と記された広い平坦地である曲輪や櫓台、堀切が連続して配置され、山腹には竪堀や帯曲輪、虎口(出入り口)などの遺構が今も地形に良く残っています。北側斜面の一部に残る石垣は、安土城跡と並ぶ貴重な高石垣で、城の勇壮さを伝えています。また、出土瓦には高島市の大溝城と同じ文様の軒瓦があり、築城時に大溝城から建築部材が搬入されたことを示しています。
建築時期や歴代城主が明らかなこの城跡は、滋賀県における代表例であり、築城から廃城までの15年の盛衰は、盛んに城が築かれた甲賀の戦国時代の終わりと、徳川政権による新たな時代の幕開けを如実に示しています。市内に数ある城跡の中、甲賀の歴史が大きく転換した様相を最もよく伝えているのが水口岡山城跡です。
平成29(2017)年2月9日に、城跡は「水口岡山城跡」として国の史跡に指定されました。

登城ルートが整備され、小学生がたくさん登っていました。
前週の5月28日には「よみがえれ水口岡山城2017」というイベントも開催されていたとか。 
水口岡山城
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水口岡山城 (1)
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水口岡山城 (2)
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水口岡山城 (3)
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水口岡山城 (4)
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水口岡山城 (5)
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水口岡山城 (6)
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水口岡山城 (7)
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水口岡山城 (8)
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水口岡山城 (9)
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水口岡山城 (10)
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雲仰寺は、別名さつき寺という日野町の蒲生氏の本城だった音羽城の近くの寺院です。きれいなサツキが満開でした。
雲迎寺 (1)
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雲迎寺 (2)
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雲迎寺
雲迎寺 posted by (C)pismo

雲迎寺 (3)
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雲迎寺 (4)
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雲迎寺 (5)
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雲迎寺 (6)
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雲迎寺 (7)
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雲迎寺 (8)
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雲迎寺 (9)
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雲迎寺 (10)
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滋賀農業公園ブルーメの丘は平成9(1997)年4月19日に開園した大自然の中に作られた自然とともに生きるドイツ風の農業公園です
芝滑り、アーチェリー、変形自転車、パターゴルフ、ゴーカートなどの遊具や、乗馬体験、アルパカ、ウサギなどの動物とのふれあいや、メロンパンやソーセージづくりなどの体験もできます。

ちょうど200種1200株のバラが見頃を迎えていました。
滋賀農業公園ブルーメの丘 (2)
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滋賀農業公園ブルーメの丘 (3)
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滋賀農業公園ブルーメの丘 (4)
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滋賀農業公園ブルーメの丘 (5)
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滋賀農業公園ブルーメの丘 (6)
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滋賀農業公園ブルーメの丘 (7)
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滋賀農業公園ブルーメの丘 (8)
滋賀農業公園ブルーメの丘 (8) posted by (C)pismo
Posted at 2017/06/27 22:12:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月20日 イイね!

大覚寺・桂離宮・京都国立博物館「海北友松」

大覚寺は、嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院で嵯峨御所ともいわれています。後宇多法皇が院政を行い、法皇の系統が大覚寺統と呼ばれ、南朝のルーツになりました。
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したといわれ、時代劇のロケなどにも使われています。
大覚寺 (1)
大覚寺 (1) posted by (C)pismo

大覚寺 (2)
大覚寺 (2) posted by (C)pismo

大覚寺
大覚寺 posted by (C)pismo

大覚寺 (3)
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大覚寺 (4)
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大覚寺 (5)
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大覚寺 (6)
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大覚寺 (7)
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大覚寺 (8)
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大覚寺 (9)
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大覚寺 (10)
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大覚寺 (11)
大覚寺 (11) posted by (C)pismo

今年2回目の桂離宮一般参観に参加しました。
→今年1回目 桂離宮・中村軒

昨年からも当日参観が早い者勝ちでOKとのことで、10時頃から並んで11時に参観券?をゲット。
お目当ては、前回見ることができなかった松琴亭です。襖には青と白の和紙が市松模様に貼り合わされ,斬新な意匠で一度見てみたかったのです。3月に訪れた時は修復工事中ということで見ることができませんでしたが、今回ようやく念願が叶いました!
桂離宮 (1)
桂離宮 (1) posted by (C)pismo

桂離宮 (2)
桂離宮 (2) posted by (C)pismo

桂離宮
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桂離宮 (3)
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桂離宮 (4)
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桂離宮 (5)
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桂離宮 (6)
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桂離宮 (7)
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桂離宮 (8)
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桂離宮 (9)
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桂離宮 (10)
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桂離宮 (11)
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桂離宮 (12)
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桂離宮 (13)
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桂離宮 (14)
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桂離宮 (15)
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桂離宮 (16)
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桂離宮 (17)
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桂離宮 (18)
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桂離宮 (19)
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この絵師、ただ者ではない」海北友松展。5月21日までということで5月20日に駆け込みで訪れました。確かにただものではなかった・・・歳と共に画風が変わってきたり、浅井氏、斎藤利三や春日局とのつながりも興味深い。夜の京都国立博物館もなかなか雰囲気があります。
京都国立博物館
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京都国立博物館 (1)
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京都国立博物館 (2)
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京都国立博物館 (3)
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京都国立博物館 (4)
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京都国立博物館 (5)
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京都国立博物館 (6)
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Posted at 2017/06/21 23:33:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月13日 イイね!

