車・自動車SNSみんカラ

  • 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+
2017年04月23日 イイね!

日本動物学の父,箕作佳吉(みつくりかきち)は,その影響力の大きさを反映し,学名だけで2界12門22綱に渡る58分類群にその名前を残した。中でもミツクリザメ Mitsukurina owstoni に代表される魚類には,箕作に因んで命名された分類群が14もある。今回の講演では,箕作の名前をもらった魚をはじめとする生物やこぼれ話を紹介しながら,その命名者から箕作と当時の分類学者との交流を紐解く。(講演会リーフレットより)

203,884km→204,005km 121km
Posted at 2017/04/23 20:34:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年03月20日 イイね!

年度末の忙しい時期だったけど,連休を利用して愛知・岐阜へ出かけてみた。

《1日目》

【犬山城】
犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文6年(1537)に木之下城を移して築城したと伝えられている。

こののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わった。

天正12年(1584)小牧・長久手合戦の際には羽柴(豊臣)秀吉は大軍を率いてこの城に入り,小牧山に陣をしいた徳川家康と戦った。

江戸時代になり,元和3年(1617)尾張藩付家老,成瀬正成が城主となってからは成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えた。

明治維新に犬山城は廃城となり,天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊され公園となった。

明治24年(1891)の濃尾震災で天守は大きな被害に見舞われた。同28年,愛知県から修復を条件に旧城主である成瀬氏に譲渡された。また,多くの市民からの義援金により修復工事が行われた。その後,昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで天守の破損が激しくなったため,全面的な解体修理工事が行われた。

天守は昭和10年(1935)に国宝に指定され,同27年規則改正に伴い再指定された。また,天守の創建年代は天正(1573~92)頃,慶長5(1600)・6年などいくつかの説があるが,現存する天守の中では最も古いと言われている。

現在,犬山城天守は犬山城白帝文庫の所有となり,犬山市が管理をおこなっている。(犬山城リーフレットより)


【小牧城】
永禄6年(1563)織田信長は,小牧山に築城し,清須から居城を移した。小牧山が城として利用されるのはこの時が初めてである。南に大手口を設け,大手道は直線的に中腹まで登り,右に折れて屈曲しながら山腹の主郭に至る。小牧山の南の原野には,東西1km,南北1.3kmの範囲に城下町が整備された。

小牧山城に移った信長は,犬山方面を支配下に置き尾張を統一するとともに,積極的に美濃攻略を行った。4年後の永禄10年には,美濃稲葉山を攻略して,岐阜と名を改め居城を移した。これにより,小牧山は城は廃城となり,城下町は一部を残して衰えた。

天正12年(1584),小牧・長久手の合戦が起こると,徳川家康と織田信雄の軍勢は,信長の城跡に大規模な改修を行い,堅固な陣城を築いた。山麓を取りまく二重の土塁や堀,虎口などは,この時築かれたものである。小牧付近では大規模な合戦は起こらず,戦の収束に伴い小牧山城は再び廃城となる。現在,小牧やに残る城の遺構はこの時の小牧山の姿である。

江戸時代には尾張藩,明治時代には尾張徳川家の手厚い保護を受け,山中の堀や土塁などの残存状況は非常に良好で,日本の城郭史上,貴重な資料となっている。

昭和2年(1927)の国の史跡指定を契機として,昭和5年には徳川家から小牧町(当時)へ寄贈され,現在に至っている。(小牧市歴史館発行リーフレットより)

《2日目》

【名古屋城】
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は,慶長14年(1609)豊臣方への備えとして名古屋城の築城と,清須から新城下への街まるごとの引越を決定。この新たに造られた碁盤割の街が現在の名古屋の原型となり,町や橋の名前も受け継がれている。

慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって徳川家康は,加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じた。これを天下普請という。天守や櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・中井正清らに命じられ,慶長17年(1612)にほぼ完成した。尾張初代藩主として家康九男の義直が入り,以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えた。

維新後も名古屋離宮としてその美しいたたずまいを誇った名古屋城は,昭和5年(1930),城郭建築における初めての国宝に指定されたが,昭和20年(1945)の名古屋空襲によって本丸のほとんどが焼失した。しかし,名古屋のシンボルとして天守の再建を望む市民の声は日に日に高まり,昭和34年(1959)ついに天守が再建された。

名古屋城本丸御殿は,文献や古写真,実測図,障壁画など多数の豊富な資料が残されており,史実に忠実な復元が可能であるため,平成21年(2009)に復元工事に着手した。全体の公開は平成30年(2018)をめざしている。(名古屋城総合事務所発行リーフレットより)


【清洲城】
室町時代応永12年(1405),尾張国の守護職であった斯波義重が,守護所であった下津城(稲沢市)の別郭として建てられたのが清須城の始まりといわれている。

文明8年(1476)戦乱により下津城が焼失した後の,文明10年(1478)守護所が清須に移転することで,清須が尾張国の中心地となる。京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり,尾張の政治・経済・司法の中心地として繁栄を迎える。

