「松前大館・小館(徳山館)址」-松前町
蝦夷・松前藩の前身である中世蛎崎氏の居城跡
2007年07月22日
中世以前の蝦夷地の歴史は不明なことが多いですが、この大館はその頃の居館とされています。
中世蝦夷地の策定地とされる大館は近世・松前城の築かれた福山台地の背後に突出した丘陵を利用した典型的な山城で、大館・小館の2つの郭によって構築されています。
一説に蝦夷地に和人が定着したのは考古学的には11世紀頃からとされていて、文治5年(1189)の源頼朝の奥州藤原氏追討で敗戦した藤原氏の残党が多数逃げ渡って来たことに由来するといわれています。
いずれにしても南北朝期に奥州北部の敗れた豪族が北海道南部に定着したことは確かなようです。
その後、室町時代の14、15世紀には蝦夷管領安東盛季が本拠・津軽福島の他に蝦夷地も領有しうち和人居住地域を統轄するため一族を代官として派遣していました。その後、南部氏との戦いに敗れた盛季自身が大館に渡ったとされています。
長禄元年(1457)には、当時領有していた檜山安東氏に対し蝦夷東部アイヌ酋長コシャマインを首領に和人放逐を叫んで道南12ヶ所に設置されていた各館を攻略しました。大館は下国山城守定季と相原周防守政胤が守将で各12館を統轄していたと思われるが蝦夷(アイヌ)によって落とされました。
その後も明応2年(1493)に秋田安東氏に、永正9年(1512)に蝦夷が各館を襲撃。さらに同10年に大館が攻略されました。
同11年、松前藩家祖とされる武田信広の子、蛎崎光広が入り大館を改装して徳山館と改名したそうです。
その後も蝦夷との抗争は続き、同12年には大館で酋長ショヤコウジらを謀殺。享禄元年(1528)には3代蛎崎良広が館中巡視の際、侵入してくる蝦夷を刺殺。同5年、酋長タリコナを謀殺しました。
そして蛎崎家5代目で松前藩祖の松前慶広が天正10年(1582)に家督を相続。軍学・文学・外交手腕を発揮し秋田安東氏の蝦夷地代官の地位から蝦夷島主という大名に準ずる地位を獲得し松前氏が大名として成長する基礎を築きました。
天正17年、大館(徳山館)内の嫡男盛広の居室から出火し郭内主要部を焼失。
その後、大館が山城で狭隘であり、松前のほうが海に近く、交易経済に便利なので、大館前方の台地福山に新規築城を慶長5年(1600)から着工しました。同11年に移城し、大館(徳山館)は廃館となり、その後は実質的に後方の隠し要害として保存され、現在に至っています。
しかし近年、遺構は無保護状態で土塁が畑化などで破壊され荒廃しているようで、遺構の把握もしづらい状況になっています。
現在は一部が徳山大神宮になっています。
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