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対厳山のブログ一覧

2014年05月27日 イイね!

経緯の括り

経緯の括り というわけで以前拙HPで掲載した企画を加筆修正したものではあるがざらっとお温習いしてみた。
 震災忌に序文を記載して二ヶ月余も掛かってしまった(-_-;)。
 考証が行き届いてたわけではないが、自分の知っている聞いているヒロシマをさらけ出した。
 まともに全部が鵜呑みに出来るモノではないがヒロシマとはこういうモノだという風に書けたと思う。

 まぁぜんぶを逐一読まれた方ってそう居ないとは思うσ(^◇^;)けど、被爆ってのが爆弾を落とされてやれ痛い目辛い目に遭ったと言うだけの話じゃない事はわかって頂けたんじゃないかとは思う。

 爆撃の痛み、後遺症の苦しみ、箝口令に差別に政治活動、何より根本の不理解。
 そしてソレが未だ昔話として括れない現実。
 本当に被爆とはやられただけでは終わらない苦渋ばかりの歴史なんである。
 10年前に調べ直したときは本当に日本人にも愛想が尽きたぐらいの絶望感を抱いてしまった。

 この10年前、
 勘のいい人は気がついたとは思うけど、個人的には家族の破産で往生してた真っ最中だったんだわ(-_-;)。ちょうど手続きが一段落して返済に入る前の間ぐらいだったかな?
 一方で『なんで俺がこんな目に』なんて思ってたけれどこういう被爆で苦しんだ人をかいつまんで調べる機会を設けてみて辛抱足りないなぁ(^^ゞと。

 きっかけはやはりあの小泉内閣だ。あれは酷かった。
 言っちゃいけないこと思っちゃいけないことを悪い方向にズケズケやっちゃったもんだから頭に来た。
 この人はホント人の心の痛みが微塵も解らない人じゃないのかと。
 ほんで今は安倍内閣である。この人はやっちゃいけないことまでも。加えて現在進行形。
「戦後レジュームからの脱却」とかのたまって「満州事変レジューム」をやらかそうとしてるから始末が悪い。
 それでフクシマとその後の原子力政策だから脳天かち割られるほどの背信だ。
(フクシマをやらかしたのは民主の輩だが、根本は同じ事)
 こういう怒りと怖さもあった。

 今の保守政治には当時の破滅主義だった日本が垣間見える。
 基本あと取れる責任は今負わない、負担はみんな民任せの政治の集大成だし。
 酷いこと書いたが、私は今まで保守与党に選挙票を一度も入れたことがないのでココははっきり言う。
(実は厳密には過去二度、革新党と与野党逆転にくらんで投票先を間違えたことはあるが(^^ゞ)

 あと作業的なこぼれ話。
 10年間のブランクを整合させる注意もあったけど、実はそこの基本は意外と変わっていなくて苦労はしなかった。
 というか、変わりがなければ困る話じゃあるけどよ(-_-;)。
 むしろ原稿の文体が(>_<)。
 この原稿は『女の子ふたりが掛け合いで話し合う』かっこうだったんで、投稿したあとにお姉ぇ言葉が残ってて焦ったことが多かった。
(そこ見た人居ます?σ(^◇^;)
 野郎のブログでソレはキモイでしょ(^_^;)?
 実はけっこう文体に無理のある綴りもかなり残ってると思う。
 また相槌や怒号(あったのよ(-_-;)を削除したもんだから中身がスだらけになったこともかなりあった。
 今回は調べ物はwiki程度で済ませて作業自体は簡単なはずなのにほとんど書き直しでけっこうな手間を要した。

 さて、これで終わりじゃありませんで。
 さっそく次からはこの企画で使った書籍の紹介をしていこうと思う。

 これまた前の企画の刷り直しなのでお姉ぇ言葉が残るかも知れないがペースは上がると思う。
 正しくはこれらの本でちゃんと考証を取って下さいという、まぁ責任逃れσ(^◇^;)。
 ソレを幾つか目にしたら広島に来て下さいという流れにしようと思う。

 ソレを18切符の季節に間に合うように書きたいなぁとは思うので、また当分ヒロシマ以外の話はなかなか振らないと思う。
Posted at 2014/05/27 11:25:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月26日 イイね!

