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かわちゃん(Sensation-休業中)の愛車 [ホンダ ステップワゴン]

ぶらり島本町の旅 vol.1 (桜井の駅と水無瀬神宮編②)

投稿日 : 2009年12月02日
1
続いて立ち寄った場所は「水無瀬神宮(みなせじんぐう)」。
当地は、貞観年間に惟喬天皇の別業地であった場所。その景勝地に、後鳥羽上皇は水無瀬殿を造営し、水無瀬離宮と称されていた。後、承久の変により、隠岐に流され、崩御された後鳥羽上皇の御遺詔により、水無瀬の旧跡に「御影堂」が建立されたのが当社の起源。最初は「法華堂」と称されていたが、室町中期、後土御門天皇から、水無瀬宮の神号を賜った。祭神は、その後鳥羽上皇。同じく承久の変で配流されていた上皇の第三御子・順徳上皇と上皇の第一御子・土御門上皇を配祀する。明治までは、仏式であったが、明治6年、正式に神道形式とし、官幣中社に列格。昭和14年、官幣大社に昇格した。

写真中段は神門に至る参道と、薬医門造の神門。薬医門は桃山時代の創始で元来城門の一種、また医師の門に設けたともいう。厚い築地(ついじ)の中にうまく納まる。御影堂にふさわしい門といえよう。

写真左下段は客殿。昭和25年(1950)8月重要文化財に指定された。拝殿に向って左側に南面して立つ。桁行六間、梁間五間の入母屋造、桟瓦葺。豊臣秀吉の寄進、造営奉行は福島正則と伝えられている。一時は社務所、江戸時代には震殿・広間とよばれていた。全体の形式手法は書院形式で、規模、形式ともに標準均で比較的簡素で、水無瀬家の表向儀礼の中心的建物であった。

写真右下段は本殿。入母屋造桧皮葺(ひわだぶき)、桁行三間、梁行二間、約12坪、後鳥羽院御影堂という成立時の性格から神社本殿形式としては普通にみられない特異な形式である。延享元年(1744)「水無瀬宮臨時行事」(和歌奉納)に揚げられた「御殿敷設図」は現本殿に一致しており、外陣(げぢん)と内陣とからなる。内陣中央間に震影を収めた宮殿厨子(御前とよぶ)を安置、左右の脇問は宝蔵とあり、後鳥羽院衰翰・重代の文書などを収蔵していたようである。宮殿厨子は、寛文七年(1667)霊元(れいげん)天皇・後水尾院・明正(めいしょう)院・後西院・東福門院の奉加によって造られた。外陣は礼拝座である。かつて、御影堂の最重要の正忌日行事は、後鳥羽院の影像の厨子開扉が行われ、同厨子内に祭られている聖徳太子彫像を西殿へ奉遷し、法事の後、元の本殿内へ還御されている。この太子信仰は、聖徳太子と後鳥羽院の崩御の月日が同じであるところから、後鳥羽院を聖徳太子の後身とみなす信仰に由来するものと考えられる。
2
写真左上段は「離宮の水(りきゅうのみず)」。
昭和60年(1985)環境庁認定の「全国名水百選」の一つで、大阪府下で唯一の名水である。この水は井戸(深さ11メートル、水深1.5メートル)から汲み上げられている水無瀬川の伏流水である。境内の茶室では、三千家(表・裏・武者小路)・山田宗偏流の各家元が、毎年この井戸水を使って献茶式を催している。

写真右上段は「都忘れの菊」。
後鳥羽上皇は承久の変で隠岐に遷せられ、こよなく愛した水無瀬の里を偲んでいた。生前菊の花を殊のほか好まれ、行在所に咲く野菊を「都忘れの菊」と命名し、隠岐より水瀬の里に移植したそうです。

左中段写真の奥には「茶室」が見えます。
昭和25年8月重要文化財に指定された。後水尾天皇愛好の茶室を下賜されたと伝えるが、造立年時は不詳。一般に灯心亭または灯心席とよぶが、昭和初期以前は七草(ななくさ)の席と呼ばれた。これは、本席(茶室)の格(ごう)天井に山吹・トクサ・ヨシ・萩など十種余りの灯芯の材料とされた草木を用いていることから名付けられた名称である。

