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Mikkolaのブログ一覧

2013年10月29日 イイね!

Red Dawn  赤い夜明け 「若き勇者たち」 

Red Dawn  赤い夜明け 「若き勇者たち」 最近、ブログのタイトルが「赤いシリーズ」になっているが、自分は百恵ちゃん、左翼、共産主義のファンではない。

1989年、東西イデオロギーの対立が終結するまで冷戦時代には「Fire Fox」や「Red October」など東西冷戦を題材とした多くの小説が書かれ、「Top Gun」などの映画も作られた。

皆さんは「Red Dawn」と言う映画を覚えているだろうか。

この映画が公開されたのは1984年、東西冷戦最潮期の頃。

最近、この映画がリメイクされた、先ずは原作から。



物語はアメリカ合衆国 コロラド州 ロッキー山脈の麓にある小さな田舎町を舞台に始まる。

ある秋の晴れた日、授業中の高校グランドに国籍不明の空挺部隊がパラシュート降下した。

迷彩ジャンプスーツに身を包んだ兵士達は生徒の目の前で教師を撃ち殺し教室に向け発砲

一般市民にも容赦なく自動小銃を浴びせ、RPG対戦車ロケットで車や建物を破壊し始める。



この急襲混乱の中、地元の若者ジェドとマットのエッカート兄弟と高校フットボールチームの仲間達はジェドが運転するピックアップに飛び乗り命辛辛、町を脱出する。

ジェド達は町外れにある仲間の父が経営するGSストアに駆け込み、店主から「何を見聞きしても、迎えに行くまで決して山から降りてくるな。」と言われ食糧と必需品を掻き集めてロッキーの山中へ逃げ込んだ。


この傍若無人な空挺部隊の急襲に対し空軍は戦闘爆撃機を飛ばし州軍もヘリで応戦する。

だが圧倒的な兵力の奇襲に無防備な町は制圧され呆気なく占領されてしまう。


これはソビエト連邦とキューバ、ニカラグアから成る混成部隊の共産国同盟軍が米国本土に侵攻を開始した第三次世界大戦の始まりであった。


最初、共産軍は民間機を装い米国領空へ侵入、中西部に大規模空挺部隊を送り込むと同時に米国各地のレーダーと通信施設、ミサイルサイロを戦術核兵器の精密攻撃に拠り無力化。

メキシコからキューバ・ニカラグア軍の陸上部隊が侵攻北上し主要空軍基地を制圧する。

ソビエト陸軍はベーリング海を渡り、アラスカ、カナダに60個師団を投入して来ていた。


彼らはストアで言われた通り、手持の食糧を頼りに猟銃で狩りをしながら山中で時給自足の生活を数週間送っていたが、どうしても親親戚が気になり町の様子を3人で見に降りる。

町にはロシア語やスペイン語を話す侵攻軍兵士が溢れ、ソ連製の戦車や装甲車が走り回り、町の中心広場には自走対空機関砲が据えられ、市庁舎は占領軍の司令部に接収されていた。

本屋の娘からジェド達の行くえを KGBが探している事と父親の居場所を教えて貰う。

占領に反抗的な市民、彼の父親達は再教育キャンプと言う名の収容所で虐待を受けていた。

父に再開して山に戻ったジェド達だったが、偶然ロシア兵に見つかり兵士を殺してしまう。



占領軍は逃走潜伏中のジェド達の高校フットボールチーム”Wolverines”を抵抗ゲリラと断定

これまで起きた襲撃や兵士殺害を彼らの仕業と考え、彼らの親兄弟親戚をゲリラへの協力者として見せしめに銃殺処刑する。


親兄弟を殺され復讐に燃える彼らは、殺した占領軍兵士の武器を手にゲリラ戦を始める。

戦車兵を罠に嵌め、銃殺隊を銃殺、電話線を切り工兵を誘き出し、次々と占領軍を襲撃して行くが、それに対する市民への報復処刑も繰返されて行く。


エスカレートする襲撃と報復にニカラグア、エルサルバドル、アンゴラの抵抗側で同じ光景を嫌ほど目にして来たキューバ軍のベラ大佐は「大衆の支持を得る事が占領政策に大切では」とブラチェンコ将軍に訴えるが「戦況は膠着し士気が下がっている、兵を安全地域外に出すな、忌々しいゲリラの事などスグに忘れる」と、ブラチェンコが言った矢先に米ソ友好センターが爆破される。


彼らは空戦で撃墜され脱出した米空軍 F-15 イーグルドライバーのタナー中佐と出会う。


中佐から、これまでの戦況説明と「一世紀に、二度も大戦を経験したヨーロッパは静観し、イギリスは参戦したが長くなく、興奮した中国の人口は6億に減り、米国本土占領後は米ソ両軍が戦術核兵器の使用を中止、戦線は膠着状態が続いている。」と現状を聞かされる。


彼らと行動を共にし装甲輸送部隊の待伏せ襲撃を見たタナー中佐は作戦計画を立て弾薬庫と飛行基地を爆破して収容所に捕われている市民を解放し武器を渡す事に成功する。




「殺せは抵抗が募る」元ゲリラだったベラ大佐の具申をブラチェンコ将軍は聞き入れない。


やがてロッキー山脈に冬が訪れる。 

タナ―中佐は戦いに暮れる彼らを説得して、米軍勢力下の「自由アメリカ」に連れて行こうとするが米ソ両軍が対峙する最前線を超える時、対戦車戦闘に遭遇して戦死してしまう。


タナー中佐と仲間を失った彼らは山に戻って行く。

一方、ジェド達の襲撃に手を焼く占領軍にゲリラ掃討殲滅のプロであるストレルニコフ大佐が率いる精鋭特殊部隊スペツナズが送り込まれて来る。


着任したストレルニコフ大佐は将兵らを前に「同士諸君、君達はニワトリを盗んだキツネの姿を見ていたブタを殺すか?無能丸出しだ、今後は一切、民間人への報復は行なわない。 有能なハンターはキツネの住処を探し出し殲滅する。 諸君はキツネになれ」と訓示して、ジェド達 ”Wolverines” を狩り始める。


特殊部隊の執拗な追跡に仲間は次々と銃弾に倒れ、ジェド達は次第に追い詰められていく。



戦いに疲れきったジェドとマット。

エッカート兄弟は仲間と別れ二人だけで父への復讐、最後の戦いに向かう。






公開当時、左翼から「米国の愛国心と国威高揚映画」「反共宣伝映画」などと批判を受けていたが、自分は人間ドラマとして見て結構好きな映画だった。

左翼が騒ぐほど政治色も強くなく、また共産軍側の将校や兵士達の人間牲も描かれていた。

映画にデタントは必要ない、見る者が見る映画を選べばよい事だ。

侵略軍にとっては一つの占領地だが、占領民には生れ育った唯一の故郷であり大切な家族。

愛国心や反共、思想主義に関係なく、大切な家族や町、領土や自由を奪われ思想を強制されれば誰でも戦うと言う事であり、自ら家族や国を護るその権利が自衛権だ。

冷戦全盛期、東西陣営は互いに敵視し不信に陥り、多くの人々が第三次大戦勃発の恐怖と核戦争の脅威に怯えていて、こうした冷戦を題材にした小説や映画が作られた。

だが以前、「赤いキャビア」にも書いた様に実際に自分が1984年にソ連に行った時には既にアフガンで疲れた社会主義国家に局地的領土紛争は兎も角、ソビエトには第三次大戦を起こす様な経済も国民や兵士にも気力すら無かった。

ソ連崩壊後、ワルシャワ条約機構軍は解散、NATOに押されロシアの同盟軍も弱小だった。

現在のロシアに領土拡大の意欲はなく、経済と軍事に於いても旧ソビエト圏諸国を繋ぎ止める事に苦慮している状態で日露の関係改善は極東の安全保障安定に重要な役割を果たす。

2003年12月に米国陸軍がイラクで行ったサダム・フセイン捜索作戦の「Operation Red Dawn」はこの映画のタイトルからとり命名されている。


2013年10月に 1984年の作品をリメイクした映画「Red Dawn」が日本で公開された。

東西冷戦の脅威が去った今、何故 「Red Dawn」が再び米国で製作公開されたのだろうか。


時代は近い将来、舞台はワシントン州に移され、エッカート兄弟の兄ジェドはイラクから休暇で戻った海兵隊員に変更、撮影開始時は米国本土を侵略して来る敵は中国人民解放軍だったが中国政府と在米華僑団体の圧力と中国での興行収入を考え急遽、朝鮮人民軍に変更されている。

「Red Dawn」2012




朝鮮人民軍に変更した為、ロシアが長距離空輸を支援し侵攻を後押したストーリーに変更され中共を筋書から完全に取り除く前置や編集に苦労した跡も窺えるが北朝鮮の血盟守護国は中共で東欧や旧ソ連邦エリアに関係無い対米戦争にロシアが積極関与する可能性は低い。


自分には朝鮮人民軍と言うより、韓国軍に見える。

中共は自国TV映画業界でアホな反米反日映画を山程作らせて他国に干渉する。

米国映画業界、ハリウッドの言論も既に中国資本に侵略統制されていると言う事だ。

安ジェリーナ・女リーは中共に飼われ、アホで露骨な捏造反日映画を作る。

米国民主党政権内や米官僚内にも親中チャイナコネクションは存在する。


映画は全米ライフル協会が喜びそうな内容になっているが、中韓朝の近くに住む日本人より遠くに住む共和党系アメリカ市民の方が中共や北朝鮮を敵として警戒しているのだろう。

この様に相手国を名指しするテレビや映画の製作は日本では難しい、口撃されておしまい。

実際には中共露の後盾も無く、朝鮮人民軍が日米両軍の防衛網を破り、米国全土を制圧占領する事は有り得ない。


日本が中国にとって主要貿易相手国の上位であり続け、中共指導部が資本主義経済を理解し戦争に拠るリスク計算も出来ない程の大バカでない限り、全面戦争は仕掛けて来ない。

しかし日本の領土に対して中韓朝が絶対に侵攻して来ないと言う考えは甘過ぎる。

絶対に攻めて来ないと言う保証も無いにも拘らず日本には自衛権放棄を叫ぶバカがいる。

1950年に越境南侵、2010年に哨戒艦を雷撃沈して延坪島を砲撃しながら核弾道ミサイルを欲しがる北朝鮮が絶対に暴走暴発しない。と誰にも断言できない。


「平和」 それは清らかで心地よい言葉だ、平和と正義を愛さない日本人はいない。

「9条が有れば戦争はない、日本に軍がなければ何もしない、中韓朝は友好を望んでる」

「米軍基地が元凶」「集団自衛権は米国追従」「改憲は平和放棄」「秘密保護は言論統制」

拉致は創作と嘯き捜査妨害し弾道ミサイルを衛星と称賛し祝電を送り制裁と迎撃に反対、

核・化学兵器開発を続ける北朝鮮を擁護する売国とバカのハイブリッド政党が日本にある。

一部マスコミと左翼政党は嘘と工作の臭いがする宣伝をタレ流し続けている。

日本人が偽りの平和に溺れて喜ぶ国がある、偽りの平和に溺れた者には掴む藁をも無い。


外交、安全保障に於いて最も忌むべきものは偽善と欺瞞だ。

現実、米民主党オバマ政権は対中関係を重視し北朝鮮の核開発を放置する。

日本は日米同盟だけを当てにし過ぎると痛い目に遭う。

もし尖閣で有事が起った場合には自衛隊が先ず防衛の為に交戦しなければならない。

日米安保条約に拠って自衛隊が米軍の支援を受けるには、是が大前提である。 


経済力や発言力、防衛力の弱い国の領土を武力侵攻し、少数民族から権利を奪い盗る。

国際社会からの批難や抗議を無視して強行に居座るのが、レッドチャイナのやり方である。

中共は尖閣を盗る気が有るから行動を起こし止めない、実効支配すれば絶対に返さない。

日本に対して中共は米国や国際社会の反応を窺いながら、少しづつ盗み取ろうとしている。

尖閣、南西諸島、沖縄が浮かぶ東シナ海は、日中が睨み合う、敵対水域になっている。


1952年、韓国は軍事境界線「李承晩ライン」を一方的に設定し竹島を武力で強奪占領した。

日本漁船 328隻が拿捕、日本人44人が死傷(内 5人が死亡)3,929人が数年間に及び、劣悪な抑留生活を強いられ海上保安庁巡視船も16隻が銃撃を受けている。

これが韓国が日本を恐れ仮想敵国にしている理由であり、竹島周辺も日韓の敵対水域だ。



映画ではなく現実世界では東シナ海と日本海、朝鮮半島を舞台に日米環太平洋同盟と中華圏同盟の両陣営による新しい冷戦が既に始まっている。


尖閣や竹島が米国やロシア領なら武力紛争になっていた。

日本人が大人しいのを良い事に嘘をでっち上げ並べ立て、中共はバカな挑発を仕掛け、南北朝鮮はアホな挑戦を繰返して来る。 



同じ北東アジアにある日本は、いい近所迷惑だ。





Posted at 2013/10/29 18:54:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年10月23日 イイね!

