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ピズモのブログ一覧

2008年06月22日 イイね!

堺の堺市博物館、大仙公園と大仙陵古墳

この日は雨でした。以前から近くなのに行ったことがなかった堺市博物館を訪れました。
この博物館は、古墳の歴史は、近世都市として栄えた堺の歴史について色々学ぶことができます。


そして、堺市博物館がある大仙公園を散策し、日本庭園であじさいや花菖蒲を見に行きました。
大仙公園は、日本の都市公園100選に選ばれた都市公園です。
日本庭園は、その大仙公園内に、市制100周年を記念して造られた築山林泉廻遊式庭園です
池泉の対岸を中国大陸に見立てて造った庭園は四季折々の花木を楽しむことができ、多くの人々に親しまれています。


















大仙公園と道路を挟んで北側には大仙陵古墳〔仁徳天皇百舌鳥耳原中陵〕があります。
墳丘の全長は480m、前方部の幅305m、後円部の直径245m、周濠を含めた東西の長さ656m、南北の長さ793m、周囲は2,718m、面積 464,124㎡となっていて我が国の前方後円墳としては最も大きい古墳で墓域面積は世界最大です。日本書紀によれば、仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町~中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました。この時、鹿が野の中から走り出て、工事に従事している人々の中に走り入って、にわかに倒れました。人々があやしんで調べてみると、その耳の中から百舌鳥が飛び去り、鹿の耳の中が喰いさかれていましたので、ここを百舌鳥耳原と名づけたと記されています。
仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日に亡くなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られました。(古事記では毛受耳原陵)
徳川時代の中頃までは、陵墓の管理が充分に行われていませんでしたが、嘉永5(1852)年、堺奉行川村修就はこれを憂いて、後円部上にあった勤番所を裏門に移し、天皇を葬ったと思われる後円部200坪に高さ3尺の石の柵を設けて、陵内を整備したと伝えられています。
明治5(1872)年9月、前方部正面の第2段のやや上がくずれ、立派な石積の竪穴式石室が発見されました。
正面の拝所の部分しか入ることができませんが、あまりにスケールが大きいためここから見ると大きな山にしか見えません。ただし、堺市役所の21階の展望ロビーからは全景を見ることができるそうです。

Posted at 2008/07/06 13:04:19 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年06月14日 イイね!

広島県へドライブ(2日目その3・安芸高田市〔旧甲田町〕~三次市)

ここからは帰路です。
しかし、まだ日が明るいので、今度は一転広島県の北部地方に行ってみました。
前に宍戸氏の居城、五龍城には麓にまではいったのですが、参道の急勾配を見て、時間の都合で撤退したのがずっと気になっていたので訪れてみました。
麓には、千貫水があります。
千貫水の歴史は大変古く、建武元(1334)年に遡ります。
甲立庄の領主に命ぜられた宍戸朝家が五龍城を築きましたが、水が出なかったため、城の五ヶ所に龍王を祀ると、突然水が湧き出しました。代々の領主はこの水を愛し、なかでも八代目宍戸隆家は「値千貫にも換え難し」と称賛しました。これが「千貫水」の命名の由来といわれています。
いつの頃からか水脈が代わり、大道(国道54号線)の下岸に湧き出すようになったと伝えられています。道端の石碑は文化8(1811)年にこの地の先人、三上輝親、安秀が「千貫水」の所在を示すために建てたものです。


五龍城は、宍戸氏の居城です。甲立盆地の西南端の丘陵先端部にある山城で、南北朝期以後、慶長5年(1600)の毛利氏防長移封までの約250年間、宍戸氏の居城でした。
宍戸氏は常陸国宍戸にいた宍戸朝家が、元弘3(1333)年足利尊氏と共に六波羅攻略の戦功で、翌建武元(1334)年安芸守に任ぜられ、甲立荘を領することになりました。当初菊山中腹の柳ヶ城へ入りました。その後この元木山に城を移しましたが、用水がないため、五龍王を勧請して祈願したところ、井戸が湧出したため山の名前を五龍と改め五龍城と呼ぶようになりました。
堅固な山城で、7代宍戸元源の時代に毛利元就も幾度かこの城を攻めたが落城させることができず、天文2(1533)年、8代城主隆家と毛利元就の娘との婚姻により両氏は和睦し、毛利氏の有力な重臣となりました。所領は約15万石あったそうです。9代元続は、慶長5(1600)年毛利氏の防長移封に伴い、周防三丘(約1万2千石)に移ったため、五龍城は廃城となりました。
東側の宍戸司箭神社の急な参道が登城口です。一部歩きにくいところもありますが、そんなに登城には時間がかかりませんでした。主郭部の大きな土塁と石垣が見所だと思います。


