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2011年01月15日
この日は、「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」を見に少しだけ京都をサイクリングしました。
途中、近くを通ったので旧本能寺跡に立ち寄りました。

天正15(1587)年豊臣秀吉の命で移転する前、元の本能寺は現在の中京区元本能寺南町にありました。
つまり、本能寺の変があったときの本能寺はこの付近にありました。
1990年代までは本能小学校があった場所ですが、平成17(2005)年に京都市本能特別養護老人ホーム・京都市立堀川高等学校本能学舎が建ちました。
敷地西側(写真上)と北東隅(写真下)に石碑が建っています。
本能寺跡 - 1
本能寺跡 - 1 posted by (C)pismo

本能寺跡 - 2
本能寺跡 - 2 posted by (C)pismo

正伝永源院は、建仁寺の塔頭です。
元は正伝院と永源庵の二ヶ寺でした。
正伝院は大覚禅師(蘭渓道隆)と共に中国から来日した義翁紹仁(勅謚普覚禅師)を開山に鎌倉時代に創建されました。
しばらく荒廃していましたが、織田有楽斎長益が元和4(1618)年に当院を再興し、名茶席如庵を建て茶道三昧の内に元和7(1621)年に亡くなりました。
法名は正伝院殿如庵有楽大居士と号し、現在も高さ4.5mの石塔が正室霊仙院殿蓬丘清寿大姉の塔と共に本堂の東に建っています。
一方、永源庵は無涯仁浩を開山に南北朝時代に創建されました。
細川頼有(和泉上守護家・熊本藩細川氏の祖)の帰依を受け、細川家の菩提寺として続きました。
明治初年の廃仏毀釈により、建仁寺は50余ヶ寺の塔頭が14ヶ寺に削減され、当時は永源庵は無住のためたちどころに廃寺処分とされてしまいました。
しかし、本山の真北に位置しており堂宇は残し、少し離れたところにあった正伝院はこの地に移りました。しかし、元の正伝院は土地は上地され建造物は売却され、金の寄付を強要されてしまいました。
新たな正伝院はその後時の公爵細川家の菩提寺であるため、後に永源の名を起こし正伝永源院と名乗るようになりました。
ちなみに現在の正伝永源院は福島正則寓居の地としても知られています。
売却された後の如庵は祇園町の有志に払い下げられた後、明治41(1908)年に東京の三井本邸に移築されました。如庵はその後昭和13(1938)年に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築され、昭和47(1972)年に、名古屋鉄道によって愛知県犬山市の有楽苑に移築されました。
正伝永源院の正伝如庵は、平成8(1996)年に復元されたものです。如庵の扁額は細川護貞氏の揮毫によるものです。
建仁寺正伝永源院 - 01
建仁寺正伝永源院 - 01 posted by (C)pismo

建仁寺正伝永源院 - 02
建仁寺正伝永源院 - 02 posted by (C)pismo

建仁寺正伝永源院 - 03
建仁寺正伝永源院 - 03 posted by (C)pismo

建仁寺正伝永源院 - 04
建仁寺正伝永源院 - 04 posted by (C)pismo

建仁寺正伝永源院 - 05
建仁寺正伝永源院 - 05 posted by (C)pismo

両足院は、建龍山徳見禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。
現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。
室町時代の再建により、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。
本尊の阿弥陀如来立像を方丈に安置し、境内北側に当院鎮守の毘沙門天立像を祀っています。
毘沙門天像は秘仏で、鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏であったものを、戦国武将の黒田長政が関ヶ原の戦いの際に内兜に守護神として納めて出陣し勝利したと伝えられています。
庭園は「唐門前庭」、方丈前に広がる枯山水庭園、書院前の池泉回遊式庭園「書院前庭」、坪庭「閼伽井庭(おかいにわ)」からなります。
長谷川等伯筆の襖絵「水辺童子図」、「竹林七賢図屏風」、伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」などを所蔵しています。
建仁寺両足院 - 01
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建仁寺両足院 - 02
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建仁寺両足院 - 03
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建仁寺両足院 - 04
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建仁寺両足院 - 05
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建仁寺両足院 - 06
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建仁寺両足院 - 07
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建仁寺両足院 - 08
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建仁寺両足院 - 09
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建仁寺両足院 - 10
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建仁寺両足院 - 11
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建仁寺両足院 - 12
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海福院は元和2(1616)年、福島正則が夬室智丈(かいしつちじょう)和尚を開山として創建した妙心寺の塔頭寺院で、福島家の菩提寺です。
福島正則が「賤ヶ岳の戦い」で一番槍として戦功をあげた「槍」や「福島正則画像」、陣中杯や書状、狩野探幽筆「猿回し図」、曾我蕭白(そがしょうはく)筆の襖絵や、狩野益信(ますのぶ)筆「山水図」などが特別展示されていました。
蘆雁の間と呼ばれる部屋に点茶や水屋の設備が押入れの中に仕込まれた珍しい「押入仕込茶堂」があります。
また、妙心寺法堂の「雲龍図」製作のために海福院に滞在していた狩野探幽が、新調されたばかりの唐紙の襖に猿回しの絵を描き、帰ってきた住職に叱責された「猿回し図」も本堂にあります。
妙心寺海福院 - 01
妙心寺海福院 - 01 posted by (C)pismo

