会津藩主松平家墓所とは、会津松平家初代・保科正之が眠る猪苗代町見禰山の「土津神社」と会津若松市の「院内御廟」2カ所の総称で、昭和62(1987)年に国の史跡に指定をされています。
「院内御廟」は明暦3(1657)年、正之の長男・正頼が亡くなった時に、墓をこの場所に定めたのが最初で、以後、保科家(松平家)の墓所に定められたといわれています。
2代正経は仏教で、3代正容から9代・容保まで神道で葬られており、他に家族や子孫の墓があります。神道の墓所は、碑石、表石、鎭石の3体からなっています。
西之御庭、中之御庭には各代藩主の夫人、側室、子女が葬られており、正之の嗣子正頼の墓もあります。
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天寧寺は、山号は萬松山、曹洞宗の寺院です。
応永28(1422)年、会津にきた傑堂禅師が11代蘆名盛信の建立により創建されました。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院をかぞえました。
蘆名氏は、天正17(1589)年の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、天寧寺も焼失しました。蘆名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみです。
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪もしくは首を持っていて会津での戦いの際、ここに仮埋葬したといいます。
墓石には貫天院殿純忠誠義大居士の法号と、その上に丸に三つ引の近藤家の家紋が彫られています。4月25日の命日には、墓前祭りが開催されます。隣には土方歳三慰霊碑が後世建てられました。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2(1869)年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤嘉明の上級家臣として国替えにより会津に移りましたが、嘉明の嫡子明成が石見に減封された後、会津藩主として高遠藩から最上を経て入府した保科正之に召しかかえられました。長則は寛文6(1666)年没し、ここ天寧寺に葬られ、代々天寧寺が萱野家の菩提寺となりました。
郡長正は戊辰戦争後の明治3(1870)年、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年7名の一人として現福岡県豊津町の小笠原藩藩校育徳館に留学しました。
郡長正は最年少ながら文武ともに秀でていましたが、郷愁を覚え母へ手紙を書きました。しかし、後に届いた母からの戒めの手紙を落とし、小笠原藩士に大衆の面前で罵られ、会津武士道を汚したとして明治4(1871)年5月1日、異郷の地において切腹しました。時に16歳でした。
小笠原藩は郡長正の死を悼み、会津の方角に向けて墓をたて、その霊を弔いました。
境内には会津藩の家老田中家の墓や、会津士魂の碑、小説「会津士魂」の作者、早乙女貢氏の墓もあります。
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天寧寺・近藤勇の墓 - 05 posted by
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天寧寺・近藤勇の墓、土方歳三の供養碑 - 06 posted by
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天寧寺・会津士魂の碑 - 07 posted by
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天寧寺・郡長正の墓 - 08 posted by
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ドライブ | 日記
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2013/01/21 22:57:46