丹波・但馬の藤など

兵庫県ではレッドデータブックBランクに指定されているクリンソウの群生地・妙高山のクリンソウ群生地です。クリンソウはサクラソウ科、サクラソウ属の多年草で丹波市での自生は珍しく、兵庫県ではレッドデータブックBランクに指定されている絶滅を危惧されている貴重な植物です。花の見頃は5〜6月で、大きな根性葉から高さ30cm〜50cmほどの花茎をだしピンク色のかわいい花を車輪状に数段つけます。兵庫県道541号神池寺線沿いの丹波市市島町多利地区の妙高山のふもとで平成22(2010)年に発見されました。
花の見頃は5月中旬から6月始めで、地元の住人や自然研究家、植物愛好家の「妙高山のクリンソウを守る会」によって遊歩道整備や花の見守りが行われています。
(現地説明板などより)
妙高山のクリンソウ (2)
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妙高山のクリンソウ (3)
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妙高山のクリンソウ (4)
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妙高山のクリンソウ (5)
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妙高山のクリンソウ (6)
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白毫寺
→平成25年 白毫寺の九尺藤
白毫寺 (1)
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白毫寺
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白毫寺 (2)
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白毫寺 (3)
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白毫寺 (4)
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白毫寺 (5)
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白毫寺 (6)
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白毫寺 (7)
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白毫寺 (8)
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白毫寺 (9)
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白毫寺 (10)
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丹波市氷上町にある一の宮神社は上成松四方の京尾山の麓に鎮座しています。
参道を登ると正面には本殿、真向かいに舞堂があります。
「境内に鐘楼あり、建築も又甚だ優雅である」と記されているように本殿周りの彫刻は、実に美しく質素の中に豪華さが漂っています。
境内を埋め尽くすキリシマツツジは、樹齢300年とも言われ、紅色の花が見頃を迎える4月下旬から5月上旬頃には、境内が真っ赤に染まります。
(現地説明板などより)
一の宮神社 (2)
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一の宮神社 (3)
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一の宮神社 (4)
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竹田城
→平成23年 雲海の竹田城とその城下町

竹田城 (1)
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竹田城
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竹田城 (2)
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竹田城 (3)
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竹田城 (4)
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竹田城 (5)
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竹田城 (6)
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竹田城 (7)
竹田城 (7) posted by (C)pismo

竹田城 (8)
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竹田城 (9)
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白井大町藤公園は、山陰随一の規模を誇る藤の公園で、平成11(1999)年に開園しました。
約7,000平方メートルの敷地に総延長500mの藤棚があり、5月上旬から中旬にかけて全国の珍しい藤の花が咲き乱れ、幽玄な空間を創りだしています。
(現地説明板などより)
白井大町藤公園 (2)
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白井大町藤公園 (3)
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白井大町藤公園 (4)
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白井大町藤公園 (5)
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白井大町藤公園 (6)
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白井大町藤公園 (7)
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白井大町藤公園 (8)
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白井大町藤公園 (9)
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白井大町藤公園 (10)
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白井大町藤公園 (11)
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Posted at 2017/06/20 22:44:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月04日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(2日目その4・森町)

蓮華寺は、山号は八形山、天台宗の寺院です。
当山は慶雲元(704)年文武天皇の勅願により行基菩薩が開創しました。
飛鳥時代から建立された法相宗の東海の本山として千三百年の歴史と多くの傑出した高僧を生み出し、武将の尊敬を受けて遠州文化の発祥の地となり、現住職は第139世です。
平安時代の天長8(831)年第代住職円仁慈覚大師は、天台宗に改宗し一山三十六坊を建立し七堂伽藍の整備を行い比叡山延暦寺第三世座主となりました。
嘉応元(1169)年に比叡山の高僧皇円阿闍梨を招来して山頂奥の院に正覚院を建立し、衆生済度の大願をたて三七晝夜の念仏三昧の修業をなし大竜神を感じ遠州桜ケ池に入定したと伝えられています。以来上人三十三回忌までは春秋彼岸に赤飯供養と念仏三昧が禅勝上人によって盛んに行われ十七夜などの字名が残されています。また森町はかつて鍛冶や鋳物業が栄えた町ですが、蓮華寺は周辺の鋳物師らを取りまとめていました。今川氏はこの寺を通じて、鋳物師に特権を与え職人らを厚遇したといいます。
室町時代の元亀3(1572)年、武田軍の兵火により三十六坊が焼失しましたが、時の天皇正親町天皇の勅命により徳川家康が五十五石の寺領を寄進して再興しました。
江戸時代の寛政12(1800)年6月2日、千体仏の発願をたて全国遊行僧の木喰上人が訪れ一晩で子安地蔵尊を彫刻安置しました。木喰上人83歳の傑作にして全国的にも有名です。
また、蓮華寺は萩が自生し萩寺としても有名です。花の開花は5月から9月頃まで赤、白色の花が咲き乱れます。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第17回「消された種子島」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
蓮華寺 (1)
蓮華寺 (1) posted by (C)pismo