Red October  部長の真っ赤な十月革命

Red October  部長の真っ赤な十月革命この度、拠所無い事情で、艦隊司令部を移設した。

規模は約10㎡程縮小されて自分専用の作戦会議室が無くなり長年愛用したガラステーブルとソファーセットは友軍部隊に引取られ遊び行った時に座る事になった。

これまでは、みんカラの友達や知人が来て車遊びの会話や友軍と作戦会議を開いて来たが、これからはみんカラなどのブログやコメントもゆっくり出来なくなった。

新司令部はビル1Fの元ギャラリーで表正面は電動防爆シャッターと防弾ガラス貼。

壁面は石と鏡貼でコンセントやジャックが無く、照明も間接かスポットのみで通常の事務所より電気やネットワークの工事改装が大変だった。

ただバリ島のジャングル絵の Kakatua は、スポットライトに照らされ元気になった。

旧艦隊司令部は震災前より、20年近く機能した為に半端ではない資料書類がある。

移設先は近所で移動は楽な様に思えたが、規模縮小の為に行場の無くなった保管書類整理に時間が掛かり、処分する書類と出て来た車のパーツを格納庫まで何度もピストン輸送した。

が、ウルトラスーパー部長は机の私物をダンボール箱に詰めて「引越終了♪」と宣言。

引越の前々日は定時で帰り、前日の日曜は15時に出社した部長は自分とチャーリー二等兵が備品を格納庫に運搬している間に「何も無ので、帰りま~す。」と電話を掛けて来た。

「何かする事が有るやろ」と自分は言ったが、「いいえ、もう自分はありません」と断言。


「佐藤浩市 引越部長、帰ってよし!」


遊び半分、ヤル気のない引越部長を帰らせ、自分は深夜まで書類整理と箱詰をした。

引越当日、新オフィスに入らないデスクやタイプライターなど旧型事務機器を処分した。

計画した配線ネットワーク通りのレイアウトに机やFAXなどを順序よく並べて行く。


突然、 引越部長が「僕はココより、こっちに机を置いて座りたい」と我儘を言い出す。

諦めが悪い部長に配線を理解させ諭すのに時間が掛かり、電気工事が遅れた。

この日、部長とチャーリーも22時位までいたが、自分は徹夜で整理収納片付けた。



引越が終わると同時に義父が病院に運ばれ危篤状態になる。

未だ新司令部の整理片付けが終わらない数日後、88歳で亡くなった。


義父は海軍で20歳の時に終戦を迎え負傷する事なく生き残り、終戦後も船に乗り続けた。

船から上がった岸壁で脳梗塞を起こし倒れるまで海で生き、海しか知らない人であった。

生前、無口だった義父は自分には何時も「婿殿、婿殿」と気さくに話し掛けてくれていた。

だが義父との会話は終始、唯一の共通点である海と船、上陸した港の話しだけだった。


自分は義父への手向けに出棺時に「海ゆかば」を葬送曲として流す様に葬儀場に頼んだ。


葬儀は親戚だけで身内以外に仕事関係や部下達に会場の場所も時間も知らせなかった。


葬儀当日の朝、事務所は通常通りに業務させた。

礼服で超爆音A4で葬儀場に行く根性がない自分はチャーリーに車で葬儀場まで送らせた。

そのまま二等兵は昨日、落として壊した携帯電話の修理に向かい、部長が会社の留守番。


午前10時、近県から会葬した顔見知りの親戚身内だけで、静かに葬儀が始まった。

坊さんが御経を上げ始めた時、誰かが遅れて来て息をきらせて自分の斜め後ろに座った。

どなたかな?と思い横目で見る・・・・・・何処かで見た事ある、風体と黒い顔である。


黒いネクタイに礼服を着て、真面目な顔して座っている。

ウルトラスーパー部長であった。


「え、何で?!・・・留守番部長が何しに来た!?」とは、葬儀中に言えないOrz



御経を上げている坊さんの足元を見た時、自分は別の異変に気付いてしまった。

坊さんが履いている草履が、何と、真っ赤なスリッパ、おまけにラメ入りである。

多分、慌てていたのだろう、普段履きか、それとも会場のトイレのスリッパだろうか? 

澄まし顔で読経するラメ入り赤スリッパの坊主が壊れた様に同じフレーズを繰返す

佐藤 葬儀部長は悲しくもないくせに神妙な顔を作る、そして緊張した空気・・・・・


アカン。 

もう、ダメだ、自分の限界である。

咳で誤魔化しながら、笑いを堪えるが、肩の振えが止まらない。

我慢に我慢を重ね、力を入れた腹が痛過ぎて、義父の葬儀で自分が死にそうである。


しかし、ここで爆笑すれば、全ての親戚から、自分は人としての信用を失う事になる。

耐え難きを耐え、不謹慎にも「早く終ってくれ」と願うも、辛く長い御経は続いた。

実は、この坊さんは、自分の中学校時代の同級生である。 

この日は喪に服し何も言わず、四十九日の楽しみに良い戒名を付けてくれたので許す。


葬儀の終わり、部長は一度も会った事もない義父の棺の中に神妙な顔をして花束を飾る。

何故だか部長は親戚の男子達に混じり、義父の棺を抱えようとしている。

そして悲しみを堪えるかのように流れる葬送曲「海ゆかば」に合わせてゆっくり行進した。


「この人、一体誰?」と


棺を抱えながら親戚男子達は皆会った事もない部長を見て不思議そうな顔をしている。


自分は義父を霊柩車に乗せて「有り難う、誰もいないから、すぐに事務所に帰ってくれ」

と言ったが、オフィスの電話は自分に転送されたままになっている。


火葬が終わり、式場に戻り親戚との会食している間も、自分の携帯は鳴り続けていた。

葬儀部長が自宅に帰り、平服に着替えて会社に現れたのは、午後遅くであった。


翌日、部長に「何故、突然に案内もしてない親戚だけの葬儀に来たのか?」と尋ねる。

「朝、嫁さんに話したら、「あんたも行け」と言われたから」と部長は照れながら答えた。


義父さん、人生最後の出港が変な見送りになり、本当にすみませんでした。




それから数週間、業務免許の変更など事務的な処理と決算、新事務所の装備などの買物。

自分は疲れて血圧はオーバーシュート、フルブースト状態になった。

クソ忙しい決算時期に態々引越しなければならなくなったのも、偏に部長の功績であった。


久々にやっと休日が取れ自宅でゆっくり寝ていた。

電話が鳴った、ウルトラ料率スーパー保険部長からである。 

悪夢がフラッシュバックする。 出たくなかったが、しつこく電話が鳴った。

部長「もしもし、佐藤です。 お休み中スミマセン、今、大丈夫ですか?」

自分「どうぞ。」・・・自分は部長の声と口調から、またまた寒い知らせだと直感した。

部長「プジョーから煙が出て、変な臭いがします。」

自分「無言」・・・またかい。と思い言葉も出ず、この間も部長は一方的に話しを続けた。

部長「聞こえてますか?ボンネットから煙が出て変な臭いがしてエンジン止めました。」

自分「電話して来る前に、ボンネット開けて調べて見たか?」

部長「やって見たけど分らないです、ボンネットって、どうやって開けるんですか?」

自分「無言」・・・この間も、部長は一方的に話しを続ける。

部長「外車のボンネットを開けるヤツって、何処に付いているんですか?」

自分「前に教えたし、月一くらいは、オイルと水を見てやってくれって言ってたやろ。」

部長「無言」・・・・・

プジョーを渡して、もう何か月なるのか? 今頃、部長は何を言っているんだ?

メンテナンス部長は今まで一度も、水、オイルを見てないと言う事である。

自分「助手席側のグローブボックスの周辺を見てみ、レバーがあるやろ?」

部長「う~ん、分りません。」

埒が明かず、部長に電話を切って待つ様に指示して自分は休みを返上し服を着替えた。

友人の自動車工場に引取に行って貰う電話したが、今日は人も積車も忙しくていない様。

已む無く自動車保険会社の積車サービスを使う事にした。


プジョーを引取るレッカー業者に詳しい現在位地を教える様に部長に電話で指示した。

だが部長は自分の現在位置の住所が説明できない。と言う。

自分は「カーナビを見ろ。」と指示した直後。

部長「アカン!アカン!ガン!って大きな音がした!もっと臭いと煙がー!怖い怖い!」

自分「早よエンジン切れ! ナビを見ろ。と言ったが、誰がエンジン掛けろって言った!」


この後、部長に積車に乗せるまで見届け、写真を撮って事務所に帰る様に言ったが・・・

何故だか部長はレッカーに一緒に乗り、用事の無い遠い友人の修理工場まで行った。

煙を出して病院に運ばれるプジョー。  写真部長の撮影


修理工場から電車に乗って駅から歩いて帰って来た レッカー部長はひとりで怒っていた。

自分「プジョーを積車に積んだら、真っ直ぐ会社に帰って来いって言ってたやろ?」

部長「足が無いし、レッカーの運転手さんが「一緒に乗って行きますか?」って言ったから

社長の指示だと思って僕は一緒に乗って行ったんですよ!」と、逆ギレしていた。


社長の指示?・・・意味が解からん。 勝手に自分の都合の良い方に何でも解釈するな。


プジョーは案の定、オイルはローレベル、煙と音の原因はプーリーダンパーが切れていた。

アンダーガードに脱落したプーリーとベルトを交換して早目に車検も受ける事にした。

二等兵が時々307を洗車するが、部長殿は洗車せずホイールを洗った事など一度も無い。

部長には前担当車ビスタの冷却水を補充せずオーバーヒートとオイル切れさせエンジン焼付寸前、人民解放軍自転車兵と衝突を起こしフェンダーも大破させた前科がある。



一方、パッソは9月末にエアコンが壊れコンプレッサーを交換した。

車検も終えた数日後、今度はチャーリー二等兵がパッソのエンジンが掛からない。

と電話があり駐機場に見に行った。

バッテリーの比重は充分でオルタネーターの電圧も充分、オルタに不審を持ちながらも、念の為にバッテリーを交換した。

たまに自分がパッソに乗り、キーを捻ると大音量で心臓が止まりそうになる。

エアコン全開で自称、元ミュージシャンの二等兵がスピーカーが割れる程のアホな大音量で音楽を聞いている事はバレている。 


機関停止やアイドリング状態でコレを毎日やられると小さなバッテリーは悲鳴を上げる。




9月から色々有り過ぎて血圧のオーバーシュートだけではなく脈拍もオーバーレブの連続。

自分の心体はブロー寸前、悲鳴を上げた。

主治医に診て貰うと、過労と心労だ、ゆっくり休めと言われ、思い当たる原因を訊かれた。


原因?・・・・貴様ら~! 一度、頭を診て貰え、脳ミソの点火時期が絶対、狂っとる。  



士官は、士官たる自覚を持ち見聞知識を広げ常に情報と大局を見て分析、判断すべし。

士官は、資格長の責任に於いて兵の指揮を執り、臨機応変に行動し責務を全うせよ。


兵は、兵の命ぜられた業務内に於いて工夫し、指令に忠実に任務を完遂し報告せよ。

兵は、命令外の独断先行をせず、先ず多く経験知識を積み、予知判断能力を養うべし。

これは陸海空、業種を問わず同じである。


情報に関わる稼業では口の軽さは己だけでなく組織全体に致命傷を与える、深く反省せよ。

見苦しい嘘は必ず捲れ、言い訳は己を貶めるだけである。

最近、壁の前に並んで立たせて、銃殺する夢を見る様になったOrz.



司令部移転、工事、葬儀、登記免状と船舶免許の書換更新、相次ぐ車の修理車検、料率が上がった保険料他、今月、一気に支払う、予算もよそに大赤字に転落で鼻血が止まらない。


10月の収支は恐ろしいほど真っ赤、 レッド オクトバー である。




移設から少し落ち着いてきた頃、元パラグアイ軍の友人から電話があり「今度は結婚した」と昼間、オフィスに一回り若いロシアの奥さんを連れて遊びに来た。

奴が以前、ウクライナ美人と一緒に住み結婚すると言っていた事は今の奥さんには内緒。


普段、外国の友人が遊びに来ても知らぬ顔をする部長が妙にソワソワしてチラ見している。


洋ピン部長の金髪好きは知っているが、俺の友人の奥さんをイヤらしい目で見るな。

以前、スペイン人のマリアが来た時にも「部長さん イヤらしい目で私を見る」と言われた。


夫婦二人は英語が得意ではない、奴はロシア語を話せず、彼女はスペイン語を話せない。

夫婦間の会話、共通語は関西弁であり、日本が大好きな二人は、正式に日本人になった。

彼らの様に真面目で誠実な人間が、日本を愛してくれて日本人になる事は大歓迎である。


3人が日本語で話していると、部長が聞き耳を立てて、接近、彼女をガン見する様になる。

日本に来て3年、ロシア語の先生をしている彼女はプーチン大統領と同じ レニングラード。

現在のサンクトペテルブルク市の出身で、彼女には独身で美人のお姉さんがいる。

サンクトペテルブルクには、男性がとても少なく女性は結婚相手を探すのに苦労している様で日本人の独身男性が向こうに行けばモテモテで若くて綺麗なロシア美人と結婚できると。

冗談半分で話をしていると・・・「マジでぇ~!」と、

急速にロシアに興味を持った パルナス部長は目を輝かせ身を乗り出し話しに加わって来た。

おい、冗談をマジに取るな、バツ3になって レニングラードでマークXに乗るつもりか。


ナターリア、姉さんや友達の写真は見せないでくれ。

アホな妄想する部長に冗談は通じない。



それから数日後、卒業以来、始めての小学校同窓会に誘われ出席した。

会場の中華料理店のエレベーターで懐かしい顔に会い元気だったかと互いの近況を話す。

同級生「長い間、Mikkola君には会わなかったが神戸にいたの?」と言う質問に

自分「今年の8月に出所したとこや」と冗談を言うと・・・

同級生「Mikkola君も苦労してるんやなぁ俺には何も出来んけど、お互いがんばろう」って


おい!冗談やろ。 

同級生の多くは頭も薄くなり冗談も通じなくなっている様である。


すぐに昔を思い出し楽しい時間は過ぎて行く、ある仲が良かった女子に名刺を渡した時。

女子「私、このビル、よく知ってる! 最近、引越したでしょ?!」って・・・

自分「何で知ってるの!?」って引越したばかりで、男の同級生も知らぬのに・・・

何故に女子が?と不思議に思い彼女に聞いた。

女子「高校の時の同級生だった佐藤浩市君から聞いたよ」って


何で部長が、こんなところまで・・・

女子「佐藤君とは今でも、よく会っているの」・・・

部長は自分の同級生の人妻と逢ってる様だった。


普通、30年以上も前の高校同級生の女子としょっちゅう会わんやろ?!

部長は会って何をしとるのか・・・・


女子「私と仲良し同級生が同じ職場で頑張ってるんだ、佐藤君は仕事、どんな感じ?」

どんな感じ?って、自分は俺のブログを読め!と言いたかったが一応、不倫部長の顔を立て

自分「彼は、うちのウルトラスーパー部長だ」とだけ言って濁した。

女子「ウルトラスーパー部長? へえー 佐藤君って凄いんだ」って・・・・もう知らん。


この後、二次会に行き、

「Mikkola君に川に落とされて泳いだ」とか「ラブホの入口に閉じ込められて泣いた」

「しつこくピンポンダッシュしたMikkola君の代わりに捕まってメッチャ怒られた」

「爆弾作って実験した風呂場が滅茶苦茶に壊れた」「水道蛇口を壊して公園が水浸」

「車に乗っていて国道で話し掛けたら、ナイトライダ~!って叫びながら走り去った」

と言う身に覚えの無い話を沢山聞かされ自分は一滴も飲んでないのに頭が痛くなった。


で、この前の日曜日は、みんカラお友達の hayaltoさん が九州の帰りに神戸に寄られた。

「おい、アホなA4見せろや!このクソ野郎!」とスーパーチャージャー付A6に乗せられ

無理矢理、エロイ話をいっぱい聞かされて、中華とお好み焼きを食べて帰られた。


9月からの激務の連続で体重が 6kg も激減してCMみたいにズボンが緩々になる。

良い事も有ると思っていたが・・・・重なった外食が原因なのか?ストレス太りなのか?