祝屋城(岩屋城)は、五龍城主宍戸元家が永正元(1504)年城を嫡子元源に譲り次男隆兼と三男家俊と共にここに移りました。隆兼は祝屋城主となり、この地の地名深瀬を名乗り深瀬隆兼と名乗りました。
天文9年(1540)6月、尼子詮久(晴久)は毛利攻めを決意し、先陣として尼子国久、誠久、久幸ら将兵3千人を備後路から志和地の八幡山城に陣を進めました。そして、祝屋城、五龍城を陥した後、吉田郡山城へ向かわせる計画でした。それに対し、深瀬隆兼、宍戸隆家が祝屋城前の犬飼平、江の川石見堂の渡しの合戦で激しく防戦し、遂に尼子勢を敗退させ、備後路からの吉田郡山城攻めを諦めさせました。
深瀬氏は慶長5(1600)年、毛利氏の防長移封に従い周防三丘に移り廃城となるまで4代96年在城しました。
国道から離れた集落内に石碑と説明看板があります。石碑と説明看板のあたりには動物よけのためと思われるネットがされていて、城には登れないようにしていました。


高杉城は標高170mの高杉の河岸段丘を利用してつくられた本丸をもつ城です。
別名を祝要害、杉山城ともいい、観応年間(1350-52)、この地方の国人領主であった江田(広沢)氏と関係の深い知波夜比古神社の祝新左衛門尉氏正が築城し、祝氏の本拠としました。その後も江田氏の支城としての役割を果たしていましたが、戦国時代になると三次盆地は尼子氏と大内・毛利氏の争奪の舞台になりました。天文21(1552)年毛利氏の攻撃を受け落城し、城主祝甲斐守父子も滅ぼされました。その後、弘治2(1556)年毛利元就・隆元父子によって知波夜比古神社の本殿が再建されました。城としての機能は失われても、神社はすぐに復元されて現在に続いています。
なお、この城は高杉晋作の先祖にかかわりのある城だともいわれています。ただし、安芸高田市の旧吉田町にも高杉山城という城があるそうで、詳しいことはわからないようです。。


わずか一泊二日の旅行でしたが、結構楽しめました。広島県はまだまだ史跡もありますし、距離もそんなにないので、ちょくちょく毛利氏関係を中心に訪れてみたいと思います。
Posted at 2008/07/06 00:11:28 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年06月14日 イイね!

広島県へドライブ(2日目その2・宮島)

次はいよいよ宮島です。広島県もよく訪れている県ですが、宮島は子供の時に訪れて以来の訪問です。
おそらく宮島では車を使用することはないということで車を宮島口駅付近にとめて、フェリーに乗船しました。
フェリーから眺める海に浮かんでいるような厳島神社の姿はやはり魅力があります。


宮島の桟橋を降りてすぐの所に、日本三景碑があります。
日本三景碑は、平成11(1999)年に建てられた碑で、儒学者「林春斎」によって寛永20(1643)年に書かれた「日本国事跡考」より抜粋された「安芸厳島、陸奥松島、丹後天橋立、三処を奇観と為す」との意味の漢文が刻まれています。
宮島桟橋の近くにあります。


宮尾城は厳島の標高30メートルほどの要害山に築かれた城です。
弘治元(1555)年です。陶晴賢との対決を控えた毛利元就は、陶軍の広島湾進出を阻止し、厳島に陶軍をおびき寄せるため厳島のこの地に築城し囮の城としました。守りには厳島神領衆の己斐豊後守や新里掃部介ら300名余を詰めさせました。
9月、厳島を戦略拠点とすべく島に上陸した陶方二万の兵は五重塔がある塔の岡付近に本陣を置き宮尾城へと攻めかかりました。陶軍は激しく攻撃しましたが300名が守る宮尾城はよく守り、10日間も耐えました。元就は主力の軍を率いて包ヶ浦から上陸し、山を越え背後から陶軍の本陣を急襲し、宮尾城の兵も主力軍に呼応して陶軍を壊滅させました。
城の遺構は殆ど残っていませんが、宮島桟橋近くにあり、急な階段を上っていきます。そこが城跡で説明看板が建っています。


