この日は京都の紅葉写真を撮影しに京都を訪れました。
最初に訪れたのが、
法然院です。
法然院は正式には善気山法然院萬無教寺といいます。
鎌倉時代の初め、法然上人が弟子の住蓮、安楽とともに、阿弥陀仏を昼夜に六回拝む六時礼賛を勤めた草庵で、江戸時代の寛永年間(1624~1644)には殆ど廃絶していたが、延宝8(1680)年に知恩院の第三十八世萬無心阿上人と弟子の忍澂和尚が念仏道場として再興しました。
本堂には恵心僧都作の阿弥陀如来坐像と法然上人自作木像を安置し、直壇には毎朝二十五の生花が散筆されます。
方丈は伏見城(桃山御殿)の遺構を移築したものといわれ、襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠(かいどう) 図」及び屏風の雪松図はいずれも重要文化財に指定されています。
参道に散る椿が有名で、境内には谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇ら多くの文化人の墓があります。
毎年、4月1日から7日までと11月1日から7日までの年2回、伽藍内部の一般公開を行っています。残念ながらこの日は山門付近の撮影のみです。また椿の時期にでも訪れたい、なかなか風情のある寺院です。
法然院からは
哲学の道を散歩します。
哲学の道は南禅寺から銀閣寺まで、琵琶湖疎水分流沿いの散歩道です。哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことから「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」になったそうです。桜の名所としても知られていますが、紅葉も美しいです。
日本の道100選にも選ばれています。
大豊神社は少彦名命、応神天皇、菅原道真を祀っている神社です。
社伝によると、仁和3(887)年、宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願社であり、朝野の信仰が篤い神社でした。建武の内乱、応仁の兵火などによって焼失しましたが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ヶ谷、法然院、南禅寺一帯の土産神として信仰を集めています。
特に末社大国社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶はそれぞれ神の使いとして有名です。また、神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花や山野草が四季折々の姿を見せています。特に椿は名所として知られているようです。
熊野若王子神社は、祭神として、国常立神(くにとこたちのみこと)、伊佐那岐神(いざなぎのみこと)、伊佐那美神(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀ります。
永暦元(1160)年、後白河法皇が、熊野権現を勧請して建立した若王子の鎮守社で、社名は天照大神の別称「若一王子」に因んでこのように名付けられました。
以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、寛正6(1465)年3月には、足利義政により花見の宴が催されました。その後、応仁の乱により社殿は荒廃しましたが、豊臣秀吉により再興され、社殿及び境内が整備されました。
現在の社殿は、昭和54(1979)年に一社相殿に改築されたもので、以前は、本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていました。
また、境内には、末社として恵比須神社及び三解社が祀られています。
背後の若王子山頂には、同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者である新島襄の墓があります。
そして、この日のお目当ての一つ
永観堂の紅葉です。平日とはいえ、有名な紅葉スポットだけに多くの人が訪れていました。永観堂は正式には禅林寺といい浄土宗西山禅林寺派の総本山です。仁寿3(853)年に空海の弟子真紹が藤原関雄の山荘を譲り受け、尊像を安置、真言宗の道場としたのが始まりです。承暦年間(1077-81)には第7世永観が入寺し、浄土念仏道場としました。
顔を斜め後ろに向けた阿弥陀如来像は「みかえり阿弥陀」として知られています。国宝の絹本着色山越阿弥陀図(鎌倉期)など多くの寺宝を所蔵。毎年11月には寺宝展を開いています。
寺宝展では、「豊臣秀吉像」「豊臣秀長像」を見ることができました。
紅葉の名所で「秋はもみじの永観堂」としてとして知られています。
今年の紅葉は、やや異常気象のせいか、少し色づきが悪いように思いました。しかし、やはり見事な紅葉で、感動しました。
哲学の道周辺で最後に訪れたのが
光雲寺です。光雲寺は霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する寺院です。南禅寺の境外塔頭で、南禅寺北ノ坊とも呼ばれています。もと摂津(大阪府)にありましたが、寛文年間(1661年頃)、後水尾天皇及び中宮東福門院(徳川家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依され、当寺をこの地に移して再興されました。
本尊には、東福門院の釈迦如来と観音菩薩を賜って安置しました。歴代皇室の尊崇あつく、元久邇宮家の菩提所となっています。かつての境内は広大でしたが、火災に遭い、また明治の初めの変革により縮小されました。
光雲寺は普段は非公開です。本堂には、本尊のほか左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置しているそうでう。書院南の庭園は、昭和の初め造園家小川治兵衛が作庭しました。疏水の水を引き、背景の山を借景とした池泉廻遊式の名園となりました。朝鮮伝来の碼碯(めのう)の手洗鉢が庭の東北隅にあることで知られています。寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓があります。
この後は、金戒光明寺、真如堂を訪れます。
Posted at 2007/12/03 22:59:30 | |
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