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2016年11月19日 イイね!

【津山城跡】
津山城は,もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(1604)に起工し,元和二年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城である。

往時には五層の天守閣がそびえていたが,この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落とし等の備えを持ち,唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものであった。また,本丸・二の丸・三の丸には,備中櫓をはじめ,栗積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び,本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園があった。

この城が築かれた当時は,我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり,津山城の縄張りの巧妙さは,攻守両面において非常に優れたもので,近世平山城の典型とされている。

明治六年(1873)廃城令によって城郭は公売され,翌七年から八年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されたが,豪壮堅固な石垣は残った。

その後,明治33年(1900)城郭は鶴山公園として津山町の管理となり,昭和38年に国の史跡に指定された。(現地案内板より)


【津田真道(1829~1903)とは】
日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。(Wikipediaより)

文久2年(1862),榎本武揚・西周ら15人の幕府派遣の留学生の一員としてオランダにてライデン大学フィッセリング教授の下で五科講義のプライベートレッスンを受ける。帰国後は,徳川政権の命のもと,フィッセリング国法学講義を『泰西国法論』として翻訳。その後,明治近代国家建設に多大な寄与をした。

福沢諭吉とは思想的な対立はあったが,同時代に活躍した西周らに比肩しうる業績をあげたにもかかわらず,知名度的に劣るのはなぜ? 彼の業績に対する検証・再評価が望まれる。

199,434km→199,561km 127km
Posted at 2016/11/20 09:12:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年11月12日 イイね!

まずは事件の背景から。新見荘は平安期末,京都の最勝光院の荘園として成立。同寺が荒廃したため14世紀初めに東寺に寄進された。ただ一帯には東寺領(領家方)のほか,鎌倉期の地頭領で,その後京都・相国寺系の禅仏寺が支配した領地(地頭方)も混在し,緊張関係にあった。そうした中で東寺は1462年,僧の祐清を直務代官として派遣する。

事件は着任の1年後,63年8月25日に勃発する。展示中の,下級荘官(三識)から東寺への第一報となる「備中国新見荘三識連署注進状」と,東寺が派遣した上使の”調書”である「本位田家盛注進状」に経過が詳しい。

この日,従者を連れてお宮巡りに出かけた祐清は,地頭方の名主(有力農民)・谷内の屋敷前で「下馬とがめ」を受ける。馬に乗ったまま通過した行為が非礼だと追いかけられ,谷内と仲間の横見に斬り殺され,馬や刀,装束まで奪われてしまった。

騒動は拡大し,従者から事情を聞いた三識と荘民が地頭方に押し寄せる。谷内の屋敷に放火し,逃亡先との情報が入った地頭方の政所も焼き払った。

現場の谷内屋敷を”検証”した,「備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図」も会場に並ぶ。同図では,母屋(主殿)は建設中で,隣接する「客殿」は政所に転用していたことが分かる。図面上の記述から,祐清は政所前では馬を下りたが,未完成の母屋にさしかかったところで乗馬し怒りを買った-と推測できる。

一方で「三識連署注進状」は,敵である地頭方の言い分を,否定しつつも紹介している。谷内らは「事件の前月,祐清が年貢の未納を続ける名主・豊岡を”成敗”したことへの報復だった」と供述。百号文書には,祐清の過酷な年貢取り立てを示す史料も残る。

「下馬とがめ」と「報復」。双方の主張の違いを理解するポイントを,「中世社会では自力救済(報復など)が認められていたことだ」と東寺文書研究会のA高校T教諭(文学博士)は指摘する。「谷内らは敵討ち,屋敷を襲った三識らは下馬とがめを強調することで,互いの行為の正当性を訴える必要があった」のだ。

真相はどちらか-。T教諭によると研究者間でも判断が分かれるという。従来は敵討ち説が有力だったが,領家方の豊岡の報復を谷内が行う不自然さなどから「下馬とがめを発端とした偶発的な事件,との見方が優勢になりつつある」。

その後,事件は意外な展開を見せる。相国寺に近い室町幕府8代将軍・足利義政が介入。東寺に焼けた政所を建て直すよう命じたのだ。谷内,横内らの処罰は軽かった。事態は収束に向かい,非業の死を遂げた祐清の存在は忘れ去られていく。一人の女性を除いて。

三識の一人,惣追捕使・福本盛吉の妹で,祐清の身の回りの世話をしていた,たまかき。祐清の遺品を形見として受け取りたいと東寺に願い出た「たまかき書状」は,〈ゆうせい〉の名を7度も繰り返し,いちずな恋情がのぞく。

一連の資料が含まれた東寺百合文書は昨年,「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録された。同博物館のT学芸課長は「550年前の記憶がよみがえる資料群。祐清事件はまだまだ調べる余地があり,興味をもった方は謎に挑戦してほしい」と話す。(山陽新聞2016/11/11より)
Posted at 2016/11/13 16:17:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年10月15日 イイね!

