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くろまめたろうのブログ一覧

2015年02月27日 イイね!

三田

鎌倉時代以前の三田は金心寺と三輪神社の門前町を中心に多くの荘園ができ、地頭である豪族が桑原城、貴志城、大原城などの小さな山城を築いて統治していたが、室町時代に荘園公領制が消滅すると城下町としての性格を強め三田藩が成立していく。

* 1361年(康安元年) 播磨国守護だった赤松則村(円心)の四男・氏範が有馬郡を領有し三田城(車瀬城)を築城。
* 1386年(至徳3年) 南北朝の争いで赤松一門が足利軍に組する中、氏範だけは南朝方に付き、幕府派遣の討伐軍に攻められ自害。
* 1409年(応永16年) 氏範の兄である赤松則祐の五男・義祐が有馬郡を領有し摂津有馬氏を名乗るようになる。
* 1575年(天正3年) 織田信長の「天下布武」の下、摂津国を平定した荒木村重が、織田陣営の丹波国攻略の要として家臣の安都部弥市郎を荒木重堅と改名し、三田城に入城させ1万石の城下町として整備していく。
* 1582年(天正10年) 荒木村重が織田信長に謀反を起こしたときに重堅は三田城を開城、代わって信長の家臣であった山崎片家(堅家)が近江国山崎城より三田に入封、2万3千石の領主となった。

近世三田藩

* 1601年(慶長6年) 山崎家盛は関ヶ原の戦いで西軍に仕え敗戦、因幡国若桜藩に転封となる。代わって摂津有馬氏の出で東軍の武将であった有馬則頼が播磨国淡河から2万石で入封。
* 1602年(慶長7年) 有馬則頼が没すると丹波国福知山藩6万石を所領していた嫡男の豊氏が家督を継ぎ、三田藩2万石を併合し福知山藩8万石の所領となった。これにより三田藩は一旦廃藩となり三田城(車瀬城)も破却される。
* 1620年(元和6年) 福知山藩主の有馬豊氏は大坂の役の武功により20万石の大名となり筑後国久留米藩に移封。
* 1626年(寛永3年) 出羽国上山藩から松平重直が3万石で三田に入封し三田藩は復活する。
* 1633年(寛永10年) 志摩国鳥羽藩の九鬼氏の家督争いを理由に、幕府は九鬼氏の5万6千石を分割し、九鬼久隆を3万6千石で三田藩に、九鬼隆季を2万石で丹波国綾部藩に移封。これにより松平重直は豊後国高田藩(竜王藩)に転封となる。

九鬼氏の統治

九鬼氏は藤原北家熊野別当の末裔で紀伊国牟婁郡(現在の三重県尾鷲市)で起こり、志摩国鳥羽藩(三重県鳥羽市)を拠点に九鬼水軍を統率し秀吉の九州征伐や朝鮮出兵で水軍総督を務めた大名である。守隆の死後、五男の久隆と三男の隆季との間に家督争いが起こり、水軍力を恐れた徳川家光はこの家督争いを理由に九鬼氏の石高5万6千石を分割、内陸の三田と綾部に移封させた。これにより九鬼氏は鳥羽の地と水軍を失い、宗家を三田に移し廃藩置県までの約240年間、三田藩を統治することになる。

居城は三田陣屋で、 現在の有馬高校校舎敷地(三田城跡)に二の丸・御茶屋・武器庫・煙硝蔵などを設け、現在の三田小学校敷地に御館が築かれた。御館は、御広間・御小書院・御 大書院・御居間・台所・御局・御守殿などから構成されていた。現在陣屋跡には水堀が残り、御下屋敷表門(黒門)の部材が金心寺の門に使用されている。

九鬼氏は石高にそぐわない多くの家臣団を召し抱えていたため、財政は入封早々より行き詰まった。

2代隆昌の時代に藩の機構が整えられた。7代隆由は寛保2年(1742年)藩校「国光館」を開いた。8代隆邑の安永9年(1780年)には増税により農民一揆が起こり、城下の商家数件が打ち壊しに遭った。

特筆すべきは10代藩主隆国である。文化年間(1804年 - 1817年)に江戸城神田橋御門・常盤橋御門番を務めた功績により、天保10年(1839年)に城主格大名に引き上げられた。好学の名君であり文政元年(1818年)藩校である「国光館」を新たに「造士館」として発展させた。また洋学にも関心を示し、幕末に向け三田藩の近代化を推進する素地を開いた中興の祖である。

