2011年09月12日
1年前の今日。
9月12日。
1年前の今日。
夫であるカプリコが、この世を去った。
なんとなく触れてはこなかったけれど、今日という日に記しておこうと思う。
おそらく、このブログは人の死についての内容になるので、気持ち悪いと思う方はご遠慮ください。
カプリコの足取りを、日記形式で追ってみよう。
2010年・・・・・
9月10日(金)
いつものように仕事を終え、18:20頃に帰宅。おそらく、まっすぐ帰宅。
自宅には いつもお世話になっているエボⅤファミリーの一員の方に頼まれていた部品が届いていたので、届けに行くことにした。自宅から車で15分、長居しすぎないように 次男坊を連れて。
基地に着き、翌日から一泊でツーリングに出かけるため 週末は作業を手伝えない旨を伝え申し訳ない・・・と言いながらも、気持ちはもう ツーリングのことでいっぱい・・・といった様子。
エボⅤさんやインプさんに『気をつけて行ってこいよ~』と見送られ、基地を後にする。
自宅へ戻り、夕飯・入浴を済ませ、荷物の準備にかかる。
雨合羽、着替え、タオル、お風呂セット、充電器、そして忘れてはならないおやつ・・・はバイクのため少しだけ。
まるで、遠足に行く子供のようで、呆れて物も言えない・・・という状態だった。
つい何日か前に、このツーリングのために購入したジャケットが『どうだwww!?』と言わんばかりに、リビングのカーテンレールに吊るしてあった。
確かyellowcornの物だったと思う。
ネットで購入するときに、黒か・・・赤か・・・と迷っていたので『黒は地味じゃね?』の私の一言で、赤に決めたようだ。『じゃ赤?赤でええのんか?赤にするぞ?ええんか?』と。心境的には『好きにしなはれ・・・』だったけれど『バンくん、黒のボディにエンジン赤やし、さし色に揃えて赤って良くない?』と言ったら、ホントに赤をポチッた。そして『赤にしたwww!!』と。
出発の何日か前のブログにあがっていたジャケットが、これ。
翌日の朝が早いので、はよ寝なはよ寝な・・・と言いながら そわそわしていた。
カプリコと違って、私は本当に朝が苦手な人間なんだけれど『朝、起きられたら見送るわwww』と言った。
9月11日(土)
いつもなら土曜日も欠かさず休日出勤していたけれど、この日は休むことを会社に伝えてあったようだった。
8:30に京都の桂川SAに ツーリングサークルの方たちと集合することになっていた。
何時に起床したのか、よく眠れたのか?
6:30にバンくんのセルが回る音が聞こえた。
『しまった!!!』と私は思ったが、時すでに遅し・・・。
寝床の中から『行ってらっしゃ~い』とつぶやいた。
みんカラを始めて、オフ会とやらにちょくちょく参加するようになった。当初は一人で遠方へ出かけるのが心配で、必ず出発は見送ったし 帰宅するまで何時まででも寝ずに待っていた。
回を追うごとに、無事に帰ることが、私の中で当たり前になっていたのだろう。
いつからか見送らなくなっていたし、遅いと先に寝ていた。
この日もそんな思いでいたのだろう。
しかし、後から思えば バイクでの遠出は初めてだった。
7:42『おはよう。今、西宮名塩。ここから40分みたい』とメールが届く。
私は『心配なので、できるだけメールか電話するように』と返信。
9:59『みんなと合流して、北陸道』
11:51『福井で昼ごはん』
結構ペース速いよな・・・汗
16:11『白川郷』(改修中の写メつき)