6kg 激増して結果 +-ゼロ。 Orz




これまでになかった、革命的な赤字と体重まで激動した 十月である。







This blog is dedicated to the memory of Father and Capt. Marko Ramius.

50年間 海で戦ってきた義父と マルコ・ラミウス艦長に捧ぐ。





Posted at 2013/10/23 20:25:13 | コメント(4) | トラックバック(0) | 稼業 | 日記
2013年10月16日 イイね!

Кра́сная икра́ 赤いキャビア 極東安全保障経済戦略

Кра́сная икра́ 赤いキャビア 極東安全保障経済戦略前回の「満州事変」にも少し書いた極東アジアの続き。

自分は船員時代に鉄のカーテンの向側、即ち東西冷戦下の東側共産主義圏の数ヶ国に何度か寄港した事がある。

近くて遠い国であるソビエト社会主義共和国連邦の東部に位置し旧満洲に接する沿海州ナホトカの記憶を辿り、私達日本人が暮らしながらも普段は忘れ勝ちな極東地域の歴史と領土問題、エネルギー安全保障を考える。


冷戦時代、ソ連邦極東最大の港湾都市 ウラジオストク にはソビエト海軍太平洋艦隊の基地があり、機密保持の為に外国人と国民でも許可者以外の立入を厳しく制限禁止する閉鎖軍港都市で外国船の入港を拒む不開港だったが現在は極東ロシア最大の国際自由貿易港である。

地名の「Владивосто́к」 ヴラジ ヴォストーク は「東方を支配する」という意味がある。

清国から沿海州(外満州)を割譲した帝政ロシアは東方の不凍港に造船鉄鋼所や海軍の関連施設と商業施設を建設し移住を進め、その名通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる。

冷戦時代に閉鎖軍港のウラジオストクに代わりソビエト連邦極東最大の貿易商業拠点となったのがウラジオストクの東隣、ピョートル大帝湾の東端に位置するナホトカ港だった。

因みに「Находка」ナホートカはロシア語で「幸運な発見・発掘・掘出し物」を意味する。



大韓航空機撃墜事件

1983年9月、アラスカのアンカレッジ空港を出発した大韓航空 KE-007便 Boeing 747型旅客機が予定コースを逸脱してソビエト連邦領空を侵犯、「民間機に偽装したスパイ機」と認識したソ連極東防空軍のSu-15TM 戦闘機が迎撃、樺太(サハリン)南西沖の日本海上空で同機が発射した空対空ミサイルにより撃墜され乗員乗客269名全員が死亡した。

自分が初めてナホトカ港に入港したのは事件の翌年 まだ夜明けも遅い初春のことだった。

当時、撃墜現場付近の海域ではブラックボックスを既に回収したソ連海軍が捜索活動を装い続け、隠蔽され事実を知らぬ日米両軍の艦艇が半年以上も必死で捜索を行っていた。

本船は空船にて東京晴海を出港、浦賀水道を出て 速力15.5kt スティーミング約58時間、野島崎を経て三陸沖を北上、津軽海峡を通過後、 針路 285度に変針、日本海は天気晴朗波穏やかなり。 

ナホトカ港 ETAは予定通り。


入港前の未明、当直中の事である、まだソ連邦の領海外にいる 本船のレーダー 60マイルレンジに真方位 030度位から高速で接近する機影があり、船長がブリッジに上がって来て自分は目視確認の為に右舷側のサイドブリッジに出て煙草の先に火をつけ暗闇を視る。

暫くすると、まだ仄暗い北方の低い空から高いターボプロップエンジンの音が聞こえて来て間も無く大型哨戒機らしき航空灯が超低空で接近、爆音で本船を威嚇するように船首マスト直上を横切る。

Tu-142M3ベアか。 

暗くて機種は確認できない。

引かれて自分も左舷側に移り、目で追っていると哨戒機は取って返し今度は船尾を横切り、爆音と航空灯は北の暗い空に飛び去っていった。


国際船舶無線電話で何度、呼び掛けても ナホトカ Port Radio は応答せず、局長が焦る。

本船の外板は洋上荷役での接舷傷が目立たない軍艦色だが登録変更して度々北洋に上がる為にポンツーンハッチカバーと外板には国際呼出符号 コールサインが大きく記されている。

緊張するブリッジでは皆が「どんなド近眼の奴にでも見えるはずだろ」「航海灯は切れてないな?」と、言うように言葉で対空防御を始めた。

自分が「奴らは民間ジャンボ旅客機でも領空侵犯機は躊躇なく撃墜するソビエト極東防空軍

ソ連太平洋艦隊なら貨物船の一隻や二隻を沈めるくらいは朝飯前の軽いお散歩でしょう。」

と言うと船長は「ダー ダー」と頷き、VHFの受話器を握り締めていた局長は増々焦った。

「エージェントが入港通報を忘れて領海侵犯で撃沈。」

と自分の軽い冗談にブリッジは沈黙・・・・・

時期が時期だけに仕方ないが、笑える時に笑っておこう。

足掻いても死ぬ時は死ぬものだ。 


本船の船位は捜索グリッド外にあって哨戒機はルーティンのパトロールとも思えるが撃墜事件以来、極東ソ連軍はピリピリしている。


入港の約30分前、やっとVHFにナホトカの航路管制から応答があり、局長が話す。

しかし緊張し焦っているからなのか・・・局長の英語が全く向こうに通じない。

ロシア訛の英語は聞き取り難い、局長に頼まれ自分が代わって航路管制と通話した。 

海図にあるナホトカ湾入口航路浮標の №1ブイに向かい、管制に指示された針路を進む。

だが肉眼で確認できるはずの距離になってもブイは一向に見えて来ず、今度は自分も焦る。 

船長、いやキャピタンはチャートを見て「ニェット ニェット」と首を横に振るが笑えない。 

レーダーで湾の地形を確認しながら針路速力はそのままブイらしき反応に向かい直進する。


湾入口付近まで来てブイを視認できたが、点灯しているはずの灯浮標は真っ暗だった。

全く発光していなければ、どんなに目を凝らしても見えるはずがないOrz。


これが超大国ソビエト連邦極東最大の国際商業貿易港の入口なのか。

日本では経験がない事に首を傾げながら減速してナホトカ湾内の指定された描地に向かう。

指定描地に投錨後、主機を停止をする間もなく小型警備艇一隻がやって来て本船に探照灯を照射しながら一周したが臨検せずに帰って行った。


暗闇と爆音に緊張した長く騒がしい夜であった。



ブリッジの操舵・レーダー機器を落とし、航海日誌を書き終わると東の空が白み始めた。




極東共産圏の赤い夜明けである。



日出と共に甲板手が本船レーダーマストの最も高い所に赤いソビエト社会主義共和国連邦の国旗と検疫要請の黄色いQ 旗を揚げ、船尾マストに日章旗を掲揚した。

船内の日本時間と極東ソ連の時差が2時間ある為、早目に朝食を済ませてギャングウェイを降ろし書類を揃えて検疫と入港手続を待つ。

荷役デリックとハッチの準備も済ませて待つが、官庁職員もエージェントもやって来ない。


昼前になり、やっと入税関と代理店が乗船して来てサロンで入港尋問と検査手続を始める。

入港手続の最後にコーヒーを飲みながら航路ブイが不灯だった事を官庁職員達に告げたが、

彼らは笑らいながら「問題無い、何時か治る」と、答えて終った。


「何時か治る」・・・・・意味が解からん。


航路管制官も寝ていたのか?と疑いたくなる。


「Да, нет」  彼ら、ソヴィエツキィの回答は何時もテキトーであった。

彼らは持参して来た空のスーツケース一杯に暗黙に要求した高級酒やタバコなどの戦利品を詰め込んで満面の笑顔で下船していった。

社会主義超大国と称する USSRの公務員も東南アジアの後進国と同じスタイルである。



暫く待ち古いタグボートで大柄のパイロットが乗船、本船はアンカーを揚げて岸壁に向う。

ナホトカ港の港内には小型のフリゲート艦と警備艇が数隻が並んで停泊している。

ウラジオの様に潜水艦や大型ミサイル巡洋艦は見当らないがナホトカにも海軍基地がある。

ウラジオストクの太平洋艦隊艦艇

ソビエト海軍の水上艦艇は対艦巡航ミサイルや対潜ロケットの多連装発射筒と対空兵装の重装備に乗組員が多いブリッジやハウス周辺の大きさが特徴を持ち、トップヘビーな艦影は洋上で会しても一目で判る。


本船は古い大きな倉庫の前に接岸したが、ニコニコ愛想の良いパイロットは「祝いの乾杯」を求めて酒が出るのを待って帰ろうとしなかった。

хорошо。 本船の司厨長は用意が良い。

パイロットは嬉しそうに出された洋酒をキャピタンと自分にも勧めて「カンパイ!」と煽るように一気に飲み干し、司厨長に熱い抱擁をして機嫌良くブリッジを降りていった。 


ナホトカ湾内には日本の経済援助でコンテナバースや木材埠頭が新たに建設されているようだが、本船の積荷「икра」イクラは市街地に近い旧港の冷蔵倉庫の中にあった。


この旧港の港湾設備やシベリア鉄道支線であるウラジオストク~ナホトカ間の鉄道施設建設に多くの日本人抑留者が使役されナホトカには生きて帰れなかった日本人の墓地もある。



春の沿海州は、まだ寒い。

本船の舷門下には東側軍の特徴的な大きな制帽を被り裾の長い外套を着た国境警備隊の兵士が自動小銃を背負い24時間立って本船のクルーと荷役作業員の出入りを監視している。

自分はタラップを降りて幼さを残す固い表情の若い兵に話し掛けたが彼は英語を話せない。

陽が暮れ寒くなり、「タバリシチ、ホーロドナ」と彼に暖かいコーヒーやタバコを勧めた。

彼の固かった表情は笑顔に変わったが、彼はイャポーニェツから何も受取らなかった。


自分は「同志は真面目だな君らの上官は皆美味しい事をしているぞ」とは言えなかった。

そんなことは言えない空気もあるが、自分のロシア語力では「同志の頭は、とても美味しいです。」としか言えなかったからであるOrz。



Интернационал  СССР урааа!


党指導のスローガンを掲げた古い倉庫、クレーン、鉄道貨車、トラックなど総てが旧時代。

今や映画の中でしか見られない戦前と幾分変わらぬ港湾施設や東欧的な古い街並はノスタルジーを感じさせると同時に自分が目にした現実は、この国が世界一の戦略核弾道ミサイルと原潜保有国であることを俄には信じ難く、核の管理体制にも不安を覚えた。


本船に乗込んで来た夜荷役の作業員達が寒い寒いと言っては酒を要求してくる。

アルコールを大きな薬缶に入れて、ステベのリーダーに渡すがスグに無くなる。

本船のホールドは外より遥に寒い、熊の様な体格のギャング達はウオッカを水の様に飲む。

因みにタリー検数員は頭にスカーフをして太った白熊みたいな可愛いオバちゃんだった。


2日目の夕刻、荷役当直が終わり、自分は一人で街の散歩に出た。

ナホトカの街はノンビリして他のアジアの港街とは違う何とも言えぬ風情には郷愁がある。

漢字の看板やアジア人は見掛けず住民の殆どが白系スラヴ人で東洋であることを忘れる。


束の間のタイムスリップから帰船して間もなく、自分の船室ドアを誰かがノックした。

ドアを開けると先程デッキで少し会話をした大柄な作業員のリーダーが立っている。

彼は被っていたソビエト軍兵士が真冬に使うような大きな毛皮の帽子を自分に差出して片言の英語で何か物品と交換して欲しいと言った。

この国の一般市民はルーブルなら兎も角、円やドルなどの外貨は持っていない。

高価なミサイル原潜や対潜哨戒機、また多少の金が有っても街には物が無かった。

自分は買い置きしている私物のインスタントコーヒーや紅茶、タバコにライター、石鹸やシャンプー、チョコレート、お菓子など彼が欲しがりそうな物をベッドの下の棚から出した。

彼は大喜びし「アリガトウ」を何度も言い、渡した袋に入れずポケットや服の下に隠した。

日本では高そうな毛皮の相場など知らない自分は差し出してきた帽子を受け取らなかった。

彼はニッコリ笑い、大きな帽子にも物を入れ頭に載せて右手を伸ばし握手を求めてきた。


「礼はいいから、北方領土を返せ。」とは言わず自分は笑顔の彼と握手をした。

ただ内緒の意味で自分の口に人指し指を当て船室を出て夜荷役中のデッキに向かう。

固く断られても毛皮の帽子を何度も差し出す彼にはロシア人としてのプライドがあった。

だが、これを絶対に他の後進国でやってはいけない、クレクレタコラの行列ができる。




翌朝、自分と2/E、局長の3人で上陸、埃を捲き上げながら街を走る丸々太ったオバちゃんが運転する床に穴が開いて道が見えるオンボロ公営バスに乗り、Seamens Club に行った。

この国の女性が皆、毎日じゃがいもとカーシャを食べて太ったオバちゃんばかりではない。

少しダサいが若い娘は目一杯にお洒落をして歩く、この国のオネーちゃん達はキュートだ。

運転手、港湾労働者、時間が止まった街の人達は皆、素朴で親切、バスは無料である。


海員クラブの暗いロビーでマトリョーシカの横にイズベスチアやプラヴダと一緒に並べ置かれていた確か「ロシアの大地で幸せに暮らす日本人妻」というような表紙のソビエト共産党が発行した日本人向けの広報誌を読んで、そのプロパガンダの大嘘とアホらしさに吐き気がした。

