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2017年01月04日 イイね!

【熊山遺跡】国史跡
標高約500mの熊山山上に位置する奈良時代の遺跡である。露出した岩盤上に基壇を築き,その上に方形の段を三段に積み重ねた特殊な形の石積み遺構である。

ピラミッドを連想させる階段状に石を積み上げた形状。四方に設けられた龕(がん)と呼ばれる神仏を祀る区画。そして中央部には竪穴が設けられるなど,他に例のない構造の遺跡である。

熊山遺跡は昭和31(1956)年9月27日に国指定史跡に指定された。

しかし,石積遺構は昭和12(1937)年の盗掘によって石積み遺構の西側が破壊されていた。その影響により崩壊が進行したため,昭和47・48(1972・1973)年度に環境整備と緊急調査が実施され,昭和49(1974)年10月から12月にかけて修復が行われた。

昭和12年の盗掘の際,竪穴の内部から陶製筒形容器,三彩小壺,革製らしき文字の書かれた巻物のようなものが見つかったようである。これらの出土品から熊山遺跡が奈良時代に造られたことが推定される。残念ながら,陶製筒形容器を除いて行方が分からなくなっている。

基礎を平らにするための基壇,その上に一辺約7.9m,高さ約3.4m,方形三段の段を階段状に重ねた石積遺構である。材質は流紋岩,平たい割り石を積み重ねて形成されている。

中段には,四方の面の中央部分にそれぞれ龕と呼ばれる神仏を祀るための場所が設けられている。

石積の中央部は空洞で,高さ約2mの竪穴が設けられている。その底部は74×81㎝の方形であるが,上へ行くにつれて形が多角形へと変化する。竪穴の上部は,扁平な一枚石の天井石で蓋をしてある。

古くはその形状から,僧尼が戒律を授かるための施設である戒壇であったと考えられていたほか,経塚説や墳墓説などが唱えられていた。

しかし,現在では龕や出土品のほか,仏塔である奈良県奈良市図塔や大阪府堺市土塔と類似している点から,仏教施設と関係する仏塔と考える説が有力である。一方で,誰がどういった背景で造ったのか,いまだ謎の多い遺跡といえる。

熊山には熊山遺跡を含め33か所の石積遺構が確認されている。規模や形態,建造された年代は様々のようである。

中世には熊山遺跡周辺が帝釈山霊山寺の伽藍地となるなど,熊山は古代から霊峰として連綿と信仰され続けてきた。周辺の石積遺構は熊山遺跡とは性格が異なり,記念塔や供養塔として建てられたものもあるのかもしれない。(赤磐市教育委員会発行リーフレットより)

201,446km→201,525km 79km
Posted at 2017/01/07 20:20:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年12月29日 イイね!


総走行距離が20万㎞に到達した。

かかった期間は,平成8年7月登録なので20年5か月(247か月)ということになる。

月間走行距離は,約810㎞(年間約9,717㎞)。ほぼ毎日乗っていたのにもかかわらず,年間1万㎞にも満たないのは,通勤距離が短かったのが主要因と考えられる。それと,もう一台の軽自動車との併用のせいもあるかもしれない。

【おもな整備履歴】
平成14年7月(登録後6年 54,046km) プラグコード取替(1回目)

平成17年7月(登録後9年 77,499km) ECU取替
 走行中エンジンが止まるという現象に見舞われるようになり,ディーラーに車を預けて診てもらったがなかなか原因わからなかった。こちらからの提案で,ECUを同車種のものと取り替えてみてもらったところ,正常にエンジンがまわるようになった。

平成19年6月(登録後10年11か月 92,064km) タイミングベルト取替(1回目) 燃料フィルター取替(1回目)
 同時にウォーターポンプ,アイドラー,ラジエターホース,シール類も交換してもらう。

平成20年10月(登録後12年3か月 104,667km) 左右外側ドラシャブーツ取替

平成21年6月(登録後12年11か月 112,239km) 前後左右ダンパー取替

平成26年6月(登録後17年11か月 164,460km) ミッション取替 エンジンマウント取替 リヤオイルシール取替

平成26年8月(登録後18年1か月 166,706km) 左右内側ドラシャブーツ取替

平成27年1月(登録後18年6か月 172,136km) オイルポンプOシール取替 ウォーターポンプ取替 タイミングベルト取替(2回目)

平成27年6月(登録後18年11か月 178,423km) 燃料ポンプ取替

平成28年3月(登録後19年8か月 191,318km) ラジエター(リビルト)取替

【今後の整備予定】
オルタネーター取替 セルモーター取替 燃料フィルター取替


 
Posted at 2017/01/07 20:20:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年12月28日 イイね!