写真右中段は本殿内部。後鳥羽上皇の肖像画が見えます。

写真下段は「石川五右衛門の手形(いしかわごえもんのてがた)」。
神門の右柱にある。豊臣秀吉時代の大盗石川五右衛門が、当宮の神宝の大刀を盗もうとして、7日7夜、竹藪の中にひそみ、入ろうとしたが足がすくみ門内に入れなかった。そこで自分の手形を押して改心の証をして立去ったと伝える。その故事によって今でも盗難除のお札を受ける人が絶えない。
3
こちらは水無瀬神宮の前にある「地蔵堂」。
江戸時代小烏(こがらす)神社境内にあったが、明治元年(1868)神仏分離により今の地に移された。
4
こちらも水無瀬神宮の西側にある「愛宕社(あたごしゃ)」。
神体(愛宕大権現)として「愛宕山、元文(げんぶん)5年(1740)9月11日」と刻まれた神石が祭られている。おそらく愛宕講中により当時竹藪の中に建てられたものであろう。
5
愛宕社から西へ行くと、島本町水道部の浄水場があります。この浄水場内にあるのが「蘆刈の水(あしかりのみず)」。
谷崎潤一郎の作品「蘆刈」にちなんで命名され、近隣・又は遠くからも水無瀬の名水を求めに来る人々に利用されている。午前10時~午後4時まで無料で利用可能である。
6
今回のぶらぶら途中にあったお寺。
写真左上段は「阿弥陀院(あみだいん)」。
浄土宗 知恩院末寺、正法山と号す。本尊 阿弥陀如来。はじめ天台宗であったようで建暦年間(1211~12)5度焼失したと伝えられ、創建などについては不祥。慶長12年(1607)正誉了順を中興開山として水無瀬家が再興し、同家の菩提所となる。無本寺であったが寛永19年(1642)知恩院末となる。本堂・客殿・庫裏・釣鐘堂・八幡社・門、観音堂(勝敵毘沙門天を安置)があった境内は除地となっていた。

写真右上段は「天長寺(てんちょうじ)」。
浄土宗 知恩院末寺 地久山と号す。本尊 阿弥陀仏。寛永4年(1627)6月、了諾が開基した。地蔵堂がある。

写真左下段は「妙本寺(みょうほんじ)」。
日蓮宗 本法寺末、広宣山と号す。本尊 題目宝塔、多宝如来、釈迦如来。文明6年(1474)教行院日禅上人が開基した。日禅上人は、姓は藤原氏、広瀬村長井氏の男なりという。久遠成(くおんじょう)院日親(にっしん)上人〔錨冠(なべかむり)上人とも呼ぶ、立正治国論を著し、将軍義教(よしのり)に法華経をすすめ捕らえられ拷問をうける。不受不施を主張した〕の弟子となる。日親上人は迎えられて一乗(いちじょう)寺住職となっていたが、九州に弘法(ぐほう)のため、日禅上人に寺を譲られた。日禅上人は老に及び、弟子日耀(にちよう)に一乗寺を譲り、広瀬村に帰り妙本寺を建立した。本堂・車裏・書院・日親堂・鐘楼・表門がある。

写真右下段は「金照寺(きんしょうじ)」。
浄土真宗 本願寺派末寺 光聞(こうせん)山と号す。本尊 阿弥陀仏。天明6年(1786)本地住人と思われる円乗が、本願寺一八世文如法主(ぶんじょほつす)の直弟子となり、檀家の協力を得て、自己所有地に創建した。本堂・庫裏・書院がある。寺宝に西本願寺伝来の親鶯・蓮如両上人、聖徳太子・七高僧の絵像がある。
7
阪急水無瀬駅まで戻って、ちょっと小腹が空いたので立ち寄った「たこ勇」へ。

冷めても美味しい出汁入りたこ焼きです。お好みでソースか二杯酢をかけても美味しく頂けます。
10個300円。

懐かしい味がしました。
8
たこ焼きを食べた後は、同じく阪急の線路沿いにある「コーヒーハウス・MuK(ムク)」へ。

実は私18~19歳の1年間、浪人しながらここでバイトしてました。常連の大学生やら女子大生のおねーちゃんやらと過ごした楽しい時間は、今でもいい思い出です。

この日マスターの姿は見当たりませんでしたが、コーヒーの注文を聞きに来たのは、マスターの顔を判でついたようなおにいちゃんでした・・・。
多分息子さんなんでしょうね~冷や汗

さて、次はどこ行こ~足

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