紅茶を飲みながら接待してくたクラブの若い女性はロシア語と英語しか話さなかった。

すると暫く英語で会話した後に彼女は恐ろしいほど達者で流暢な日本語で話し始める。

自分の制服の胸にある漢字で書れた名札の職席と日本人でさえ難しい自分の氏名をスラスラ簡単に読んだ彼女はロシア訛も全く、日本の新聞雑誌も総て読めると言う。 

なら初めから日本語で話せ。

自由主義西側陣営である日本の新聞雑誌を自由に読める立場にいると言う彼女はKGBだ。 

この国では日本語でも 迂闊な事は話せないと言う事である。


国を守る空軍が269人を乗せた民間旅客機を撃墜した事など、この街の人達は知らない。


国家の監視対象は自分のように外国からやって来た西側自由主義圏の船員だけではない。

国家に忠誠を誓い機密に触れる軍人や官庁職員以外の工場や港湾労働者など一般国民も情報が統制され言論や行動が監視される。

ゴルバチョフが廃止するまで シベリアには政治犯が送られ強制労働させる強制収容所があったが、1984年の日本から来た自分にはソビエト連邦全体が閉鎖都市その物で国民全てが巨大な収容所、ラーゲリにいる様に思えた。


海員クラブを出てテクって帰船する途中、入港時に湾内で見た海軍艦艇の乗組員らしい若い水兵達に街で出会ったが、デカイ帽子とセーラー服が可愛いウィーン少年合唱団に見えた。

この国では海軍の艦隊勤務はエリートなのであろう、皆育ちが良い賢そうな顔をしている。

だがAKを背に暗い顔で無口に行進する警備隊列と擦れ違った時、先軍共産社会主義国家の先は短いと感じた。

主義と党を信じる赤いネッカチーフのピオネールの可愛い少年少女達の将来が気になった。



軍事施設周辺以外の観光は制限付き自由だったが、無暗やたらに写真を撮りまくるとスパイ容疑で拘束され取調べられフィルムは没収される。


入港4日目の夕刻、本船は腹一杯にイクラの箱詰を満載し日本に向けナホトカを出港した。


出帆祝いの乾杯をしたパイロットはウオッカを煽ってタラップを降りた До свидания。


ダスヴィダーニヤ СССР   さよなら ロシア また来る日まで。






当時、自分達と反対にソ連船員の外地、特に西側諸国での上陸行動はソ連政府から厳しく制限されソビエト海軍艦艇と同じく、FESCO(ソ連極東海運)の商船にも船長と同等以上の権限を持たされた共産党の政治士官「Political Officer」が配乗され乗組員達の行動を監督監視していた。  

これは中共の国営公司の商船も同じであった。

ソ連船乗組員が外国の港に上陸する際は必ず数人で集団行動させて亡命や裏切逆スパイ活動を阻止する為に乗組員同士が互いに監視し帰船後に政治士官、政治局員に行動を報告する。

また電子技術の知識も金も無い下級船員がメモを片手に日本製の電子部品を買い漁っていたのはCOCOM規制の下、日本から持出を指示された政治局員からの下令によるものだ。

自分はエージェント時代に万引で取調を受けたソ連船員を神戸で下船させ、在大阪ソビエト領事館に立寄り富山新港に入港中のソ連船に転船させ本国に送還した事がある。

年配の彼は入管を出てソ連領事館に着くまで怯え、領事館員は自分を笑顔で迎え入れた。

だが彼は別室へ連れて行かれ、その後は車や列車の中でも終始口を開かず、自分が勧めても何も飲まず何も食べず、富山で船長に引渡した時も黙り込み蒼ざめていた。

例え万引であろうが日本の官憲に取調を受け、連邦の顔に泥を塗り無駄な外貨を使わせた。

祖国ソビエト連邦に帰れば、重罰が待っているのであろう。


自分は東側共産主義圏の国に寄港する度に小中学校でソビエトを理想の国家、ユートピアと称賛し共産社会主義は素晴らしいと子供に説いた担任の先生達の顔を思い出した。


今の若い人達は共産主義シンパ、日教組の悪行を知らない。

学校の図書室にはマルクスやレーニンを始めロシア革命、戦艦ポチョムキンの叛乱、独ソ戦の勝利を讃えるレニングラードやスターリングラード攻防戦、ホロコースト、南京大虐殺や八路軍と毛沢東、白骨街道インパール、広島と長崎、沖縄戦、抗日パルチザンと朝鮮戦争、キューバ革命、ベトナムの父ホーチミン、ガガーリンとテレシコワ、文学はトルストイと蟹工船が目立つ場所に並べられていた。


今思えば一体、何処の国の学校なんだ。

全部読んだが平壌や北京、モスクワ放送を聴いていたバカなイワンには免疫があった。

また芸術作品と称しては学校の講堂で何度もソビエトの国策映画を何度も見せられた。

それも淀号、浅間山荘、テルアビブ空港乱射、ドバイ、ダッカとバカが暴れている際中に。

朝鮮戦争は米国の後押しで韓国軍が朝鮮人民共和国を攻撃して始まったと嘘を吐いた。

左翼は休戦協定後も北朝鮮は衣食住の心配がない「地上の楽園」と大嘘を吐き続ける。

米国のベトナム介入を人殺しと批難したがプラハの春やソ連のアフガン侵攻は知らぬ顔。

柳条湖とトンキン湾の二度目の攻撃は軍事介入の謀略だが共産勢力の南浸テロが原因。

反戦人権を言う、ベ平連はKGBからの司令と工作資金で活動していた共産主義工作員だ。


社会科の授業「ソ連の人は真面目に並びデパートの包装にも新聞を使い節約している。」


共産圏では物が無く人は並び、包装紙も無い故に何の役にも立たない新聞を使うのだ。

毒性が強いスローガンやプロパガンダで埋まる共産党機関紙など危なくてケツも拭けない。


「軍国主義の日本が土足で平和な中国に押し入って首都南京で中国の人を虐殺した。」

開戦を嗾けたのはコミンテルンと南京政府や軍閥に潜り込んだ左翼共産主義者どもだ。


1927年の南京事件、漢口事件、盧溝橋事件、大山中尉事件、廊坊事件、広安門事件、

これら全て支那軍閥内の共産党派が日本軍に仕掛けた戦闘だった。


「八路軍やソ連赤軍、パルチザンは人民の味方で敵だった日本人にも優しかった。」


何を眠たい戯言をほざいているのか? 寝言は寝て言え。

偏った認識と歪んだ己の思想を日本の公立小中学校で子供たちに吹き込むな。  


ソ連兵や共産匪賊に連れ去られ犯され殺された日本人婦女子の遺族や墓前で言ってみろ。

尼港事件葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件は教えない。

赤く気触れるにも程がある、無責任な思想洗脳や刷り込みは放課後に独りでやれ。


国旗国歌を疎かにし祖国の文化伝統に誇りを持たずして憲法9条に誇りを持てと言うな。

左巻教師が憧れた名ばかりの共和国は「地上の楽園」などではなく、中ソ紛争、柬越戦争、アフガン侵攻、中越戦争、ユーゴ紛争、ミャンマー内紛、チベット、ウイグル、平和と平等共存を謳いながら、共産社会主義国は少数民族の弾圧と周辺国とも戦争を繰返している。


20世紀、共産主義は人類に拠る大規模な生体実験、大量虐殺と血の粛清を繰返した。

21世紀、共産主義は独裁者と偽善者、貧困ビジネス利益集団の隠れ蓑になった。

信じる者は救われる。と言うウイルスや伝染病を撒く共産社会主義は20世紀の新興宗教。

一部の党幹部党員が大部分の人民を搾取する上下階級社会が一党独裁共産主義国の実態。

人間の個人個性を見ず、細胞や階層、集団と見て人を家畜化する共産主義に未来はない。


共産主義を信奉する日教組な先生方は子供達の教育を受ける権利よりも労働者として権利を主張し公務員と教育者、大人の義務を放棄し、己の給与や待遇改善の為に労働争議を起こしストライキを強行して自分達子供に小中学校を休ませた。

それを指摘した自分を担任の先生は真っ赤になって怒り教室から出して廊下に立たせた。

小生意気な反動反革命分子を修正した心算か。 

ブルジョワな独身BBA教師のヒステリーな言論統制、ただの口封じだ。

小中学生すら口で説得できぬ無能教師が強権共産社会主義国家を理想郷などと言うな。


共産主義は思想ではなく、人を無視した科学、カルト宗教、伝染病である。



極東ソ連で水揚げされたサケ、イクラ、ニシン、カニなどの豊富な水産物も殆どが外貨獲得の為に輸出され一般家庭の食卓には並ばず滅多にソビエト国民の口に入ることはなかった。


イクラ丼も食い飽きた数航海後、再びナホトカに寄港したが航路浮標は壊れたままだった。

哨戒機を飛ばし警備艇で出迎える金が有るならバスの床と航路ブイの故障くらい修理しろ。

過大な軍事力と最低限の衣食住と公共事業、何ともバランス感覚に欠ける国だと思った。

2度目のナホトカ入港時は撃墜事件は終息して警戒体制は解かれ軍事費の余裕も無くなったのか、派手な出迎えは無かった。

この頃は既にソビエト連邦には共産党政府の言葉を信じる人民は殆どいなかった。



8年後、ペレストロイカはベルリンの壁を壊し東西冷戦は第三次世界大戦に発火する事なく

1991年 СССР ソビエト連邦は崩壊、地上から消滅した。


しかし、これは社会主義経済体制が自爆したのであり、東側が西側に軍事的に降伏したのでなく、ワルシャワ条約機構軍は解散したが当然、NATO軍に拠る武装解除ではない。

また一部を除き、ソ連邦から離脱した国々に於いても、旧ソビエト軍の主力装備はロシア連邦軍が、引継いだが、ソ連からロシアに変わっても依然、国の経済状態は苦しく、肥大した軍は予算も取れず兵器の整備はおろか兵士の給料にさえ事を欠く。

1976年、ソビエト連邦極東防空軍の若き将校ヴィクトル・ベレンコ中尉(29歳)が、祖国を捨て当時ソ連空軍最新鋭迎撃戦闘機 MiG-25Pでウラジオストク北東チュグエフカ基地を離陸し函館で亡命を求めた時、既にソビエト連邦の腐敗は進んでいた。

1992年にはウラジオ近郊のルースキー島にある海軍兵営が孤立して上官が数ヶ月もの間食糧を補給することを怠っていた為、兵士4名が餓死し、数百名が入院する事件も起きた。

精鋭偵察部隊、スペツナズも上官の怠慢と餓えには勝てない。

ソ連邦最後の書記長、初代大統領 ミハエル・ゴルバチョフは冷戦を集結させ西側では人気があるがロシア国内では評判が悪い。

あの時、故障したナホトカの航路ブイを「何時か治る」と言った意味が解かる。 

当初、灯火管制とも考えたが、社会主義で国際経済競争力と政治的影響力を先軍政治体制の失策で財政資金を失ったソビエト連邦は極度の金欠状態に陥っていた。

だがソ連の軍人や官庁職員達が国には金が無い給料も未払いだと外国人には言えない。

当時、日本が経済支援して北方領土を取り戻す機会は絶対に今しか無いと自分は思った。



東西両陣営が必然的に軍縮に向かうのは喜ばしい事であったが核兵器や艦用原子炉の解体には更に多額の予算が必要であり、米国をはじめ西側諸国がこれを支援する事になった。


ロシア海軍に引継がれた Soviet Navy Akula class nuclear attack sub アクラ級 攻撃型原潜

冷戦時代からソ連邦は日本海や北海などに老朽化した原子炉と放射性核廃棄物を大量に投棄して現在、把握しているだけでも過去に10隻以上の原潜を世界中の海に沈め、核弾頭装備のSLBMと核魚雷も50発以上が回収不能であり少なくとも日本海に2基、オホーツク海に1基の艦用原子炉が投棄されている。

冷戦が終結した今日現在も日本海やオホーツク海ではロシア海軍のミサイル原潜が攻撃目標に照準を定め艦隊司令部からの発射命令に備え行動している。


1985年8月 ウラジオ港外での原子炉爆発事故を起こした エコーII級 巡航ミサイル原潜 K-431


1986年10月 ミサイルベイの爆発火災事故で沈没した ナヴァガ級 弾道ミサイル原潜 K-219 


これまで海底に放棄された核弾頭や原子炉は人為的に起爆させない限り核爆発は起こさないが、水圧に拠る圧壊や腐食により大量の放射線物質が漏れ出している可能性は非常に高い。

現在、中朝の技術で多装ミサイルベイを持ち深く静かに潜航する近代艦の建造はできない。

例え廃艦同然の旧型でもロシア海軍のミサイル原潜と技術を中朝に譲渡させてはならない。


ロシアは大きな原発事故を経験しながら原発を増設し、鉄道ですら安全に運行できず埋めてしまう中共は90基以上の原発稼働を目指している。

旧ソ連型の原発はチェルノブイリだけではなく、旧東側諸国には、多くの旧型原子炉が稼働残存し、これまで旧東側諸国やフランスをはじめ欧州の原発所有国も汚染水を流している。

韓国政府は福島など8県産の日本からの水産物輸入を禁止強化し「世界に迷惑を掛けている日本は五輪を辞退するべきだ」と日本を批難した。

これまで何度も原発の故障に拠る緊急停止やメルトダウン寸前の事故を起こして、有害化学物質を含む大量の産業廃棄物も海洋投棄しておいて澄まし顔で韓国が言うな。

だがこれら日本にも影響する隣国の事実について福島に粘着するマスコミは何も言わない。

タロー・ヤマモトよ、貴様が安心して住めると言う場所は地球上に存在しない。





新しい極東の安全保障経済戦略

中国は北朝鮮との血盟共闘を謳いながら停戦休戦を自国の覇権に政治利用してきた。

中共は尖閣・沖縄・台湾などの諸問題を有利に進める為に北朝鮮は金王朝が滅亡するまで

必要悪として中共の国益都合に合わせ外交の駆け引きの条件や交渉材料に使う。

北朝鮮の核問題の解決を直接協議する6カ国協議の議長国を中国にさせたのが大間違い。

元締の中華マフィアの親玉が子分の組員を厳しく監視して更生させるなど悪い冗談である。


2013年現在、ロシアのハサン~北朝鮮の羅津間の直通鉄道(同ゲージ)が開通した。

ロシアは最終的には韓国まで直接乗入れたいと考えているはずである。

また北の若い三代将軍も中共とは距離を置き、ロシアと日本への接近を謀ろうとしている。

これは父、金正日の「中国は歴史的に我々を最も苦しめてきた国であり、南朝鮮と手を結ぼうとする最も警戒すべき国となる中国を今後は信用し利用されてはならない」の遺言の警告に従っている。

