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2017年02月10日

直虎・大井川紀行(1日目その1・井伊谷後編)

方広寺は山号は深奥山、臨済宗方広寺派の大本山です。別称、奥山半僧坊といいます。
建徳2(1371)年、この地の豪族奥山六郎次郎朝藤の招きにより、無文元選禅師を開山として奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、創建しました。
元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。
幾度となく火災にあって伽藍は消失しましたが、明治14(1881)年の大火の後、復興を遂げ、現在、大本堂、半僧坊真殿、開山堂、三重の塔など多数の建物があります。なお、この寺に祀られる半僧坊権現は開山の無文が中国の元から帰国する際、悪天候の中、無文の乗った船を守護したとされる神です。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第6回「初恋の別れ道」の直虎紀行で紹介されました。
方広寺
方広寺 posted by (C)pismo

方広寺 (1)
方広寺 (1) posted by (C)pismo

方広寺 (2)
方広寺 (2) posted by (C)pismo

方広寺 (3)
方広寺 (3) posted by (C)pismo

方広寺 (4)
方広寺 (4) posted by (C)pismo

方広寺 (5)
方広寺 (5) posted by (C)pismo

方広寺 (6)
方広寺 (6) posted by (C)pismo

方広寺 (7)
方広寺 (7) posted by (C)pismo

方広寺 (8)
方広寺 (8) posted by (C)pismo

方広寺 (9)
方広寺 (9) posted by (C)pismo

方広寺 (10)
方広寺 (10) posted by (C)pismo

方広寺 (11)
方広寺 (11) posted by (C)pismo

方広寺 (12)
方広寺 (12) posted by (C)pismo

方広寺 (13)
方広寺 (13) posted by (C)pismo

方広寺 (14)
方広寺 (14) posted by (C)pismo

井伊家の分家である奥山氏の居館跡がこの地に想定されています。
奥山氏は分家とはいうものの、嫡流家に匹敵する力を持っていました。南北朝時代の当主奥山六郎次郎朝藤は、後醍醐天皇の皇子、無文元選を招き、奥山方広寺を開いています。
また、奥山氏一族は、永禄3(1560)年桶狭間の戦いで今川義元に従い、多くの戦死者を出したといわれています。井伊直政の実母(奥山因幡守朝利の娘)も奧山氏の出身です。
(現地説明板などより)
奥山氏居館 (1)
奥山氏居館 (1) posted by (C)pismo

奥山氏居館
奥山氏居館 posted by (C)pismo

渭伊神社は創立の年代は不明ですが、三代実録に「貞観八年十二月二十六日授遠江 国正六位上蟾渭神」とあります。
かつては、今の龍潭寺境内にありましたが、南北朝時代に今の地に移転したといわれています。
渭伊二十七郷の産土神で、旧地頭近藤氏にも崇敬されました。また井伊氏の発祥とともに氏神になり神仏混交方式となり、渭伊八幡宮と改称されました。
明治元(1868)年の神仏分離令により、渭伊神社にもどりました。
(現地説明板などより)
渭伊神社
渭伊神社 posted by (C)pismo

天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)は、渭伊神社の境内にあります。
「延喜式」にその名を載せる渭伊神社本殿の背後にある薬師山の頂上に位置し、約40m四方にわたって群在する巨石群を神の依代(磐座)として我国屈指の規模をもつ古代祭祀遺跡です。
平成元(1997)年夏に実施された発掘調査により4世紀後葉(古墳時代前期)から平安時代に至る長期間、連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなりました。
とくに高さ7mにおよぶ最大の磐座の西壁直下は、古墳時代の祭祀場として限定され、多量の手こね土器や鉄鉾や滑石製勾玉などの祭祀に用いられた遺物が出土しました。
また、12世紀末には末法思想による埋経のための経塚が巨岩群の中央に営まれ、渥美製の経筒外容器が和鏡と共に出土しています。
この遺跡は渭伊神社の創祀が古墳時代前期までさかのぼることを語るとともに、古代人の精神や宗教観を解明するうえに重要な文化財です。
平成4(1992)年3月17日、静岡県の指定文化財になっています。
(現地説明板などより)
大河ドラマ「おんな城主 直虎」の中でおとわ(直虎)たちが駆け回って遊んでいた場所がこの天白磐座遺跡です。
天白磐座遺跡 (1)
天白磐座遺跡 (1) posted by (C)pismo