弘治元年(1555)に織田信長公が那古野城から入城,尾張を統一掌握したころの清須城の基本構造は,守護の館と同じだったと考えられている。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに勝利した信長公は,ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出した。

天下統一へ突き進む途上,本能寺の変で斃れた信長公の跡目を決める清洲会議の後,城主となった次男,信雄によって改修された清洲城の城郭は,天守を備え東西1.6km,南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去愛大の規模に達する。

その後城主は,織田家から豊臣秀次(関白),福島正則(秀吉子飼の大名)と移り,天下分け目の関ヶ原の戦いでは,東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となる。関ヶ原以後,城の主は松平忠吉(家康四男),徳川義直(家康九男)と変遷するが,この頃の清須城下は,人口6万人を数える賑わいを見せ,朝鮮通信使の記録にも「関東の巨鎮」と称され,また,清須城は「天下の名城」と讃えられた。

慶長15年(1610)徳川家康は,清須城廃城と名古屋城築城を命じ,町の建物,町の機能すべてが移転する「清須越」が行われた。こえより尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り,清須城とともにその城下町は歴史から姿を消え去った。なお,名古屋城築城に際し取り壊した清須城の資材が再利用され,特に名古屋城御深井丸の西北隅櫓は,「清須(洲)櫓」とも呼ばれ清須城天守の古材でつくられたといわれる。

平成元年(1989),四百年近くの年月を経て歴史ある城が「清洲城」として天守閣をはじめ,芸能文化館,清洲城広場などをしたがえ地域のシンボル,平成のお城として甦った。(清洲城リーフレットより)


【海津市歴史民俗資料館】
館の前には,輪中低湿地の米の生産を高めるための手段であった堀田が小さいながらも復元してある。また,昭和29年から始まった高須輪中埋立干拓事業で,堀田の埋め立てに利用されたトロッコや輪中内の悪水を排除するために設置された「ゐのくち式渦巻きポンプ」,干満潮を利用して自然排水を行っていた当時の金廻四間門樋を見ることができる。

関ヶ原の役で戦功をあげた徳永氏2代とその後の小笠原氏1代ののち,元禄13年(1700),尾張藩主徳川光友の次男義行が当市高須を新知した。以後明治維新を迎えるまで13代続き,3万石の小藩ながら名門の誉れ高く,多くの名君を輩出した。幕末に活躍した,尾張の徳川慶勝,会津の松平容保,桑名の松平定敬などは高須藩の出身である。

当館の3階は,高須松平藩御館の一部を復元したものである。すなわち御玄関から御書院の間に至る主要部分に,能舞台と広間を加えたものである。

高須城(御館)は現在の県立海津明誠高校の北にあったが,明治6年(1873)解体され消滅した。近年,濠であった大江川底から,城の石垣に使われたとみられる石が複数引き揚げられた。石には幾何学的な紋様が刻まれており,「刻印石」と呼ばれている。

なお,名古屋城築城(1610~1614)にあたり上野河戸など養老山地で切り出された石にも同じような刻印があることから,その関連性についても関心が集まっている。(海津市歴史民俗資料館リーフレットより)

202,633km→203,422km 789km
Posted at 2017/04/15 06:10:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年02月27日 イイね!

小説,歴史雑誌の特集,ゲーム等で宇喜多氏の根強い人気がうかがわれる。梟雄との評価がもっぱらであるが,これは海音寺潮五郎氏の「悪人列伝」(文藝春秋新社)の評価によるものと思われる。しかし,立石定夫氏の「戦国宇喜多一族」(新人物往来社)などによる異説もある。後世の編纂物などによって実像が歪められている可能性もあるそうだ。

能家,興家,直家と近隣の赤松氏,浦上氏,毛利氏,織田氏等との提携や抗争の中で直家の代になって台頭してきた。

直家の子秀家は豊臣政権下では秀吉に従い五大老にまで上り詰める。しかし,宇喜多騒動の勃発とその後の関ヶ原での敗北により八丈島に流されることとなり,84歳で没するまで島を出ることはなかった。
Posted at 2017/03/04 20:52:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年01月22日 イイね!

【青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡】
国指定史跡 鳥取県鳥取市青谷町
 鳥取県東部の日本海沿岸に位置する,弥生時代を中心とした集落遺跡である。砂州によって日本海と隔てられた潟湖に面した平野に,弥生時代前期末から古墳時代初頭(前2世紀~3世紀)にかけて集落が営まれた。平成10(1998)年から現在まで続く発掘調査で,板材・杭・矢板などで構成された護岸施設・砂防柵・土留め柵・区画施設などの大規模な土木工事の跡が発見されている。また,遺跡周辺が低湿地のため,木製品など通常は腐朽するものが良好な状態で大量に出土しているのが大きな特徴である。弥生人の技術水準の高さを示す精巧な木製容器をはじめ,日々の暮らしや日本列島内外との交流を物語る多種多様な出土品から,「地下の弥生博物館」と呼ばれ,交易拠点としての港湾集落と評価されている。さらに,殺傷痕のある弥生人骨の大量出土や,国内初となる弥生人の脳の発見など,従来の弥生時代像を大きく塗り替える成果が挙げられている。(現地配布リーフレットより)