ソ連は北朝鮮の実母で中共は北を育て援助して来た御母だったがソ連は他界した。

核弾道ミサイルと潜水艦技術を持つロシアを北朝鮮に必要以上接近させてはならない。

暴走をやめないバカ息子 北朝鮮の抑制に近しい義母ロシアの協力が必要となる。



ロシアのプーチン大統領は時に親中的な発言もし、アムール川を渡して中国国内の黒竜江省までガスパイプラインも敷くが親中ではない。

露中国境のアルグン、ウスリー川 中島はロシアが実効支配し長年に続く露中間の領土問題。

ロシア国内で反対デモが起こったにも関わらず、プーチンが中共に譲歩する形で島を割譲し国境線を確定したのは、1969年にウスリー川の中州でソ連国境警備隊と中国人民解放軍部隊が武力衝突を起こした中ソ国境紛争(ダマンスキー島事件)や尖閣諸島と同様に中共が、「沿海州は元来中国の領土であり、ロシアが清国から不平等条約で盗んだ。」と言い始めたこともある。

緩衝地帯であった満州国をソ連の支援により、支配下に置いた中共は長く国境線を接する事になり、冷戦下の中ソ対立は終わった様に見えるが、中露は互いに警戒している。

また極東ロシアに在留する中国系と新たに流入した中国人の人口が増え続け白系ロシア人の地位と自治を脅かし始めプーチンは沿海州がチェチェンの二の舞になる事を危惧している。

やがて中共は欧州への西進路上にある中央アジアの旧ソ連衛星各国の覇権取込みを謀る。

極東だけではなく、シベリヤ中央アジアへの中共資本や中国企業の進出をプーチンは歓迎しない。

海洋覇権を狙う現在の中共にはロシア南下のトラウマから背後の軍事力が脅威になる。

北朝鮮の中共離反とロシア親密化は極東地域に於いて中共への有効な抑止牽制手段だ。

一党独裁の中共が急激に軍拡を続け周辺諸国と領土紛争を起こしている現状に於いて朝鮮半島の南北にロシアが影響力を増し中共への集権を牽制するのは悪い事ではない。


現在、ロシアは天然ガスパイプラインを敷く事も南北朝鮮と協議している。

日本へのガス輸入を朝鮮半島経由で強力に進めようとする議員と企業が日本にいる。


アホか。


我儘と上から目線の気分次第で元栓や中継バルブを締める国に頼り、日本の首を絞めるな。

天然ガスはロシアから直接日本に輸入すべきである。

以前も書いてきたが日本が天然ガスをロシア一国に依存するのは危険であり、これまでもロシアは自国国益の為に幾度となく約束を破ってきた国であると言うことを前提に極東・北東アジアの安定と中共の覇権を抑える為にも日本とロシアは公平な経済関係構築を目指すべき。

今回、カナダを訪問した安倍首相がシェールガス輸入をカナダと合意した事はロシアと他の輸出国への価格競争を促進する事にもなる。

産出国と勘違いする朝鮮半島経由より、冷却液化して太平洋を運ぶ方が、まだ安心できる。

2016年頃にはパナマ運河の拡張工事が完了して米国産シェールガスの輸送コストが削減。

またロシアも北極圏ヤマル半島のLNG基地から砕氷大型タンカーによる東回り北極海航路の運航を目指している。

更に米国アラスカ北部ノーススロープ産の天然ガスをパイプラインを使い不凍港のアラスカ南部のニキスキーまで送りプラントでLNGに液化して積出基地が完成すれば、日本への輸送距離はロシアを除き最も近距離のLNG仕出港となる。

同時に日本は日本周辺領海内の海底資源採掘と実用化を一日も早く始めるべきだ。




環太平洋同盟 対 中華圏同盟

現在、米国民の半数以上が朝鮮半島の南北有事に不介入を支持している。

南は休戦に胡坐をかき堕落したが、北は戦時臨戦体制で核ミサイル開発を続けている。

共和国が余程のバカでない限り、やがてICBMもSLBMも核弾頭の小型化も成功させる。

半島有事の際、米韓同盟下の在韓米軍基地や駐留陸上兵力は大きな被害を受ける。

また戦時作戦統制権が米韓連合司令部から独立し韓国軍は韓国軍司令部に移管される。

在韓米軍司令部は実戦で韓国軍司令部と共同で米韓連合軍を指揮するのは御免である。

朝鮮人民軍に特別な動きが無い限り、在韓米陸軍主力は朝鮮半島から退き海空支援と限定機動的な陸上支援に移行する。

事実上の防衛ラインを対馬まで下げる事になり、韓国の政権は中共に擦り寄るのは明らか。

冷戦下ではない韓国経済を米中が、どれだけ支えるかで事大半島の南政権は未来を決める。

ロシアは再び南下政策を経済的に始め、古来、南北朝鮮半島の扱いをよく心得ている中共は韓国に経済という飴をぶら下げ煽て多くの工作員が韓国国内で反日米・親中に動く。

鴨緑江を渡り人民義勇軍に50万以上の戦死者を出した毛沢東より、習近平は狡猾だ。

利用価値が衰えた北朝鮮より経済成長した韓国を取込み日米韓同盟関係を崩そうとする。

事大主義と反日から抜け出せない韓国の現政権は宗主国、中華圏への回帰に益々走る。


環太平洋同盟と中華圏同盟との冷戦は再び朝鮮半島を舞台に既に始まっている。

中共の海洋覇権拡大、制海空権確保、資源領土欲から東シナ南シナ海での対決も深まる。

最近、中国海軍は東シナ・南シナ海だけではなく、小笠原周辺海域でも動きを活発化させていたが、今年7月には参院選の隙を覗う様に対馬海峡から日本海に入り、ウラジオストク沖でのロシア海軍の演習に初参加後、宗谷海峡からオホーツク海に入り、択捉海峡を通過、中国海軍の水上艦艇が初めて日本列島を一周回航した事を自衛隊も確認対応している。

中共は朝鮮半島情勢も睨み新しいシーレーンとなる北極海航路への干渉力を強めて来る。

これは単なる中国国内外向けにアピールする航海訓練ではなく、日本列島の防衛力偵察を兼ねた洋上補給訓練を伴う艦隊回航演習であり、有事の際には当然、日本周辺海域に展開し日本本土に陽動攻撃を掛ける作戦を中国海軍が立案していると言う事である。



これらの結果、極東の勢力図と時代は、日清戦争以前に巻き戻される事になる。

明朝時代から朝鮮半島は極東の火種、火薬庫であったが未だに、それは続いている。

明、清、露、日、米、何処の国も半島に関わると碌な事が無かった。

これまで地政と安全保障戦略上の要衝であったが朝鮮半島には、それ以上のリスクがある。 

盧武鉉が言う「韓国は北東アジアのバランサー」などではなく、アンバランサーだ。


韓国は米中の間に立っているのではなく、立たされていると言う事に全く気付いていない。

そればかりか韓国は立場を踏まえず、反日に奔走し日本を外しを米国に呼び掛け、米中間の架橋、つまり韓国が北東アジアを動かす基軸国になったと上から目線の勘違いをしている。

米韓の軍事同盟が日米軍事同盟と同等以上に重要な同盟関係には成り得ないと言う現実現状を韓国政府も韓国国民も、その特異な国民性からミスリードしている。

米国は朝鮮戦争休戦後、韓国を守る為に陸上兵力を配置したのではなく、朝鮮半島を主戦場とし、防共の際前線、隔離海峡、地政学軍事的要衝と見ている事を韓国は理解すべきだ。

東西冷戦の終結以降、それは如実に表れ共産主義に対する橋頭堡としての価値は下がり、中国や北朝鮮は一党独裁国家であって共産主義とは言えず思想的同調者もいない現状がある。

米軍兵士の血を流し多大な経済的損失を出しながら、単なる同民族間の対立になりつつある半島の北から南を守る義理もメリットもないと経済状況も厳しい米国民は考え始めている。

仮に血を流し守り抜いても、北に中に掌を返す蝙蝠国である事も理解出来たのだろう。

韓国は北が動くか中国経済が停滞すれば、またこちらへ擦り寄って来るのは間違いない。

また中共が横暴露骨になり、韓国国民自身が中華圏に吸収される事への危機感を持ち始めれば、再び日米に頼って来るのは必至、また韓国政府高官が日本の集団的自衛権行使に反対しないのは北朝鮮と中共の軍事力に怯えているからだ。

中共と歴史問題を共謀して日本外し二股外交を続ける韓国政府に対して米国政府は間もなく日本との関係改善を厳しく要求する。

しかし日本は日本を貶める国に対し、日本から手を伸ばし接近する必要はない。

日本政府は「韓国は史実を学び、これからは日本の内政に干渉するな。」と言えば良い。

何れにせよ、すぐに陣営復帰限界点が来る韓国は併合以来、再び決断を迫られる事になる。

日米政府の過ちは安全保障と同盟関係を重視するあまり韓国のおかしな言い分や身勝手な行動に頭から反論せず沈黙、また容認して来た事である。


中ソ対立、南北対立が激しかった冷戦の終結までは日韓・日中関係も良好であった。

東西イデオロギーの対立に代わり、遺伝的民族思想主義の対立が始まっている。

緊箍児を外された猿の様に縛りから放たれた中韓は義理や援助国の支援も忘れ暴走する。

日本や西洋列強は小さな国土と貧しさ故に外地に活力を求めたが、中華は西洋とは違う。

古来、中国は富と力を手に入れるほど野心と欲を外へ膨らませて来た国である。

中華思想の一党独裁国家に対し、経済的な関係だけでは良好な友好関係は築けない。

米国が安全保障問題で同盟国日本を裏切る事はない、しかし経済は別問題だ。

資本主義国家である限り米国は自国の経済利益を最優先にする。

米国は軍事費削減、また通商経済の観点から中共や中東に対して、これまで通りの強い態度では望めなくなり、その影響力を弱めている。

米国民主党政権内や国防部内にも親中チャイナコネクション、パンダハガーは存在する。 

日本は米国だけでなくアジア諸国やロシア、インドと経済、安全保障交流を深めるべきだ。

中共は南シナ海、台湾、尖閣を諦めず経済と政治で米国と台湾を内部から浸食し続ける。

台湾が陥ちれば尖閣・南西諸島もドミノ倒し日本の生命線であるシーレーンが失なわれる。

地域経済戦略と切り離して日本は賢い安全保障戦略は立てらない。



新しい日露関係


日本に対し友好協調的な発言をしているロシア連邦共和国ウラジーミル・プーチン大統領

プーチンは柔道を愛好しているが日本を特別に愛しているのではない。

彼は通商と安全保障のパートナーまた商談相手として日本を認識し理解しようとしている。


プーチンは自分を首相に指名したエリツィンを信奉せず、ゴルバチョフを尊敬していた元共産党員の秀才で優秀な諜報ビジネスマンで武道を心得え文武両道を実践する努力家である。

KGB、FSB出身、レニングラード産まれの彼は強いロシア復活を願う生粋の愛国者だ。

「ソ連が恋しくない者には心がない、ソ連に戻りたい者には脳がない」それを表す彼の言葉

ソ連邦崩壊後、汚職腐敗が更に進んだロシアには、多少独裁的であっても信念を曲げない賢く強い指導力が必要であり、プーチンはこれまでロシアの長老指導者達にはいないタイプの新世代指導者でロシア人として強いプライドもある。

「強いロシア」 資源エネルギーを制する者が勝利する事を彼は良く理解し実践している。

だが技術開発や工業製品生産を疎かにし資源輸出だけを柱にする経済では国は発展しない。

プーチン自身も資源エネルギーと軍需産業に依存するだけでは真の強国にはなれない事を理解し、ロシアの工業を発展させ国内生産に注力し産業経済の構造改革を行おうとしている。

西方から東方にシフトを進めるロシアの民需産業育成に日本からの技術協力と経済援助や日本への資源エネルギー安定供給をプーチンは歓迎する。

ただ多種多様な兵器を中共にライセンス提供しているロシアは中共をライバル視しながらも日本が取込む事は容易ではなく、また日露の友好関係に中共が横槍を入れて来る事は必至である。


またプーチンは大統領就任以来、日本とグルジアを除くロシアと周辺諸国間にある殆どの領土問題を解決し、日本との領土問題解決にも柔軟な姿勢を見せている。

ただ、どんな人間でも長く権力の座に座れば思考も変わるものだ。

現在のロシアには領土拡大の意欲はなく、ワルシャワ条約機構軍の解散後はNATOに押され続けたロシアの同盟軍は弱小化され欧州側の西域では経済と軍事に投資支援を行ってきたウクライナやグルジアなど旧ソビエト圏諸国を繋ぎ止める事に苦慮している状態である。



北方領土


日本の北東端、北海道根室半島の沖合に位置する自然豊かな歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島 これらの島々の総称、四島の合計面積は5,003 km² 福岡や千葉県に匹敵する。


1945年8月8日、日ソ中立条約を破り、ヤルタで密約を交したスターリンは6日に広島に原子爆弾を落とされ講和を模索する日本に対し対日参戦を決定し宣戦を布告、終戦の僅か6日前の8月9日に樺太・千島・満州・朝鮮に侵攻を開始する。

日本がポツダム宣言を受諾した後もソ連赤軍は停戦せず南侵を続け多くの民間人を殺害して略奪と強姦を繰返し、同年9月5日迄の間に北方四島の総てを侵攻占領した。 


終戦当時、北方領土にロシア人は一人も居住しておらず、四島には約1万7千人の日本人が住んでいたが、翌1946年にソ連は北方四島を一方的に自国領に編入し、1949年までに総ての日本人を強制退去させて以来、今日に至る迄までロシアによる不法占拠・実効支配が続いている。


北方領土を自分が初めて実際に目の前にしたのは今から約30年前に水産庁チャーター船に乗船し北海道沿岸に長期漂泊し水産資源を調査していた時だった。

ソビエト連邦時代の当時、多くの日本漁船がソ連の国境警備隊艦艇に頻繁に拿捕や銃撃されており海上保安庁の巡視船が日本漁船とソ連の警備艇の間に割って入るなどして注意喚起し拿捕や銃撃から漁船を守っていた。

実効支配されてから拿捕数 1302隻 9023名以上 沈没・放棄 26隻 死亡30名


戦後、捕虜にした約80万の日本人をシベリアに抑留し強制労働で酷使して10万人を殺したうえに北方領土を盗んだ火事場泥棒のソ連が連合国、戦勝国側で日本を戦犯として裁き、更には国連の安保理事国になったのはおかしな話である。

戦前の南樺太、千島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土及び統治権益地であり、日本が武力により侵略したものではなく、また択捉島以南の北方四島は一次大戦以降に武力占領や国際条約で日本が得た領土ではない。