2泊3日で長崎・福岡を訪れた。

《1日目》

【島原城】
この地は森岳といい,有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところである。

この瑞祥の地に,五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築いた。1618(元和4)年着工,4~7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したという。

層塔風総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して,要所を三層櫓で固め,外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ練塀で取り囲んだ。4万石の大名には過分な城である。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と,松倉氏の新興大名としての意気込みが見られる。

以来,松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝いた。

その間,1637(寛永14)年島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ,1792(寛政4)年島原大変時には打ち続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきた。

明治維新で廃城になり,払い下げ・解体されたが,島原市民の夢である御城復元への取り組みが長年続いた。

1964(昭和39)年天守閣が復元するなど,次第に昔の面影を取り戻しつつある。(島原城振興協会発行リーフレットより)


【原城】
原城は海に突き出した31mの断崖に築かれ,周囲約4kmに及ぶ巨大な城である。三方を海に囲まれ,天然の要害のようだった。本丸は石垣に囲まれ,織田信長や豊臣秀吉の時代に流行した石積み技術が用いられ,近世の城郭を色濃く残している。この頃の城郭の特徴は①建物に瓦を使用,②高い石垣,③建物を礎石上に備えている点である。一方,二の丸,三の丸は自然の地形を活かした土づくりであった。

石垣を使った築城技術は,晴信が秀吉の朝鮮出兵の際,肥前名護屋城などの建設で,戦国大名たちと交流する中で得たものと考えられている。1603(慶長8)年の宣教師の記録に,晴信は防衛のため,日野江城より堅固な原城を改築し,日野江城から原城へ移転したという記述がある。

イエズス会の報告書によると,原城の工事は1599(慶長4)年ごろから始まり,城内には晴信の屋敷のほか,家来の屋敷,弾薬や食糧を蓄える三層の櫓の建設に取りかかった。1604(慶長9)年ごろにはほぼ完成し,祝福した。日野江城下の教会も移転する予定だった。

原城は1614(慶長19)年,有馬晴信の息子直純が日向(宮崎県)に転封された後,翌年に発令された一国一城令によって,廃城となった。(長崎文献社発行「南島原歴史遺産」より)

《2日目》

【軍艦島】
長崎半島から西に約4.5km,三菱石炭鉱業(株)の主力炭鉱があった高島から南西に約2.5km,長崎港から南西に約19kmの沖合いに位置する「端島(はしま)」。

端島は,南北に約480m,東西に約160m,周囲約1,200m,面積約63,000㎡という小さな海底炭鉱の島で,岸壁が島全体を囲い,高層鉄筋アパートが建ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになった。

炭鉱閉山後,長い眠りについていた「端島炭坑」であるが,2015年,「明治日本の産業革命遺産 製鉄,製鋼,造船,石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された。日本の近代化を支えた産業遺産「端島炭坑」は,石炭産業の歴史を今に伝えている。
(長崎市公式観光サイト「あっ!とながさき」発行リーフレットより)


【亀山社中跡】
日本初の商社とされる亀山社中は,慶応元年(1865),薩摩藩等の援助により坂本龍馬が中心となって組織された。

社中のメンバーには神戸海軍操練所出身者が多く,航海技術を生かして物資の運搬や貿易の仲介を行った。特に当時反幕府の立場にあった長州藩に対し,薩摩藩名義で武器や艦船の購入をあっせんするなど,薩長連合へとつながる大きな役割をはたした。

亀山社中の名は,彼らが最初に拠点を構えた地「亀山」と仲間・結社を意味する「社中」を合わせてそう呼ばれた。(亀山社中記念館リーフレットより)


【シーボルト記念館】
フリップ・フランツ・フォン・シーボルトは,江戸時代の日本に西洋医学や植物学を伝え,科学的な総合調査にもとづきヨーロッパに日本を広く紹介した。

シーボルト記念館は,日本の近代化に貢献したシーボルトを顕彰するために長崎市が設置したもので,平成元年(1989)10月1日に開館した。国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)に隣接しており,建物の外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅を,玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をイメージしたものである。(シーボルト記念館発行リーフレットより)