天白磐座遺跡
天白磐座遺跡 posted by (C)pismo

天白磐座遺跡 (2)
天白磐座遺跡 (2) posted by (C)pismo

天白磐座遺跡 (3)
天白磐座遺跡 (3) posted by (C)pismo

妙雲寺は山号は浩徳山、臨済宗妙心寺派に属する寺院で、もともとは自耕庵とよばれていました。
戦国時代、井伊氏の苦難を支えた次郎法師(井伊直虎)の菩提寺であり寺号は次郎法師の法名、妙雲院殿にちなみます。次郎法師は井伊氏当主であった井伊直盛の娘で、幼い頃の井伊直政(虎松)の後見人となりました。
没年は天正10(1582)年です。
開山は龍潭寺二世の南渓瑞聞和尚です。平成28(2016)年、直虎と、南渓和尚の位牌が見つかりました。
土、日と祝日限定で一般公開しています。
現在、妙雲寺がある場所とその周辺には北神宮寺遺跡という井伊谷でも最大級の遺跡の所在地です。
土地区画整理事業に先立ち、平成15(2003)年から平成19(2007)年にかけて発掘調査を行い、縄文時代から江戸時代にかけて、人々がこの地に住み続けていたことが明らかになりました。
戦国時代についても、大型の建物が確認され、鍋がまとまって出土した一画があり、井伊氏を支えていた有力者の住まいがあったと考えられます。
(現地説明板などより)
妙雲寺
妙雲寺 posted by (C)pismo

浜松市地域遺産センターは、文化財をはじめとする地域に残された遺産の調査や保護、活用事業を行う施設です。旧引佐協働センター庁舎の一部を改修し平成29(2017)年1月15日に井伊谷城の麓にオープンしました。
戦国時代の井伊谷周辺の人々の暮らしがわかる遺跡出土品などを多数展示しています。
プロジェクションマッピングを用いた地形模型や、実際に手に取れる「青葉の笛」のレプリカなどが体感できる展示のほか、図書やグッズの販売コーナーなどもあります。
(現地説明板などより)
浜松市地域遺産センター
浜松市地域遺産センター posted by (C)pismo

浜松市地域遺産センター (1)
浜松市地域遺産センター (1) posted by (C)pismo

井伊谷城(井伊城)はこの城山の南麗にあり、本丸、二の丸、三の丸に分かれ井伊家の居城でした。
井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、浜松市北区一帯(引佐、細江、都田)などを治めました。
南北朝の動乱期(1336〜1392)には、この地に宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を迎え、
南朝方の活動拠点としました。 
延元元(1337)年遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えしてより、元中2(1385)年8月10日宗良親王がこの地で甍去されるまで約50年、親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦されました。
平時にこの城山の御所の丸に居られ
 夕暮れは湊もそことしらすげの
 入海かけてかすむ松原

 はるばると朝みつしおの湊船
 こぎ出るかたは猶かすみつつ

の御歌が残されています。
戦国時代には当地の支配権を巡って、今川、武田、徳川の各勢力が争い、当主である井伊氏は大きく翻弄されました。
とくに、永禄5(1562)年に井伊直親が謀殺された後には適齢の男子がなく、井伊氏は存亡の危機を迎えました。
この時に、城主としてふるまったのが、女性領主、井伊直虎です。
天正3(1576)年直虎は直親の子である虎松(のちの井伊直政)を徳川家康に引き合わせ、
井伊氏再興の道を開きました。

城山の一段高い所が御所丸跡で井の宮石陵があり、宮入御表門跡、搦手門跡等があります。また東山麓には宗良親王を祭る二宮神社、親王の御念持仏を祭る足切観音堂があります。
(説明看板などより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第1回「井伊谷(いいのや)の少女」の直虎紀行で紹介されました。
城山には多目的研修センターの駐車場から登っていきます。城山公園として整備されていて、登城はしやすいです。
井伊谷城
井伊谷城 posted by (C)pismo

