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2015年08月31日 イイね!

プロレタリアート

プロレタリアート古代ローマ時代の住民統計ケンス(ラテン語: Census:センサス→国勢調査)で、自分の子供以外に富を生み出す財産を持っていなかった階層の人々を指すものとして用いられたラテン語のProles(英語:offspring)に由来する。

フランスの二月革命など欧州各地で起きた1848年革命に強く影響を与えた、ドイツの学者ロレンツ・フォン・シュタインが1842年に執筆・刊行した著書『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』で、この語を資本主義体制下の生産手段を持たない貧困階級の意味で使ったのが有意の初出とされる。

マルクスとエンゲルスは、1848年に刊行された『共産党宣言』の中で、「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という歴史観を述べた。その上で、近代ブルジョワ社会においては全社会がブルジョワジーとプロレタリアートに分かれていくこと(両極分解論)、そして最終的にはプロレタリア革命によってプロレタリアートが勝利し、階級対立の歴史が終わることを予言した[1]

エンゲルスが1895年に死んだ後、マルクス主義政党として急速に勢力を拡大していたドイツ社会民主党において修正主義論争が起こった。エドゥアルト・ベルンシュタインは株式会社制度のためイギリスやフランスにおいて有産層はむしろ増えていることを指摘し、『共産党宣言』の両極分解論を否定した[2]。事実、西欧先進国においてはプロレタリア政党は権力を獲得できなかった。むしろプロレタリアートが多数を占めていないロシアや中国において革命が起こった。

1989年に起きた東欧革命と1991年のソ連崩壊でソビエト連邦や東欧の主だった社会主義体制国家が崩壊し、資本主義体制下で存続していた共産党をはじめとする数ある共産主義政党・社会主義政党も社会主義革命を目指した政党綱領を放棄し、あるいは綱領中で党がもっぱらその利益を代表するとしたプロレタリアート概念を取り下げて、特定の階級を代表しない、いわゆる国民政党へ転じたため、政治的に有意に用いられるのは存続した社会主義体制国家とその支配政党にほぼ限定されるものとなった。

ただし、新自由主義的な経済政策のもと、正規雇用にありつけず安定した生活が送れない多くの人々が生み出され、経済先進国に出現した新たな貧困層をプロレタリアートになぞらえて不安定なプロレタリアート=プレカリアートと呼ぶようになり、この概念は姿を変えて存続している。
[Hammer-and-sickle symbol]
Posted at 2015/08/31 10:18:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年08月31日 イイね!

メイド

メイド歴史的前提としての奉公制度

家事使用人の作業内容という点から見ると、同様の職業は人類の歴史上いたる所にみることができる。奴隷労働力が安価に供給されていた古代社会においては家内奴隷の仕事であり、自由民の仕事ではなかった。農業などの主たる産業の生産を奴隷に依存していなかった古代エジプトやメソポタミアのような社会でも、家事労働に従事する家内奴隷は一般的だったのである。しかし中世になると、少なくとも西ヨーロッパにおいて、奴隷制はあまり一般的ではなくなり、それと共に家事労働についてまわった奴隷身分という烙印も薄れていく。特に中世のイングランドでは、若い貴族がより高位の貴族の屋敷において行儀見習いの一環として奉公するという慣習が存在していた。清教徒革命による社会混乱を期に男性の紳士見習いは下火となったが、それ以降も、貴族女性は自分の身近に置く侍女は良家出身者から選び続けていた[1]。

これら奉公人は必ずしも貴族の屋敷のみで見られた存在ではない。多くの奉公人が出身とした、小農場主たちの家庭においても奉公人たちの姿は見ることができた。生家を離れ、自分と同じか、より上位の階層に属する「家族」に入り、独立し世帯を構えることが可能となるまでの期間を過ごすという習慣は、当時のイギリス社会における広範な階層において見られた奉公制度の一環であった。なお当時の「家族」は、家計を共にする集団全体を意味し、血縁のみならず奉公人までも含んでいたため、社会的に高位なほど、多くの奉公人を受け入れる事となり、「家族」の規模は大きくなった。この様な大家族では「家族」全体が家父長の支配・監督下に置かれており、奉公人たちは衣食住を保障される代わりに、「子供」に似た地位にある存在として「父親」である家長にほぼ全面的に従属していた。なぜなら当時の共同体を構成する単位は個人ではなく、家長を中心とした家族であったため、家長のみが世帯主として共同体における権利を主張できたのであり、彼との関係が無ければ、奉公人に限らず「家族」の成員は社会的にいかなる発言権も持っていなかった[2]。
家族関係の変化

