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2009年06月06日 イイね!

姫路~御着~加古川市志方の史跡

折りたたみ自転車 KHS F20 WestWoodの試走を兼ねて少し近場でドライブに出かけてみました。
亀山本徳寺は、永正12(1515)年、下間空善が英賀城下にあった英賀本徳寺が前身です。播磨における浄土真宗本拠でした。
天正8(1580)年の羽柴秀吉の英賀城攻めの際に秀吉により現在地に移されました。
慶長7(1602)年に浄土真宗は東西に分裂しますが、亀山本徳寺は西本願寺に属し、東本願寺派に属す船場本徳寺が新たに建立されました。
境内には姫路城から移築されたと伝えられる鼓楼や、京都本願寺より北集会所(きたしゅえしょ)の建物を貰い受けて移築した本堂が立派です。まるでお城の建物のようです。北集会所は幕末、新撰組が西本願寺を屯所とした際に使っていた建物です。
亀山本徳寺 - 01
亀山本徳寺 - 01 posted by (C)pismo

亀山本徳寺 - 02
亀山本徳寺 - 02 posted by (C)pismo

亀山本徳寺 - 03
亀山本徳寺 - 03 posted by (C)pismo

亀山本徳寺 - 04
亀山本徳寺 - 04 posted by (C)pismo

亀山本徳寺 - 05
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亀山本徳寺 - 06
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亀山本徳寺 - 07
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亀山本徳寺 - 08
亀山本徳寺 - 08 posted by (C)pismo

亀山本徳寺 - 09
亀山本徳寺 - 09 posted by (C)pismo

亀山本徳寺 - 10
亀山本徳寺 - 10 posted by (C)pismo

御着城は播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城です。別名を茶臼山城・天川城ともいいます。
永正16(1519)年に小寺政隆が築城し、則職・政職が居城としました。御着城最後の城主小寺政職は、黒田職隆・官兵衛孝高(如水)父子等を登用したことで知られています。政職は官兵衛の助言で織田氏に味方しましたが、別所長治の抗戦、荒木村重の謀反等の形勢により、毛利方に寝返ったので攻められ落城しました。
現在は御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、道路の北側には姫路市役所東出張所・御国野公民館が建てられ、一部は城址公園となっています。公園には石碑と黒田官兵衛顕彰碑が建てられています。
公園の東側には、享和2(1802)年に建立された黒田如水の祖父・重隆と生母(明石氏)の2人が眠る黒田家墓所があります。
国道2号を挟んで南側には御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしている小寺大明神があります。
御着城 - 01
御着城 - 01 posted by (C)pismo

御着城 - 02
御着城 - 02 posted by (C)pismo

御着城 - 03
御着城 - 03 posted by (C)pismo

御着城 - 04
御着城 - 04 posted by (C)pismo

御着城 - 05
御着城 - 05 posted by (C)pismo

御着城 - 06
御着城 - 06 posted by (C)pismo

御着城 - 07
御着城 - 07 posted by (C)pismo

御着城 - 08
御着城 - 08 posted by (C)pismo

御着城 - 09
御着城 - 09 posted by (C)pismo

御着城 - 10
御着城 - 10 posted by (C)pismo

播磨国分寺は天平13(744)年、聖武天皇の詔により国ごとにつくられた国分寺の一つです。
築地塀に囲まれた境内に南大門、中門、回廊、金堂、講堂、七重塔、僧坊、北門を備えた壮大な寺院でしたが戦乱などで焼失し、現在の国分寺は寛永16(1639)年姫路城主となった松平忠明が再建したものです。
国分寺跡は国の史跡に指定されています。現在、創建当時の伽藍配置に基づき、現存寺院の南側に塔や門、回廊などの基壇、築地塀などが復元され歴史公園として整備されています。
播磨国分寺 - 01
播磨国分寺 - 01 posted by (C)pismo

播磨国分寺 - 02
播磨国分寺 - 02 posted by (C)pismo

播磨国分寺 - 03
播磨国分寺 - 03 posted by (C)pismo

播磨国分寺 - 04
播磨国分寺 - 04 posted by (C)pismo

播磨国分寺 - 05
播磨国分寺 - 05 posted by (C)pismo

播磨国分寺 - 06
播磨国分寺 - 06 posted by (C)pismo

播磨国分寺 - 07
播磨国分寺 - 07 posted by (C)pismo

壇場山古墳(だんじょうざんこふん)は5世紀前半に築かれた全長約143mの前方後円墳で、兵庫県下で第3位、西播地方では最大の規模です。
壇場山の名は神功皇后が西征の途中、この山に壇を築いて戦勝を祈ったとする伝承に由来しています。
周濠をめぐらし、前方部と後円部の間のくびれ部に造り出しが見られます。
後円部頂上には組合式長持形石棺の一部が露出し、縄掛け突起のある石棺蓋が見えています。
大正10(1921)年、国の史跡に指定されています。
壇場山古墳 - 1
壇場山古墳 - 1 posted by (C)pismo