最後の13代隆義は藩政改革を行い、軍隊を洋式に改めた。慶応3年(1867年)藩論が倒幕に統一され、鳥羽・伏見の戦いにおいても洋式軍隊を率い官軍方として参戦した。また、明治維新が起こると、近代港として神戸港が整備されると知るや、幕末から明治維新の混乱による財政の立て直しと廃藩置県で困窮する三田藩士を救うべく、藩士の白洲退蔵(白洲次郎の祖父)、小寺泰次郎らとともに「志摩三商会」という神戸初の輸入商社を設立する。これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町、三宮といった神戸港周辺の都市開発や神戸女学院の前身である女子寄宿学校・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼしている。

明治4年(1871年)廃藩置県により三田県となる。その後、兵庫県に編入された。

藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。

歴代藩主
山崎家

外様 2万3000石 (1600年 - 1601年)

1. 家盛(いえもり)〔従五位下、左馬允〕

有馬家

外様 2万石 (1601年 - 1602年)

1. 則頼(のりより)〔従五位下、中務少輔〕
2. 福知山藩有馬豊氏領となる(1602年 - 1620年)

松平〔能見〕家

譜代 3万石 (1626年 - 1632年)

1. 重直(しげなお)〔従五位下、丹後守〕

九鬼家

外様 3万6000石 (1632年 - 1871年)

1. 久隆(ひさたか)〔従五位下、大和守〕
2. 隆昌(たかまさ)〔従五位下、長門守〕
3. 隆律(たかのり)〔従五位下、和泉守〕
4. 副隆(すえたか)〔従五位下、長門守〕
5. 隆久(たかひさ)〔従五位下、大和守〕
6. 隆抵(たかやす)〔従五位下、丹後守〕
7. 隆由(たかより)〔従五位下、伊勢守〕
8. 隆邑(たかむら)〔従五位下、長門守〕
9. 隆張(たかはる)〔従五位下、長門守〕
10. 隆国(たかくに)〔従五位下、和泉守〕
11. 隆徳(たかのり)〔従五位下、長門守〕
12. 精隆(きよたか)〔従五位下、長門守〕
13. 隆義(たかよし)〔従五位下、長門守〕

幕末の領地

* 摂津国
* 有馬郡のうち - 57村

関連項目

* 相楽園
* 三田学園

参考文献

Posted at 2015/02/27 10:34:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年02月27日 イイね!

兵庫県

兵庫県本州で唯一、北は日本海、南は瀬戸内海の2つの海に接している県である(本州の両端である青森県や山口県を除く)。本州を青森県から山口県まで陸路で縦断する場合、日本海側を通っても、太平洋・瀬戸内海側を通っても、必ず本県を通ることになる。

南北に長い県域を持ち、近畿地方の府県で最大の面積を持つ。そのほぼ中央を日本標準時子午線(東経135度)が南北に通過し、明石市にはこれに因む明石市立天文科学館がある。県中央部には中国山地が東西に横たわり、交通の難所ともなっている。

南部の瀬戸内海沿岸は阪神工業地帯や播磨臨海工業地帯といった日本有数の重化学工業の集積地となっており、近畿圏最多の工場立地数となっている。一方で、中部から北部にかけては農林水産業が主な産業であり、過疎地や豪雪地帯も抱える。これら過密と過疎を平均した県単位の産業活動指数は全国平均であることから、日本の縮図といわれることがある。また、南東部の阪神間はベッドタウンとしての性質があり、神戸市(国内の大都市人口6位)と阪神地方で全人口の約6割を占める。なお、兵庫県の人口は国内7位であり、兵庫県の人口密度は国内8位である。
日本標準時子午線(明石市)

令制国では、摂津国と丹波国の各西半分および但馬国と播磨国と淡路国の各全域に当たるが、僅かながら美作国と備前国の各一部も含んでおり、計7か国にまたがっている[2]。旧国名において7か国にまたがる都府県は当県のみであり、11か国からなる北海道に次ぐものである。加えて、五畿八道のうち畿内、山陰道、山陽道、南海道と最多の4地方にまたがり、古来の行政区分をほとんど無視する形で成立している。便宜的に、播磨国は山陽地方、但馬国は山陰地方に含める場合もあり、地図帳等では中国地方のページに掲載されているものもある。

外貨獲得を急務とした明治政府は、但馬の生糸の輸出に摂津の神戸港を活用するため、大久保利通の指示の元、櫻井努が策定した案を基に1876年(明治9年)第三次兵庫県の区域を確定した。神戸を発展させるための財源として、豊かな農業国であった播磨・但馬などからの税収を充てたのである。

江戸時代に置かれた藩は摂津国に尼崎藩・三田藩、丹波国に篠山藩・柏原藩、但馬国に出石藩・豊岡藩があり、播磨国に姫路藩・林田藩・明石藩・龍野藩・赤穂藩・三日月藩・小野藩・三草藩・安志藩・山崎藩が、淡路国に阿波藩(阿波徳島藩)の洲本城代の稲田家、旗本(交代寄合)の山名家の村岡陣屋、交代寄合の池田家の福本陣屋が存在した。
Posted at 2015/02/27 10:32:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年02月25日 イイね!