【山田方谷とは】

文化2(1805)年,備中松山藩領阿賀郡西方村(現高梁市中井町)に父五郎吉,母梶(本姓西谷氏)の長男として生まれる。(本名は球,通称安五郎,方谷は号)。

生まれながらにして聡明。5歳の時,新見藩儒丸川松陰の門に入る。

14歳で母,15歳で父を亡くし,学問を続けながら,家業の農業と,菜種油の製造販売業に励む。

優秀さが藩主板倉勝職に伝わり,藩主から二人扶持を与えられ,藩校有終館で学ぶことを許される。

23歳から29歳にかけて,3度にわたり(4年超)京都に遊学。師松陰の旧知寺島白鹿等に学び,春日潜庵らと交わる。その後江戸に出て佐藤一斎に学ぶ。佐久間象山,塩谷宕陰らを友とする。(一斎塾では塾頭を務める)

帰藩して,有終館の学頭となり,その後,世子板倉勝静の教育係にもなる。

勝職の跡を継いで藩主となった勝静に命じられ,藩の元締役兼吟味役となり,当時財政危機に陥っていた備中松山藩の藩政改革に着手。

方谷の行った改革は,ただ単に負債の整理や倹約の実行だけでなく,藩札刷新をはじめ,地域資源や地の利を生かした産業振興策,文武を奨励して人心を奮い立たせる,いわば未来指向型であった。

結果,藩の貯金は歳入の2倍になり,民政も改まった。

また,老中となった藩主板倉勝静を補佐して幕政に参与。幕末には将軍に従って京都にいた勝静の呼び出しに応じ,再三京都に赴き参謀の任にあたった。 → 策を立案するのに3策を以てすることが多かった。  ☆大挽回の策(上策)  ☆小挽回の策(中策)  ☆一時姑息の策(下策)

教育者としても卓越しており,晩年は,長瀬塾,小阪部塾等で多くの子弟を教えたほか,閑谷学校の再建に尽くすなど,有為の人材を数多く育てた。

☆総て学問は,存心(そんしん:自分の気持ちをしっかりもつこと),到知(物事の道筋を極めていくこと),力行(りっこう:努力すること)の三つなり

☆人は浩然の気を養わねばならぬ。此が学問工夫の寛容なる所なり

☆この塾に集まった塾生は自分に学ぼうとして来ているのだから,一日に一度は是非とも彼らに顔を合わせる必要がある

明治10(1877)年,備中阿賀郡小阪部(現新見市大佐)で死去。


※激動の幕末から明治初期の日本を「至誠惻怛」(しせいそくだつ:誠意を尽くして人を思いやる心)と「士民撫育」(しみんぶいく:すべては藩民のため)の精神をもって駆け抜けた。(会場配布資料より)
Posted at 2016/10/16 06:37:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年10月09日 イイね!

《1日目》

【福知山城】

福知山城は,天正7年(1579)頃,丹波を平定した明智光秀によって西国攻略に向けた拠点のひとつとして築かれた。光秀は,それまで横山城とよばれていた簡素な掻上げ城を拡充整備し,福智山城と改めた。以来,戦乱の時代にあって,城主が交代する中,順次整備が進められ,慶長5年(1600)頃に近世城郭として完成した。

丹波の山々に囲まれた盆地の中央にあり,背後を流れる由良川やその支流を天然の堀とし,丘陵を巧みに利用した要害であったと伝わっている。天守閣は,初期望楼型とよばれる古い様式で,内部も初期天守の特徴をもっている。

明治6年(1873)の廃城令により石垣と一部の遺構を除き大部分が取り壊されたが,昭和61年(1986)に,市民の瓦一枚運動などにより天守閣が復元された。(福知山市他計4団体合同発行リーフレットより)


【芦田均記念館】

芦田均元首相は,1887年(明治20)京都府天田郡中六人部村(現福知山市)に生まれた。

少年時代より,将来外交官となり日本の近代化に向けて活躍する夢を描き,青年時代には,谷崎潤一郎や和辻哲郎らと親交を深め文学に傾注し,外交官時代にはヨーロッパでオペラなど舞台芸術に親しみ,国際法の研究で法学博士学位を受けるなど,その内容は多岐にわたっていた。

1932年(昭和7)外交官を辞職し,衆議院議員総選挙に出馬。初当選を果たして以来27年間,国会議員として第一線で活躍し,第二次世界大戦前の反戦運動,日本国憲法制定など自由と平和と正義を掲げて民主主義国家実現のための活動を続けてきた。

1948年(昭和23)3月10日,第47代内閣総理大臣に就任し,戦後の混乱の時代に国政を担当し,多くの重要法案を制定するなど日本の復興に大きな功績を残した。(福知山市芦田均記念館発行リーフレットより)