妙心寺海福院 - 02
妙心寺海福院 - 02 posted by (C)pismo

妙心寺海福院 - 03
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妙心寺海福院 - 04
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妙心寺海福院 - 05
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妙心寺海福院・福島正則の墓 - 06
妙心寺海福院・福島正則の墓 - 06 posted by (C)pismo

「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」の対象寺院を3つ訪れると、お抹茶をいただけます。花園会館でお抹茶をいただき、今回のサイクリングは終了です。
Posted at 2011/01/25 20:08:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車
2010年11月13日
この日は明石方面のサイクリング。
マリンピア神戸で買い物後、海神社に立ち寄りました。
海神社(わたつみじんじゃ・かいじんじゃ)は、綿津見神社とも表記されます。
神功皇后の三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、そこでこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが当社の始まりといわれています。
海上交通の要地であることから。古くから海上鎮護の神として崇敬を受け、天正11(1587)年に豊臣秀吉が祈祷料として垂水郷山内の山林を寄進、江戸時代にも歴代明石藩主が篤く崇敬し、毎年2月に参拝していました。
海神社 - 01
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海神社 - 02
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海神社 - 03
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海神社 - 04
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海神社 - 05
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明石に車で移動後、サイクリングを開始です。
船上城は、室町時代に播磨の豪族赤松氏が砦を築き、永禄年間に三木城主別所氏の支城として築かれ、長治の叔父別所吉親が居城しました。
その後播州が羽柴秀吉のものとなると蜂須賀小六正勝も居城しましたが、天正13(1585)年家臣の所領替えを行い、高槻の高山右近を明石に移しました。その際に、船上城を大々的に整備したと言われています。
関ヶ原の戦いの後は池田輝政が領有、八男・利政が入城しました。その後元和2(1616)年小笠原忠真が入城すると新たに明石城を築城したため、船上城は廃城となりました。
現在は田んぼの中の小高い丘に稲荷があり、そこに船上城の説明看板があります。
明石警察署の南側の道を西へ行き、住宅街の路地を北に入ると田んぼがあり、行き止まりみたいに見えますが、田んぼの淵をひるまず進むと左手に小高い丘があります。そこが城跡です。
船上城 - 1
船上城 - 1 posted by (C)pismo

船上城 - 2
船上城 - 2 posted by (C)pismo

船上城 - 3
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船上城 - 4
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船上城 - 5
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無量光寺(むりょうこうじ)は山号は月浦山、浄土宗の寺院です。
門前にある細い道は「蔦の細道」と呼ばれ、光源氏が明石の君が住む「岡部の館」に通った道のモデルとされています。
また、光源氏が月見をしたお寺で「源氏稲荷」があります。
慶長18年(1613年)に中興されたと伝わる。しかし1945年7月6日の神戸大空襲により全山焼失。その中で左甚五郎作と伝わる彫刻のある山門だけは焼失を免れ、焼失した本堂と源氏稲荷は戦後に再建されました。
無量光寺 - 1
無量光寺 - 1 posted by (C)pismo

無量光寺 - 2
無量光寺 - 2 posted by (C)pismo

無量光寺前・蔦の細道 - 3
無量光寺前・蔦の細道 - 3 posted by (C)pismo

善楽寺は山号は法寫山、天台宗の寺院です。円珠院・戒光院・実相院の総称をいいます。
孝徳天皇の大化年中に天竺の高僧、法道仙人が開創しました。明石で最も古い寺で、源氏物語の舞台になり、平清盛のゆかりの地です。戒光院は明石の入道の邸宅「浜の館(たち)」とされ「明石入道の碑」が建っています。
天喜元(1053)年、住職の源泉法師が延暦寺第三十一世座主になりました。
元永2(1119)年には火災で堂塔を焼失しました。
保元元(1156)年、播磨守に任ぜられた平清盛は、この地を重視し善楽寺のすべての堂塔伽藍を再興し、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領500石を寄進しました。
また、清盛の弟教盛の子、忠快法師が寺僧としており、源平合戦の最中の養和元(1181)年に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てました。
戦国時代の天文8(1539)年には再び戦乱で本堂などを焼失、文禄2(1593)年に再建されました。
江戸時代は明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けました。5代藩主松平忠国は、源氏物語の世界をここに見て「明石入道の碑」を建てました。
境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名がつけられました。
昭和20(1945)年7月7日、戦災により再び焼失し、本堂、仏像、寺宝などが灰燼に帰しました。
昭和53(1978)年、再建が始まり、十王門が復活し、昭和63(1988)年3月30日、四度目の復興を遂げました。
善楽寺 - 01
善楽寺 - 01 posted by (C)pismo