従属的な立場にあったとはいえ、中小の農場主たちの世帯においては本当の家族の様に手厚く扱われることも少なくなかった様である。小農場主の妻であれば奉公人と並んで家事を行うことも珍しくはなく、奉公人との社会的出自も大きくは違わなかったため、しばしば見分けがつかないこともあった[3]。主人と奉公人、両者の間の峻別が進むのは18世紀のことである。産業革命と囲い込みによって生じた伝統的家族経済から消費者経済への転換は、生産単位でもあった「家族」を単なる消費の場へと変化させた[4]。それに伴い、家族の延長であった奉公人も共同体から切り離された労働者である使用人としての性質を強めていく。

主人とサーヴァントとの社会的立場の乖離は別の要因からも加速された。農業革命以降、イギリス農業は効率化を推し進めヨーロッパにおける農業先進国としての地位を確立していたが、農業生産の増加と穀物価格の上昇は農場主たちの経済力を確実に向上させ、18世紀末までには料理人や複数の使用人を雇用することを可能にしていた。このことは、かつては家事使用人と並んで家事や農作業を行っていた農場主の妻たちが家事と家業から手を引くことを意味した[5]。使用人たちを働かせ妻をあらゆる種類の労働から引き離しておく事は家長たる夫の経済力の証明となり、それはやがてリスペクタビリティを示す上で不可欠なこととなっていく。
雇用者の増加

農場主が複数の家事使用人を雇用可能になったことと平行して、家事使用人を雇用することが可能な、潜在的な主人たちが増加を始めていた。元々、家事使用人を雇用していた人々は主に地主貴族、農場主など農村における有力者、いわば農業資本家たちであったが、商業革命の結果、商人や専門職など中間層と呼ばれる人々が興隆し始めたのである。彼らが新たな雇い主となり家事使用人の数は急速に増加し、17世紀までに役人、専門職、商人などは男性に比べ安価な女性使用人を雇用している様になっていた[6]。その後、ミドルクラスの成長と足並みを揃えながら、家事使用人の数は増加の一途をたどり、19世紀末から20世紀初頭に最盛期を迎える。その背景にある要因として、家事使用人の雇用が衒示的消費の最たるものであったこと、そのために所属階級の指標と見なされていたことが挙げられる。またイギリス帝国の拡大に伴う本国における深刻な女性人口の過剰、そして何より他に選択肢となりうる職業の欠如も挙げられる。
女性使用人への転換

中世においては貴婦人の侍女や洗濯婦を除くと家事使用人の職はほぼ男性によって占められていた[7]。その要因として中世までの使用人はその根本的な性質において封建的な家臣であり、有事の際には戦力として見做されたこと[8]、また伝統的な家族経済においてはそもそも女性が現金収入のために正規の労働力として働きに出る必要が無かったことが挙げられる。

しかし、この男女比は18世紀後半を境に大きく変化する。アメリカ独立戦争の戦費を賄うため、全ての室内男性使用人に対し課税が行われる様(使用人税)になると、多くの職において男性に代わり女性が雇用される様になった[9]。その他にも男性使用人の賃金が高騰した上に、事あるごとに主人や来客に対し「心付け」を要求するなど、「反抗的な」態度がしばしば指摘され、そのために、より従順で扱いやすいと考えられた女性が使用人に適すと考えられたことを忘れてはならない。女性使用人の先天的性質を服従と忠誠に結びつける事は言うまでもなく「幻想」であったのだが、産業革命の進展にともない家事使用人に代わる雇用が生まれ、立場が向上した男性とは異なり、同じ産業革命により伝統的な仕事(糸紡ぎなど)が失われたにも関わらず、鉱山周辺や新興工業都市以外では家事使用人に代わる雇用が存在しなかった為、女性使用人は男性使用人より従順にならざるを得なかった。

ただ、使用人税を境に大きく減少したものの、男性は依然として家事使用人として重要な役割を占めていた。コストの点では圧倒的に女性使用人が安価であったが、男性使用人はその高いコスト故に衒示的消費としての価値を高めたためである。
家事使用人の衰退期

第一次世界大戦は人類史上初の総力戦であり、イギリスも他国の例に漏れず、全国民、全産業を挙げて戦争に協力し、家事使用人も例外ではなかった。男性、特に若者たちを給仕や従者などに従事させていることが批判されたのに加え、愛国心に駆られた雇用者たちが使用人に対して従軍を奨めることもしばしば行われた。彼らはイギリスに勝利をもたらすべく屋敷を離れ、戦場あるいは工場へと職場を変えていった。男性使用人のみならず、女性使用人にとっても第一次世界大戦は一つの転機であった。多くの男性人口が軍隊に流入した結果、男性によって占められていた工場労働者、店員、事務員といった職が極端な人手不足となったのである。これらの欠員を埋めるべく、臨時に他産業から労働資源の再配分が行われた。女性労働人口の大部分が従事し、イギリス国内において最大の職業人口を誇った“domestic service”がその供給源となったのである。