井伊谷城 (1)
井伊谷城 (1) posted by (C)pismo

井伊谷城 (2)
井伊谷城 (2) posted by (C)pismo

井伊谷城 (3)
井伊谷城 (3) posted by (C)pismo


二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱を祭神とする神社です。
かつては三宅神社と称し、天日槍尊の4世で、井伊郷の荘司三宅氏の始祖多道間守の尊霊を奉祀した延喜式の式内社に列せられた霊社です。
第11代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から我国へ橘を将来したのが多道間守で井伊家は式内社渭伊神社を象徴する井桁と三宅神社の橘とを家紋と致しました。
元中2(1385)年8月10日、後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられると、9月南帝の勅使中院為久郷、中院少将定平朝臣下向、御連枝の方廣寺開山、圓明大師を御導師として葬送の御儀を行い、当三宅神社に尊霊を合祀し、二柱の神霊を祭祀するため二宮神社と改称しました。
境内には天王社があります。
井伊直虎を追い立てて井伊谷城を専横した小野政次の天下はわずか34日のことでした。
遠江侵攻を開始した徳川家康によって井伊谷城は攻め込まれ、山中に逃亡し捕らえられた小野政次とその幼い子息2人は刑場、蟹淵において処刑されました。
怨霊を鎮めるため二宮神社の境内に小野政次を祭神とした但馬社が建てられました。永禄11(1568)年のことでした。現在は天王社に合祀されています。
(現地説明板などより)
(写真は天王社)
二宮神社
二宮神社 posted by (C)pismo

足切観音のある場所は、井伊直虎の叔父、直満らの屋敷跡と伝えられています。
足切観音は宗良親王の御念持仏「足切観世音」を祀るお堂です。
「慈は心も遠江、井伊谷の里の円通寺、本尊足切観音・・・」と念仏和讃で有名なこの寺の菩薩は弘法大師の作です。
延元4(1339)年、井伊道政と共に南朝方として南北両軍攻防を戦っていた宗良親王は敵の流れ矢を受け落馬しました。馳せ付けた従者が介抱したところ不思議なことに傷は消え跡もありませんでした。
親王はその夜、観音様の夢を見たのでこれは、日頃信心する観世音の効力によるものとして、翌朝起きると早速参拝し、厨子の扉を開けて見ると観音様の片足は鮮血に染まり痛々しいお姿でしたので、これは自分の身代わりとなって立っておられると、涙を流し終生の守り本尊として祈願したと伝えられています。
この御持仏を護持するために、草創されたのが二宮円通寺です。
宗良親王の去られた後、この二宮御所跡には城主井伊直宗の弟直満らの館が設けられていましたが、直満の不慮の死後は堂を残し荒廃し、武田軍の侵攻による戦火で本尊を残し焼失してしまいました。
龍潭寺十代独兒黙念(どくじもくねん)和尚は、慶安2(1649)年観音堂を再建し中興の祖とされております。
円通寺は昭和31(1956)年、住職不在の為、隣の明円寺と合併し晋光寺となりました。毎年10月18日を開帳縁日としています。
(現地説明板などより)
足切観音堂
足切観音堂 posted by (C)pismo