《3日目》

【大野城】
大野城は天智天皇4(665)年に築城された朝鮮式山城のひとつで,「大野城跡」として国の特別史跡に指定されている。

7世紀の激動する東アジア情勢の中,663年,唐・新羅連合軍に白村江で大敗を喫した日本は北部九州を中心とした防衛体制を固めるため,664年に水城を,翌665年に大野城と椽城(基肄城)を築造した。これらの古代山城は,百済の亡命貴族の指揮のもと,朝鮮半島の技術が活かされていることから朝鮮式山城と呼ばれている。

大野城跡には尾根に沿って版築土塁が築かれており,総延長は約8kmにおよび,南北はそれぞれ二重になっている。

また,谷部は石垣を築いて塞ぐ構造になっている。水ノ手石垣・大石垣・屯水石垣・百間石垣・北石垣・小石垣などが確認されており,なかでも最大規模の百間石垣は長さが百間(約180m)あり,壮観な眺めを見ることができる。(古都太宰府保存協会発行四王寺山史跡マップより)


【福岡城】
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後,黒田長政が筑前国50余万石(後に52万余石)を徳川氏から与えられ,福岡藩初代藩主となった。長政は初め名島城に入るが,翌年に那珂郡警固村福崎に新城を築くこととし,長政自らが設計し,野口一成を普請奉行に命じた。城名は黒田氏の故地である備前国邑久郡福岡に由来する。

城郭の形式は梯郭式の平山城で,南側に赤坂山から伸びる丘陵を切断して堀を切り,北側は潟を埋め立てて城下町とし,西側は湾入する入江(草ケ江)を利用して大堀とし,東側は那珂川まで中堀(紺屋町堀),そして佐賀鍋島藩の尽力により堀削された肥前堀を連結した。

城内は天守台,本丸,二の丸,三の丸の4層に分かれ,潮見櫓,花見櫓をはじめとする47の櫓が設置された。本丸には本丸御殿,二の丸には二の丸館と南丸を配し,三の丸の北面には家老屋敷,北西部には黒田如水の隠居所である御高屋敷が構えられた。堀の大手側に上の橋・下の橋,南西搦手側に追廻橋を設け,城外への3つの通路とした。天守閣についてはいまだ存否が確定していない。

城内の建物や石垣は,火災による焼失や,自然災害による崩壊などによってしばしば修復が行われたが,江戸期を通じて構築物に幾分改変はあったものの,築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようだ。

城下町には,北側の掘端に上中級家臣の侍屋敷が,その外側に建築・武具関係の職人や生活物資を商う商人が居住した。南側には下級武士の屋敷が置かれ,南東郊外の春吉町や西郭外の地行町は足軽町とされた。北側の海岸部や東側の那珂川沿い,西側の樋井川沿いの周辺地域には,寺院が多く配置され,城下の随所に見られる鈎形や丁字路とともに防御的性格をもったと考えられる。家臣団は黒田氏の入封にしたがって,商工業者とともに福岡に移住して来た。

幕末期には須崎浜をはじめ博多湾岸沿いに台場が築造され,その一部が現在も残っている。

明治以降,城跡は県庁に使用され,その後陸軍が駐屯し,多聞櫓などの一部を除き,大半の建物が解体や払い下げにより失われた。福岡市では,今後も櫓や石垣などの復元修復をおこない,福岡城の保存と活用につとめていくという。(現地配布資料より)

200,031km→201,364km 1,331km
Posted at 2016/12/29 20:32:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年11月19日 イイね!

【津山城跡】
津山城は,もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(1604)に起工し,元和二年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城である。

往時には五層の天守閣がそびえていたが,この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落とし等の備えを持ち,唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものであった。また,本丸・二の丸・三の丸には,備中櫓をはじめ,栗積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び,本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園があった。

この城が築かれた当時は,我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり,津山城の縄張りの巧妙さは,攻守両面において非常に優れたもので,近世平山城の典型とされている。

明治六年(1873)廃城令によって城郭は公売され,翌七年から八年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されたが,豪壮堅固な石垣は残った。

その後,明治33年(1900)城郭は鶴山公園として津山町の管理となり,昭和38年に国の史跡に指定された。(現地案内板より)


【津田真道(1829~1903)とは】
日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。(Wikipediaより)

文久2年(1862),榎本武揚・西周ら15人の幕府派遣の留学生の一員としてオランダにてライデン大学フィッセリング教授の下で五科講義のプライベートレッスンを受ける。帰国後は,徳川政権の命のもと,フィッセリング国法学講義を『泰西国法論』として翻訳。その後,明治近代国家建設に多大な寄与をした。

福沢諭吉とは思想的な対立はあったが,同時代に活躍した西周らに比肩しうる業績をあげたにもかかわらず,知名度的に劣るのはなぜ? 彼の業績に対する検証・再評価が望まれる。

199,434km→199,561km 127km
Posted at 2016/11/20 09:12:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年11月12日 イイね!