家事使用人たちが新たに得た職は戦争終結と同時に復員した男性によって再び占められることとなるが、家事使用人以外の選択肢が示されたという点で、この一時的な開放は大きな意味を持った。これ以降、使用人たちは以前から感じていた不満(雇い主との差別待遇、私生活に対する干渉、いつ終わるとも知れない労働など)をより強く意識するようになる。自由を求める家事使用人と従来の「節度」を守らせようとする雇用者の軋轢は第二次世界大戦を経て更に続き、多くの人々が家事使用人ではなく、タイピストなどの新しい職業を選択する。戦後の社会変化で家事使用人を雇用する生活自体が過去のもの、あるいは特権的なものとなるにつれ、かつては中流以上のすべての世帯で見られた家事使用人の存在はごく限られた一部の富裕層にしか見られない「貴重品」となっていった。
Posted at 2015/08/31 10:15:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年08月27日 イイね!

キンシャサ

キンシャサコンゴ川(旧称ザイール川)下流に位置する河港都市。近郊を含む都市的地域の人口は9,046,000人[2]であり、世界第30位、サブサハラアフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ)ではラゴスに次いで2位、アフリカ大陸ではカイロとラゴスに次ぐ第3位である[3]

キンシャサは、マレボ湖(スタンリープール)と呼ばれるコンゴ川の川幅が広がった地域にある。マレボ湖より下流はリビングストン滝と呼ばれる急流部が350km下流のマタディまで続いており、船舶の航行ができない。一方、キンシャサより上流は高原となっており、緩やかな流れがかなり上流まで続いているため、コンゴ川は1600㎞上流のキサンガニまで、ウバンギ川は1200㎞上流のバンギまで、カサイ川は800㎞上流のイレボまで、それぞれ大型船の通年航行が可能である。そのため、コンゴ盆地各地からの物資を集散し、鉄道で海まで運ぶ結節点として建設され、繁栄してきた。

コンゴ川をはさんだ対岸にはコンゴ共和国の首都ブラザヴィルが位置する。川を隔てているとはいえ隣り合っている都市が両方共国家の首都というのは世界中でここだけである。この二つの都市で大都市圏を形成している(双子都市)。お互いの都市は活発な経済活動がある。

旧称レオポルドヴィル (Leopoldville)。1966年、前年に政権を掌握したモブツ・セセ・セコにより現在の地名に改称された。

同じ地域名を国名として持つコンゴ共和国と区別するため、コンゴ民主共和国を首都キンシャサに因んで通称コンゴ・キンシャサと呼ぶことがある。コンゴ共和国は、コンゴ・ブラザヴィルと呼ぶ。同じ論法で正式国名になったのが、ギニアビサウである。
[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/Kinshasa_%26_Brazzaville_-_ISS007-E-6305_lrg.jpg]
Posted at 2015/08/27 10:18:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | モブログ
2015年08月27日 イイね!

ルワンダ王国

ルワンダ王国ルワンダ王家は伝承上1350年頃から始まったとされ、3代目のニギィニャ朝時代に後のルワンダの領域が欧米諸国の侵略を受けた。ムワミは少数派の牛牧民トゥチのパトロン・クライアント関係の頂点にあり、ムハジ湖周辺から徐々に支配を広げた[1]が、周辺部は農耕民フトゥの支配が維持されていた。第一次世界大戦終結まではドイツ領東アフリカとして植民地支配を受け、ドイツの敗戦後はルアンダ=ウルンディとしてベルギーの支配下に置かれた。この間に、ドイツ軍やベルギー軍の武力によりツチの王権・首長制が強化され、「ハム仮説」によりツチとフツの「人種」的分離とツチによる間接支配体制が構築された。

1959年、国王(ムワミ)ムタラ3世がベルギー当局によるワクチン接種後に不可解な死を遂げ、弟のジャン=バティスト・ンダヒンドゥルワがキゲリ5世として即位。これに伴い、ツチ人とベルギー当局の関係は急速に悪化する。同年、フツ人の大規模な反乱(万聖節の騒乱)が発生し、ベルギー軍は軍政を施行した。ルワンダは自治権を獲得して事実上の独立国となった[要出典]。

1961年、キゲリ5世がキンシャサにて開催される国際連合事務総長ダグ・ハマーショルドとの会談へ外遊中、ベルギーの支援を受けたドミニク・ムボニュムトゥワがクーデターを起こし、王政存廃に関する国民投票を実施する。その結果、キゲリ5世は廃位され、共和制国家の樹立が決定された。

1962年、ルワンダ共和国として完全に独立するが、政情不安が後のジェノサイド(ルワンダ内戦)に繋がることとなる。
Posted at 2015/08/27 10:17:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年08月26日 イイね!

aaaaaaaa

Posted at 2015/08/26 15:47:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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