井殿の塚は、井伊直政の祖父、井伊直満とその弟の直義を祀った塚です。
天文13(1544)年12月井伊直平の嫡子直宗の弟直満並びに直義兄弟は、戦国大名今川氏と武田氏両軍の対立に際し、今川義元と内通していた家老の小野和泉守政直の讒言により、謀反の疑いをかけられ、駿府で殺害されました。
里人はこれを憐れみ、末の弟井伊直元に乞い、供養のため井伊氏居館の一角に両者の塚を築き遺骨を納めて輪塔を建て、塚の上に一本の松を植えたと言い伝えられています。
以来これを濫塔の松、或いは井殿の塚と称し香華が絶えなかったと言うことです。
この里に生まれ、箕輪に封ぜられ、転封して彦根の太守となった井伊直政は、直親の子で直満の孫に当たります。
嘉永5(1582)年6月、大老井伊掃部直弼は当地に来訪し、この墓所を礼拝して石垣等を寄進したと伝えられています。
現在、塚の上には砂岩製の宝篋印塔が残っています。塔身など江戸時代以降の補修がみられますが、本体は16世紀の特徴がうかがえます。また塚の上にはタブノキの大樹があります。
(現地説明板などより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第2回「崖っぷちの姫」の直虎紀行で紹介されました。
井殿の塚 (1)
井殿の塚 (1) posted by (C)pismo

井殿の塚
井殿の塚 posted by (C)pismo

井伊氏居館です。江戸幕府の柱石の大名中、数少ない大老職の家柄と仰がれた彦根藩主井伊氏発祥の地は、引佐の井伊郷で、この場所が屋形の跡です。
井伊氏の元祖共保は、藤原鎌足5世の裔、閑院左大臣冬嗣の男良門の流れを掬む藤原備中守共資を父とし、共資が一條天皇の正暦年中、遠江に来住した時、井伊郷の荘司三宅篤茂の女を娉(つまど)い、寛弘7(1010)年正月篤茂の館に於いて生誕したといわれております。
以来日本八介の一、遠江の井伊ノ介と謳われ、南北朝、東海に於ける南朝の拠点として、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎え、ここ城山に御所を構え、東北三嶽山頂に山城を営み、激烈な戦火を繰り広げました。
以後戦運南朝に利あらず、戦国の世には今川氏の為に悲運を繰返し、直政公出生の翌年、永禄5(1562)年には幼主直政公もここを立退き、遂に主無き館となりました。
嘉永5(1582)年6月、彦根藩主、時の大老井伊直弼公は親しく此の館跡を訪れ、境内にある守護社井伊大明神に詣で旁附近の史跡を巡覧した事が伝えられています。
(現地説明板などより)
引佐町4区公民館の前に説明板が立っています。宅地化で、遺構などは残っていないようです。
井伊氏居館
井伊氏居館 posted by (C)pismo

井伊氏発祥の地とされる伝井伊共保出生井〔共保公出生の井戸〕です。寛弘7(1010)年、井伊氏初代の井伊共保が生まれたと伝わる井戸です。共保は、遠江国司として志津城を居城とした藤原共資の養子となり、井伊谷に移り姓を「井伊」としました。江戸時代に建てられた笠塔姿形の石碑には、井戸の傍らに橘の木が生えていたことから、井伊氏は「橘」を家紋とし。「井」を旗幕の紋としたことが記されています。
石碑の造立をはじめ、井戸の整備は彦根藩主が繰り返し行っており、井伊氏にまつわる聖地として、歴代当主が篤く崇拝していたことが分かります。
(現地説明板などより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第1回「井伊谷(いいのや)の少女」の直虎紀行で紹介されました。
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) posted by (C)pismo

伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (1)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (1) posted by (C)pismo

伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (2)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (2) posted by (C)pismo

伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (3)
伝井伊共保出生井(共保公出生の井戸) (3) posted by (C)pismo

龍潭寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は萬松山です。井伊氏、宗良親王の菩提寺で小堀遠州作の名園が有名な寺院です。
浜松市の引佐町井伊谷は、彦根藩主井伊氏の発祥の地です
天平5(733)年に行基菩薩によって開創された八幡山地蔵寺に始まると伝えられています。
寺の南には、井伊氏祖共保公出生の伝説を残す八幡宮御手洗の井戸があります。
この寺域は元々井伊八幡宮の境内でしたが、井伊氏が龍泰寺を造営しました。
室町時代末期、井伊氏20代井伊直平が帰依された黙宗瑞淵和尚を開山として迎えてから禅宗に改められ、臨済宗妙心寺派の寺院となりました。
井伊城の南の砦としての役割を果たしていたそうで、参道や石垣などに城郭造りの跡が残されています。
朱印地だった境内地2万4千坪は、明治政府が没収、その後1万余坪が返還されました。
龍潭寺の森は、日本の森百選に選ばれています。この森に包まれ点在する龍潭寺伽藍は江戸時代建立の貴重な文化財です。
龍潭寺
龍潭寺 posted by (C)pismo