まずは事件の背景から。新見荘は平安期末,京都の最勝光院の荘園として成立。同寺が荒廃したため14世紀初めに東寺に寄進された。ただ一帯には東寺領(領家方)のほか,鎌倉期の地頭領で,その後京都・相国寺系の禅仏寺が支配した領地(地頭方)も混在し,緊張関係にあった。そうした中で東寺は1462年,僧の祐清を直務代官として派遣する。

事件は着任の1年後,63年8月25日に勃発する。展示中の,下級荘官(三識)から東寺への第一報となる「備中国新見荘三識連署注進状」と,東寺が派遣した上使の”調書”である「本位田家盛注進状」に経過が詳しい。

この日,従者を連れてお宮巡りに出かけた祐清は,地頭方の名主(有力農民)・谷内の屋敷前で「下馬とがめ」を受ける。馬に乗ったまま通過した行為が非礼だと追いかけられ,谷内と仲間の横見に斬り殺され,馬や刀,装束まで奪われてしまった。

騒動は拡大し,従者から事情を聞いた三識と荘民が地頭方に押し寄せる。谷内の屋敷に放火し,逃亡先との情報が入った地頭方の政所も焼き払った。

現場の谷内屋敷を”検証”した,「備中国新見荘地頭方百姓谷内家差図」も会場に並ぶ。同図では,母屋(主殿)は建設中で,隣接する「客殿」は政所に転用していたことが分かる。図面上の記述から,祐清は政所前では馬を下りたが,未完成の母屋にさしかかったところで乗馬し怒りを買った-と推測できる。

一方で「三識連署注進状」は,敵である地頭方の言い分を,否定しつつも紹介している。谷内らは「事件の前月,祐清が年貢の未納を続ける名主・豊岡を”成敗”したことへの報復だった」と供述。百号文書には,祐清の過酷な年貢取り立てを示す史料も残る。

「下馬とがめ」と「報復」。双方の主張の違いを理解するポイントを,「中世社会では自力救済(報復など)が認められていたことだ」と東寺文書研究会のA高校T教諭(文学博士)は指摘する。「谷内らは敵討ち,屋敷を襲った三識らは下馬とがめを強調することで,互いの行為の正当性を訴える必要があった」のだ。

真相はどちらか-。T教諭によると研究者間でも判断が分かれるという。従来は敵討ち説が有力だったが,領家方の豊岡の報復を谷内が行う不自然さなどから「下馬とがめを発端とした偶発的な事件,との見方が優勢になりつつある」。

その後,事件は意外な展開を見せる。相国寺に近い室町幕府8代将軍・足利義政が介入。東寺に焼けた政所を建て直すよう命じたのだ。谷内,横内らの処罰は軽かった。事態は収束に向かい,非業の死を遂げた祐清の存在は忘れ去られていく。一人の女性を除いて。

三識の一人,惣追捕使・福本盛吉の妹で,祐清の身の回りの世話をしていた,たまかき。祐清の遺品を形見として受け取りたいと東寺に願い出た「たまかき書状」は,〈ゆうせい〉の名を7度も繰り返し,いちずな恋情がのぞく。

一連の資料が含まれた東寺百合文書は昨年,「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録された。同博物館のT学芸課長は「550年前の記憶がよみがえる資料群。祐清事件はまだまだ調べる余地があり,興味をもった方は謎に挑戦してほしい」と話す。(山陽新聞2016/11/11より)
Posted at 2016/11/13 16:17:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
プロフィール
「[整備] #イプサム オイル・オイルフィルター交換 http://minkara.carview.co.jp/userid/1614737/car/1199819/3984704/note.aspx
何シテル?   11/13 08:18
☆あっしーです。  10系イプサムでおもに史跡巡りを楽しんでいます。  イプサムも製造中止となり,特に10系は少なくなってきているようで,少し寂しいです。最...
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