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2010年10月10日

西美濃史跡めぐり(その2・大垣市・神戸町・池田町)

次は大垣市です。
美濃国分寺は美濃国府や不破関に近い、青野原の景勝地に建立されました。
背後に青野山を控え、南は東山道に面して建立された国分寺は、わずかに塔跡を残すのみで埋もれていましたが、昭和43(1968)年度からの継続的な発掘調査によって、伽藍の全容が次第に明らかとなりました。
伽藍の範囲は、東西231m・南北250m以上で、周囲を築地大垣をめぐらせていました。
仁和3(887)年、火災によって全てが焼失し、一時、席田郡(むしろだぐん)の定額尼寺にその機能を移しましたが、その後、この地に再建されたようです。
しかし、12世紀末頃までには国分寺としての機能を失い、山麓に所在する現在の美濃国分寺は、元和元(1615)年に再建されたものです。
大正10(1921)年、美濃国分寺跡(塔跡と金堂周辺)は国指定史跡になりました。
昭和46(1971)年には伽藍域の大部分と瓦窯跡が追加指定され、昭和49(1974)年度からは発掘調査により伽藍状況を明らかにするとともに発見された建物基壇を中心にその構造をできるだけ地上に復元して史跡整備を行いました。
平成19(2007)年には都市公園法にもとづく歴史公園に指定されました。
ちなみに美濃国分尼寺跡は、西南西約1kmの垂井町平尾にありました。
美濃国分寺跡 - 01
美濃国分寺跡 - 01 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 02
美濃国分寺跡 - 02 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 03
美濃国分寺跡 - 03 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 04
美濃国分寺跡 - 04 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 05
美濃国分寺跡 - 05 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 06
美濃国分寺跡 - 06 posted by (C)pismo

美濃国分寺跡 - 07
美濃国分寺跡 - 07 posted by (C)pismo

大垣市歴史民俗資料館は、史跡美濃国分寺跡環境整備事業により発掘された出土品と判明した国分寺跡の全貌を公開し、また大垣地方の考古資料、民俗資料を紹介している資料館です。
大垣市歴史民俗資料館
大垣市歴史民俗資料館 posted by (C)pismo

一旦神戸町に入ります。
西保北方城(にしのほきたかたじょう)は、築城時期は不明ですが、不破道広が築城したといわれています。
孫の不破光治は土岐頼芸に仕えていましたが、土岐氏没落後斎藤氏に仕えました。
その後、織田信長に従い、柴田勝家の与力として前田利家・佐々成政とともに越前に領地を与えられ龍門寺城(現在の越前市)に移りました。
西保北方城は次男の彦三郎が継ぎますが、本能寺の変で信忠と共に討死したため城には妹婿の稲葉方通(一鉄の子)が入りました。方通も加茂郡和知に移ったため、天正18(1590)年から木村宗左衛門重広が城主となりました。
重広は関ヶ原の戦いで西軍に属し、子の伝蔵と共に大垣城で戦死したため西保北方城は廃城となりました。
西保地区公民館、西宮神社から東側にある竹藪が城跡です。
竹藪の街区の東側道路脇に石碑があります。
西保北方城 - 1
西保北方城 - 1 posted by (C)pismo


再び大垣市です。
曽根城の創築年代は不明ですが、西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉一鉄が、永禄10年(1567)織田信長に仕え、五万石を領しました。
その後、この城は一鉄の子、貞通と孫の典通を経て、天正16(1588)年から西尾光教が在城しました。
光教は関ヶ原合戦(1600)に西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功をたて戦後揖斐城に移り、曽根城は廃城になりました。
享保19(1734)年、一鉄の母の菩提寺である華渓寺が本丸跡に移転しました。
華渓寺の北側の壁付近は発掘調査の結果、石塁や土塁が発見されていますが、保存のため埋め戻されています。華渓寺の北側一帯は曽根城公園として整備され、花しょうぶの名所として知られています。
曽根城 - 01
曽根城 - 01 posted by (C)pismo

曽根城 - 02
曽根城 - 02 posted by (C)pismo

曽根城 - 03
曽根城 - 03 posted by (C)pismo

曽根城 - 04
曽根城 - 04 posted by (C)pismo

曽根城 - 05
曽根城 - 05 posted by (C)pismo

曽根城 - 06
曽根城 - 06 posted by (C)pismo

曽根城 - 07
曽根城 - 07 posted by (C)pismo

曽根城 - 08
曽根城 - 08 posted by (C)pismo

曽根城公園の西側に斎藤内蔵助利三屋敷跡の石碑が建っています。
春日局の父、斎藤利三が、城主稲葉一鉄の重臣として住んだところです。
春日局は稲葉一鉄の姪、お安と斎藤利三との間に生まれた子であり、のちに一鉄の子、重通の養女となって稲葉正成に嫁しました。
<曽根城・斎藤利三屋敷跡 - 09
曽根城・斎藤利三屋敷跡 - 09 posted by (C)pismo

池田町です。
本郷城の築城時期は不明です。
平安時代の永和年間(834~847)に城郭が築かれ池田宮内小輔維実が在城していたとも、元中4年・嘉慶元(1387)年、土岐康行の小島城が落城し、足利幕府より美濃守護職に任命された土岐頼忠が築いたともいわれています。頼忠の子土岐頼益は、後に萱津(愛知間甚目寺町)に移りました。
土岐氏の後はこの地の豪族、国枝為助がこの城を修築して居城しました。為助は明応4(1495)年船田合戦で兄弟5人と共に討死しましたが、国枝氏はその子正助から宗竜-重光-重元とこの城を居城としました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの時は国枝重元の弟修理亮政盛の時代、織田秀信に仕え西軍に属したため東軍により本郷城は城下と龍徳寺等と共に焼き払われ、城は廃城となりました。
なお、稲葉一鉄は稲葉通則を父に、本郷城主国枝正助の娘を母として、 この城で生まれたそうです。
本郷城 - 01
本郷城 - 01 posted by (C)pismo