善楽寺 - 02
善楽寺 - 02 posted by (C)pismo

善楽寺 - 03
善楽寺 - 03 posted by (C)pismo

善楽寺 - 04
善楽寺 - 04 posted by (C)pismo

善楽寺 - 05
善楽寺 - 05 posted by (C)pismo

善楽寺 - 06
善楽寺 - 06 posted by (C)pismo

善楽寺 - 07
善楽寺 - 07 posted by (C)pismo

伊弉冊神社は、延喜式神名帳には、明石郡岩屋の土産神、伊知都比売神社で、崇神天皇6(92)年9月10日に勧請された式内社だそうです。
現在、明石郡内には同名の神社はなく、明石市大蔵本町の稲爪神社、稲爪神社の境内摂社の稲爪浜恵比須神社、明石市岬町の伊弉冊神社、明石市材木町の岩屋神社が論社(式内社の後裔)となっています。
光仁天皇の時代の宝亀2(771)年に境内地4町(432m)四方が赦免地となりまいした。
その後、別所氏が三木城主の時、崇敬厚く社領50石を寄進して、祭典、営繕に当たったと云われています。
嘉吉の乱の際の赤松氏の和阪の戦いや天文年間(1532~1555)の町野入道の放火、羽柴氏の三木城攻め等の兵火に罹り、社殿、旧記をことごとく焼失したと伝えられています。
明治12(1879)年7月20日に県社に列せられました。
昭和20(1945)年6月太平洋戦争の戦災にて、社殿、社務所一切の建物を焼失し、昭和37(1962)年に社殿等が再建されました。
伊弉冊神社 - 1
伊弉冊神社 - 1 posted by (C)pismo

伊弉冊神社 - 2
伊弉冊神社 - 2 posted by (C)pismo

岩屋神社は、延喜式神名帳の伊和都比売神社に比定される神社の一つで、社伝によると、成務天皇13(143)年6月15日に成務天皇の勅命により、淡路島の岩屋より神を勧請して創建されたと伝えられています。。
創建以来、稲爪神社、海神社と並んで東播磨地域の古大社として人々の厚い崇拝を受けた、明石城の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝する神社のひとつでした。
元文2(1737)年には藩主・松平直常の世継ぎ松平直純が「鎧始めの儀」の際に当社に参拝し、以後、世継ぎの鎧始めの儀の際には当社への参拝が慣例となりました。
昭和20(1945)年7月、太平洋戦争の明石空襲により社殿が焼失しましたが、昭和29(1954)年に再建されました。
毎年7月第3日曜日には、御皇神を淡路・石屋神社から勧請する際の故事にちなんだおしゃたか祭が行われています。「おしゃたか」とは、神事で舟を押して行くときに唱えることばで、「神さまがいらっしゃったか」の意味です。
岩屋神社 - 1
岩屋神社 - 1 posted by (C)pismo

本松寺は、山号は法栄山、日蓮宗の寺院です。
慶長元(1596)年、秀吉の家臣藤井新右衛門勝介の寄進により、船上城下に創建されました。
開山は、審理院日甫上人です。  
その後、元和3(1617)年、小笠原忠真が明石城を築城した際、宮本武蔵により城下の町割が設計され、明石の中心も明石川を越えて、東へ移りました。
その際島左近の末裔の檀頭、斎藤甚左衛門利政をはじめ、美濃部九郎三郎等の尽力により、元禄4(1618)年現在の地に移転しました。
庭園は、宮本武蔵が作庭といわれています。明石の町割を設計した際、明石城の樹木屋敷やこの本松寺の庭園の作庭に当たったと伝えられています。
本松寺 - 1
本松寺 - 1 posted by (C)pismo

本松寺 - 2
本松寺 - 2 posted by (C)pismo

本松寺 - 3
本松寺 - 3 posted by (C)pismo

本松寺 - 4
本松寺 - 4 posted by (C)pismo

本松寺 - 5
本松寺 - 5 posted by (C)pismo

明石神社は明石藩9代藩主松平直常が松平家の先祖の徳川家康、松平直良、直明の霊を祀ったのがはじまりで、元々明石城内にありました。
明治32(1899)年に現在地に移転され、11代藩主松平直純が建てたと言われる護穀神社の祭神も合祀されました。
境内には明石城築城当時から太鼓門に置かれて城下に時を告げていた「時打ち太鼓」が保存されています。太鼓の胴はケヤキ造りで、城主が太鼓の皮の張替え修理をした年月日や城主名の墨書もあり、昭和49(1974)年には明石市の指定文化財になっています。
神社は平成7(1995)年の阪神・淡路大震災で被災し、半壊状態が続いていましたが、敷地を一部売却し再建費用を工面し、鉄筋コンクリート造りで再建されました。
明石神社 - 1
明石神社 - 1 posted by (C)pismo

明石神社 - 2
明石神社 - 2 posted by (C)pismo

明石神社 - 3
明石神社 - 3 posted by (C)pismo

月照寺は、山号は人麿山、曹洞宗の寺院です。
弘仁2(812)年、弘法大師空海が明石の岡、赤松山(現在の明石城祉)に湖南山餘鵜楊柳寺を創建したのがはじまりです。
仁和3(887)年、楊柳寺覚証和尚は、鎮守社として人丸社(現在の柿本神社)を建立するとともに、大和の柿本山広安寺より人麿念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して奥の院に奉祀し、寺号を月照寺と改めました。
天正2(1574)年真言宗から曹洞宗に改宗しました。
元和7(1621)年、明石築城によって境内が城地となり、元和8(1622)年に人丸社と月照寺は現在地に移転しました。
延享元(1744)年山号を人麿山と改め、明治4(1871)年、神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となりました。
月照寺の山門はかつての明石城の切手門です。元々は伏見城の薬医門でしたが、明石城の築城時に徳川秀忠から小笠原忠政が拝領しました。明治6(1873)年に月照寺山門として移し建てられました。
月照寺 - 01
月照寺 - 01 posted by (C)pismo月照寺 - 02
月照寺 - 02 posted by (C)pismo

