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☆あっしーのブログ一覧

2017年06月17日 イイね!

2017/06/09_車検


10回目(21年目)の車検。206,497km

いつものネッツ店にお願いする。購入したときは、たしか「ビスタ?」とかいうお店だったような気がする。お店の名称も変わった。10系イプサムもめっきり見かけることが少なくなった。担当営業マンの方も今4人目。年月の流れを感じる。

今回の車検整備でセルモーターとオルタネーター(どちらもリビルト)の交換をお願いする。まだもちそうな感じ(希望的楽観的予想?)だったけど,壊れると厄介(特に遠出先や夜間)なので,思い切って交換してもらうことにした。これでまたしばらくは乗ることができそう。

でも,一体いつまで乗り続けるのだろう?
Posted at 2017/06/18 08:31:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年05月27日 イイね!

2017/05/27_鳥取


【青谷上寺地遺跡】
青谷上寺地遺跡は,鳥取市青谷町に位置する弥生時代を中心とする集落遺跡である。これまでの調査で,弥生時代の暮らしに関する数多くの遺物が出土している。弥生人の脳をはじめ精巧な木製品など通常の遺跡では朽ちて残らないようなものまで様々なものが出土しており,当時の暮らしぶりを彷彿させることから,『地下の弥生博物館』とも呼ばれている。(リーフレットより)


【因幡国庁跡】
因幡国庁跡は,奈良時代から鎌倉時代にかけて因幡国を治めていた役所の跡である。歌人として有名な大伴家持は国司として因幡国へ赴任しており,天平宝字3年(759年)正月に国庁で詠んだ歌「新しき年の始めの初春のけふ降る雪のいやしけ吉事(よごと)」が万葉集の巻尾に収められている。

国庁跡は,昭和47年から始まった発掘調査において確認された。この時の調査により,建物跡や柵列,井戸跡,石敷など国庁のものと考えられる遺構が確認された。

国司が政務や儀式を行った正殿跡とみられる建物の規模は,桁行五間,梁間二間(12×4.8m),南北両面に庇が付けられており,調査によって確認された建物群の中で中心をなすものと考えられる。柱には,径30cm以上の檜が用いられていた。また,正殿跡の北側には,後殿と考えられる建物跡が確認されている。後殿の規模は,桁行五間,梁間二間(11.3×5.4m)で,内部を三部屋に仕切る柱跡が確認されている。柱材には,水上を運搬するために材を筏に組んだ際に紐を通した「えづり」穴があけられているものがあり,紐がこすれた跡もみられる。これらの建物は,出土した遺物などから平安時代初め頃のものと考えられる。

正殿跡の南側約80mの位置には,南門跡が確認されている。門の規模は,桁行七間,梁間二間(18.9×7.8m)である。門の南側前面には,河原石を敷き詰めた縁石があり,北側と東西両側には雨落溝が確認されている。門の建築時期は鎌倉時代と考えられており,正殿,後殿とは時期が異なっている。

出土遺物には,「仁和二年(886)假文」と墨書で記された題簽(だいせん)(書物や文書につける見出しのようなもの)や,木簡,石帯(役人の儀式用の服の腰帯飾り),硯,中国から持ち込まれた青磁の器などがある。

なお,因幡万葉歴史館では,当時の人々が身に付けていた衣装や国庁の模型が展示されており,往時の様子を偲ぶことができる。(現地説明板より)

206,037km→206,349km 312km
Posted at 2017/06/03 21:26:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年05月06日 イイね!

2017/05/03_06_静岡_神奈川_東京_山梨


五月の連休に城巡りに出かけた。

〈一日目〉

【駿府城】
今から650年ほど前の室町時代に今川範国が駿河国の守護に任じられ,以後駿河国は今川氏の領土の一部となる。

今川氏全盛期9代義元の時代に,徳川家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間,駿府で生活をしている。後に戦国大名,そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斎などから種々の教えを受けており,家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしている。

戦国争乱の中,永禄11年(1568)10代氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち,駿府の町は焼き払われる。さらに,天正10年(1582)には徳川家康が駿府の武田勢を攻め,再び戦火に遭った中世駿府の町は,ほぼ壊滅状態になった。

駿河国を領国の一つとした徳川家康は,天正13年から居城として駿府城の築城を始め,天正17年に完成させる。現在の二ノ丸以内の部分である。しかし,家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に移封(国替え)され,豊臣系の家臣中村一氏が城主となる。