千畳閣は天正15(1587)年、豊臣秀吉が戦没将兵の慰霊のため、大経堂として建立しました。畳857枚分の広さがあることから「千畳閣」と呼ばれるようになりました。秀吉の死により工事が途中で中止され、板壁も天井の板もない未完成の状態のままとなっています。明治初年の神仏分離により本尊の釈迦如来座像は大願寺に遷され、厳島神社末社・豊国神社とされました。
また、この辺りは塔の岡といい、厳島の戦いの時に陶軍が陣を構えたところです。


五重塔は、千畳閣の隣、塔の岡に建つ応永14(1407)年に建立されたものです。
高さ約28mの檜皮葺きの塔で立派な建造物です。


厳島神社は、宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)を祀る神社です。推古天皇元(593)年、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝えられています。
平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、仁安3(1168)年頃に平清盛が現在の社殿を造営し、平家一門の隆盛とともに繁栄しました。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けました。
毛利元就が弘治元(1555)年の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き大掛かりな社殿修復を行いました。豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参り、大経堂を建立しました。














清盛神社は、厳島神社の末社で平清盛を祀る神社です。昭和29年(1954)年、平清盛の没後770年を記念し建立されました。


宮島歴史民俗資料館は、江戸時代から明治にかけて栄えた豪商の江上家の屋敷の母屋と土蔵の一部をそのまま保存して資料館として公開しています。宮島の歴史、文化を学びながらかつての豪商の家の庭園や建物を見学できます。


厳島神社宝物館です。厳島神社は歴史のある神社だけあって奉納された数々の美術工芸品や武具、資料などが奉納されてきました。宝物館では平家納経や武将達が奉納した刀剣類などを所蔵しています。平家納経は普段はレプリカを展示しています。


大願寺は、正式には亀居山方光院大願寺という真言宗の寺院です。
室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、道本・尊海・円海と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社諸建築の建造や復旧に当たったことで知られています。
書院では、幕末の第二次長州征伐の際、幕府側の勝海舟と長州藩の広沢兵助(真臣)・井上聞多(馨)らとの講和交渉が行われました。
境内には伊藤博文が植えたと伝えられている「大願寺の九本松」があります。


多宝塔は、大永3(1523)年僧周歓の創建によるものです。上層は円形、下層は方形、屋根は上下とも方形となっている珍しい構造です。重要文化財に指定されています。
またこの地は弘治元(1555)年の厳島合戦において陶晴賢が陣所を置いた所にあたります。高台に位置し、五重塔と共によく目立ちます。



勝山城は大永4(1524)年大内義興により築かれたと言われています。)。
弘治元(1555)年の厳島の戦いでは陶晴賢が大元浦に上陸し最初に本陣を設けた所でもあります。
遺構などはあまり残っていないようです。多宝塔の南側のすこし高台になったところに石碑が建っています。


林家住宅〔上卿屋敷〕です。林家は古くから厳島神社の神職をつとめ、朝廷の差し遣わされる奉幣使の代参をつとめて「上卿」(しょうけい)と呼ばれていました。
現在の建物は元禄時代の建築で、全国的にも数少ない社家の一つで国の重要文化財に指定されています。
内部は非公開で、入口付近に説明看板が建っています。


棚守屋敷跡は厳島神社の神職として棚守職をつとめた野坂家の屋敷跡です。厳島神社の鎮座にあずかった佐伯氏の子孫には、平清盛の信任を受けて社殿の大造営をなしとげた佐伯景弘などがいましたが、鎌倉時代には関東の御家人であった藤原親実が神主職となり子孫として続き、佐伯氏は棚守職を世襲して野坂氏を称し、左舞師を兼ねました。大内義隆、毛利元就と親交のあった野坂房顕、江戸時代の末に舞楽の抜頭の秘曲を天王寺怜人に伝授した野坂元貞などは著名です。
屋敷のあったこの付近は棚守屋敷に続き祝師、上卿などの屋敷が並んでいました。棚守屋敷跡は現代の家が建っていますが、石段が残っていて往事を偲ぶことが出来ます。