経緯の最終回。過ちいまだ・・・・・

経緯の最終回。過ちいまだ・・・・・ 1952年11月3日、一人のインド人が広島平和公園に訪れた。
 パル教授、極東国際軍事(トーキョー)裁判で判事を務め、日本人の無罪を筋立てしようとした道理のある人物として世に知れていた。

 彼が原爆慰霊碑の碑文を訝った。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
 なぜ?
 日本人が責を負うのか。
 こんなに酷い目に遭わせたのはアメリカだろう?なぜ君らが逝った者に謝る?

 それに対し碑文を学者と共に決めた当時の浜井市長は、誰がだれへナニがどうとか言う問題ではない。人類の過ちを赦さないから安らかに眠って下さいと言うことなんだと釈明した。

 もっともこれでは、主語がないと言葉が通じない外国人に通りが悪いというので以降英文では、
「Let All the Souls Here Rest in Peace,For We Shall Not Repeat the Evil.」
(平和なる此処に眠る魂のためにも、我々はこの災いを繰り返しません)
 あるいは、
「Let All the Souls Here Rest in Peace,For to repeat the Fault We Shall Sease」
(~、過ちを繰り返さぬよう我々は不戦を誓う)
 と「私たち」が「災い」を繰り返さないという誓いを立てるようにした。

 日本語では、
 主語を着けるとヤレそこはそう受け止められるからとつい歪曲してしまうから、
 厳密な誓いとしてあえて文としては曖昧としたのだ。

 逆に定義を絞らないことで妥協や解釈を含めない内容をと考えられた文面で、ナニ加わるモノも赦さない剃り込まれた言葉だったのだ。
 彼らにはその後の核開発競争や原水禁分裂は見えては居なかった。
 凄まじい先見をも見通していたと思うのだが。

 そして非業の死や苦しみを与えられた被爆者を暖かく慈しむと共に「~せぬから」の括りには読む言葉としてではなく自らの強い意志として唱えることを含んだと言われている。

 2011年3月11日。
 あの震災で福島原発がメルトダウンを起こした。
 また、日本で原子野が発生したのだ。
 被爆が人や街に底知れない被害を及ぼすと肌身にしみていたはずの日本が、よりにもよって世界最大級の原子力事故を引き起こしてしまったのだ。

 安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから

 眠れるか?
 私ならとてもじゃないが収まらない。

 被爆から66年後である。
 世界の趨勢にも弄ばれて、
 他山の石も幾たび相まみえて、
 ソレでこれか。

 確かにきっかけは天災だった。
 しかし私はあの日『絶対安全だから』と、「原子アレルギーな輩をなだめすかせる」ような詭弁を弄し続けた政府側の言葉は忘れない。

 いきなりの事故ではない。
 1999年に東海村JCO臨界事故でその認識の甘さは世に知れ渡っていたはずだ。

 ナニも。
 なんにも、
 ヒロシマナガサキで学んでは居やしないではないか。
 あの犠牲はなんだったのか?

 ソレでなお原子力操業を国策として推し進めて海外にも売り込む厚顔さ、ソレを都知事選挙で拒否しきれなかった市民。

 眠れるか?
 繰り返しまくっとるじゃないか、過ちを。
Posted at 2014/05/26 02:31:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月25日 イイね!