壇場山古墳 - 2
壇場山古墳 - 2 posted by (C)pismo

壇場山古墳 - 3
壇場山古墳 - 3 posted by (C)pismo

志方八幡神社は天永2(1111)年志方荘の宮谷に創祀され、明応元(1492)年志方城主櫛橋左京亮伊則が山城国・石清水八幡宮より八幡神を現在地に勧請し、志方荘30か村の総鎮守としました。
祭神は、応仁天皇、神功皇后、玉依姫命(たまよりひめみこと)です。
古来、厄除安産の神、交通安全の神として高く崇敬され、播磨三社八幡の一つになっています。
志方八幡神社 - 1
志方八幡神社 - 1 posted by (C)pismo

志方城は、明応元(1492)年櫛橋則伊によって築かれました。天正6(1578)年、志方城主櫛橋伊定の時に三木城主別所長治に従ったため、羽柴秀吉によって攻められ落城した。伊定の娘は小寺氏の家老黒田官兵衛孝高に嫁いで長政を生んでいたため、櫛橋氏は黒田氏の家臣となりました。
現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城だったそうです。観音寺の門に入り、右手に城跡を示す案内板がありますが、遺構は残っていないようです。
志方城 - 1
志方城 - 1 posted by (C)pismo

志方城 - 2
志方城 - 2 posted by (C)pismo

志方城 - 3
志方城 - 3 posted by (C)pismo

天神山城は、赤松則村の四男、氏範が築いた城です。
氏範は一族が北朝方でしたが、南朝方に味方していました。
康安元(1361)年、氏範は居城を摂津有馬郡の三田城に移しました。
至徳3・元中3(1386)年、播磨清水寺で細川頼元と戦い、討死しました。
その後は櫛橋氏の居城となりましたが、櫛橋則伊は明応元(1492)年、志方の中心部に新たに平城の志方城を居城としました。その後も天神山城は詰城として機能していたと思われます。
南麓の西飯坂公会堂、天神社付近から登ります。天神社の西側の階段を上っていくと、赤松氏範の墓があります。主郭部付近は藪に覆われ、遺構らしきものもありますが、確認しづらいです。説明看板などはありません。

天神山城 - 1
天神山城 - 1 posted by (C)pismo

天神山城 - 2
天神山城 - 2 posted by (C)pismo

天神山城 - 3
天神山城 - 3 posted by (C)pismo

中道子山城(ちゅうどうしざんじょう)は、赤松則村の四男、氏範が築いたとも、赤松(孝橋)繁広が築城したともいわれています。
戦国時代になると、孝橋氏は赤松氏に味方し、浦上氏や尼子氏、三好氏と戦います。孝橋秀時は、弘治2(1555)年、三好氏との戦いで形勢利あらず、佐用郡の浅瀬山城に居城を移しました。
現在は城山公園として整備されています。遺構もよく確認でき、志方、神吉や平荘湖などの眺望も素晴らしいです。城山公園は麓の駐車場から歩いていくことになります。途中までは舗装路ですので、自転車で登ってみました。
中道子山城 - 01
中道子山城 - 01 posted by (C)pismo

中道子山城 - 02
中道子山城 - 02 posted by (C)pismo

中道子山城 - 03
中道子山城 - 03 posted by (C)pismo

中道子山城 - 04
中道子山城 - 04 posted by (C)pismo

中道子山城 - 05
中道子山城 - 05 posted by (C)pismo

中道子山城 - 06
中道子山城 - 06 posted by (C)pismo

中道子山城 - 07
中道子山城 - 07 posted by (C)pismo

中道子山城 - 08
中道子山城 - 08 posted by (C)pismo

井ノ口城は、築城年代は不明ですが、志方家金の子井口家基・家繁が居城としていました。その後、天正年間には、志方氏の家臣依藤三河守・同小八郎の居城となり、天正6(1578)年の羽柴秀吉の三木城攻めで運命を共にしました。
現在は「加古川温泉 みとろ荘」の敷地となっています。ちなみに、「みとろ荘」のみとろは、井口城の姫の名「見登呂」にちなんでいます。
井ノ口城 - 1
井ノ口城 - 1 posted by (C)pismo

井ノ口城 - 2
井ノ口城 - 2 posted by (C)pismo
Posted at 2009/06/21 20:35:54 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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