16:44『今、宿に着きました』
18:53『飛騨牛』(夕食の飛騨牛の写メつき)
後にサークルの方から聞いた話では、この夜もカプリコワールド全開だったようだ。
ほとんど全員が初対面だったようだが、そこは言わずと知れたカプリコですから。
9月12日(日)
9:27『おはよう。雨は止みました』
雨なんか降ってたんだ??こっちは降らなかったけど、どうやら雨がよく降るところらしい、岐阜ってところは。
こちらはのんびりと、昼ごろに子供たちを連れて、マクド経由でイオンへと向かう。
お昼時なので、そろそろメールある頃だな・・・と思いながらも、なし。
イオンへ向かった目的は、カプリコの誕生日にプレゼントしたコインケースの受け取り。わずか数週間で縫い目から裂けたって言うんで、交換をお願いしていた。そこそこ値段もしたし、そこそこのアパレルブランドのものだったし。
イオンに着いて、ほどなくして携帯が鳴る。14:00頃だったと思う。
カプリコの母からだった。
『今どこ?』
『イオンですけど・・・』
『Kちゃん(カプリコ)、どこ行っとん!?』
『・・・・・(あちゃ、ツーリングがバレたか??)』
『バイクで出かけとん?遠いとこまで出とん??』
だんだん、義母の声が大きくなる。
『はぁ・・・まぁ・・・昨日から・・・』
『あんた!ちょっと!!高山の病院に怪我して運ばれてるって言うやんか!?』
『え・・・?聞いてませんけど?』
『電話があったんや!!』
かなり動揺してる様子・・・。
『す・・・すぐ戻ります』
とは言ったものの、まぁせいぜい骨折ぐらいだろ・・・と、せっかく来たんだからと 目的のコインケースだけは受け取って帰ろう。
子供たちに、パパが怪我をして病院に運ばれたこと、今日はこれからすぐに家に戻ることを説明し、手を引き急ぎ足で歩く。
家へは戻らずに、そのままカプリコの実家へ寄ると、義母から思いもよらない言葉を聞く。
『もうアカンって言いよるやんか!!このまま処置続けても、もう無理だと思いますがまだ続けますか?やって!!信じられへん・・・もう!!!!』
そこには、私たちの知るしっかりものの義母の姿はなく、泣き崩れて弱々しい義母がいた。
私と子どもたちは事の次第が全く把握できず、とりあえず義母の話を聞く。
カプリコと私たちが暮らす自宅は、留守にて電話がつながらなかったため、実家に電話があったこと。
初めの電話では、バイクで転倒して怪我をし救急車で病院に運ばれたこと。
次の電話では、心肺蘇生を行っているとのこと。
その次の電話では、1時間以上蘇生処置を行っているが、回復の兆候がなく それでも続けますか?とのこと。
義母から話を聞いていると、また電話が鳴る。
替わってもらうと、高山警察署からだった。
岐阜県高山市のせせらぎ街道という県道で、単独転倒事故に遭い 救急車で搬送されたが蘇生処置の甲斐なく息をひきとった・・・とのことだった。
『すぐ向かいます』と私は言ったが、病院からの連絡を待ってくださいと言われた。
急いでも 間に合わないし、何も変わらないことは分かっていたけれど、自分自身のこの目で確かめるまでは信じられなかった。
そんなアホな話があるかいな・・・昨日出てって、今晩帰ってくるねんなぁ???
しかしそれは現実で。
落ち着いて、場所を調べる。
今からすぐに向かえば、何時に着く?
岐阜って、高山って、どこだ?新幹線ある?名古屋まで新幹線で、そこから電車?あぁ特急か・・・しかも本数少ないぞ?