【妻木晩田(むきばんだ)遺跡】
国指定史跡 鳥取県西伯郡大山町・米子市
 鳥取県西部の日本海沿岸に位置する,弥生時代を中心とした集落遺跡である。日本海と弓ヶ浜半島を望む低丘陵上に,弥生時代中期後葉から古墳時代初頭(1~3世紀)にかけて集落が営まれ,最盛期の弥生時代後期後半(2世紀)には妻木山・妻木新山・仙谷・洞ノ原・松尾頭・松尾城の6地区に国内最大級(約170万㎢)の集落が展開した。
 平成4~10(1992~1998)年の発掘調査(約17万㎡)によって,各時期の竪穴住居跡や掘立柱建物群跡が約960棟,墳丘墓が34基発見され,『魏志倭人伝』の「倭人は帯方東南大海の中にあり,山島に依りて国邑をなす」という記述を具体的に物語る遺跡として注目を集めている。現在,調査成果をもとに「鳥取県むきばんだ史跡公園」が整備され,当時の景観や暮らしを体感できる弥生のフィールドミュージアムとして活用されている。(現地配布リーフレットより)



Posted at 2017/01/28 06:22:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年01月04日 イイね!

【熊山遺跡】国史跡
標高約500mの熊山山上に位置する奈良時代の遺跡である。露出した岩盤上に基壇を築き,その上に方形の段を三段に積み重ねた特殊な形の石積み遺構である。

ピラミッドを連想させる階段状に石を積み上げた形状。四方に設けられた龕(がん)と呼ばれる神仏を祀る区画。そして中央部には竪穴が設けられるなど,他に例のない構造の遺跡である。

熊山遺跡は昭和31(1956)年9月27日に国指定史跡に指定された。

しかし,石積遺構は昭和12(1937)年の盗掘によって石積み遺構の西側が破壊されていた。その影響により崩壊が進行したため,昭和47・48(1972・1973)年度に環境整備と緊急調査が実施され,昭和49(1974)年10月から12月にかけて修復が行われた。

昭和12年の盗掘の際,竪穴の内部から陶製筒形容器,三彩小壺,革製らしき文字の書かれた巻物のようなものが見つかったようである。これらの出土品から熊山遺跡が奈良時代に造られたことが推定される。残念ながら,陶製筒形容器を除いて行方が分からなくなっている。

基礎を平らにするための基壇,その上に一辺約7.9m,高さ約3.4m,方形三段の段を階段状に重ねた石積遺構である。材質は流紋岩,平たい割り石を積み重ねて形成されている。

中段には,四方の面の中央部分にそれぞれ龕と呼ばれる神仏を祀るための場所が設けられている。

石積の中央部は空洞で,高さ約2mの竪穴が設けられている。その底部は74×81㎝の方形であるが,上へ行くにつれて形が多角形へと変化する。竪穴の上部は,扁平な一枚石の天井石で蓋をしてある。

古くはその形状から,僧尼が戒律を授かるための施設である戒壇であったと考えられていたほか,経塚説や墳墓説などが唱えられていた。

しかし,現在では龕や出土品のほか,仏塔である奈良県奈良市図塔や大阪府堺市土塔と類似している点から,仏教施設と関係する仏塔と考える説が有力である。一方で,誰がどういった背景で造ったのか,いまだ謎の多い遺跡といえる。

熊山には熊山遺跡を含め33か所の石積遺構が確認されている。規模や形態,建造された年代は様々のようである。

中世には熊山遺跡周辺が帝釈山霊山寺の伽藍地となるなど,熊山は古代から霊峰として連綿と信仰され続けてきた。周辺の石積遺構は熊山遺跡とは性格が異なり,記念塔や供養塔として建てられたものもあるのかもしれない。(赤磐市教育委員会発行リーフレットより)

201,446km→201,525km 79km
Posted at 2017/01/07 20:20:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
プロフィール
「[整備] #イプサム オイル・オイルフィルター交換 http://minkara.carview.co.jp/userid/1614737/car/1199819/3984704/note.aspx
何シテル?   11/13 08:18
☆あっしーです。  10系イプサムでおもに史跡巡りを楽しんでいます。  イプサムも製造中止となり,特に10系は少なくなってきているようで,少し寂しいです。最...
みんカラ新規会員登録
ユーザー内検索
<< 2017/4 >>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
お友達
ファン
1 人のファンがいます
愛車一覧
トヨタ イプサム トヨタ イプサム
自動車税15%アップにもめげず,末永く大切にしてやろうと思っています!  2012/08 ...
過去のブログ
QRコード
QRコード
このブログを携帯でご覧になれます
ヘルプ利用規約サイトマップ
©2017 Carview Corporation All Rights Reserved.