経緯の33。どこまでの被害者を・・・・・

 被爆被害啓蒙の訴求に戦争に対する意識というモノが立ちはだかる結果となった世紀末。
 被爆者は原点に立ち返って被爆被害の伝承に努めるようになる。
 国際関係も戦後補償も被爆伝承に差し障る状況では声高に被害意識を振りかざしても疎まれるだけ。
 被爆によってナニがもたらされ、人間や都市の生活にどれだけ仇を成してきたことかを説くようになってくる。

 ところでやっと1994年に被爆者援護法が制定されて被爆者の定義が法的に定められると、逆に例えは悪いがザルから溢れたように認定を外される人々が出てくるようになる。
 実態が捉えられていない『黒い雨』による放射能罹患や、外国人被爆者である。
 外国人被爆者というと主に当時は同国民であった朝鮮/台湾人を指すが、ほかにも影響圏からの強制連行やアジア留学生や米軍捕虜、加えて生粋の日本人だが戦後の生活難で南米などへの出稼ぎ船で渡航して彼の地に帰化した者も含まれる。
 現在彼らを救済すべく動きもあるが、日本人の認定さえままなっていないのが実情だ。

 しかし、実際被爆した朝鮮・台湾人は被爆補償もナカナカ受けられずに苦しい人生を強いられる。その意味では日本人被爆者に勝る苦痛に綴られてきた。

 終戦で日本にいる理由が無くなったのだが、いざ帰国の途に就こうとすると課題にまみれることになる。
 戦時荒廃と国内復興で船を出す自体が大変な状態だった日本からマズ帰国することが大変だった。
 加えて直後には折からの台風シーズンで船が沈んだりと命からがらの帰国だった。

 帰国しても暫くすると朝鮮では国を二分する朝鮮戦争の勃発。コレは被爆者じゃなくても壮絶な目に遭わされた。何しろ隣人さえ敵になる戦いだったから。
 この戦争も朝鮮のかたには拭いがたい傷を残した。

 ソレが落ち着くと国交の復活した韓国だけでも・と思いきや、『外国人』になってしまった被爆者にヒロシマは冷たく門前払い。
 と言うか、日本人の被爆者さえその対象をフルイに分けていた状態だから、外国人の補償までトンデモナイよ・と言う状態だった。

 彼らは日本に強制連行された非を責める前にマズ被爆者として認めて欲しいと言ってるのにソレさえ受け付けてくれなかった。
 こうなるとどっちが被害者か解らなくなって来る。

 在韓被爆者の苦痛は大変なものだ。
 慰霊碑などを悪戯するなぞ失礼千万だ。

 戦後南米開拓に向かった人なども、『外国人になってしまったから被爆補償が受けられなくなった』という問題も折に触れ浮き彫りになった。

 ソレもコレも被爆直後に成すこと成さなかったツケである。
 ソレは日本人に対してもいい加減だったんだから、海外の国の人にはソレはもうやられて泣き寝入りに近い状態であった。

 身の上が落ち着いてソレを訴えると『イヤ昔の話の昔の政府のやったことだから』と平気で答弁する。
 コレじゃ誠意もヘッタクレもないわな。

 しかしこうなってくると被爆したことさえ他の国の人に対しても責任を持たなければならない。私はそう思う。
 少なくとも今のまま知らん顔じゃいけないし、被爆についての理解も得られない。

 訴えるばかりじゃ理解されない現実はあちこちにある。
 責任ある行動が、問われ出した。

 実は経緯編あと2回(^^ゞ。
 現在と私なりの所感の書き下ろしです。
(原稿はまだあったけど、脇道に飛んだり被爆と直接絡まない戦争責任論だったりするので割愛します)
Posted at 2014/05/25 11:53:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月24日 イイね!

経緯の32。被爆の『賞賛』

経緯の32。被爆の『賞賛』 さて、被爆訴求の障壁をまずはアメリカから紐解いていった訳だが、他の国でも一筋縄ではいかなかった。

 先々代の広島市長、平岡敬氏が被爆50年の1995年、世界や広島で訴求したヒロシマの記録を一冊の本にしたためた。
 平岡市長は中国新聞などのメディア畑から叩き上げられた文化人として色々頑張った。