月照寺 - 03
月照寺 - 03 posted by (C)pismo

月照寺 - 04
月照寺 - 04 posted by (C)pismo

月照寺 - 05
月照寺 - 05 posted by (C)pismo

子午線標示柱は、日本標準時の基準である東経135度子午線の位置を示しています。
東経135度子午線は、昭和3(1928)年に京都大学観測班が天体観測を行って明石市の人丸山上を通過していることが分かりました。
この結果、昭和5(1930)年1月、月照寺山門前にこの標示柱が建設され、「トンボの標識」の愛称で呼ばれるようになりました。
そして、昭和26(1951)年の再観測で現在の位置(11.1m移動)に設置されています。
標示柱は、高さ約7m、鉄柱の直径15cmで、上部のカゴ状の球は地球を表し、球の上には「あきつ島」(日本の異名)を象徴したトンボ(あきつ)がのっています。
日本標準時子午線表示柱 - 1
日本標準時子午線表示柱 - 1 posted by (C)pismo

柿本神社は、仁和3(887)年に明石の岡にあった楊柳寺(後の月照寺)の覚証という住僧が夢中に柿本人麿の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麿を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まるといわれています。
元和5(1619)年、明石の岡に明石城が築城されると、月照寺とと共に現在地に移転しました。

柿本神社 - 1
柿本神社 - 1 posted by (C)pismo

柿本神社 - 2
柿本神社 - 2 posted by (C)pismo

柿本神社 - 3
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長寿院は明石藩松平氏の菩提寺です。
寛永4(1627)年空澤養運上人を開基にして融国寺と号する禅寺でしたが、越前大野藩から明石藩に入部した松平直明の帰依を受け浄土宗西山派の寺院長寿院となりました。
昭和20(1945)年7月6日の空襲により、諸堂于を焼失しましたが、明石藩主の御霊屋とその門は戦災を逃れました。
旧明石藩主松平家廟所は、松平直明から斉宣までの藩主とその家族の墓があります。御霊屋は11代将軍家斉の25男で松平斉韶の養子となった松平斉宣の霊屋です。
弘化2(1805)年、松平慶憲が斉宣の墓前に建てたものです。
長寿院 - 1
長寿院 - 1 posted by (C)pismo

長寿院 - 2
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「旧武藤山治邸 旧鐘紡舞子倶楽部は、鐘紡の中興の祖といわれ、衆議院議員として活躍した武藤山治(むとう さんじ)が明治40(1907)年に神戸市の舞子浜に建てた住宅です。
木造2階建コロニアル様式の洋風建築で、設計は、当時横河工務所に在籍していた大熊喜邦(後に帝国議会議事堂を始めとする多くの官庁建築を主導)が担当しました。。
武藤山治の没後、昭和12(1937)年に武藤家から鐘紡に寄贈され、従業員の厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として利用されていましたた。
しかし、明石海峡大橋建設に伴う国道2号の拡幅工事のため、平成7(1995)年に和館は取り壊され、洋館のみが現在の狩口台7丁目に移築されました。
平成19(2007)年3月に、兵庫県は、建物とともに家具・絵画及び蔵書等調度品についてカネボウより寄贈を受け、県立舞子公園に移築復元しました。
旧武藤山治邸 - 1
旧武藤山治邸 - 1 posted by (C)pismo

旧武藤山治邸 - 2
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孫文記念館は、中国の革命家・政治家・思想家である孫文(号は中山、又は逸仙)を記念する日本で唯一の博物館です。
この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘「松海荘」を前身としています。大正4(1915)年春、還暦を迎えた呉錦堂は、当時の建築の粋を尽くして別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」を造築しました。
孫文は、大正2(1913)年3月に準国賓として来日中に神戸在住の中国人や政・財界有志による歓迎昼食会に招かれ立ち寄りました。本館は神明国道(現在の国道2号)の拡幅により撤去されましたが、移情閣と附属棟はそのまま残されました。
戦後は神戸華僑総会により管理され、昭和57(1982)年の日中国交正常化十周年を記念して昭和58(1983)年11月兵庫県に寄贈され、改修を行いました。
昭和59(1984)年11月12日、孫文生誕の日に「孫中山記念館」として一般公開を開始、平成5(1993)年12月には「兵庫県指定重要文化財」に指定されました。
平成6(1994)年3月、明石海峡大橋の建設にともない、いったん解体され、元の位置から西南方向200メートルの現在地に移転、復原工事が進められ、平成12(2000)年4月に完成しました。
平成13(2001)年11月、移情閣は、文部科学省より国の重要文化財に指定され、平成17(2005)年10月、孫中山記念館は、「孫文記念館」と改称されました。
日本と孫文、神戸と孫文の関わりを中心に、呉錦堂の生涯や移情閣の変遷などについての詳細な展示が行われています。
平成22(2010)年11月7日、一般公開を開始しました。
孫文記念館(移情閣) - 1
孫文記念館(移情閣) - 1 posted by (C)pismo

