勝連城(うるま市・旧勝連町)
勝連城は、勝連半島の付け根に立地する標高60〜100mの丘陵上に築かれています。
崖地形が巧みに利用され、曲輪の配置は、北西側の一の曲輪から各平場が階段状に低くなり、南東側の東の曲輪で再び高くなります。
最も高い一の曲輪では北方向は金武湾を囲む北部の山々や太平洋の島々が望まれ、南方向は知念半島や中城湾、それを隔てて護佐丸の居城である中城城が一望できる景勝地になっています。城の南側はかつて南風原集落(南風原古島遺跡)が展開して、海岸には海外貿易の拠点となった港がありました。
一方、城の北側にはかつては湿地帯であり、城の財政を支える水田などの農地が広がっていました。
勝連城は、有力按司、阿麻和利が住んでいた城として知られています。
口碑伝承では、初代城主は英祖王系・大成王の五男であったといわれています。その後勝連彼司は4代続き、6代目に世継ぎができないことから養子縁組により伊彼グスクの伊波彼司の六男が迎えられています。続く7、8番目ほ交代の理由は判りませんが浜川彼司になっています。
そして9番目は茂知附彼司となります。しかしこの彼司は圧政を敷き酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒されます。
彼が10番目の城主になってからは勝連はますます栄えることとなりました。阿麻和利は琉球国王の尚泰久の娘百十踏揚(ももとふみあがり)を妻にするほどの力をもち、1458年に中城城の護佐丸を撃ち天下の統一を夢み首里城を攻めましたが大敗し滅んでしまいました。
昭和47(1972)年5月15日、国の史跡に指定された。平成12(2000)年11月、首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されています。(登録名称は勝連城跡)
(説明看板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H25.3.20
住所: 沖縄県うるま市勝連南風原
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