 これによると、世界の舞台で被爆を訴えると必ずと言っていいほど決まった反応が、被爆の啓蒙以上に返ってくる。

 アメリカに行けば、
『原爆が落ちなければ戦争はああも早く終わらなかった』
 と言い、
 アジアに行けば、
『我々は日本軍にこれ以上悲惨な目に遭わされた』
 と言われる。

 まず素で被爆の悲惨さを訴えても返ってくる答えは因果応報である。

 95年にはアメリカのスミソニアン博物館で原爆展を開こうとした。
 その出典依願を受けていたのが平岡市長を始め広島市ではあるが、けっきょく向こうの館長が退役軍人会に吊し上げられてクビまで飛ばされそうになった。
 原爆展でクビが飛ぶ?
 最終的にエノラゲイの展示で戦勝展に落ち着いた。
 要は反論が根強いって事だ。

 けっきょく徹頭徹尾、第二次世界大戦を敵として戦ったアメリカと東部アジアでは『原爆肯定論』がまかり通って聞く耳を持たれない。
 戦敵だからだとは思うが、しかし彼らにはそれ以上に原爆が使われてしかるべきと言う意識が根強い。

 アレがなかったら私は死んでいたって言うかたが各地で居るのだ。

 ヒロシマには気の毒だが、彼らの犠牲無くしてアノ苛烈な戦争は終わらなかった・と言う意識が支配的なのである。

 で?広島市民には死ぬまでツライ生活を強いてソレでイイ・と?

 コレは違う形で沖縄にも言えるのだが、日本政府はこういう形で戦時賠償を押し込め、未来に向けて努力をするから大目に見てはくれまいか・と言う方針がにじみ出ている。

 だからヒロシマナガサキ・オキナワがその苦渋を訴求するとその政府方針の矛盾までひっ被る。

 平岡市長は国や歴史の矛盾から説明をするのに大変だったと言う。

 つまりなんだ?国の施政からもうヒロシマナガサキの言い分は過ぎた事だから勘弁せぇと。
 碌ズッポ補償もせず被爆者が死んで人数が少なくなるのを見計らって・・・・・

 今まで触れたように被爆に於いては種々の障害が誤解や被爆者に大きな傷を遺し、今に至るまで苦しみが報われない。

 しかし占領政策から始まってアメリカの国防計画に組み込まれた日本はその防衛線の中で経済復旧を成し得る。
 言い換えればアメリカの軍事力の後ろ盾で戦後復旧と経済成長をとげたのだ。

 つまり日本は大戦の犠牲を一切棚上げにすることで戦争の賠償から逃げ、未来を勝ち取ったと言ってもイイでしょう。

 それ故に核拡散に於いても抑止を訴えるどころか看過してしまったのだ。
 アメリカの方針に日本が本気で異を唱えることは出来なかった。

 しかし被爆の傷は今なお及んでて、各地で悲劇は繰り返される。
 それに国は『戦災被害皆同じ』の観点で『特別扱いを避ける』との名目で目を背け続けた。
 世紀末になってやっと援助法が形なり制定されたが、既に無念の想いで逝った方が多く、どちらかというと『高齢化対策』でしかない援助法は施すに遅すぎた。

 国も被爆者に報いませんでした。
Posted at 2014/05/24 03:17:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月23日 イイね!

経緯の31。加害者意識その軽ろきかな

 原稿も残すところあと6つぐらい。
 退屈(^_^;)な話が続いてるがもう少しご辛抱願いたい。
 またここまで時勢的な流れで拾ってきたが、ここからは被爆半世紀の時事を項目で拾ったので正確には『経緯編』ではない。

 さて、今回は世界的に高名な雑誌の「やっちゃった」お話から。

 こういった具合で世界的にも核廃絶の動きが出て、被爆者も請われて被爆の実状を伝えに世界各地に赴く訳のだが、その一方で彼らは拭いがたい温度差を味わうことにもなる。
 そんな象徴的な記事が1962年5月に発表されてしまった。