明朱元璋の建国
[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bc/Daimingbaochao.jpg/640px-Daimingbaochao.jpg]

モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である。

洪武帝は統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる皇帝独裁体制を築いた(詳細は胡藍の獄を参照)。

1398年洪武帝が崩じて建文帝が即位すると、建文帝の叔父に当たる各地の親王は帝室の安定のために排除されるようになった。北京を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王は追い詰められ、遂に反乱を起こした。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した(靖難の変)。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北京へと移った。

領土の拡大

永楽帝は北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の余党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方ではベトナムを陳朝の内乱に乗じて征服した。

さらに海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。

永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、ベトナムでは征服からわずか20年で黎朝が独立した。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される(仁宣の治)。

北虜南倭の危機

一方このころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが力をつけ、モンゴルを制圧したオイラト族長エセン・ハーンは明へ侵攻してきた。1449年、英宗は側近の宦官王振の薦めでオイラトに親征を行ったが、自ら捕虜となる大敗を喫した(土木の変)。

エセン・ハーンは内紛で殺され危機を免れたが、後に帰還して奪門の変で復位した英宗以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず、また政治を顧みない皇帝も多く、国勢はしだいに低調となった。また、同時期1448年、小作人鄧茂七(中国語版)が地主への冬牲や小作人負担による小作料運搬の免除を求めて反乱を起こし、鎮圧には成功したものの最終的に叛徒は数十万人に膨れ上がっている。

16世紀に入ると倭寇が中国人の密貿易商人と結びついて活動を始め、沿岸部を脅かすようになった(後期倭寇)。さらにモンゴルではクビライの子孫とされるダヤン・ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴルの再統一を成し遂げた。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは16世紀中ごろに頻繁に中国に侵入し、1550年には北京を攻囲した(庚戌の変)。

明を悩ませた、この時代の倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」と呼ぶ。

明の衰亡

1572年、わずか10歳の万暦帝が即位した。はじめの10年間は内閣大学士張居正が政権を取り、国政の立て直しが計られたが、張居正の死後親政が始まると帝は政治を放棄した。在位は48年に及ぶが、途中日本に攻撃された李氏朝鮮の救援(文禄・慶長の役)などの出費がかさみ、財政が破綻した。このような時局を憂えた人士が無錫の東林書院に結集し東林党という政治集団が作られた。以後、東林党と反東林党の政争が起こる。万暦帝の死後も泰昌帝は即位後まもなく急死し、天啓帝は寵臣の宦官魏忠賢に国政を委ねるなど、政情の混乱が続いた。魏忠賢によって東林書院は閉鎖され、東林党の人士も投獄・殺害された。

天啓帝の7年の治世の後、崇禎帝が即位したときには既に明は末期的症状をきたしていた。さらに即位後まもなく飢饉が起こり、反乱が相次ぎ、さらに後金軍の侵攻も激しさを増した。名将袁崇煥が後金軍を防いでいたものの、後金(清)のホンタイジの策略に嵌った崇禎帝が袁崇煥を疑い惨殺してからは後金軍を抑えられなくなり、更に流賊から台頭した李自成は西安に拠って大順を称し、北京に迫った。1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、滅亡した。

同年、清が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言すると、中国南部にいた明の皇族と官僚は南明を建て清に抵抗したが、雲南からビルマに逃げ込んだ永暦帝を最後に滅ぼされた。福建でも鄭成功が台湾を拠点に抵抗したが、鄭氏政権は後に清に降伏している。明の遺臣としては、このビルマ(コーカン族)、台湾のほか、広南朝ベトナムに亡命し、メコンデルタへの植民として活用された者などがある。南明は日本の徳川幕府に何度も援軍の派遣や物資援助を要請している。御三家や薩摩藩は出兵に対して乗り気であったとの記録がある。日本側は清への手前、公式に援助を行なうことが出来ないため鄭氏の交易利権(長崎貿易)を黙認することによって間接的に援助した。

1724年、明の代王朱彝の孫、朱之璉(注:中文)が清の雍正帝より一等延恩侯の爵位を授けられ、以後はその子孫に明の祭祀が引き継がれた。

Posted at 2015/02/25 10:13:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年02月25日 イイね!