孫文記念館(移情閣) - 2
孫文記念館(移情閣) - 2 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場(舞子砲台)は、幕末に外国船の侵攻に備えて、文永3(1863)年に幕府の命を受けて、勝麟太郎(海舟)の指揮のもと、明石藩が築造した砲台場です。
対岸にある淡路島にある徳島藩松帆台場(国史跡)と協力して、明石海峡を通過する外国船をはさみ撃ちにするため建設されたと考えられています。
発掘調査の結果、海岸護岸の石垣が当時のものであり、台場の石垣全体が埋まっていることがわかりました。
台場の型式は稜堡式(りゅうほしき)と呼ばれ、石垣の平面がW字形となる西洋の要塞を参考にして設計されています。すべて石で積まれた例は国内では他になく、大変貴重なものです。
大きさは東西幅約70mで、現在残っている石垣は下層部分にあたり、高さは約6mです。明治初めの写真資料から、もともとの高さは海岸から約10mであったと推測できます。
こうした発掘調査で明らかとなった遺跡の重要性から、平成19(2007)年2月に国史跡として指定されました。
これまでは舞子砲台跡として親しまれてきましたが、今後は「明石藩舞子台場跡」が正式な名称となります。
(説明看板などより)
明石藩舞子台場跡 - 1
明石藩舞子台場跡 - 1 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 2
明石藩舞子台場跡 - 2 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 3
明石藩舞子台場跡 - 3 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 4
明石藩舞子台場跡 - 4 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 5
明石藩舞子台場跡 - 5 posted by (C)pismo

再び明石の方に戻りサイクリング終了です。
秋に海沿いをサイクリングするのはなかなか気持ちの良いものです。
Posted at 2010/12/02 21:12:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車
2010年11月06日
源氏三代の墓(源頼信、頼義、義家)は、河内源氏の里、通法寺付近にあります。
源氏三代の墓
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源義家の墓は、通法寺の南東の丘陵上にある小高い円丘です。
義家は、父は源頼義、母は平直方の長男として生まれました。
前九年、後三年の役で活躍し、武将としての地位を不動のものにしました。
嘉承元(1106)年7月に京の邸宅で死去し、この地に葬られました。
源氏三代の墓・源義家の墓 - 1
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源氏三代の墓・源義家の墓 - 2
源氏三代の墓・源義家の墓 - 2 posted by (C)pismo

源頼信の墓です。
源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれ、20歳のとき中央官界に身を置き、藤原道家や道長に仕えました。
長元元(1028)年に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方に代わり反乱を鎮圧しました。
この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の頭梁としての確固たる地位を築きました。
また、上野・常陸・伊勢・美濃などの国司を歴任し、最後に河内国司となり、河内国古市郡壺井里に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになりました。
長久元(1043)年には、子の頼義とともに観音堂(後の通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰されました。
永承3(1048)年、81歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られました。
源氏三代の墓・源頼信の墓 - 1
源氏三代の墓・源頼信の墓 - 1 posted by (C)pismo

大僧正隆光の墓は、源頼信の墓の隣にあります。
隆光は通法寺の再建の際に多田義直が上表した際、柳沢吉保と共に尽力した人物で、将軍綱吉の学僧であり江戸護持院の住職をつとめ、いわゆる「生類哀れみの令」を公布させた人物でした。
そのため綱吉の死後は役目御免の扱いを受け、自分が世話をしてきた通法寺の住職に左遷させられ、のちに奈良市二条町付近の自宅で死去しました。奈良には超昇寺跡に墓がありますが通法寺においても隆光の分骨所としての墓碑が残されました。
大僧正隆光の墓 - 1
大僧正隆光の墓 - 1 posted by (C)pismo

通法寺は、長久4(1043)年に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まります。
前九年の役(1051~62)の時、東北地方で活躍した源頼義が浄土教に帰依し阿弥陀仏を本尊としてから河内源氏の菩提寺となり源氏の隆栄と共に栄えました。
南北朝時代には、戦火にあい建物を消失しましたが、江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となって再建しました。
しかし、明治時代の廃仏毀釈により現在のように、山門・鐘楼などを残すだけとなってしまいました。
通法寺跡 - 01
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通法寺跡 - 02
通法寺跡 - 02 posted by (C)pismo

通法寺跡 - 03
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通法寺跡には源頼義の墓が残っています。
源頼義は父は源頼信、母修理命婦で長男として生まれました。
平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていました。
前九年の役での安倍氏との戦いでは、清原氏の助けを得て勝利を得ました。
出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神としました。
承保2(1075)年7月13日、88歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれています当初は本堂の床下に葬られましたが、後に現在の位置に移されました。
通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓 - 01
通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓 - 01 posted by (C)pismo

通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓  - 02
通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓 - 02 posted by (C)pismo