本郷城 - 02
本郷城 - 02 posted by (C)pismo

本郷城 - 03
本郷城 - 03 posted by (C)pismo

本郷城 - 04
本郷城 - 04 posted by (C)pismo

本郷城 - 05
本郷城 - 05 posted by (C)pismo

龍徳寺は、山号を雲門山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
弘仁年中(810〜24)、伝教大師創建の天台宗龍升山雲門寺が元寺です。
朝廷の祈願寺でしたが、地方の争乱を受けて衰退していました。
観応2(1351)年、池田庄出身で北面の武士だった池田蔵人教依は勅を奉じてこの地に下向し、地域の発展に尽くしました。その際、この寺を先祖の香華所と定め、寺領を寄付して再興の開基となりました。
その後、世襲して池田恒利の代になった際、兵火により焼失しました。
文明年間(1469〜87)、壇越の本郷城主国枝大和守為助が再興し、天台宗から禅宗に改宗し、寺名を雲門山龍徳寺と改めました。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの際には、東軍の先鋒池田輝政と、福島正則は禁制を出して守護しましたが、本郷城主国枝政森は西軍に味方したため、本郷城と共に焼き払われてしまいました。
その後、徳川家康から寺領が寄進され、大垣城主戸田氏信も経済的な支援を行い再建されました。
江戸時代には岡山藩池田氏、鳥取藩池田氏、臼杵藩稲葉氏の先祖菩提所を擁することから手厚い保護を受けました。
龍徳寺 - 1
龍徳寺 - 1 posted by (C)pismo

池田恒興・元助の墓です。
池田恒興は織田信長と乳兄弟で、信長に仕えました。本能寺の変で信長が明智光秀に殺された後、豊臣秀吉に味方して山崎の戦いで光秀と戦い戦功をたてました。
その後勝入斎となり大垣城主となり、子の元助が岐阜城主の頃、恒興父子は秀吉に誘われ、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦うことになります。しかし、天正12(1584)年4月9日尾張の長久手で父子共に戦死を遂げました。
法名は信輝、前紀州城守雄岳宗英禅定門、元助、前紀州顕功英節禅定門、父子の墓は大垣市林町にあったといわれますが、徳川氏の忌むところとなり、出身地である当町に移されました。
祖先の池田蔵人教依が開基したと云われる龍徳寺の西に位置しています。この墓所には長久手の戦いで共に戦死した家臣片桐興三郎、古田甚内の墓、そして梶原兵七郎他二十三人を供養した烈忠塔などがあります。
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 1
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 1 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 2
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 2 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 3
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 3 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 4
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 4 posted by (C)pismo

池田恒興(信輝)・元助の墓 - 5
池田恒興(信輝)・元助の墓 - 5 posted by (C)pismo

稲葉一族・池田恒利の墓〔養源院跡〕です。稲葉氏は道貞(塩塵)以来西濃一帯に勢力を張った一族で、道貞は池田町小寺に小寺城を築き、子の通則の代もこの城に住みました。
大永5(1525)年、浅井・朝倉連合軍が美濃に侵攻した際には、通則は土岐頼芸の指揮の下、一鉄を除く5人の息子と共に出陣、牧田(現上石津町)でことごとく討死しました。
6男の一鉄は岐阜市長良の崇福寺に入っていましたが、これを機に還俗して稲葉家を継ぐことになりました。
一鉄は父の遺領を継いで曽根城(現大垣市)を居城賭し、後に氏家卜全、安藤守就と共に美濃三人衆と呼ばれました。
稲葉一族の墓所がある場所は、一鉄が牧田合戦で戦死した父兄6人と先祖の供養のため建立した養源院の跡地一画であると伝えられています。
墓所には稲葉家の祖塩塵、通則、その子通勝・通房、稲葉則弘らが奉られています。
他に母が一鉄の娘である国枝重元、稲葉通勝の妻(国枝宗竜の娘?)など稲葉家に関係する人物や、池田恒興の父恒利の墓、国枝重次(宗竜の兄弟)も厚く奉られています。
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 1
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 1 posted by (C)pismo

稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 2
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 2 posted by (C)pismo

稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 3
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 3 posted by (C)pismo

稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 4
稲葉一族・池田恒利の墓(養源院跡) - 4 posted by (C)pismo

禅蔵寺は、山号は仏巌山、正平16/康安元(1361)年に建立された臨済宗妙心寺派の寺院です。
美濃守護の土岐頼忠によって建立されました。
頼忠は土岐康行の乱の後、美濃土岐氏の当主となり美濃国守護となりました。その後、応永4年(1397年)に亡くなりました。
禅蔵寺の麓に頼忠の墓や息子で6代目美濃国守護である頼益や頼忠の母など一族の墓があります。
土岐頼忠及び一族の墓として、岐阜県指定史跡となっています。
墓は入口が閉ざされていて、お参りすることができませんでした。
禅蔵寺 - 1
禅蔵寺 - 1 posted by (C)pismo

禅蔵寺 - 2
禅蔵寺 - 2 posted by (C)pismo

この後は、揖斐川町へ向かいます。
ブログ一覧 | 日記
Posted at 2010/10/30 21:21:13

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