豊臣秀吉亡き後,関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は,慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いた。

慶長10年将軍職を2代秀忠に譲った家康は,その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきた。天正期の駿府城を拡張(三ノ丸)修築し,駿府の町割や安倍川の治水事業に取りかかり,現在の静岡市の市街地の原型が造られた。

そして,家康自らは,晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し,駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えた。(駿府城公園リーフレットより)


【山中城】
山中城は,戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に,小田原に本城をおいた後北条氏が築城した。

その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は,秀吉の小田原攻めに備え急遽堀や岱崎出丸等等の整備,増築を行った。しかし,翌天正18年(1590年)3月29日,増築が未完成のまま,四万の豊臣軍の総攻撃を受けた。北条軍は四千で,必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられている。この時の城主松田康長,副将間宮康俊,豊臣方の一柳直末等武将の墓が三ノ丸にある宗閑寺にある。

四百年前の遺構がそのまま復元されている山城は全国的にも非常に珍しい。堀や土塁が良く残っており,尾根を区切る曲輪の造成法,架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みに取り入れた山城の作り方など,目を見張るものがある。昭和九年(1934年)国の史跡として指定されている。

山中城跡から眺められるパノラマはそのスケールの大きさに定評がある。

特に,西櫓・西木戸・岱崎出丸からの富士山・駿河湾・田方平野天城連山そして三島の眺望は見事という他はない。

それもそのはず,この山城は北条の出城「徳倉城・獅子浜城泉頭城そして豊臣の北条征伐にも落城しなかった韮山城」を俯瞰できる場所に位置している。(山中城跡リーフレットより)


【石垣山一夜城】
史跡石垣山は,JR早川駅の西方約2.5km,国道1号から東へ約1kmのところにある。また小田原城まで僅か3kmのところにあり,標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できる。

石垣山は,もと笠懸山,松山などと呼ばれていたが,天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき,その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになった。この城を秀吉が一夜にして築いたというようにみせかけたという伝承から,石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われている。

秀吉は,この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり,千利休や能役者,猿楽師等を呼び寄せた。また自ら淀君などの側室も呼び,参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われている。この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく,太閤秀吉の威信を示すと共に,長期戦に備えた本格的な城構えであったといえる。

この城は関東で最初につくられた石垣の城である。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積といわれるもので,小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも,度重なる大地震に耐え,今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡である。(現地説明板より)

〈二日目〉

【小田原城】
小田原城は,15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし,北条早雲(伊勢宗瑞)に始まる小田原北条氏の本拠となって以降,関東支配の拠点として整備された。そして,豊臣秀吉との小田原合戦を前に周囲9kmにおよぶ総構を構築し,日本最大級の城郭となった。

北条氏滅亡後には,徳川家康の家臣である大久保氏が城主となる。小田原城は,北条氏時代の姿を継承しつつも,改修されられながら用いられていくが,大久保氏の改易により破却されることとなった。その後,稲葉氏が城主となるが,寛永10年(1633)の地震により,城も城下も壊滅的な被害を受ける。そのため,稲葉氏は小田原城を大規模に改修し,小田原城は現在見られるような近世城郭としての姿に生まれ変わった。

明治維新を迎えると,明治3年(1870)に小田原城は廃城となり,建物は解体・売却される。城跡は陸軍省の管轄を経て御用邸として用いられることとなるが,大正12年(1923)の関東大震災を期に神奈川県小田原町(小田原市)へと払い下げられることとなる。

現在,小田原城の本丸・二の丸一帯に相当する城跡公園は国指定史跡・都市公園に指定されおり往時の姿を取り戻すよう,史跡整備が進められている。(小田原城天守閣リーフレットより)


【八王子城】
八王子城は,小田原に本拠をおいた後北条氏の三代目氏康の三男北条氏照(?~1590)が築いた山城である。天正10年(1582)頃に築城が開始され,天正15年(1587)頃までに滝山城(八王子市丹木町)から拠点を移したとされる。

豊臣秀吉の関東制圧の一環で,天正18年(1590)6月23日,前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城した。この八王子城落城が決め手となって,本拠の小田原城は開城,氏照はこの時小田原城に籠城中で,兄の氏政と共に城下で切腹し,北条氏は滅亡した。