ってか、行ったところで 連れて帰らにゃならんのか・・・。
ほんじゃ車で行くしかないな・・・。
とりあえず、ガソリンを満タンにせねば・・・。
いろいろ考えていると、病院から電話があった。持ってくる物を説明され、車で向かうことを伝える。
GSに、それから自宅へ戻って準備を・・・生気を失った義母を一人にするのは心苦しかったが、仕方がなかった。せめてもと思い、子供たちをそばにつかせた。
あ、連絡しなきゃ。
まず、わたしの実家。母の携帯にかけると、仕事中だった。簡潔に事の次第を伝えた。父にも知らせるように言われたので、実家にもかける。兄が対応してくれたが、電話の向こうでは父がブチ切れていた。動揺の仕方も其々だ。
身近な人間から・・・と思い、エボⅤさんにも。
『もしもしエボⅤさん?A(カプリ子)やけど。あのなぁ・・・、びっくりせんといてやぁ。Kが死んでもぅたんや・・・』
『K?はぁ?なんや???』
まったく理解不能のようなので。
『ツーリング行くって聞いてたやろ?事故!!さっき死んだって!!!』
『はぁwwwww!?なんどいやぁ?それぇ!!!』
この人もキレてるし(汗)
『とりあえず、今から準備して迎えに行ってくるから、帰ったらまた連絡するから。それまで待っとってや』
『今から?お前が?一人で?運転して?飛騨高山まで?アホかいやぁ!?!?』
確かに・・・ここ兵庫の西の端から高山まで、片道500km以上はあろうかという道中を、一人で、しかも亡くなった夫を迎えに・・・
という私が、いちばん正気ではなかったのかもしれない。
それから 私の親友のひとりにも電話して、仲間内に連絡してくれるように頼んだ。
カプリコの勤務先にも。
あぁ、明日から休むんだ、私の勤務先にも。
燃料を入れて、持っていくもの準備して、再び戻ると 義母も来るように・・・と病院から言われたらしく、二人で行くことになっていた。
東京に住むカプリコの長兄が、電車で向かってくれるというので 現地でおち合うことになった。
帰りの運転は兄もいるんだと思うと、ちょっとホッとした。
それから子供たちを私の実家に預けに行って戻ると、エボⅤさんがいた。
待っててと言ったのに、待てなかったようだ。
『よかった・・・まだ出てなかったんや・・・?おまえ、アカンて!絶対ムリやて!一人でなんて、行かれへんて!お前までなんかあったらどないすんねん!?やめとけって。なぁ。』
そんなこと言ったって、行かねばならんし。
運転は交代できないけれど、義母も一緒に行くこと。現地に着けば、長兄がいて帰りは一緒だということを説明し、なんとか見送ってもらった。
なんのかんので、もう夕方で、出発したのは17:00だった。
うまくいけば、22:00頃には着くだろう。長兄よりは早く着きそうだな・・・。
しかし、甘かった。かなり甘かった。
日曜の夕方とあって、あちこちで渋滞していた。
まず、お約束の宝塚渋滞・・・山陽道と中国道と阪神高速がひとつに合流するポイントで、1時間近くロス。
お次は吹田、中国道と名神と阪和道?ここでも30分ロス。
出発して100kmほどで、心が折れそうになった。
その渋滞はこれまたお約束の京都南を過ぎるまで続いた。
やっとのことで渋滞を抜け、ここからだ~!!
・・・と思ったけれど、義母を乗せているため飛ばせなかった。せいぜい90~100km/hがいいとこ。
車内の空気は重く、オーディオも鳴ってるか鳴ってないかの音量で。
頻繁にトイレ休憩をはさみ。
すっかり真っ暗になった名神~東海北陸道を走る・・・走る・・・走る・・・
その間、あちこちからメールや電話が頻繁にあったけれど、SAで最小限の返事しかできなかった。
義母の携帯が鳴ったと思ったら、カプリコの次兄からだった。
次兄は海外勤務をしており、すぐには戻れない。そのことを誰も責めることはできなかったけれど、次兄は自分を恨んだと 後に聞いた。
国際電話で何度も高山警察に電話し、個人情報なんのそので いろいろと詳しく説明してもらったようだった。
ワゴンのカーナビが5年前のものだったので、高速の降り口を間違ったりで、病院に到着したのは日付が変わろうかという時間だった。
先に到着している長兄に電話すると、真っ赤に目を腫らして外まで迎えに出て来てくれた。
案内されたその部屋には、病院の服を着せられて 冷たくなったカプリコが眠っていた。
この目で確かめるまでは・・・と思っていたけれど、実際に触れて冷たいことを確認しても 信じられなかった。