この次は宮島ロープーウェイで弥山に登ります。一度乗り換えて2回のロープーウェイの登山。景色が綺麗です。
獅子岩展望台は、宮島ロープウェー終着点の獅子岩駅を降りてすぐの所にある展望台です。
瀬戸内海の島々の眺望が素晴らしい展望台です。


獅子岩からさらに弥山に登っていきます。
弥山は大同元(806)年弘法大師が百日間の求聞持の修法を行った
場所で、阿波の大龍嶽・土佐の室戸岬とともに、真言密教の日本三大道場となっています。
本堂、霊火堂、三鬼堂、文殊堂・観音堂など多くの堂社があります。


弥山展望台です。弥山は、厳島(宮島)の中心にそびえる535mの山です。
伊藤博文は「宮島の真価は弥山の頂上からの眺めにあり」と名言を残しました。
標高535mの山頂にある展望台からの眺めは素晴らしいと思います。
山頂は巨石がたくさんあります。
宮島ロープーウェイの終点、獅子岩駅からは歩いて40分から1時間程度かかりますが、絶景なので足を伸ばす価値はあります。


さらに奥の駒ヶ林まで歩いていきました。厳島の山塊は弥山、駒ヶ林、岩舟山の集まりです。駒ヶ林は標高509mで山頂部は大きな花崗岩の岩石で出来ています。岩登りのトレーニングをする人もいるそうです。
また、駒ヶ林は弘治元(1555)年の厳島の戦いで、龍ヶ馬場の攻防が行われた場所です。
厳島の戦いは、10月1日寅の刻、毛利軍が奇襲攻撃したため、陶軍は敗れました。陶軍の勇将、弘中三河守隆包は、主君陶晴賢を大元へ落とした後、百騎ほどの兵と共に弥山に登り、この駒ヶ林へ立てこもりました。吉川元春率いる毛利軍は数倍の軍勢でこれを取り囲みましたが、弘中隆包の必至の働きによりどうしても討ち取ることが出来ず、兵糧攻めの作戦をとりました。このため、さすがの弘中隆包も力尽き、二日後の10月3日、嫡子の弘中隆助(中務)と共に井上源右衛門らにより討ち取られ、厳島の戦いは終わりを告げました。
ここも弥山とならぶ眺望スポットです。巨大な岩からの宮島の眺めは素晴らしいです。


ここからは、歩いて弥山に戻り、更にロープーウェイ沿いに徒歩で下山することになりました。あまりロープーウェイ沿いのルートは歩くような酔狂な人も少ないのか、草も多くて結構歩きにくい道でした。
博奕尾は厳島の戦いゆかりの地です。
弘治元(1555)年9月30日、夜半に包ヶ浦に上陸した毛利元就は、この博奕尾にたどり着きました。
元就は、傍らの兵にこの地の名を尋ねて「博奕尾」であると聞くと「昔、源義経は勝浦に上陸して屋島の平家に勝った。今、我らはこの博奕尾に登った、博奕もうつもの、この戦いはもはや打ち勝った。」と兵士を鼓舞しました。ここから五重塔のある塔の岡にむけて毛利軍は進軍していきました。闇の中で道に迷ってしまった毛利軍の前に牡鹿が現れ塔の岡へ導いたと伝えられています。
博奕尾付近からは塔の岡の五重塔、厳島神社の鳥居を見ることができます。


そして麓にたどり着きました。表参道を歩くと、宮島の大杓子がありました。
宮島の大杓子は、宮島町が伝統工芸である宮島細工を後生に残すとともに、杓子発祥の地である宮島のシンボルとして製作し、平成8(1996)年12月の厳島神社の世界遺産登録を機に展示を始めました。宮島の杓子は江戸時代の寛政年間(1789~1800)、宮島の時寺の僧、誓真が弁財天の夢を見て、その手にしたびわの形の美しさを杓子にうつし、それを作ることを島の人に教えたのが最初とされています。
大きさは長さ7.7m、最大幅2.7m、重さ2.5t、材質は樹齢270年のケヤキ、制作期間は昭和55(1980)年5月から昭和58(1983)年3月の2年10ヶ月間、宮島細工協同組合が制作し、製作に関わったのは延べ300人だそうです。
表参道商店街に展示されています。