八王子城は関東屈指の山城である。氏照が抗争していた城郭は壮大で,楽常時はまだ未完成であったと考えられている。城は大まかに,城下町に当たる『根小屋地区』,城主氏照の館などがあった『居館地区』,戦闘時に要塞となる『要害地区』に分けられる。(H29.1八王子市教育委員会発行リーフレットより)

〈三日目〉

【江戸城】
徳川幕府の将軍の居城であった江戸城は,明治元年に皇居となり,「東京城」と改称された。翌二年明治天皇が東京にお移りになり,「皇城」と称された。明治6年西の丸御殿が全焼し赤坂離宮を仮皇居と定められたが,明治宮殿が完成した明治21年10月から「宮城」という呼称が長く使用された。明治23年7月から「皇居」と称されることとなった。

現在,皇居内には,天皇皇后両陛下のお住まいである御所を始め,宮殿,宮内庁庁舎等の建物がある。その面積は115万平方メートル(約34万坪)で,日比谷公園の約7.3倍ほどになる。

皇居の東地区(旧江戸城本丸,二の丸,三ノ丸の一部)は,「皇居東御苑」として昭和43年から一般に公開され,その一画の「三の丸尚蔵館」では展覧会が催されている。(皇居のしおりより)


【新府城】
新府城は,天正10年3月織田軍の侵攻を前に,武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。

本城は南北600メートル,東西550メートル,外堀の水準と本丸の標高差80メートル。型式は平山城で,近世城郭のような石垣は用いず,高さ2.5メートルの土塁を巡らせている。

最高所は本丸で,東西90メートル,南北120メートル,本丸の西に蔀の構えを隔てて二の丸があり馬出に続く。本丸の東に稲荷曲輪,二の丸を北方に下れば横矢掛かりの防塁があり,その外側に堀を巡らせている。堀は北西から北,北東へと巡り,北方の高地からの敵襲の備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二か所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり,三日月形の堀とその外側に馬出のしの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸,三の丸と大手等の間には,帯曲輪,腰曲輪がある。搦手にも望楼がある。蔀の構,出構はは新府城の特色で防御のために工夫されたもので,特に出構は,鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。(現地説明板より)

〈四日目〉

【武田氏館】
躑躅ヶ崎館は,永世16年(1519)信玄公の父信虎公が石和館(現甲府市川田)より移り,天正9年(1581)晴信公の子,勝頼公が新府(現韮崎)に移るまで62年の間,甲斐武田氏の本拠,甲斐の政庁として天下にその名を轟かせた。周囲には武田24将を始めとする諸将の屋敷が立ち並び,さらには職人町もあり,初期の城下町を形成していた。

前面(南)に甲府盆地,遠くは霊峰富士をはじめ甲斐の連山を望み,後方(北)に石水寺,要害山を控えた景勝の地で,境内は樹木が杜を作り,豊かな緑に包まれている。周囲の堀,土塁等は当時のままで,戦国時代第一級の居館と賞賛される「躑躅ヶ崎館」の往時を偲ばせるものである。境内地は,昭和13年(1938)国指定史跡に指定されている。(武田神社宝物殿リーフレットより)


【甲府城】
天正10年(1582)戦国大名の武田氏滅亡後,甲斐国は,織田信長の領国となり,本能寺の変の後は徳川家康の支配下に置かれた。

しかし,豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると,秀吉の命により甥の羽柴秀勝と腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ,浅野長政・幸長父子の手により完成をみた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降は再び徳川家の城となり,幕末まで城の歴史は存続した。

舞鶴城は江戸時代の初め,将軍家一門が城主となる特別な城だったが,宝永元年(1704)徳川綱豊が第5代将軍徳川綱吉の養子となり江戸城へ移り住むと,柳沢吉保が城主となり,大名の城として最も整備され,城下町とともに大きく発展した。しかし,柳沢氏が大和郡山城主として転封されると,甲斐国は幕府の直轄地となり,舞鶴城は甲府勤番の支配下に置かれることとなった。その間,享保年間の大火により本丸御殿や銅門などを焼失,壮麗な姿は失われていった。

明治時代になると廃城となり,明治10年頃には城内の主な建物は取り壊され,勧業試験場として理世が始まるなど,新たな歴史を歩み出した。明治30年(1897)には,中央線敷設に伴い屋形曲輪,清水曲輪の解体が決定され,甲府停車場,すなわち今の甲府駅の建設地となっていった。明治37年(1904)に本丸周辺を舞鶴公園として開放,昭和5年(1930)には,甲府中学校の移転に伴い,県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り,同時に,西側,南側の堀は完全に埋められ,城跡はほぼ現在と同じ景観になった。(舞鶴城リーフレットより)

204,239km→205,745km 1,506km
Posted at 2017/06/03 11:08:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年04月23日 イイね!