北方四島は開国前より日本の施政下に置かれていた日本固有の領土である。

また1855年の日露和親条約に於いて択捉島と得撫島間に日露の国境線が確定され、帝政ロシア及びソビエト連邦領であった事は一度もない。


ポツダム宣言 「日本が国民多数に拠る平和的政権を成立すれば連合軍は日本から撤退する」

北方領土に居座るロシアはカイロ宣言の条項を引き継ぐポツダム宣言にも明白に反する。

カイロ宣言 「日本は1914年の第一次世界大戦以降に占領した太平洋の全島を失う」


1875年の樺太・千島交換条約に於いて日本は樺太の権益を放棄し、得撫島以北、占守島までの千島18島をロシアが日本に譲渡し、更に1905年のポーツマス条約でロシアは樺太の北緯50度以南(南樺太)の領土を永久に日本へ譲渡した。

厳密に言えば、日本は歴史事実や条約に基づき北方四島の領有権を主張するだけではなく、樺太の南半分の返還も要求しなければならない。


しかしソビエト連邦が崩壊した際に領土返還の機を逃したのは日本政府の怠慢もある。

ヤルタで密約を交わした米国も沖縄返還を盾に日露条約締結と返還交渉に圧力を掛けた。

現在は大日本帝國とソビエト社会主義共和国連邦、東西イデオロギーが対立する冷戦下ではない。

ソ連邦政府に拠る計画的な移住であっても戦時下でない平時に於いて多く島民を強制的に追出し、新生国家ロシアに旧ソ連邦の全責任を負わせ、四島一括返還要求を飲ませるのは困難である。

如何に歴史が歪曲され条約違反があろうが外交も軍事上も実効支配している側は強い。

日本に多くの犠牲を払いフォークランド紛争シーズン2を始める覚悟や対価があるか。

安保理常任理事国でもある軍事大国ロシアはアルゼンチンのようにはいかないない。

日露有事の際、日本列島へのロシアの軍事的な直接脅威はシベリア極東のIC・IRBM、オホーツク・日本海・北太平洋に潜む原潜のSLBMやミサイル巡洋艦及びTu-22M3 バックファイア中距離爆撃機やTu-95MS ベアなど戦略爆撃機が遥か彼方、日本の防空圏外から一斉射される多数発の核巡航ミサイルである。

また日本とロシアと領土を争えば中共の思う壺、中共は必ず尖閣で動きを見せる。

東シナ海とオホーツク海とで両面戦を強いられ、先の大戦の轍を踏むのは愚かなことだ。

それはロシアも同じで西方で燻ぶり経済が辛くなれば、東方に安定と収入を求める。

北極海航路と太平洋への進出、尖閣諸島を狙う中共は北方領土返還を妨害している。

頑なに四島一括返還を要求する事はロシアを外交交渉の場から逃がすも同然である。



現在、ロシア国内でのプーチン大統領の人気は高いがロシアは資本主義国家になった。

何時か政権は終わり、指導者が変わっても長く維持できる関係を日本は構築するべきだ。

北方領土の返還交渉は具体的且つ速やかにプーチンが大統領在任中に開始しなければ次の機会は何時になるか先は見えない。

内圧に弱い大統領が国民を諭し反対を押切って実効支配している領土を返還する事はない。

領土問題解決を前提にした日露平和条約は安倍・プーチン政権下でしか締結できない。


しかしプーチン大統領も四島を返還する心算は無く、特に択捉島は絶対に手放せない。

沖縄本島より広い択捉島には嘗て真珠湾攻撃に帝国海軍の空母機動部隊が集結した天然の良港 単冠湾やレアメタル等の地下資源があり、ロシア政府は択捉島をサハリン州のクリル管区に編入、国後・歯舞・色丹の南クリル管区と行政府を切り離して公共投資を行い水産業や金鉱業に力を入れ国際空港も建設している。


東西冷戦以降、オホーツク海の地勢的な価値、戦略上の重要度は格段に上がっている。

何より択捉島はロシア太平洋艦隊にとり水上艦艇が威嚇無しにオホーツク海から太平洋に出る為に重要な水道海峡要衝であり、オホーツク海周辺の制海空権を握る極東防空軍の最東端の防空基地として機能しているからである。

だがロシアは欧米NATOとの確執、旧ソ連邦地域での影響力維持に国力を削がれ極東地域にこれ以上多額の投資を行えない。

東方シフトを加速させたいロシアも北方四島を自国領土として実効支配は維持できるが極東地域、樺太・千島列島の開発発展には外国資本の経済技術協力が必要になる。

特に北方四島の開発協力は中韓ではなく、必ず日本政府・企業の手でやらなければならい。


プーチン大統領が「引き分け」と言った言葉の意味を1956年の日ソ共同宣言の条文に記載された平和条約締結後の歯舞・色丹の二島返還の事だと日本側は解釈しているが、四島同時返還に拘りロシア側にも利益も考え無ければ交渉協議は難航する。

ロシア政府が開発を進める択捉・国後とは違い、歯舞・色丹の劣悪な道路整備状況やインフラ投資の度合を見ればソ連時代から最近まで二島は返還に応じる意思があったことが判る。



では日本政府はどう動くべきか。

先ず日本は北方領海に深く突き刺さる歯舞・色丹・国後と豊かな漁場、水産資源の一部を取り戻すと同時に日露で日本海以北の安全保障を確保する。

自分は国後水道を分割して国境を確定し国後は非武装地帯、日露の経済協力と文化交流の特区とすることが落とし処だと考える。

国後を明確な日本の領有施政権下に置きインフラ整備と自然保護やリゾート観光への投資を行い、ロシア人島民には在留資格・永住権を与え希望者には日本国籍の取得も認める。

現在、在日駐留米軍がいるように択捉島に限り在日駐留ロシア軍を認める方もある。

択捉と他サハリン州や沿海、ハバロフスク地方などロシア極東地域の資源共同開発や産業や漁業に協力参入する。

安全保障面では海保とロシア国境沿岸警備隊、自衛隊とロシア軍との合同訓練や安全会議などの現場間交流を増し連絡網と信頼関係を構築、領土・領空・領海での緊張緩和を目指す。

領土問題解決と平和条約を締結は日露両国にとって共通の利益となることをロシア国民にも充分に理解させることが重要である。

朝鮮半島全域、東シナ、南シナ海全域を勢力圏下に吸収しようとする新中華圏の覇権主義に対抗する日米にはロシアの協力が必要になる。

その為にも日本は北方領土の返還を要求しつつ、ロシアとの経済・軍事の協力関係強化への意欲を示すべきであろう。

日露の関係親密化は日本の同盟国の国益、即ち米露関係にもプラスに働き、北東アジアの安定に繋がることを米国政府にも理解させることも必要だ。



遥か国後に白夜は明ける。

だが東京とモスクワは7,484km 約4,041海里の距離と6時間の時差がある。

ソ連時代より速くなったとは言え日本とロシアでは時の流れ方の違いを忘れてはならない。

軍事力行使の決断は速いロシアも外交交渉による国境確定や条約締結には時間を掛ける。

柔道のように日本が一歩詰めれば、一歩引くのがプーチン・ロシアの外交交渉の形である。

ロシア外務省の国粋主義官僚、対日強硬派の古参、政治家ではない外相セルゲイ・ラブロフは平然と大嘘を吐く癖者だ。

日本人がロシアを信用出来ないようにプーチンも米国の影響下にある日本を信用出来ない。

産業改革なくして資源の切売だけではロシアの経済発展はなく、中共の二軍に成り下がる。

当然、中共と日露米国内の親中派も日露平和条約決裂を画策し、安倍プーチン叩きをやる。



故郷の島を盗まれ今でも北方四島に帰りたい高齢になった島民の方達には気の毒である。

だが戦後70年も待った日本は長い目で未来を見よ。

日露に平和条約締結は必要でも今さら日本が焦り間違った妥協終結をすべきではない。



この複雑な北東アジアにある日本。

日本は何時までもロシアを旧ソ連や北方領土など局所的視点だけで見ていてはいけない。

我々は日本の将来を長い目で見て真の国益に叶うものは何かを考えなければならない。

ソ連時代から日本と国境を接しながらも近くて遠い国であったロシア。

日露が外交や安全保障、経済交易、市民レベルの文化交流でも真に近しい国になる。

日露平和条約の締結は互いの国益に叶い極東地域の安定にも好ましいことである。

一番の問題は昔からソ連もロシアも政府が平然と嘘を吐き約束を守らないことだ。





うちのウルトラスーパー パルナス部長とロシアの美人妻ナターリアの話しは、また今度。



極東の領土・外交・エネルギ―・安全保障問題を書いた 過去ブログ

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

38th parallel Military Demarcation Line  38度線 休戦協定破棄 「朝鮮戦争 1950 KOREA」
Posted at 2013/10/16 21:21:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年10月12日 イイね!

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変「太陽の帝国」 運命の瞬間 の続き。

自分の父方の祖父や伯父達は帝國海軍いたが母方の祖父は帝國陸軍に籍を置き上海、台湾、満洲と転任して終戦を華北で迎え、約1年後に小倉に復員した。

また軍人だけではなく 親戚が海運会社を経営していた関係で南満洲鉄道や華北交通などの運輸流通や満鉄病院など医療で外地に勤めていた方々がいる。


祖父の存命中には神戸にある祖父の知人の華僑が経営する支那料理店にもよく連れて行って貰い大陸の話しをよく聞いた。

祖父は戦中に何度となく死にかけたが、料理同様に支那や満洲が好きで懐かしんでいた。


また自分の元直属上司の父上が対ソ戦発動と三国同盟 日米開戦の反対を具申した侍従武官長 陸軍大臣 支那派遣軍総司令官と歴任し終戦前に広島で被爆した 畑俊六 元帥 陸軍大将であり 張作霖爆殺事件後に着任した関東軍司令官 畑英太郎 陸軍大将が叔父上だった元陸軍航空技術大尉からよく話しを伺って大陸・満洲に於ける日本の歴史は身近に感じる。

畑俊六 陸軍大将 寺内寿一 陸軍大将 二元帥、徐州にて   中国国民党 蒋介石 蒋緯国


自分は船員時代に天安門事件前、人民服の大連港やソビエト連邦時代から太平洋艦隊基地があるウラジオストク開港前のナホトカに入港、戦前と変わらぬ様な古い港湾設備と煉瓦作りの倉庫街並や深い森林と広がる大地を見て同じ北東アジアでありながらも日本とは全く異質な極東地域の風情に郷愁を感じた。 極東ソ連の事は、また今度書きたいと思う。


その遼東半島 大連や沿海州 ナホトカから奥入る、我々の先輩達が開拓開発した満洲とは、

満洲は現在の中国東北部、ロシア沿海州、内モンゴル東部の満州族、モンゴル族の支配故地

面積は日本の約3倍ある広大な地域で、北東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川の対岸はロシア、南東は鴨緑江を境に朝鮮半島、南は遼東半島を有し黄海と渤海に面し、西は大興安嶺山脈を隔てモンゴル高原、南西は万里の長城東端の山海関が華北との境界「関の東」と言う意味で「関東」とも呼ばれる。



太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、満洲、上海、日華事変から始まる。

その事変に至る経緯と史実は日清戦争以前まで遡らなければ正しく理解し判断できない。

満洲は中共やマスコミ左翼が言う様に日本が土足で侵略し漢民族から奪い盗ったのか。



ロシアの南下
1636年 少数民族の満洲族が満洲に清国を建国、多数であった漢民族の明朝を滅亡させて満洲地域及び中国内地全体を支配し、漢民族が満州に移入することを禁じた。

明や清の時代の一時期を除いて万里の長城の外側である満洲はチベットやモンゴルと同じく漢民族の絶対的統治領ではなかった。

17世紀になると南下を始めたロシアと清朝との間で紛争が発生、ネルチンスク条約により国際的に満州全域が正式に清朝の国土と定められたが、イギリスは阿片を蔓延させフランスと連合して弱体した清に軍を送り、不平等な天津・北京条約を結ばせ清の植民地化を図る。

これらの条約でイギリスは九竜半島と香港を手に入れ、調停に入ったロシアは清にアイグン条約を結ばせ外満洲地域(沿海州)を割譲してウラジオストクを開港する。

1894年 朝鮮で近代化を求め清国への事大政策と朝貢廃止を掲げた甲申政変に続き農民戦争が発生して日清両国は天津条約に基づき朝鮮に出兵、動乱終息後も清国は軍を撤退させず、日清の対立は激化し日清戦争に発展した。

威海衛港の清国北洋艦隊と基地を殲滅した帝國陸海軍に降伏する清国兵捕虜

日清戦争に勝利した日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を清から割譲して朝鮮を朝貢冊封体制から解放独立させ、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放させる日清講和・下関条約を締結する。

しかし仏・独・露の三国干渉と賄賂に拠り、ロシアは遼東半島南端の旅順港に艦隊を強制入港させ旅順・大連を租借して不凍港を獲得すると同時に万里の長城以北と満洲全域に勢力圏を拡大。

更にロシアは朝鮮半島北部の鉱山採掘権や森林伐採権、関税権などの国家基盤を朝鮮王朝から取得し、朝鮮での影響力を増して南下政策を取り続ける。

ロシアの南下政策に危機感を持っていた日本が朝鮮王の高宗が売り払った利権を買い戻して朝鮮の国権を回復させた。

1900年 清で義和団の乱(排外運動)が起こり欧米列国に宣戦布告、ロシアは満洲へ侵攻し全域を占領下に置いて満洲の植民地化の既成事実を企み、朝鮮半島も勢力権内に取込もうとするが、日英米がこれに抗議し為にロシアは撤兵を約束する。

しかしロシアは履行期限後も撤退するどころか駐留軍の増強を図り、旅順港に強力な艦隊を配置し旅順要塞も大規模に強化した。

西洋の大国であるロシア帝国が極東の新興小島国であった日本との外交交渉に耳を貸す事はなくロシアとの戦争を決意した日本は日英同盟を頼りに借金をして戦費を調達し、シベリア横断鉄道の全線開通とバルト海を出るバルチック艦隊が日本近海に到達する前にロシアとの開戦を準備する。

1904年2月8日 帝國海軍は仁川と旅順港奇襲攻撃を以って日露戦争の戦端を開いた。


帝國海軍連合艦隊は黄海海戦で旅順艦隊、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃退する。

日露戦争に於ける主たる陸海戦図

帝國陸軍は仁川上陸に始まる南満洲を主戦場にしたロシア帝国陸軍との会戦に勝利を重ねるが、旅順要塞攻略に苦戦し、奉天占領時には各師団の戦闘能力は既に限界を超えて戦費は底を着き武器弾薬の補充調達にも苦慮していた。