蓮華寺 (2)
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蓮華寺 (3)
蓮華寺 (3) posted by (C)pismo

蓮華寺
蓮華寺 posted by (C)pismo

蓮華寺 (4)
蓮華寺 (4) posted by (C)pismo

蓮華寺 (5)
蓮華寺 (5) posted by (C)pismo

蔵雲院は、山号は松厳山、曹洞宗の寺院です。
正保4(1647)年の「蔵雲院門前屋敷諸役免許に関する書状」によると、天方郷18代の地頭山内山城守が、崇信寺5代の助吟和尚を請じて山居に開山したと伝えられます。
山門を潜って階段を登ると、正面に本堂が建ち、本堂の背面に位牌と開山堂が続き、本堂の東に庫裏が繋がっています。
棟札によると、現在の本堂は延享5(1748)年に上梁を迎え、それから3年後の寛延4年には花島善兵衛によって須弥檀前の前机が奉納されており、このころには内部の造作も完了していたと考えられます。
西側には、天方氏の墓と伝えられる五輪塔印塔が苔むしています。天方氏三代の墓がありますが、誰のものかはっきりしていません。
(現地説明板などより)
蔵雲院
蔵雲院 posted by (C)pismo

天正3(1574)年の夏、徳川家康は、武田方の天野氏の居城、犬居城を攻めましたが、天候に災いされて、止むなく軍を撤収することになりました。徳川方は、この信州街道を撤退する途中に天野軍の厳しい反撃にあい、山岳戦に不慣れな徳川方は思わぬ惨敗を喫して、多くの武将を山で失い、川で血を流しました。
その時、この附近の小高い山に三葉菱の旗を立てて退散しました。後に徳川の天下になると
この山を天下山と言うようになり、家康の内府、右府と出世したことにちなみ、土地の名も川の名も大府川と言うようになったと言われています。
また、その時の戦で傷を負った徳川方の武士が落ちて来て、この土地の嫁であったおこよに助けを求めました。おこよは山道を案内して武士たちを無事に逃してやった。帰路を急ぐおこよは、不運にも追撃して来た天野方の兵に見つかり、厳しい追求を受けました。
既に身ごもっていたおこよは、折檻にも似た追求に耐えられず、あえなく命を絶ってしまいました。
土地の人々は、このおこよの死を悼み、そこを嫁田と呼ぶようになりました。さらに非業の死をとげたおこよの霊をなぐさめるため、嫁田の中ほどに弁天様をまつって供養をしたということです。
弁天様の傍の松を、人々は、おこよの松と言い、今も生き続ける松は、戦国の秘話を今に伝えています。
(現地説明板などより)
嫁田
嫁田 posted by (C)pismo

鵜殿藤五郎光成戦没之地・鵜殿渕です。
天正2(1574)年4月、徳川家康は兵2千を率い、犬居城を指して信州街道を北上しました。一の瀬より大久保、田能を経て、気田川のほとり、犬居の瑞雲寺に本陣を張りました。たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激しい雨は2日2夜降り続いた。気田川は増水して各所で氾濫しました。
徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、信州街道を一の瀬さして撤退することになりました。
一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、一旦は気田に退いていましたが、徳川軍の動きをいち早く察知するや反撃に転じ、猟師姿の兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍におそいかかりました。
徳川軍の武将は善戦しましたが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けました。ついにこの一の瀬で徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死を遂げました。時に天正2(1574)年4月6日であったと「三河物語」は伝えています。
(現地説明板などより)
鵜殿渕 (1)
鵜殿渕 (1) posted by (C)pismo