メチルチオニニウム

メチルチオニニウム用法・用量

1〜2mg/kg(生後3ヶ月以下の乳児及び新生児には0.3〜0.5mg/kg)を静脈内投与する[3]。累積投与量が7mg/kgを超えてはならない。
禁忌

下記の患者ではメトヘモグロビン血症の増悪並びに溶血を起こし得るので禁忌である。

グルコース-6-リン酸脱水素酵素欠損症の患者
NADPH還元酵素欠損症の患者

以下の物質が原因である場合は禁忌である。

塩素酸塩(次亜塩素酸が生成する)
シアン化合物中毒の解毒剤である亜硝酸化合物(シアン中毒が再発する)

その他、フェノチアジン系化合物等に過敏症の患者には禁忌である。

又、アニリンやジアフェニルスルホンに因るメトヘモグロビン血症にメチルチオニニウムを投与すると溶血が起こり易いので、慎重投与とされている。
副作用

重大な副作用として添付文書に記載されているものは、ショック、アナフィラキシー、メトヘモグロビン血症の増悪、溶血性貧血、腎不全である。
作用機序

メチルチオニニウムはNADPH存在下、NADPH-フラビン還元酵素及びグルタチオン還元酵素で還元されてロイコメチレンブルーになる。ロイコメチレンブルーはメトヘモグロビン(Fe3+)を還元してヘモグロビン(Fe2+)とし、自身はメチルチオニニウムに戻る。
Posted at 2015/02/25 10:08:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年02月23日 イイね!

ローマ略奪 (546年)

ローマ略奪 (546年)ローマは545年末からトーティラ率いる東ゴート軍勢により包囲されていた。ローマを守る東ローマ帝国のマギステル・ミリトゥム(駐屯軍司令官)のベッサスは、包囲されたローマから住民が脱出することを禁じ、また、駐屯軍は備蓄されていた穀物の販売価格を吊り上げて行った。6世紀の歴史家プロコピオスの叙述によれば、裕福でない住民は軍より十分な食料を買うことができなくなって飢饉に陥り、小麦の脱穀殻(糠)や雑草、ネズミや犬、果ては人糞まで食するようになったという。中には殺人に手を染めるものまで出たという。遂に駐屯軍司令官は、住民がローマから脱出することを認めたが、飢餓状態の住民の多くは道中で餓死したり、簡単に敵の手に落ちた[1]。

シチリア島のシラクサに避難していたローマ教皇ウィギリウスは、穀物を満載した輸送艦隊をローマに向けて送るが、テヴェレ川河口で東ゴートの軍勢に阻止され船を奪われる。将軍ベリサリウスに率いられた東ローマ帝国軍はテヴェレ川河口のポルトゥスに布陣するが、軍内部の路線対立や、ベリサリウスが病気を患ったことによりローマ救出は決行されなかった[2]。

そのような状況下の546年12月17日夜[2]、東ゴート軍の兵士がアウレリアヌス城壁を密かによじ登りアジナリア門を内側より開いた。歴史家プロコピオスによれば、東ローマ帝国軍駐屯地で軍務に就いていたイサウリア人兵士が東ゴートと内通していたのが原因の一つだという。東ローマ帝国の守備隊が他の門から逃走してしまったため、アジナリア門から進軍した東ゴート軍勢は抵抗を受けることなくローマ市内に入城した。プロコピオスは、ローマの守備隊のうち残っていたのは500名ほどで、それも各所の教会に避難していたという。この時のローマ側の死者は26名の兵士と60名の市民であったと語っている[3]。ローマ市内で略奪を行ったトーティラは、最終的にはローマを完全に破壊するつもりであったが、イタリア半島南端のアプーリアに布陣する東ローマ帝国軍を追撃するため、結局ローマ市を取り囲むアウレリアヌス城壁の3分の1を破壊するだけにとどまった[4]。

547年、1年間の占領の後去って行った東ゴート軍勢と入れ替わり、ベリサリウスはローマに進駐する。ベリサリウスはアウレリアヌス城壁の迅速な復旧工事を成し遂げ、引き返してきたトーティラを撃退した[
Posted at 2015/02/23 10:09:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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