そして最後に厳島の戦いで、暴風雨の中、毛利元就が上陸を果たした包が浦を訪れることにしました。もうさすがに歩く体力がなかったので、タクシーを使用しました。
弘治元(1555)年9月30日、毛利元就は毛利隆元、吉川元春以下2千の本軍を率いて対岸の地、御前火立岩から折からの暴風雨をついて船出し、亥の刻(午後10時)にこの地に上陸しました。一兵も失うことなく上陸を終えると元就は、この浦の名を「包が浦」と聞いて「包はうつべきもの。もはや敵は打たれたも同然」と正平を鼓舞し、、直ちに水軍の将児玉就方に命じて兵船をすべて対岸に帰させました。そして「我今九死に一生の戦に臨む。幸いに利あらば晴賢を得ん。もし利なければ即ち死あるのみ。」と文字通り背水の陣をしき、陶軍の背後にあたる博奕尾を目指して、風雨ようやく収まった夜半に進撃命令を下しました。
タクシーの運転手さんと話をしていると、やはり歴史ファンはここを訪れる人が多いようです。
現在は「毛利元就上陸之跡」と刻まれた石碑が建てられています。石碑は車のロータリーの中央部にあります。
ただし、この石碑は以前は海岸の砂浜近くの所にあったそうです。平成9(1997)年の大河ドラマ「毛利元就」を機に、わかりやすい場所の現在の所に変更したようです。


宮島の麓の建造物群、そして弥山の自然。どれも素晴らしいものでした。1日の滞在ではまだまだすべての魅力を感じることはできていないと思います。できれば1週間くらい滞在してみたいところでした。
Posted at 2008/07/05 21:45:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年06月14日 イイね!

広島県へドライブ(2日目その1・広島市~廿日市市)

2日目です。
早朝は広島市内を散歩です。
旧国泰寺愛宕池です。
国泰寺は毛利輝元が広島城を築城した際に安国寺恵瓊により臨済宗の寺院、安国寺として文禄3(1594)年創建されました。
関ヶ原の合戦後、毛利氏が防長二州へ転封となり、替わって福島正則が入国した後、慶長6(1601)年に福島正則は弟の普照を尾張から招き住職とし、寺容を一新し、宗派を臨済宗から曹洞宗とし、寺号を国泰寺と改めました。
寺号は豊臣秀吉の戒名「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」に因るものといわれています。
紀州の浅野氏が入国した後も菩提寺として大事にされました。
幕末の第1次長州征伐の際には、幕府軍の総督府が置かれ、切腹した長州藩の3家老の首実検が行われ、第2次長州征伐の際には永井尚志が、近藤勇、伊東甲子太郎を同行させ、この寺で長州藩の宍戸備後助(山県半蔵)への尋問を行いました。
昭和20(1945)年8月6日、原爆により被災し、全焼しました。その後再建されましたが、昭和53(1978)年に西区己斐に移転しました。
かつて国泰寺があった中区中町は全日空ホテルが建っていますが、敷地の南側には愛宕池が残っています。国泰寺の鎮守愛宕社があったことから愛宕池と呼ばれるようになったものです。


白神社(しらかみしゃ)の付近は16世紀頃までは海で、船がしばしば海面につきでた岩礁に衝突し遭難したので船人は岩礁の上に白い紙を立て、船の安全をはかる目印にしていました。その後ここに小祠を建て「白神」と称しました。広島城を築いた毛利輝元は、城の南正面にあって人々の信仰を集めていたこの小社を城主の氏神、そして広島城下の総産土神とし、岩礁の上に新しい社殿を建立しました。その後、福島正則や浅野家代々の広島城主もこの神社を大切にし、広島の総氏神として住民から尊崇されていました。
昭和20(1945)年8月6日米軍投下の原子爆弾で神社は焼失し、昭和30(1955)年12月に再建されました。


ここからは車での移動です。西区に移転した国泰寺に行ってみました。
高台の静かな場所にあります。
境内には藩主浅野一族の墓、大石内蔵助良雄の妻・りくと三男・大三郎と一族のお墓、豊臣秀吉の遺髪塚があります。