通法寺跡の東側に源氏館の石碑と説明看板が建っています。源満仲の三男頼信は河内守となって寛仁4(102)年に河内国古市郡壺井里の香炉峯に居館を構えて本拠地としました。数々の武功によって大きな勢力を築いた名族、河内源氏の始まりです。
頼信とその子頼義、孫の義家らは、平忠常の乱(1028~30)、前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)などの相次いだ戦乱で活躍し、関東、東北地方へも地盤を広げていきました。
彼らの子孫には、鎌倉幕府を開いて将軍となった頼朝や、その弟義経などがいます。
頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると伝えられています。
今のところ、場所や規模などを知る具体的な手掛かりはないそうです。
源氏館跡 - 1
源氏館跡 - 1 posted by (C)pismo

壺井八幡宮の鳥居の脇の井戸が清泉「壺井」です。
平安時代の前九年の役の際、源頼義の軍が飲料水に苦しんだ折、弓の先で崖を突き崩して得た冷泉により将士の意気があがったといわれています。
役の平定が完了し凱旋する際、冷泉の水を壺に入れて持ち帰り、本拠地の香炉峯の南麓に井戸を堀り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念としたもので、これが「壺井」の地名の起源となったそうです。
壺井 - 1
壺井 - 1 posted by (C)pismo

壺井 - 2
壺井 - 2 posted by (C)pismo

壺井 - 3
壺井 - 3 posted by (C)pismo

壺井八幡宮があるあたりは、香炉峯(こうろほう)といわれ、河内源氏発祥の地として知られています。
寛仁4(1020)年、源頼信が河内守に任官し、この地に私邸を営みました。
康平7(1064)年、前九年の役を平定した源頼義は、石清水八幡宮の神を勧請し、私邸の東側に祀ったのが壺井八幡宮の始まりです。
また、八幡宮と並んで建つ壺井権現社は天仁2(1109)年、源義家の5男義時が氏神として源頼信、頼家、義家の三代を祀るため創建しました。
南北朝から戦国時代にかけ、度々兵火に見舞われ、荒廃しましたが、元禄14(1701)年に徳川綱吉の命で柳沢吉保が再建したのが現在の社殿です。
平成7〔1995〕年に復元修理が完成しました。
壺井八幡宮 - 01
壺井八幡宮 - 01 posted by (C)pismo

壺井八幡宮 - 02
壺井八幡宮 - 02 posted by (C)pismo

壺井八幡宮 - 03
壺井八幡宮 - 03 posted by (C)pismo

壺井八幡宮 - 04
壺井八幡宮 - 04 posted by (C)pismo

壺井八幡宮・壺井権現社 - 05
壺井八幡宮・壺井権現社 - 05 posted by (C)pismo

壺井八幡宮宮・壺井権現社 - 06
壺井八幡宮宮・壺井権現社 - 06 posted by (C)pismo

秋のさわやかな天気の中のサイクリングはなかなか気持ちの良いものです。
河内は色々な史跡があり、またアップダウンがさほどないのでサイクリングには最適です。しかし、幹線道路がもう少し歩道等が整備されていればより快適なのですが。
Posted at 2010/11/24 20:41:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車
2010年11月06日
この日は太子町周辺をサイクリングです。
この附近には古墳が多く、王陵の谷といわれています。
また、聖徳太子の廟がある叡福寺があります。

小野妹子墓です。
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる楕円状の小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、隋にに派遣された人物です。
妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、池坊流の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。
小野妹子の墓 - 1
小野妹子の墓 - 1 posted by (C)pismo

小野妹子の墓 - 2
小野妹子の墓 - 2 posted by (C)pismo

小野妹子の墓 - 3
小野妹子の墓 - 3 posted by (C)pismo

小野妹子の墓 - 4
小野妹子の墓 - 4 posted by (C)pismo

科長神社(しながじんじゃ)の創建の由緒は不詳ですが、元は二上山上に鎮座し、二上権現と称していました。
延喜式神名帳には「河内国石川郡 科長神社」と記載され、小社に列している。暦仁元(1238)年に現在地に遷座しました。
現在地には元々恵比須神社(一名 土祖神社)があり、科長神社が当地に遷座するに当たりその末社とされたと伝えられています。
級長津彦命(しながつひこのみこと)、級長津姫命(しながつひめのみこと)など8柱を祀るために、八社大明神も呼ばれています。
また、当地は神功皇后誕生の地という伝承もあり、社宝に神功皇后所用と伝える雛形の兜があるそうです。
科長神社 - 1
科長神社 - 1 posted by (C)pismo

科長神社 - 2
科長神社 - 2 posted by (C)pismo

推古天皇陵は陵墓名を磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)、古墳名を山田高塚古墳といいます。
日本で初めての女帝である第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせました。
推古天皇陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられています。先に亡くなられた御子、竹田皇子と一緒に葬られたとされています。
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 1
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 1 posted by (C)pismo

推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 2
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 2 posted by (C)pismo

推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 3
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 3 posted by (C)pismo

二子塚古墳(ふたごづかこふん)は、7世紀中頃の墳墓といわれており、推古天皇陵の南東200メートルに位置し、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有しています。
東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室と石棺を有しています。
地元には二子塚古墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあります。
二子塚古墳 - 1
二子塚古墳 - 1 posted by (C)pismo

