わたしは大学院に進学して学者になろうという野心があったので、山下教授のすぐ横に座って世間ばなし的な話と学問の話を交えて談笑していたら、急に男子学生たちが騒ぎ出した。あまり見かけない男子学生が一人でくだらない歌を歌い、周囲の男子学生もそれに同調し始めたので、教授の声がだいぶ聞きづらくなっていた。このとき初めて耳にしたのが大川という男子学生だった。背丈が一七五センチほどのやせ型で、長髪である。この男が一人で騒いでいるので、男子学生たちがわたしの方を向いて言う。「三輪さん!大川に何か言ってやれよ!」突然こう言われても困る。わたしが大川を見るのはこの日が初めてで、大川がどんな人間であるのかさっぱりわからない。周囲の男子学生に尋ねても、にやにやしているだけで何も答えてくれない。後日知ったのは、大川が山下教授のゼミではなく、岩崎教授のゼミに属していること。料理屋の長男である入山という男子学生と親しいこと。わたしに強い関心を持っていること、である。私に強い関心を持っているという情報については困ったものだと思った。大川のように人間性が軽い男を好まないからである。五月に図書館で勉強していたときのことである。「三輪さん、こんにちは!」声が背後から聞こえてきた。勉強に集中していたので、思わずはっとして声の方を向くと、大川が立っている。「三輪さんは学問に対して熱心ですね。僕なんか勉強が嫌いで、友人と飲みながらおしゃべりするのが好きなんですよね」このとき、図書館員が寄ってきて、静かにするよう注意された。