2017/04/23_箕作の名をもらった魚たち


日本動物学の父,箕作佳吉(みつくりかきち)は,その影響力の大きさを反映し,学名だけで2界12門22綱に渡る58分類群にその名前を残した。中でもミツクリザメ Mitsukurina owstoni に代表される魚類には,箕作に因んで命名された分類群が14もある。今回の講演では,箕作の名前をもらった魚をはじめとする生物やこぼれ話を紹介しながら,その命名者から箕作と当時の分類学者との交流を紐解く。(講演会リーフレットより)

203,884km→204,005km 121km
Posted at 2017/04/23 20:34:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年03月20日 イイね!

2017/03/18_19_愛知_岐阜


年度末の忙しい時期だったけど,連休を利用して愛知・岐阜へ出かけてみた。

《1日目》

【犬山城】
犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文6年(1537)に木之下城を移して築城したと伝えられている。

こののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わった。

天正12年(1584)小牧・長久手合戦の際には羽柴(豊臣)秀吉は大軍を率いてこの城に入り,小牧山に陣をしいた徳川家康と戦った。

江戸時代になり,元和3年(1617)尾張藩付家老,成瀬正成が城主となってからは成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えた。

明治維新に犬山城は廃城となり,天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊され公園となった。

明治24年(1891)の濃尾震災で天守は大きな被害に見舞われた。同28年,愛知県から修復を条件に旧城主である成瀬氏に譲渡された。また,多くの市民からの義援金により修復工事が行われた。その後,昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで天守の破損が激しくなったため,全面的な解体修理工事が行われた。

天守は昭和10年(1935)に国宝に指定され,同27年規則改正に伴い再指定された。また,天守の創建年代は天正(1573~92)頃,慶長5(1600)・6年などいくつかの説があるが,現存する天守の中では最も古いと言われている。

現在,犬山城天守は犬山城白帝文庫の所有となり,犬山市が管理をおこなっている。(犬山城リーフレットより)


【小牧城】
永禄6年(1563)織田信長は,小牧山に築城し,清須から居城を移した。小牧山が城として利用されるのはこの時が初めてである。南に大手口を設け,大手道は直線的に中腹まで登り,右に折れて屈曲しながら山腹の主郭に至る。小牧山の南の原野には,東西1km,南北1.3kmの範囲に城下町が整備された。

小牧山城に移った信長は,犬山方面を支配下に置き尾張を統一するとともに,積極的に美濃攻略を行った。4年後の永禄10年には,美濃稲葉山を攻略して,岐阜と名を改め居城を移した。これにより,小牧山は城は廃城となり,城下町は一部を残して衰えた。

天正12年(1584),小牧・長久手の合戦が起こると,徳川家康と織田信雄の軍勢は,信長の城跡に大規模な改修を行い,堅固な陣城を築いた。山麓を取りまく二重の土塁や堀,虎口などは,この時築かれたものである。小牧付近では大規模な合戦は起こらず,戦の収束に伴い小牧山城は再び廃城となる。現在,小牧やに残る城の遺構はこの時の小牧山の姿である。

江戸時代には尾張藩,明治時代には尾張徳川家の手厚い保護を受け,山中の堀や土塁などの残存状況は非常に良好で,日本の城郭史上,貴重な資料となっている。

昭和2年(1927)の国の史跡指定を契機として,昭和5年には徳川家から小牧町(当時)へ寄贈され,現在に至っている。(小牧市歴史館発行リーフレットより)

《2日目》

【名古屋城】
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は,慶長14年(1609)豊臣方への備えとして名古屋城の築城と,清須から新城下への街まるごとの引越を決定。この新たに造られた碁盤割の街が現在の名古屋の原型となり,町や橋の名前も受け継がれている。

慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって徳川家康は,加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じた。これを天下普請という。天守や櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・中井正清らに命じられ,慶長17年(1612)にほぼ完成した。尾張初代藩主として家康九男の義直が入り,以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えた。

維新後も名古屋離宮としてその美しいたたずまいを誇った名古屋城は,昭和5年(1930),城郭建築における初めての国宝に指定されたが,昭和20年(1945)の名古屋空襲によって本丸のほとんどが焼失した。しかし,名古屋のシンボルとして天守の再建を望む市民の声は日に日に高まり,昭和34年(1959)ついに天守が再建された。