帝國陸海軍に包囲攻略された旅順港

一方のロシア帝国も国内で民衆に拠る反帝政の革命運動が高まり、各地での陸戦海戦に連敗し、日本海海戦に於いてもバルチック艦隊が連合艦隊に撃破され制海権も失っていた。


艦砲と海軍陸戦重砲、及び二八センチ榴弾砲の砲撃で大破して自沈、擱坐したロシア旅順艦隊


戦争継続能力を失いつつあった日露両国は米国の仲介により講和交渉のテーブルに着いた。



南満洲鉄道獲得、大陸進出
1905年9月4日 ポーツマス日露講和条約調印で南満洲鉄道を獲得し、遼東半島の旅順・大連の租借権など日本は大陸に於ける権益を得て朝鮮半島を保護下に置き、北緯50度以南の南樺太を奪還する。

同年、満州善後条約で日清両国間でも南満州鉄道及び附属地の権益と吉林への延伸、日露戦時に日本が建設した鴨緑江に至る安奉線の継続使用権、関東州租借権、日本軍常駐権、鉱山採掘権、森林伐採権、日本人の居留保障を確認、日露協約で朝鮮・満洲と内蒙古東部に於ける日本の権益を協約した。

しかしロシアから賠償金は取れず、戦費返済に苦しむ事になり日本国民は暴動を起こした。

1909年10月26日 ロシア蔵相 ウラジーミル・ココツェフとの会談の為に満洲を訪れていたアジア最初の立憲体制の生みの親であり、日本の初代内閣総理大臣、初代韓国統監を歴任した伊藤博文を朝鮮人の安重根がロシア権益のハルビン駅構内で襲撃し殺害した。

暗殺当時、伊藤は既に(同年6月)韓国統監を退任していた。

1910年8月29日 日本の寺内正毅 韓国統監と大韓帝国の李完用 首相により日韓併合条約が調印され大日本帝國が大韓帝國を併合した。

1912年 清国で辛亥革命が起こり、革命家孫文を臨時大総統として南京に臨時政府を置き共和制を敷く中華民国が誕生、清朝の第12代 皇帝 愛新覚羅 溥儀は北洋直隷軍閥の袁世凱に退位させられる。

君主制が終わり軍閥の勢力争いと1949年の国共内戦終結まで続く長い内乱が始まる。

1914年8月23日 日本は日英同盟に基づきドイツ帝国へ宣戦布告、連合国側で第一次世界大戦に参戦、帝国陸軍はドイツ権益の山東半島 青島要塞を攻略、帝国海軍はドイツ植民地の南洋諸島を攻略した。

1916年 満州 鄭家屯で中国軍が駐留日本軍将兵と警察官の殺害事件を起こし、長春で日中両軍が衝突した寛城子事件の勃発により日中関係は悪化する。

1918年 連合国はチェコ軍捕囚救出の名目でロシア共産革命政の権打倒と東部戦線への揺動にシベリア出兵を決定、日米主力の連合軍がウラジオストクに上陸した。

1919年4月 帝國陸軍は広がった外地領や大陸の租借地に内地から編入し駐屯守備隊を増強、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と同様に遼東半島と南満洲鉄道附属地の警備、邦人保護と治安維持を目的として関東軍を編成する。

1920年にはニコラエフスク(尼港)で赤軍パルチザンと中国海軍によって駐留日本軍が殲滅、領事一家以下在留邦人300人以上が惨殺され、住民 6000人余りが虐殺される尼港事件が引き起こされた。

1922年 ロシアでは内戦後ボリシェヴィキがソビエト連邦を樹立、全土が共産赤化する。

この頃より中国は排日に傾き、ソ連は南下政策を進め日本が正当に得た権益や居留民の生命財産が脅かされる事になる。

1924年 皇帝を退いた溥儀は軍閥のクーデターにより紫禁城からも強制的に退去させられ、各国の領事館に庇護を求めたが内政干渉になると拒否される。

関東大震災で溥儀から義援金を送られた日本政府は教師ジョンストンの申し出から彼を受け入れ、北京の日本公使館に保護された溥儀は後に天津の日本租界に移住する。


内地では工業化が進むも日本は依然として農業が主体で世界的な経済恐慌と冷害に因る飢饉は農村部へ大きな打撃を与え、日本政府は外地に活力を求める。


1929年 政府は外地統治の為に拓務省を新設して朝鮮総督府・台湾総督府・樺太庁・南洋庁の監督業務を行い、拓務省下に南満洲鉄道や東洋拓殖、南洋拓殖、南洋興発などの国策会社を設立する。


国策に沿って財閥民間企業も大陸や朝鮮、台湾に進出しインフラや産業は整備され、金融機関が集まり都市部は近代化が進んだ。


大陸都市部の新市街は広さやデザインに自由がありモダンで独創的な建築物が立ち並んだ。





支那軍閥と関東軍
関東軍は日露戦時に日本に寝返った満州の親日派馬賊 張作霖の奉天軍閥に軍事顧問団を送り 協力関係を保っていたが満洲を実効支配した張作霖は日本の意に反し関内へ南侵を始める。

張作霖は満洲南部に産まれ吉林で馬族になったが、漢族移民の子で満州族ではない。

安徽派や直隷派など他の北洋軍閥との戦の度に張作霖は関東軍に支援を求めながら朝鮮人安住や土地商租権など諸問題解決の約束は守らなかった。

欧米資本を取入れたい張作霖は欧米列強に追随し日本と距離を置き始め関東軍との関係も悪化、特に大陸政策に出遅れていた米国が接近し経済政治両面で積極的に張作霖を支援した。

1926年12月 山海関内、即ち中国国内に侵攻し北京に入城した張作霖は自ら大元帥に就任すると同時に中華民国の主権者であることを宣言する。

1927年3月 南京・上海を占領した中国国民革命軍内の共産党派が外国人と外国領事館を襲撃する南京事件漢口事件を起こした。

南京城内の中国軍に対して揚子江に停泊中の米英海軍艦艇が艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵の一方的な暴虐に遭い日本と欧米の外交官と宣教師が虐殺され婦女子が強姦された。

翌年4月には山東省 済南で居留民が北伐軍内共産党派に掠奪虐殺され、警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こす。

国民政府は日本軍の不法行為と宣伝したが、ニューヨーク タイムズや英国紙デイリー テレグラフの現地特派員は「日本人の忍耐にも限度がある。」と中国軍の掠奪虐殺を強く批難糾弾し、日本軍の行動は当然の自衛の為に必要最低限の正当防衛で今後の日本軍の治安維持活動に期待していると国際的に報じた。

蒋介石は武漢国民政府の左派勢力に対抗し国民党から共産主義者とソ連の顧問を排除追放して南京に国民政府を設立する。

奉天軍内への共産主義の浸透を危惧し満洲の共産化を警戒した張作霖は在北京ソ連大使館官舎を強制捜索、ロシア人と中国人80名以上を検挙、武器と機密文書、煽動紙等を押収した。

蒋介石から「山海関以東には侵攻しない」と言質を取った関東軍は張作霖を積極的に支援しなくなり蒋介石の北伐国民革命軍との戦いに敗れた張作霖 奉天政府の財政は破綻し満洲の支配力も衰え国民党に擦り寄って行く。

張作霖と旧知の仲である元満州軍参謀 田中義一首相は奉天軍閥と関係を維持しようとしたが勢力争いを続ける支那軍閥に頼る安定統治に限界を見た現地の関東軍高官は社会インフラを整備して親日政権国家樹立に拠る満洲の間接統治(満洲国建国)を考える様になる。


1928年6月4日 関東軍司令官 村岡長太郎 中将が発案し、高級参謀 河本大作 大佐が首謀して張作霖が乗った南満洲鉄道の特別列車を奉天近郊の皇姑屯を走行中に爆破、国民党軍の仕業に見せ掛ける偽装工作を行い張作霖を殺害する。

田中首相は陸軍と閣僚に押され事件を隠蔽上奏し、謀略を知った天皇陛下に叱責され田中は引責辞任して内閣は総辞職、陸軍は村岡司令官を依願予備役、河本大佐を停職に処した。

爆死した張作霖の後を引継いだ息子の張学良は青天白日旗を掲げ南京国民政府へ下り、蒋介石に満州の不干渉を確約させ北満からソ連の権益排除を画策する。

蒋介石は奉天軍閥 張学良の合流により北伐を完遂させ国内の共産勢力掃討に力を注ぐ。

翌年、コミンテルンの赤化工作の謀略を察知した蒋介石は張学良に命じ活動拠点であるハルピンのソ連総領事館を強制捜査させ領事と職員を逮捕、ソ連権益の中東鉄道に軍隊を配置して南京政府が接収、ロシア人管理職員を排除して中国人を任命した。

1929年7月18日 日本が厳正中立の立場をとり関東軍の不介入を確認したソ連は南京国民政府に国交断絶を宣告して赤軍が満洲に侵攻、張学良軍を撃破し中東鉄道全線を占領して中東鉄道の経営権と特別区の行政を握り、満洲に於けるソ連の影響力を反対に強める。



1928年7月19日 中華民国南京政府は国家継承に於ける条約継承否定説を採用、日清間で締結された諸条約無効を主張し一方的に日清通商航海条約の破棄を宣言していた。

ソ連に敗れた南京政府と張学良は矛先を日本の権益と日本人に向け排日に傾いて行く。

南京政府は南満洲鉄道と並行する鉄道新設の禁止等を定めた日清間の満洲善後条約締結を無視して新たに満鉄線に並行する鉄道路線を建設、安価な輸送単価で南満洲鉄道の経営の枯渇を狙い満鉄の付属地に柵を張り廻らし通行口に監視所を設け大連港から入る物品に輸入税を掛けて更に付属地から持出す物品に対し二重の税を掛けた。

また満洲善後条約では鉄道付属地外でも営業権は保証されていたが、中国の官憲による一方的な許可取消や事業妨害に林業、鉱業、商業等の日本人企業の経営不振が続出する。

満洲鉄道、及び東清鉄道の路線図

徹底的に排日を進める南京政府は日本人や朝鮮人に土地を貸売りした者を国土盗売者として処罰する「盗売国土懲罰令」を制定、多数の朝鮮人農民から土地を奪い抵抗した500人以上の朝鮮人が奉天監獄に投獄された。

更に「鮮人駆逐令」の発令により、迫害された朝鮮人農民は長春 西北の万宝山に入植しようとし、反発した中国人が朝鮮人農民を襲撃、日本領事館が朝鮮人農民保護の為に急行させた警察官と武装した中国人の暴徒が衝突する 万宝山事件が発生し、朝鮮排華事件が起こる。


1931年6月27日 南京政府の排日政策が続く中、対ソ戦に備えて陸軍参謀 中村震太郎 大尉が軍用地誌調査の命を受けて匪賊横行を理由に一方的に設定された蒙古興安嶺の日本人立入禁止区域に農業技師と身分を隠し井杉延太郎 退役兵曹長と白ロシア人、蒙古人の4名で調査旅行中に張学良配下の屯墾軍に拘束される。

中村大尉は護照を提示したが屯墾軍は無効として取り合わず、一行が多額の旅費を所持していた為に殺害し証拠隠滅に遺体を焼いて埋め、一行の金品、護身用ピストル、その他一切の物を隊長の関玉衡とその部下が略奪した。

これと時を同じくし日本人女学生数十人がピクニック中に集団強姦される事件も発生する。

各問題を奉天の日本総領事から外務省を通じて南京総領事が南京政府に協議解決を申入れるが無視され続ける。

事変前にはこの様な懸案が370件余りに達し、また関東軍も再三に渡って抗議するも南京政府から明確な回答は無かった。

日本政府の対中・英・米外交は頓挫し、無秩序状態が続く中華民国は国家ではなかった。


関東軍に作戦参謀として赴任した石原莞爾 中佐は満洲の地域自決・民族自決に基づく分離独立、満蒙領有計画を立案する。

南京政府の排日政策と満洲・東北の治安悪化に危機感を抱いた関東軍幹部達は本国の陸軍中央参謀本部に諮ることなく再び独断で軍事行動を開始した。



満洲事変
1931年9月18日 石原莞爾中佐は着任した高級参謀 板垣征四郎大佐と奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破して張学良東北軍の犯行に見せ掛けた柳条湖事件を起こし、特務機関の工作で吉林も不穏な状態に持込む。

これを理由に関東軍は軍事行動を開始、東北軍兵営 奉天北大営と奉天城を制圧する。

翌日までに奉天以外に長春、安東、鳳凰城、営口の南満洲主要都市の殆どを占領した。


19日午前10時 事態に日本政府は緊急の閣議を召集「事変不拡大」と決議した。

南次郎 陸軍大臣は政府の方針に留意して行動するよう本庄繁 関東軍司令官に訓電する。

陛下は参内した若槻首相に「事変不拡大を徹底するよう努力せよ」との御言葉を掛けた。


21日 朝鮮軍司令官 林銑十郎 中将は二個飛行中隊を増援、独断で混成第三十九旅団に越境を命じ旅団は鴨緑江を越えて関東軍 本庄繁 中将の指揮下に入る。

天皇陛下の勅裁を受けない皇軍の国外派兵は統帥権干犯であり、重大な軍紀軍律違反で死刑に値する重罪であったが事後に閣議決定承認され正式の派兵となった。


満鉄線路爆破は軍事行動の口実を作る三文芝居だが石原莞爾中佐ら関東軍の作戦参謀は事前に北満を偵察して準備周到に綿密な占領作戦を計画していた。

また関東軍作戦参謀は華北の国民革命軍 第13路軍を買収し反乱を起させ張学良軍の満洲駐留兵力 約23万の半数以上の大部隊を山海関内に誘出し、満洲を手薄な状態にする陽動工作も成功させる。

1931年10月8日 奉天を放棄した張学良が拠点を移し東北軍の兵力が多数集結していた錦州を石原莞爾中佐が司令機に搭乗して作戦指導を行い関東軍の爆撃機12機が空襲した。

1932年2月 越境した朝鮮軍の増援で管轄外の北部満洲に進出、ハルビンを制圧占領。


張学良が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対して、関東軍は増援を含めて1万数千名程の兵力であったが、国共内戦の為に対日戦に兵力を割く余裕が無い張学良は日本軍の挑発と衝突を避けて殆ど抵抗せず、関東軍は僅かな兵力を以って難なく日本本土面積の3倍を有する満州・東北全域を制圧占領した。