スリムな顔が、少し腫れていたけれど。目立った傷は見当たらなかった。
それはそれはきれいな顔をしていて、眠っているかのようだった。
受け入れられず、涙はほんの少ししか出なかった。
病院側から警察に行くよう言われたので、そのまま警察に向かった。
事故現場を案内してもらいたかったのだけれど、夜は街灯のないまっくらな県道で、結構距離もあるとのことで、後日調書をとりますのでその時に案内しますと言われた。
また病院に戻り、連れて帰る準備をした。
書類をもらい、長兄の運転で病院を後にした。
日付は変わり、2時頃だった。
9月13日(月)
高山を出てからずっと兄の運転で、私は助手席だった。
気が抜けて、時々うとうとしてしまった。
だんだん空が明るくなって、いつもと同じ朝が来た。いや、空が秋の空に変わっていた。
驚くほど、澄んだ空で 雲が少し高いような気がした。
『カプリコが秋を運んできたんだなぁ・・・』と勝手に思った。
家に着いたのは午前7時頃だった。
自宅の玄関のドアに コンビニの袋がぶら下がっていて、冷たい栄養ドリンクとメモが入っていた。私の親友からだった。朝早くに、子どもたちを学校に送り出す前に来てくれたんだと思う。ありがたかった。一気に力が抜けた瞬間だった。
エアコンのあるリビングにカプリコを降ろして寝かせた。
帰宅したことをエボⅤさんや私の友人や私の実家にも電話すると、みんなすぐにかけつけてくれた。
子供たちも私の父と母に連れられて戻ってきた。次男はカプリコのそばにかけよったけれど、長男は近づこうとしなかった。認めたくなかったんだろう。お客さんが入れ替わり立ち替わりする中、長男はほとんど2階から降りてこなかった。10歳にもなると、いろいろ解るんだろう。
そうこうするうちに葬儀屋さんが来て、友引の都合でお通夜は明日14日、葬儀は15日だという。
1日長く いられることになった。
会場は自宅から300メートルほどの所にある、お寺だった。
葬儀屋さんがすべてを段取りしてくれたが、遺影に使う写真だけは用意するように言われた。
困ったことに 写真って意外とない。デジカメはほとんどカプリコが持ち歩いていたので、本人はほとんど写っていなかった。
今時は進んでいて、小指の第一関節くらいの大きさの写真でも きれいに引き伸ばせるという。
デジカメのメモリや PCのファイルを探してみたけれど、これと言って納得できるものはなかった。
セントラルのレース時のものや、自宅に取材に来ていただいた時の雑誌をいくつかめくってみると、これなら・・・というのがいくつかあって、その中の1枚が『どうだ!!』と言わんばかり、いい顔をしていた。
ご存知の方も多いと思うが、真っ赤なレーシングスーツに身を包み 俺様の自慢の愛車を見やがれ!!といった、最高の笑顔だった。
私は『これだ!!!』と思い、葬儀屋さんに雑誌を見せ確認をとると『大丈夫ですよ』と言う。
しかし、その雑誌を持ち帰った葬儀屋さんから『雑誌なので紙質が悪く、引き伸ばすと荒くなる』という連絡が入る。
周りは『じゃぁほかの写真を・・・』と探し始めたけれど、私はこの写真以外に考えられなかった。
人間、好きなことをしている時が いちばんいい顔をしているに決まっている。
どうしても諦めきれなかったので、少し反則技を使った。
みん友さんのコネを使っていただき、事情を話して特例でということで 雑誌社からメールでデータを送っていただいた。とにかく感謝感謝だった。
そのメールの写真を 葬儀屋さんに転送し、遺影が出来上がってきたのは お通夜の3時間前という際どいところだった。
メールで遺影を作るなんて、すごい時代だ・・・と驚いた。
朝から晩まで、とにかくたくさんの方がカプリコの顔を見に来てくれた。
親戚、職場、友人・・・たくさんたくさん・・・
確実に睡眠不足だったけれどなかなか寝付けなかったので、カプリコのページにブログをアップした。
それから 少し眠った。
9月14日(火)
朝8時に携帯が鳴る。すぐ近所に住む、車仲間からだった。いろんな事情で車遊びからは足を洗っていたけれど、兄のような存在の友人からだった。
『カプチーノとBMWの鍵を貸せ』と言う。『汚い車のままで、送り出せんやろ!!』と言う。
確かに2台とも汚れていた。このツーリング前はバイクにかかりっきりだったし。
このアニキの好意に遠慮することなく甘えて、2台はピカピカになって戻ってきた。