【美山かやぶきの里】

カーブを曲がると昔話の世界が広がる。

「むかし,むかし,あるところに」と語り出したくなるような日本の原風景がここにある。

素朴でなつかしい風景を後世に伝えたいという想いが,国の重要伝統的建造物群保存地区選定につながった。

「ゆったり流れる時間」「小鳥のさえずり」「清らかに流れる川」「山の彩り」これらすべてが,日本のみならず,世界各地から訪れる人々の心を癒やし続けている。(かやぶきの里保存会発行リーフレットより)

《2日目》

【田辺(舞鶴)城趾】

田辺城は舞鶴城とも称され,その築城は戦国群雄割拠のなかで智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が,天正8年(1580)8月,織田信長より丹後国をあてがわれ,子忠興とともに縄張りしたことに始まり,天正10年代に完成したといわれている。

慶長5年(1600)7月,石田三成方一万五千騎の大軍に攻められた幽斎は,わずか五百人の兵で田辺城に籠城して90余日を戦った。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が八条宮智仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した,世に言う古今伝授は籠城のさなかのことである。その後,忠興は関ヶ原合戦の功により豊前中津に加封され,代わって京極高知が入国,元和8年(1622)高知の遺命により丹後国を三分し,庶子の高三が城主となって三万五千石を領し田辺藩が成立した。寛文8年(1668)京極氏が但馬豊岡に移封のあと牧野親成がこれに代わり,以後牧野氏が明治2年の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。

城は,細川氏の築城後,京極氏,牧野氏が拡張,改修をおこない,ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を,二ノ丸・三ノ丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭形式の平城として整備され,さらに東の伊佐津川,西の高野川,南の低湿田,北の湾海は総濠としての役割をはたした。

なお,舞鶴の地名は,明治2年に藩名が城号をとって舞鶴藩と改称されたことに由来しており,この公園内には築城当時の天守台石垣をはじめ,本丸,二ノ丸石垣や幽斎ゆかりの心種園などの遺構がいまにのこり往時を偲ばせている。(現地説明板より)


【伊根の舟屋】

1階が船のガレージで2階が居室になっている「伊根の舟屋」は伊根湾沿いに水際ぎりぎりに約230軒が群として建ち並んでいる。

その独特の景観とそこに息づく人々の暮らしから,国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され,「日本で最も美しい村連合」にも加盟している。

舟屋は江戸時代の中期(1800年代)前後から存在しているとされ,当時は茅葺きの屋根で,網を干す必要性から床板はなかった。

ほとんどが明治から昭和初期にかけて現在のような木造2階建てになった。

生活の基盤は道を隔てて山側にある母屋にあり(海側に母屋がある場合もある),漁業中心の生活は現在まで引き継がれている。(伊根町観光協会発行パンフレット「伊根なび」より)


【経ヶ岬灯台】

近畿地方最北端に位置するこの灯台は,明治政府による富国強兵に伴う海運助成政策の一環として,明治31年(1898年)12月25日に設置された。

この灯台及び付属施設は,140メートル下の海岸で切り出した角閃石安山岩を加工,運搬して,約2年余の歳月をかけ苦難の末に完成した。

また,近畿地方では唯一の第一等フレネル式レンズを使用し,レンズの回転をスムーズにするため,フランス人考案の水銀槽式回転機械を輸入使用した第一号の灯台でもある。(現地説明板より)

198,161km→198,848km 687km
Posted at 2016/10/13 19:45:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年09月17日 イイね!

【若桜鬼ヶ城】

江戸時代,若桜街道随一の宿場町として栄えた若桜宿は城下町でもあった。若桜鬼ヶ城が築かれた鶴尾山(つるのおやま・標高452m)は播磨・但馬国へと通ずる街道の結節点に位置しており,因幡地方にとっては重要な拠点であった。築城期は不明であるが,中世期に矢部氏によって築かれたと考えられている。戦国期は尼子・毛利・織田など各有力大名が重要拠点であったこの地を巡って,激しい攻防を繰り広げ,羽柴秀吉による因幡平定後は木下氏・山崎氏と城主が代わった。その後池田光政が鳥取城に入ると,一国一城令によって廃城となった。

若桜鬼ヶ城は山腹の遺構と山頂遺構に大別される。山腹の遺構は竪堀と堀切が南北の尾根沿いに造られ,小規模な曲輪群を構成している。一方,山頂遺構は木下・山崎両氏の時代に整備がされ,天守台を備えた本丸を中心として,北側に二段,南側と西側に各一段ずつ総石垣の曲輪が築かれ,複雑な構造をしている。また,石垣は廃城の際,意図的に崩した状態で残されており,一国一城令による破滅の歴史を物語っている。

このように戦国期から近世初期にかけての山陰地方の国人領主の動向と,同時期の城郭変遷を知るうえでの重要性が認められ,平成20年3月,国の史跡に指定された。(若桜町教育委員会発行リーフレットより)

197,591km→197,892km 301km
Posted at 2016/09/18 11:44:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
プロフィール
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何シテル?   11/13 08:18
☆あっしーです。  10系イプサムでおもに史跡巡りを楽しんでいます。  イプサムも製造中止となり,特に10系は少なくなってきているようで,少し寂しいです。最...
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