鵜殿渕 (2)
鵜殿渕 (2) posted by (C)pismo

鵜殿渕
鵜殿渕 posted by (C)pismo

七人塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将達の眠る供養の塚です。天正2(1574)年4月徳川家康は、自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました。折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻どころか、ついには兵糧がつき一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。一方この状況をいち速く察知した天野軍は、直ぐ様反撃に転じ、田能・大久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川軍に、地の利を生かして襲いかかったのです。徳川軍は深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。応戦しようものなら雲を霞と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
徳川軍は一の瀬まで退く間に、多くの武将や兵士が討死したり負傷したりしました。古い資料によると、討死した武将は、鵜殿藤五郎、堀平八郎、堀小太郎、小原金内、大久保勘七郎、玉井善太郎等20余人と記されています。
土地の人々はこの将兵たちの亡骸を葬り、「七人塚」とよんで香華を手向け、盆には僧侶を招いて読経をするなど、四百年もの間、手厚く供養をしてきました。
夏の日、塚の前にたたずむと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の心ばえを思い、昔日の姿が目の前に彷彿として感慨一入であります。
(現地説明板などより)
七人塚
七人塚 posted by (C)pismo

この地域一帯は、浜松城の徳川軍と犬居城の天野軍(武田軍)の戦った古戦場です。戦いを優勢に展開した天野軍がこの付近で勝どきをあげたのでここを「万歳坂」と呼ぶようになったと言われています。
近年まで、武士が着用した鎧などの金銀を含んだ「銀石」という石が出ると伝えられ、子供達はその石探しに興じたものです。むかし、秋葉街道が賑わったころは、この付近に法度、掟書や罪人の罪状を記した立札の立てられる高札場があったといわれています。村の子供達は、秋葉山に参る「秋葉道者」のあとを追いながら、「道者道者一文おくれ。くれる道者は米道者。くれぬ道者は糠道者」とはやして、この万歳坂を上り花立の茶屋まで後を追ったそうです。
(現地説明板などより)
万歳坂
万歳坂 posted by (C)pismo

中野のここ半明(昔は家康にちなみ半命)に、昔から長く続いた田口家という旧家がありました。この田口家の家紋は、徳川家の三つ葉葵ならぬ「二つ葵」という珍しい家紋です。この二つ葵が田口家の家紋となった経緯はm実は戦国の時代の徳川家康とのかかわりに端を発すると伝えられています。
田口家に伝わる話では、元亀3(1572)年の暮、三方原の戦いで家康は武田勢に惨敗したのです。その時追われて、この半明まで逃げて来て、田口家の裏山の森の玉の木(和名・タブノキ)の空洞に身を隠し、武田方の探索を逃れたということです。
しかし、家康がこの地を敗走したのは、むしろ天正2(1574)年の犬居城攻めではなかったと、田口家の人々も、この点に疑問を抱いております。むしろその方が信憑性があるように感じられます。
います。
徳川家康が、犬居城攻めをあきらめて引き揚げたのは、天正2(1574)年4月のことでした。撤退する途中、あの猿皮空穂(猿皮靫:矢を入れる道具)を背負った天野軍の待ち伏せに遭い、田能、大久保で思わぬ大敗を喫しました。
家康は敵の追撃を逃れて、この椎の大木が繁る森にかくれました。その森の中の湧き水で傷を洗い、口をすすぎ、やっと一息つくことができたと言われています。
その時助けられて立ち去る時に家康は、「余が天下に号令するようになった時は、遠慮なく申し出よ。今日の事は生涯忘れぬ。その証として家紋は二つ葵とするがよい。」と厚く礼を言ったということです。
その後、田口家では二つ葵の紋とし、今でも使われています。後に家康が権現となったのにちなみ、ここを権現森と言うようになりました。
(現地説明板などより)
権現森と息継ぎの井戸
権現森と息継ぎの井戸 posted by (C)pismo

田口家跡
田口家跡 posted by (C)pismo

山本勘助が一夜の宿を借りた際にこの家の主人に商いをすすめたといわれる若杉家の屋敷跡です。
交通が近代化された今、このあたりの昔の繁栄を知る由もありませんが、室町時代の終わりごろ、秋葉街道と百古里街道が交差していたために人の行き来もあり、ここに山田家という店ができました。この山田家が商いを始める前に、武田方の軍師山本勘助が一夜の宿を借りた折り、この家の主人に商いをすることをすすめたといわれています。その後、土地の産物や米、塩などを一手に扱う店になりました。
さらに、山田家では、三丸山の湧き水を利用して酒を造り「若杉」と名づけてこれを商いました。この酒が有名になり、やがて若杉は山田家の屋号となりました。
幕末から明治にかけて結構繁盛しましたが、この街道が役目を終えた明治30(1897)年頃、当主山田最一郎の代を最後にこの里を離れて行きました。今は茶畑になっていますが、矢場跡、ツキヤ沢、屋敷跡などに昔をしのぶことができます。
(現地説明板などより)
若杉家の屋敷跡
若杉家の屋敷跡 posted by (C)pismo
Posted at 2017/06/16 23:52:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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