二子塚古墳 - 2
二子塚古墳 - 2 posted by (C)pismo

二子塚古墳 - 3
二子塚古墳 - 3 posted by (C)pismo

二子塚古墳 - 4
二子塚古墳 - 4 posted by (C)pismo

用明天皇陵は陵墓名を河内磯長原陵(しながのやまだのみささぎ)、古墳名を春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)といいます。
第31代用明天皇は、聖徳太子の父で古事記では最初磐余池上陵(いわれのいけのうえのみささぎ)に葬られ、その後推古元(593)年、河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)に改葬されたと記録されています
用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 1
用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 1 posted by (C)pismo

用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 2
用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 2 posted by (C)pismo

叡福寺は、山号は山号は磯長(しなが)山、聖徳太子御廟のある寺です。
「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「上之太子」と呼ばれています。
聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため神亀元(724)年に建てられたのがこの叡福寺です。寺は天正2(1574)年の兵火で大きな被害を受け、ましたが、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興しました。
叡福寺 - 01
叡福寺 - 01 posted by (C)pismo

叡福寺 - 02
叡福寺 - 02 posted by (C)pismo

叡福寺 - 03
叡福寺 - 03 posted by (C)pismo

叡福寺 - 04
叡福寺 - 04 posted by (C)pismo

叡福寺 - 05
叡福寺 - 05 posted by (C)pismo

叡福寺 - 06
叡福寺 - 06 posted by (C)pismo

叡福寺 - 07
叡福寺 - 07 posted by (C)pismo

聖徳太子の御廟です。
聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたといわれています。推古天皇29年(621年)、太子の生母穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれています。
叡福寺 - 08
叡福寺 - 08 posted by (C)pismo

西方院は、浄土宗の寺院です。
山号は南向山、知恩院末寺で聖徳太子作の阿弥陀仏を本尊とする寺院です。
太子の侍女月益、日益、玉昭の三姫(それぞれ蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘とされる)が太子死去後に剃髪して創建し、太子の冥福を祈って一生を終えたといわれています。
西方院 - 01
西方院 - 01 posted by (C)pismo

西方院 - 02
西方院 - 02 posted by (C)pismo

西方院 - 03
西方院 - 03 posted by (C)pismo

西方院 - 04
西方院 - 04 posted by (C)pismo

蘇我馬子の塚は、古くから土地の人々によって馬子の塚と言い伝えられてきました。
しかし、「建久四年古図」には「妹子大臣塚(小野妹子)」と記されており、真実は定かではありませんが、蘇我氏ゆかりの地に霊を祀る遺跡と思われます。
蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 1
蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 1 posted by (C)pismo

蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 2
蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 2 posted by (C)pismo

西方院や蘇我馬子の塚付近のマンホールはこんなデザイン。
西方院付近
西方院付近 posted by (C)pismo

西方院の階段から叡福寺を眺めます。
西方院付近から叡福寺を眺める - 1
西方院付近から叡福寺を眺める - 1 posted by (C)pismo

敏達天皇陵は陵墓名を河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)、古墳名を太子西山古墳といいます。第30代敏達天皇は、死後、母君の石姫皇后の墓である磯長の陵に葬られたと『日本書紀』は記しています。
全長約93メートルの磯長谷では唯一の前方後円墳です。
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 1
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 1 posted by (C)pismo

敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 2
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 2 posted by (C)pismo

敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 3
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 3 posted by (C)pismo

この次は、羽曳野の河内源氏発祥の地へ向かいます。
Posted at 2010/11/22 19:53:34 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車
2010年11月03日
中宮寺跡は、現在法隆寺東院の隣にある中宮寺が、創建当初建てられたところです。
現在の中宮寺の約500m東方にあり、土壇が残っています。
昭和38(1963)年、発掘調査が初めて行われ、塔と金堂について多くの知見を得ることができました。
昭和47(1972)年から昭和62(1987)年にかけて5次にわたって発掘調査が行われ、寺院伽藍や寺域が徐々に明らかになりました。
塔跡にはついては、基壇上面の側柱礎石が抜き取られるなど保存状態は良くありませんでしたが、基壇の規模は一辺約13.5mで、塔自体は一辺約6.8mと推定されています。
基壇中央には約2.5m地下に、花崗岩の塔心礎が遺存し、そうの上面からは金環、金糸、金延板小片、玉類等の埋納物が発見されました。
金堂跡については、部分的な調査でしたが、基壇を二度造りなおしたことが明らかになりました。
創建当初は、凝灰岩製切石による壇正積基壇と推定され、これを平安時代に縮小し瓦積基壇とし、鎌倉時代に花崗岩の割石による乱石積基壇に修造しています。
鎌倉時代の基壇規模は、東西約17.3m・南北約14.1mで創建時もほぼ同規模であったと思われます、現存礎石や礎石抜き取り穴から桁間5間・梁行4間の建物が推定されています。
講堂、中門、回廊などの存在は明確になっていませんが、講堂は創建当初は計画されたものの、造営されなかった可能性が高く、中門は、溜池開削によって破壊されたと考えられます。
寺域については、西面と北面の築地塀跡(基底幅約2.1m)を検出していて、築地塀外観には幅約2.4mの外濠がめぐり、築地塀内側にも内濠がめぐります。
このことから、寺域は東西128m、南北165mと推定されます。
北門や南門の一部や西面築地に並行する南北の古道を検出しています。
出土遺物としては、創建瓦の単弁蓮華文軒丸瓦をはじめ、飛鳥時代から室町時代の瓦があります。
このことは、伝えられている寺院の消長と一致します。
中宮寺は聖徳太子が、母穴穂部間人皇后の宮室を寺院にしたと伝わり、聖徳太子創建七ヶ寺のひとつ「中宮尼寺」に比定されていますが、諸説があり定かでありません。
飛鳥時代創建の法隆寺若草伽藍とはほぼ同時期に建立されたことは確かで、上宮王家との深い結びつきがある寺院です。
(斑鳩町 斑鳩町教育委員会説明板より)
中宮寺跡 - 1
中宮寺跡 - 1 posted by (C)pismo

