島原城は、元和2(1616)年に日野江城に入封した松倉重政が、元和4(1618)年に森岳といわれたこの地に築城を開始し、4~7年の歳月を経て完成しました。同時に島原城下町も整備したといいます。
破風を持たない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸に北へ二の丸と三の丸を配して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取囲みました。
4万石の大名には過分な城です。
この島原城築城時の苛酷な夫役と重税と厳しいキリシタン弾圧の結果、重政の子勝家の時、寛永14(1637)年に島原の乱が起きました。この乱後、責任を追及され勝家は打ち首となり松倉家は断絶となりました。
松倉氏改易後、遠江浜松より高力忠房が4万石で入封しました。寛文9(1669)年、2代高長は暴政を行ったとの事で改易となり、丹波福知山から松平忠房(深溝松平氏)が6万5千9百石で入封しました。松平氏は5代続いた後、下野宇都宮に転封となり、入れ替わって戸田氏が入り2代続いたが、安永3(1774)年には再度戸田・松平氏が入れ替わり、以後松平氏が8代続いて明治を迎えました。
寛延2(1792)年「島原大変肥後迷惑」といわれた「寛政の大地変」では、普賢岳の噴火、眉山の大崩壊で島原城下町は土石で覆われ、周辺の村々は津波に流されるなど島原藩では大変な被害を受けました。
明治7(1874)年、廃城になり、建物は払下げ・解体されました。
昭和35(1960)年、西櫓が復元、昭和39(1964)年、天守が復元されました。天守はキリシタン資料、藩政時代の資料を展示している資料館となっています。
昭和47(1972)年には巽櫓が復元され、昭和55(1980)年には丑寅櫓、長塀が復元されました。巽櫓は西望記念館になっています。
平成8(1996)年、城内には雲仙・普賢岳観光復興記念館が開館し、平成18(2006)年には日本100名城に選定されています。
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島原城の巽櫓は
西望記念館になっています。
わが国の彫塑界の巨匠で、文化勲章を受賞された郷土出身の北村西望氏の米寿を祝し昭和47(1972)年に開館しました。
北村氏の代表作を展示しています。
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観光復興記念館は平成8(1996)年、島原城内に開館しました。
平成2(1990)年から噴火活動を開始し、平成7(1995)年に活動を終えるまで甚大な被害をもたらした雲仙・普賢岳災害についての資料などを展示しています。
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「ザ!鉄腕!DASH!!」水鉄砲合戦の痕跡が今も残っています・・・・
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島原城のすぐ近くに
武家屋敷・佐久間邸跡があります。佐久間家は、代々郡方勘定奉行などを歴任し、知行百石、外役料30石でした。
二代藩主松平忠雄の時代に、佐久間太郎左衛門が島原藩家臣に召し抱えられ、知行高100石とこの地に屋敷を下賜されました。
佐久間家は代々、太郎左衛門の名を世襲しました。
文化2(1805)年、天領天草で住民約5千人がキリシタン信仰の疑いで取り調べられました。
当時の佐久間太郎左衛門は郡方勘定奉行として江戸へ上り、御公儀(幕府)と折衝し、その穏便な解決を図りました。往事の屋敷は約300坪あり、立派な屋敷門を持つ武家屋敷でした。
現在は公園となっています。
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現在も残る
島原の武家屋敷は、70石以下の島原藩の中・下級武士の屋敷が建ち並んでいました。
島原城の北西にあり、下の丁と呼ばれるあたりに苔むした石塀が続き、長さ406.8m、幅5.6mの道に渡って家並みが保存されています。山本邸、篠塚邸、島田邸などが一般公開され、無料で見学ができます。
一戸当たりの敷地は3畝(90坪)ずつに区切られ、家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていました。
道路の中央を流れる清流は、熊野神社を水源とする往時の生活用水路であり、今も流れ続けています。
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山本邸は、篠塚邸、島田邸とともに公開されている島原の武家屋敷です。
山本家の初代佐五左衛門は、島原藩初代松平忠房の先代三河吉田城主松平忠利時代から家臣となり、寛延2年(1749)年、5代忠祇の宇都宮移封、安永3(1774)年、6代忠恕の島原への所管の所替に際して随行し、その後幕末まで前後13代の城主に仕えました。
山本家は城主からの信任が厚く、明治以後は悟郎氏、秀武氏と合わせ10代続いています。
5代茂親は寛政2(1790)年に一刀流の免許、文化元(1804)年には荻野流鉄砲術師範、文化8(1811)年、大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めました。
17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和から特別に許されたものです。
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篠塚邸は、山本邸、島田邸とともに公開されている島原の武家屋敷です。
この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚といい、代々順右衛門を称し祖先は三河国深溝ですが、寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたときに従ってきて、明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めました。
島田邸は、篠塚邸、山本邸とともに公開されている島原の武家屋敷です。
島田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9(1669)年、ここ島原に入りました。歴代地方代官・郡方物書などを勤めましたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受け、材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職につきました。
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次は沖田畷古戦場へ向かいます。
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2011/10/07 21:44:42