 アメリカでは高名なビジネス週刊誌『TIME』で『二都物語』というのが採り上げられた。
 ヒロシマとナガサキのことだ。

 ざっくりとした内容は『ヒロシマは売名行為に腐心し、ナガサキは冷静に現実を見据えてる』ってみたいなことが書いてあった。

 核実験に過剰に反応して声を荒げて騒ぎ立て、街並み軒並み商店に「原爆」と「平和」の名の下で過去の悲惨さを売り物にしてると言う嘲笑的な記事である。
 確かに物見遊山で、被爆者の生活の苦しさも解らない異国の記者が見れば観光客にAtomicだPeaceだで遺品の商売さえしてるヒロシマの光景は滑稽でさえあったろう。

 内容的には感情論で書かれた印象があり、検証も雑把であった。
 この記事では共産主義の宣顕するヒロシマ側の主張する死者が25万人、米原子力委員会が6万5千人とあり、現実とほとんど絡んでいない。当の取材されたABCCの職員からも「不謹慎な言及があった」と陳謝されるほどだ。

 当然被爆者の怒りは激しいモノであった。

 コレには被爆地ヒロシマは相当な事実誤認とショックを受け、抗議も含めて地元紙中国新聞はその25日に1000字にも及ぶ抄文を掲載した。

 しかし裏返すとそれだけ被爆の真相が伝わっていない結果であり、被爆者は与えられた場所場所でことさら強く被爆の惨状を訴えていくようになる。
 ある被爆者は、
「被爆を売りモノにだ?被爆が売れるモノならいくらでも売りまくってやる!」
 と、ある種無知への啓蒙に対する敵愾心を抱いたともいう。

 この記事の実のところ長崎はクリスチャンも多く、西洋人には馴染まない浄土真宗安芸門徒の広島市民と違ってそう言う風潮が感じられなかったのかも知れない。
 しかしこの記事には自分たちが原爆を行使した現実が欠落していた。

 当時の浜井広島市長の言葉は、被爆者の当時から変わらぬ思いを簡潔に言い表している。

「いち米人がヒロシマを非難したからと言って突っかかる気はない。ああした中傷記事が世論となることが恐ろしい」

 このような、『不遜な言動』はけっこう散見する。

 76年には航空ショーでキノコ雲を再現した模擬原爆投下ショーなんかやってるし、94年には米郵政省が原爆のキノコ雲を終戦の記念シンボルとして記念切手にしようとした。

 被爆者には不謹慎としかうつらない無神経さ加減である。

 いずれも以後の自粛や撤回されはしたのだが、いつも『当方に悪気や恣意はなく記念行事だ』というコメントが返ってきた。

 アメリカではそこまで原爆や原子力に固執する神経を疑うほうが普通であった。
 国内の電力のもう何割かは原子力だし、事故を起こさない自負を持ってるだけに、余計始末が悪い。

 それにしても過去の罪は認めなければならない。
 認めると補償の話に二つ飛びに入るから今や日本も頬っかむりの傾向があるが、太平洋戦争で与えた諸国に対する横暴は形はどうアレ償うべくモノとは考える。
 否定は底抜けな無責任である。

 しかしアメリカではそこからが違う。
 そもそも原爆に『過去の罪』という考え自体がない。

『アレで戦争が早く終わったんだから感謝しろよ・だいたい原爆が堕ちたのはお前らが悪いんじゃないか』という意識がまだアメリカでは根強い。
 感謝とまでいうものまで居るのだから恐れ入る。
 ヤッタものヤラレタものの差がアリアリだ。

 実は、こういう意見の温度差ってのはまだ世界、特にアメリカと一部アジアの間では根強い。

 欧米の市民団体とは核廃絶の想いを共有している広島の被爆者だけど、ソレはまだ世界的に見て微々たる勢力でしかない。
 ほんの微々たる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 次はそこの難しさを追っていこう。
Posted at 2014/05/23 12:59:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他

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「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。  新社会人時代(つぅても四半世紀余前)に業界に居たことで知識は素人以上プロ未満。  属性はその影響で三菱...
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