引きこもっていた長男を誘い、カプチーノに乗せ、いつもの海沿いにドライブに連れて行ってくれた。
お通夜の準備で 自宅とお寺を何度も何度も往復した。
子供たちのことは、同じ年頃の従兄妹と 次兄の嫁さんに任せきりだった。すごく助かった。
なにせ、こんな経験したことあるわけもなく、なにがなんだか全くわからなかった。
お寺で会場の準備を手伝ってくれている、エボⅤさんから電話が鳴る。
『おい!Kの部屋にあるトロフィー持ってこい!!』
は???なんのことやらと思ったけれど、大小いくつか見つくろって届ける。会場に飾るらしい。
『Kらしい最期にしたろうやないか!!』とエボⅤさんは笑顔で言った。
とは言っても、いろんな人が弔問に訪れるだろうし、正直 体裁ってのもあって 迷った。
『最期なんやぞ!?』と後押しされて、決めた。彼らしい、オンリーワンの告別式にすることに。
出棺の時間が来て、自宅を後にする。
カプチーノとBMWのエンジンをかけ、2台のクラクションを鳴らし、手を合わせる。
ご近所さん、ごめんなさい・・・だった。
お寺に着いた棺のそばにいくつかのトロフィーを並べ、レーシングシューズも飾る。
棺の上には、レーシングスーツをかけた。
かけたレーシングスーツにグローブもセットして、カプチーノから取りはずしたハンドルを握らせた。
会場の入り口には カプチーノとBMW ピカピカの2台を並べた。
開式の時間になると、会場はいっぱいだった。それどころか、会場に入りきれずに外まで列になっていた。
親族、会社関係、友人、消防団、学校関係、車関係(みん友さんもたくさん)、とにかくすごい人だった。
通夜、葬儀、のべ人数約600人という、とんでもない人数になった。
葬儀屋さんは想定外の人数に香典返しなど足りなくなったりでバタバタしていた。
お坊さんも、なかなか焼香の列が途切れないので、お経が足りなくなってかなり焦ったらしい。新人のお坊さん(26歳)なので。
18時開式で、終わったのは20時近かった。
みん友さんの中で、お顔を存じ上げない方が何人か来てくださっていたようで、ご挨拶もできずに申し訳ありませんでした。この場をお借りして、お詫びします。
一旦家に戻り、子供たちを寝かしつけた私の友人たちが 22時ごろに集まってくれた。
私はお寺に泊まることにしていたし、お寺のお座敷で みんなで飲んだ。
家族ぐるみでキャンプやバーベキューをよくしていた 仲間たちだった。
心強かった。
みんなが帰った後、いくつか椅子をつなげて棺のそばで少し横になった。
9月15日(水)
朝6時に、いったん自宅に戻りシャワーと軽く朝食をとる。
この3日間ろくに食べてないな・・・。
9時30分 告別式。
平日なのに たくさんの人。
息子たちの通う小学校は、運動会の予行演習の日だったけれど、1日延期にしていただいたようだった。クラスメートが、学校から並んで歩いて来てくれた。
一緒にツーリングに行っていた、クラブの方も来てくださっていた。
出棺前に棺を開けて お花をたくさんたくさん入れた。
作業にいつも着ていた、昔私がプレゼントしたビルシュタインのツナギは 花で見えなくなった。
燃えないので眼鏡は外すように言われていたけれど、あっちで見えないと困るので こっそりそのままにさせてもらった。
火葬場に向かう道中も、エボⅤさん他に頼んで カプチーノとBMWに乗って行ってもらった。
最期の最期まで、この2台と一緒にいさせてやりたかったからだ。
お別れを言って 外に出た。
私と息子たちは その場に座り込み泣いた。
空に昇っていくカプリコの姿は、ゆらゆらとした煙だった。
あぁ・・・・・本当にいなくなったんだ・・・・・と、やっと理解した。
あれから1年、あっという間だった。
今でも フラッと帰ってくるんじゃないかと思うことがしばしばある。
彼はもう、戻ることはないけれど、彼がいるかのように仲間は訪ねて来てくれる。
未だに手離すことができずにいる、カプチーノの面倒を見てくれる仲間がいる。
そんな私の面倒を見てくれる仲間がいる。
みんながいて、私は生きている。
みんなの心に、カプリコは生きている。
ずっと・・・ずっと・・・。
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車関係 | 日記
Posted at
2011/09/12 00:55:12
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