上宮遺跡は、平成3(1991)年度にふるさと創生事業の一環として、公園建設された際に確認された遺跡です。
斑鳩町教育委員会により発掘調査が実施され、奈良時代の大型の掘立柱建物群が発見され、平城宮で使用されたものと同じ笵型で作られた軒瓦が多数発掘されました。このことは、上宮遺跡が当時の朝廷と深い関係にあったと想像できます。
この公園の南にある成福寺の周辺は聖徳太子が晩年過ごされた「飽波葦墻宮(あくなみあしがきのみや)」の伝承地です。
「続日本紀」には、称徳天皇が神護景雲元(767)年に「飽波宮」に行幸した際に、二日間滞在したとあります。更に神護景雲3(769)年にも河内由義宮に向かう途中に立ち寄ったとありますので、飽波宮は常設の行宮だったようです。
これらのことから、上宮遺跡は、奈良時代の飽波宮跡である蓋然性が非常に高く、飛鳥時代の「葦垣宮」も将来、周辺で発見される可能性が高まっています。
地下遺構の保存に配慮する形で中心部のみが公園として整備され、例年9月22日に行なわれる「太子ロマン斑鳩の里観月祭」の会場となっています。
上宮遺跡公園 - 1
上宮遺跡公園 - 1 posted by (C)pismo

上宮遺跡公園 - 2
上宮遺跡公園 - 2 posted by (C)pismo

調子丸塚古墳は、駒塚古墳の南東に位置します。
長さ約49mの前方後円墳「駒塚」より少し小さく直径約14m、聖徳太子の舎人(従者)で、いつも太子に仕えていた調子丸の塚と伝えられています。
調子丸は84歳で亡くなり、この地へ葬られたと伝えられています。
ただし、この墓は考古学の視点からは古墳時代中期(5世紀)の造営と考えられています。
田んぼや住宅に囲まれていて、直接道路には接していません。
少し離れたところから撮影しました。
調子丸塚古墳 - 1
調子丸塚古墳 - 1 posted by (C)pismo

調子丸塚古墳 - 2
調子丸塚古墳 - 2 posted by (C)pismo

駒塚古墳は、聖徳太子の愛馬だった黒駒(烏駒〔からすこま〕ともいう)を埋めた塚と伝えられています。
大師は諸国に命じ、良馬を求めたところ、甲斐国から献上されたのが黒駒です。
「太子伝」にはこの馬の伝説がよく出てきており、「太子を乗せ、3日3夜で国中を巡った」という話や、「太子が亡くなられた時、棺の側に寄り添って河内の磯長陵(太子の墓)までお送りし、棺が墓に葬られた時、目から赤い涙を流し、悲鳴と共に倒れ、息が絶えた」と伝えられています。
平成12(2000)年度〜平成16(2004)年度の4ヶ年をかけ、発掘調査が行われました。
調査の結果、全長49m以上の前方後円墳で、墳丘は前方部、後円部共に二段に築かれ、墳丘には葺石が葺かれていることが判明しました。
埋葬施設は後円部で墓壙の輪郭を確認しました。埋土に乱れが無いため未盗掘墳の可能性があります。 出土遺物では、埴輪はほとんどなく、赤色顔料を塗布した二重口縁壺の破片が少量出土しました。 築造時期は出土遺物が少なく断定はできませんが、墳丘形態などからこれまで考えられていた古墳時代中期(5世紀)よりは少し古い4世紀後半頃の古墳である可能性が高まりました。
(看板資料などより)

駒塚古墳 - 1
駒塚古墳 - 1 posted by (C)pismo

駒塚古墳 - 2
駒塚古墳 - 2 posted by (C)pismo

駒塚古墳 - 3
駒塚古墳 - 3 posted by (C)pismo

コメダ珈琲法隆寺店の駐車場の隣接地にあります。
自転車で良い運動をしたので、疲れました。コメダ珈琲でシロノワールを食べて休憩後、法隆寺の駐車場に戻り帰路につきました。
Posted at 2010/11/14 17:03:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車
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「今日の歴史秘話ヒストリア「こんなBOSSならついていきたい!~武田信玄 悩んで迷って大きくなった~」」
何シテル?   11/24 21:36
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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