龍潭寺 (1)
龍潭寺 (1) posted by (C)pismo

龍潭寺 (2)
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龍潭寺 (3)
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龍潭寺 (4)
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龍潭寺 (5)
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龍潭寺 (6)
龍潭寺 (6) posted by (C)pismo

龍潭寺 (7)
龍潭寺 (7) posted by (C)pismo

井伊谷宮いいのやぐう)は、南朝側の皇族・武将などを主祭神とする建武中興十五社の一つです。
御祭神宗良親王は、後醍醐天皇第四皇子で、一品中務卿征東将軍として井伊谷を本拠とし50余年の間御活躍になられま元中2(1385)年8月10日73歳で薨去されました。
井伊谷宮は、井伊家の子孫である彦根藩主井伊直憲が命を受けて明治5(1872)年2月に創建されました。
本殿の背後には宗良親王の御墓もあります。
また、摂社の井伊社は、宗良親王とその皇子尹良親王を輔佐し、忠勤を励んだ井伊道政、井伊高顕の二柱が祀られています。
井伊谷宮 (1)
井伊谷宮 (1) posted by (C)pismo

井伊谷宮
井伊谷宮 posted by (C)pismo

三岳城は三岳山の山頂にあり、井伊氏の築いた諸城の内の本城です。
当時、三岳神社は山頂部にも施設があり、山岳一帯は修験の場となっていました。この時代の城跡は、そうした山岳寺院(神社)を利用したものです。
南北朝時代、延元3(1338)年秋、後醍醐天皇の皇子宗良親王が再び伊勢より井伊谷に入られ、この城を南朝勢力の遠江における軍事上の拠点とされました。
足利尊氏勢の高師康・高師冬・高師兼・仁木義長の大軍に攻められ、ついに興国元(1340)年正月落城し同年8月24日夜、詰城大平城も追い落とされて南朝の拠点は失われました。
宗良親王は駿河の安倍城に移られたものと推定されています。その後戦国期元遠江守護であった美濃の斯波義達が井伊谷に入り、曳馬城の大河内貞綱と井伊氏がこれにくみしました。今川氏親は細江町の刑部城・堀川城に伊達忠宗を入れて前進基地として三岳城を攻めました。永正10(1513)年に掛川城主朝比奈泰以を主力とする今川勢の総攻撃によって落城しました。
さらに、武田信玄と徳川家康がお互いの戦略拠点とし、本曲輪の多くの遺構は武田方、東曲輪は徳川方が奪還した後に防御のために造営したと見られています。
この城は山頂から尾根に沿って細長く築かれ、一の城,二の城。三の城と分かれ、深い谷や急な斜面など峻険な自然地形を巧みに利用し、中世城郭の典型的な形態を有しています。
一の城は、山頂にあって一番大きく、大型の土塁を幾重にも巡らせ、谷下・兎荷方面からの攻撃を防ぎます。
二の城は、一の城より東の高地一帯にあって、川名・滝沢方面よりの敵を防ぎます。
三の城は現在の三岳神社の境内にあり本丸に迫る敵を阻止し、山城で一番重要な水を確保する役割を果たしました。
宗良親王の庵室もこの地にあったと伝えられています。籠城中に後醍醐天皇の崩御にあわれ、親王は城の紅葉を折ってこれに「おもふにも なほ色浅き紅葉かな、そなたの山はいかが時雨るる」の一首を添えて吉野に届けられました。
昭和19(1944)年3月7日、国の史跡に指定されています。山頂からの眺めは素晴らしく、浜松市街地、浜名湖、太平洋までも一望できます。
(現地説明板などより)
三岳城 (1)
三岳城 (1) posted by (C)pismo

三岳城 (2)
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三岳城 (3)
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三岳城 (4)
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三岳城
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