次は廿日市市です。
桜尾城は、鎌倉時代、承久の乱の後藤原親実が厳島社家となり築城したといわれています。である藤原氏の拠る所で、厳島神社神主である佐伯氏の本拠だった。城は海に面し、東に岩戸尾、西に藤掛尾など七尾の諸城を従えた要害の地だった。戦国時代には、東に武田、西に大内の狭間となり、天文10(1541)年に友田興藤(藤原興藤)が大内義隆との戦いに敗れ落城し、300年続いた神主家は滅びました。
厳島合戦の前年である天文23(1554)年には、毛利元就が桜尾城を占拠して、重臣桂元澄が守り、厳島合戦の毛利氏の拠点となりました。
元澄死後、元就の四男穂井田元清が城主となったが、関ヶ原合戦後、毛利氏の移封とともに廃城となりました。
現在城跡は遺構などは殆ど残っていませんが、桂公園となっています。大正元(1912)年、厳島の戦い当時の城主であった桂元澄の子孫である公爵・桂太郎が当時の廿日市町に寄贈したものです。公園には桂太郎の揮毫による石碑が建っています。


この後は、宮島口から船で宮島を目指しました。
Posted at 2008/06/29 11:13:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2008年06月13日 イイね!

広島県へドライブ(1日目その3・鏡山城、銀山城〔佐東銀山城〕)

次は東広島市の鏡山城を訪れました。
一度訪れたことがありますが、その時は日没間近で、石碑のある麓から見上げるだけだったので、今回は国指定史跡の遺構をゆっくりと見て回りました。
南北朝から戦国期にかけて、この地域は「安芸国東西条」と呼ばれ、山口の守護大名大内氏の所領でした。
鏡山城は、築城の時期は明らかではありませんが、大内氏が安芸国支配の拠点とし、あわせて瀬戸内海中央部を押さえる目的で築いたものです。大内氏は、鏡山城に「東西条代官」を置き重臣を任命していました。安芸国は、大内氏と海外貿易めぐって対立する細川氏との接点となっていたため、鏡山城をめぐって攻防が繰り返され、特に応仁の乱では、主要な舞台の一つとして激しい戦いが行われました。戦国時代、大内義興は蔵田房信を城主としました。大永3(1523)年、出雲の尼子経久により毛利元就ら芸備の諸将とともに攻撃を行いましたがなかなか落城しませんでした。この時、元就は房信の叔父直信を調略により、寝返らす事に成功し、落城させましたが、経久は本家を裏切るなど武士の風上にも置けないと直信を処刑したため、元就は面目を失い、元就が大内方武将となった遠因ともいわれていますが、どうなんでしょう?
大永5 (1525年)年、大内氏は鏡山城を奪い返しますが、その拠点は盆地西方の杣城、槌山城に移され、鏡山城はその役割を終えました。
城跡は、鏡山公園となっています。公園入口に石碑と説明看板があり、登城していくと石垣や井戸跡、土塁などが一部残っています。
平成10(1998)年1月14日、国の史跡に指定されました。


次は広島市の北部にある、銀山城(佐東銀山城)を訪れました。
安芸武田氏の居城です。
承久の乱で手柄を立てた甲斐守護職武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山の南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えられています。銀山城は、これ以後、天文15(1541)年大内氏の命をうけた毛利元就らに攻め落とされるまで約300年間、太田川中、下流域を中心として安芸国支配を進めようとした武田氏一族の一大拠点として重要な役割を果たしていました。
戦国時代の永正14(1517)年、武田信繁は毛利元就や吉川氏の連合軍と有田城を巡って戦いましたが戦死し、武田氏の勢力は大きく衰えることになります。天文10(1541)年、大内氏の命により毛利元就により落城し、以後は大内氏の支配下におかれました。そして天文23(1554)年には、毛利元就のものとなりました。
登城は武田山憩いの森から登りました。かなり急な斜面を登っていくため、体力はかなり消耗します。城跡からの広島市内の眺望が素晴らしく、また規模の大きい山城のため見応えがあります。


この日はここで終了。広島市内のホテルに宿泊し、広島焼を楽しみました。本当は今年で最後となる広島市民球場で広島カープの試合でも見てみたかったのですが、この日はあいにく試合はありませんでした・・・
Posted at 2008/06/28 22:27:58 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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