名古屋城本丸御殿は,文献や古写真,実測図,障壁画など多数の豊富な資料が残されており,史実に忠実な復元が可能であるため,平成21年(2009)に復元工事に着手した。全体の公開は平成30年(2018)をめざしている。(名古屋城総合事務所発行リーフレットより)


【清洲城】
室町時代応永12年(1405),尾張国の守護職であった斯波義重が,守護所であった下津城(稲沢市)の別郭として建てられたのが清須城の始まりといわれている。

文明8年(1476)戦乱により下津城が焼失した後の,文明10年(1478)守護所が清須に移転することで,清須が尾張国の中心地となる。京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり,尾張の政治・経済・司法の中心地として繁栄を迎える。

弘治元年(1555)に織田信長公が那古野城から入城,尾張を統一掌握したころの清須城の基本構造は,守護の館と同じだったと考えられている。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに勝利した信長公は,ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出した。

天下統一へ突き進む途上,本能寺の変で斃れた信長公の跡目を決める清洲会議の後,城主となった次男,信雄によって改修された清洲城の城郭は,天守を備え東西1.6km,南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去愛大の規模に達する。

その後城主は,織田家から豊臣秀次(関白),福島正則(秀吉子飼の大名)と移り,天下分け目の関ヶ原の戦いでは,東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となる。関ヶ原以後,城の主は松平忠吉(家康四男),徳川義直(家康九男)と変遷するが,この頃の清須城下は,人口6万人を数える賑わいを見せ,朝鮮通信使の記録にも「関東の巨鎮」と称され,また,清須城は「天下の名城」と讃えられた。

慶長15年(1610)徳川家康は,清須城廃城と名古屋城築城を命じ,町の建物,町の機能すべてが移転する「清須越」が行われた。こえより尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り,清須城とともにその城下町は歴史から姿を消え去った。なお,名古屋城築城に際し取り壊した清須城の資材が再利用され,特に名古屋城御深井丸の西北隅櫓は,「清須(洲)櫓」とも呼ばれ清須城天守の古材でつくられたといわれる。

平成元年(1989),四百年近くの年月を経て歴史ある城が「清洲城」として天守閣をはじめ,芸能文化館,清洲城広場などをしたがえ地域のシンボル,平成のお城として甦った。(清洲城リーフレットより)


【海津市歴史民俗資料館】
館の前には,輪中低湿地の米の生産を高めるための手段であった堀田が小さいながらも復元してある。また,昭和29年から始まった高須輪中埋立干拓事業で,堀田の埋め立てに利用されたトロッコや輪中内の悪水を排除するために設置された「ゐのくち式渦巻きポンプ」,干満潮を利用して自然排水を行っていた当時の金廻四間門樋を見ることができる。

関ヶ原の役で戦功をあげた徳永氏2代とその後の小笠原氏1代ののち,元禄13年(1700),尾張藩主徳川光友の次男義行が当市高須を新知した。以後明治維新を迎えるまで13代続き,3万石の小藩ながら名門の誉れ高く,多くの名君を輩出した。幕末に活躍した,尾張の徳川慶勝,会津の松平容保,桑名の松平定敬などは高須藩の出身である。

当館の3階は,高須松平藩御館の一部を復元したものである。すなわち御玄関から御書院の間に至る主要部分に,能舞台と広間を加えたものである。

高須城(御館)は現在の県立海津明誠高校の北にあったが,明治6年(1873)解体され消滅した。近年,濠であった大江川底から,城の石垣に使われたとみられる石が複数引き揚げられた。石には幾何学的な紋様が刻まれており,「刻印石」と呼ばれている。

なお,名古屋城築城(1610~1614)にあたり上野河戸など養老山地で切り出された石にも同じような刻印があることから,その関連性についても関心が集まっている。(海津市歴史民俗資料館リーフレットより)

202,633km→203,422km 789km
Posted at 2017/04/15 06:10:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「[整備] #イプサム オイル・オイルフィルター交換 http://minkara.carview.co.jp/userid/1614737/car/1199819/3984704/note.aspx
何シテル?   11/13 08:18
☆あっしーです。  10系イプサムでおもに史跡巡りを楽しんでいます。  イプサムも製造中止となり,特に10系は少なくなってきているようで,少し寂しいです。最...
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