袁金鎧の奉天地方自治維持会、煕洽の吉林省臨時政府、張景恵のハルビン東省特別区治安維持委員会の東北三区が中国国民党政府からの分離独立を宣言する。



満州国建国
1932年1月28日 中国国民党軍 第十九路軍が上海付近に進出駐留し、日本人僧侶襲撃事件や排日暴動から租界の日本人居留民を警護する日本海軍陸戦隊に第十九路軍が銃撃して陸戦隊に90数名の死傷者を出す第一次上海事変が勃発していた。


1932年3月1日 関東軍の石原莞爾主任参謀らの主導のもと「王道楽土」「五族協和」をスローガンに東北三区の政都として長春を新京と命名、満州族出身で清朝最後の皇帝 溥儀が国家元首として政務を執り、日本に国防・鉄道・通信の管理を委ねる親日国家 満洲国が建国される。


1933年3月 国際連盟創立以来の原加盟国で常任理事国でもあった日本は国連の総会で満洲を支那の一部分とする撤退勧告を受け国際連盟を脱退する。

その後、当時の国連加盟独立国は60ヵ国程でアジアやアフリカは欧米の植民地が殆だが、満州国は中華民国南京国民政府をはじめ植民地を除く23ヵ国から承認された。

1934年3月1日 満洲国は溥儀が皇帝に即位し満洲帝國となった。

独ナチス党や伊ファシスト党を強く批難し対立していた時のローマ法王 ピオ11世のバチカン市国は枢軸国のドイツやイタリアより早く1934年から満洲国を承認している。

1932年4月 満州国軍が創設され治安維持と国境警備に当たり、日満議定書により国防は関東軍が担い、日本人将校が満洲国軍の軍事顧問や教官を務め、部隊長等は日本軍から転籍した将兵が任官する事もあった。

当初、部隊構成は軍閥の配置を踏襲したが陸軍軍官学校が設立され将校を養成、満洲国国民の満州族、漢族、蒙古族、ウイグル族、白系ロシア、日本人、朝鮮人、台湾人が入学した。

後の韓国大統領 朴正煕(日本名は高木正雄)は新京の満洲国軍軍官学校を首席卒業後、東京の帝國陸軍士官学校を卒業、関東軍部隊に配属され見習士官として勤務した後、満洲国軍の少尉に任官奉職し中尉に昇進して終戦を迎えた。

また奉天の満州国軍軍官学校には丁一権や白善燁が入学し、後に彼らは韓国軍の主力中枢として朝鮮戦争で指導的役割を果し、韓国陸軍の第19代までの歴代参謀総長は全て旧日本軍若しくは満州国軍出身者で占められている。


嘗て国民党 蒋介石は日本に留学し帝國陸軍に籍を置き砲術や用兵を学び日本に亡命経験もある反共親日であった。

1936年12月 共産党と密かに接触していた張学良と楊虎城は西安で蒋介石を拉致監禁し息子の蒋経国も留学先のソ連に人質に捕られ、それまで日中友好と反共討伐の政策を推進して満洲国も黙認した蒋介石の国民党は共産党軍との内戦を停止、国共合作と排日抗日政策に転換する。


欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと民国政府や軍閥内に潜り込んだ共産党員は北・中支各地で日本軍を挑発して日中開戦を嗾ける。

1937年7月 北京 盧溝橋で通達済の夜間演習中に日本軍駐屯部隊を国民革命軍 第二十九軍の兵士が狙撃、抗議と解決協議中にも迫撃砲を撃込まれる 盧溝橋事件と中国人自治政府保安隊が在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した 通州事件を起こす。

同年8月 上海停戦協定を破り、非武装地帯にトーチカと強固な要塞線を構築したドイツ軍事顧問が指揮する最新装備で完全武装した3万の国民党中央軍の精鋭が上海国際租界の日本人居留区を包囲攻撃する 第二次上海事変 を起した。

ソ連の南侵を警戒する石原莞爾ら事態不拡大派の意に反して日中は全面戦争に突入する。




ノモンハン事件
満州国建国以来、満州・ソ連国境のアムール川(黒竜江)では越境上陸し乾岔子島を不法占拠したソ連軍に日・満軍が応戦してソ連軍砲艦を撃沈した乾岔子島事件や満州東南端の朝鮮に近接する豆満江とハサン湖間にある国境不確定な緩衝地帯の丘陵に陣地構築を謀り越境侵攻したソ連軍を日本軍が撃退した張鼓峰事件などの国境紛争が起り、満州・蒙古国境西部フルンボイル平原では哈爾哈(ハルハ)廟事件など国境哨戒中にモンゴル軍の侵犯挑発に拠る銃撃戦が頻発していた。

1939年5月11日 ハルハ河付近 ノモンハンの国境係争地で満州国軍 国境警備隊とモンゴル軍の交戦に端を発し、両国を支援する日本軍とソ連赤軍に拠る大規模な軍事衝突に発展する。

この突発的な武力衝突に即応してソ連軍 第57特別軍団は戦車、装甲車、自走砲、機関銃狙撃兵、モンゴル騎兵団を投入してハルハ河西岸に榴弾砲を据えて架橋した東岸に陣地を構築した。

日本軍は第23師団捜索隊、歩兵大隊、輜重輸送部隊、山砲、速射砲、重機関銃、満州国軍騎兵の混成支隊を送り、戦車を伴うソ連軍の装甲部隊と戦闘になる。

衝突直後は日本軍が戦闘に勝利して東岸に応急陣地を構築したが、日・ソ両軍ともに指揮通信の混乱から統制を失い組織的な展開や戦闘の連携がとれず、分散した各部隊が個々の判断で攻撃・防御と孤軍奮闘する。

ソ連軍に火力で劣る日本軍は夜襲を掛けて反撃、上空では九七式戦闘機が空戦でソ連軍機に圧勝を続けて日本軍航空隊が制空権を抑え機銃掃射や哨戒偵察、陣地爆撃で地上軍を航空支援した。

日本軍の増援攻勢を警戒した ソ連・モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退して5月の大規模な衝突は一時的に終息する。

第一次衝突の損害

日本軍 戦死傷者 約290名 装甲車 2輌 トラック 8台 乗用車 2台 速射砲 1門

ソ連軍 戦死傷者 約370名 戦車・装甲車 13輌 トラック 15台 火砲 3門



第二次ノモンハンの衝突

6月20日 戦車を伴う十数輌のソ連軍装甲部隊とモンゴル軍騎兵が越境し、集落内にある日本軍の宿営地を砲撃、日本軍は速射砲と機関砲で応戦し戦車・装甲車4輌を撃破、越境部隊を撃退する。

この頃、ソ連軍は日本軍飛行場への越境爆撃と小兵力の地上部隊を侵入させては威力偵察攻撃を繰り返し、452輌の戦車と装甲車旅団を投入する大規模な侵攻を準備していた。

ソ連軍を指揮するのは第一次衝突を観察分析酷評、二次侵攻を緻密に計画して地上及び航空戦力を増強して関東軍に挑み、後に屈強なドイツ第6軍をスターリングラードで包囲、モスクワ侵攻阻止、東部戦線からドイツ軍を駆逐し自らベルリンに入城、「ソビエト連邦英雄」の称号を受けて上級大将、元帥まで昇り詰めるゲオルギー・ジューコフである。

冷酷なスターリンが認める冷徹な司令官ジューコフは容赦なく自軍兵士を銃殺処刑の督戦を行い、勝利の為には兵の生命、兵力の消耗を厭わず間髪を容れぬ打撃重視の電撃戦を得意とする。


日華事変勃発で中国戦線に兵力を抽出していた日本陸軍中央の満・ソ国境紛争の不拡大方針に関東軍は第6軍と第23師団、第7師団の一部で衝突に対応するが、実際は一個師団程度の兵力であるのに対してモスクワの国防部は第57特別軍団にジューコフの要求以上の増援を送り込み、最終的にソ連軍は8個師団を投入した。


関東軍はソ連軍の火力と機動力に対して第1戦車団の戦車2個連隊を増派、自動車化歩兵大隊、歩兵1個連隊、独立野砲1個連隊、工兵連隊、砲兵・高射を含む戦車(戦車73輌・装甲車19輌)を主力とする機械化混成部隊を編成、第23師団の別動支隊とする。

 
日本軍 戦車隊・装甲機械化部隊は第23師団本隊に先行してハルハ河の前線に向かう。

夏期の辺境モンゴルの草原、砂丘でのソ連軍の戦車・装甲車旅団との戦闘になった、ノモンハンの第二次衝突が日本陸軍の戦車対戦車、両軍機甲部隊に拠る近代的な集団機甲戦の初戦となる。


7月2日 ハルハ河東岸に進出した日本軍戦車連隊はソ連 第11戦車旅団の戦車・装甲車と交戦、ソ連軍戦車20輌、装甲車12輌、トラック20台を撃破しながら、西岸の砲兵陣地から強力な榴弾砲の激しい砲撃に前進出来ず釘付けにされた歩兵第64連隊を支援、ソ連軍の防御陣地を突破して東岸の野砲陣地を蹂躙し無力化する。

一方、ハルハ河の渡河作戦に成功し西岸に進出した歩兵中心とする砲兵、工兵の第23師団主力もソ連軍 第11戦車旅団、第8、第7装甲車旅団の攻撃を受け、戦車67輌、装甲車41輌を撃破撃退したが、東岸での戦闘で日本軍戦車隊も戦車30輌を喪失、関東軍司令部は前線から戦車連隊を後方支援部隊まで後退させた。

7月4日 第23師団は弾薬枯渇と退路遮断の危険性から橋を渡りハルハ河西岸から撤退を開始、以降、東岸での対戦車戦、砲撃戦、空中戦、空爆、夜襲、白兵戦、塹壕戦、高地攻防戦など激しい戦闘は 9月15日の停戦合意まで続いた。


第一次、第二次の参加兵力

日本軍 約30,000名 戦車73輌 装甲車19輌 歩兵中心の機関銃・野砲混成部隊

ソ連軍 約70,000名 戦車438輌 装甲車385輌 戦車主力の機甲・機械化部隊

加えてソ連軍は機動兵力だけでなく支援火砲でも圧倒しながら更に増派増強していた。


日本軍の損害 戦死傷者 約19,000名 戦車 約30輌 航空機 約160機

ソ連軍の損害 戦死傷者 約26,000名 戦車 約250輌 航空機 約360機


過去、ノモンハン事件はソビエト連邦が崩壊してソ連側の正しい情報が公開されるまで「ソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」と言われてきた。

関東軍から増派も僅かな第23師団に対してソ連赤軍 第57特別軍団のハルハ河での開戦布陣は戦車輌数2倍、装甲車13倍、榴弾重砲3倍、野砲も優勢で歩兵と航空機数は互角。

戦力で日本軍を圧倒しながらソ連軍は自軍の戦車兵の逃亡を防ぐ為に乗員ハッチを外から施錠し、戦線を離脱した兵の処刑督戦に火炎放射器まで使い、戦車1個旅団と装甲車1個旅団を損耗壊滅させて戦車2個旅団、装甲車3個旅団、化狙撃兵3個師団、空挺1個旅団の30,000名以上の増援を受けて、疲労した一個師団に勝てないならジューコフも赤軍政治将校も無能である。

戦車・装甲車が8倍以上のソ連軍に日本軍は軽装甲に小口径搭載砲の戦車戦、速射砲や機関砲に拠る正確な接近射撃と死力を尽くした肉薄戦の火炎瓶、地雷、手榴弾でソ連軍戦車250輌を撃破、多勢に無勢の空戦でも360機を撃墜した。

これは精神論ではなく、兵力、火力、装備の物理的な劣性に銃砲弾薬も不足する辺境最前線での日本軍歩兵、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、整備兵、航空兵達の技能技術を応用駆使した奮戦敢闘は称賛されて然る可きである。

尤も敵を侮り万策を講じず、最前線からの情報や意見具申を無視した上に己の失策と用兵の責任を部下に押付け腹を切らせる無能な軍司令官や師団長、作戦参謀などは万死に値する。

このような軍上層部の体質がポートモレスビー、ガダルカナル、インパールなど南方作戦で失う必要がない多くの皇軍兵士の命を失わせた。


1941年10月15日 停戦後の国境画定交渉に於いてノモンハン以北は従来の国境線、南方地区は停戦前の日本軍の占領地は満州国の領土とする満州国に有利な議定書がハルビンで調印され モンゴルは1,140㎡を領土を失うと言う結果になった。

日本は政府が関与せず、外地駐屯軍の一師団が対応し、ソ連が国家的な対日戦争として対応したノモンハンの領土争奪戦は日本の勝利に終わる。


「ノモンハンはソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」は共産主義左翼のプロパガンダである。


1945年 ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連赤軍が大挙し満洲に侵攻した。


1905年にポーツマス条約で南満洲鉄道の権益を獲得して以来、日本人が満蒙開拓開発を続けて40年の歳月で重工業を発展させ、辺境の荒野は近代的産業地域に生まれ変わった。

極東の近代国家満洲國は日本の敗戦まで13年間続いた。

旧満洲国 大慶で深々度の大油田が発掘されたのは日本の敗戦後であった。



関東軍の功罪
日本人は努力して匪賊が横行する無法地帯に産業を発展させ近代都市を作り、満洲は急速な発展を遂げたが、満洲の中国人や朝鮮人は支那軍閥政府の圧政に苦しめれていた。

条約や外交により権益を保証されるのは当然だが、相手が約束を守らない中露であるうえに内戦で混乱中の一時的短命政権とは条約も外交も機能不全に陥いり、大陸では権益や家農地などの資産どころか人権や生命の安全すら保障されなかった。


五族協和を謳い満洲国の建国を目指した石原莞爾は日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきで国民党の蒋介石と共闘し中国共産党軍を抑えソ連の南下を阻む為に中国戦線不拡大を主張した。


皇軍を裁可無く、軍事行動に使った関東軍高級参謀らの独断先行は正当化できない。

しかし中ソは条約を破り、日本が日清・日露の戦役で多大な犠牲を払い正当に得た権益を脅かし、移住した日本人と朝鮮人に危害が加えられ満洲鉄道警備と邦人保護を目的として派遣されていた治安維持軍である関東軍が指を咥え放置する事はできなかった。

古来、山海関 即ち万里の長城東外の関東・満洲は漢民族の土地ではなく、軍閥は徴税収奪しても保護統治せず、民国政府の施政権下にも無かった。

満洲国には漢族に反目する満洲族をはじめ赤化の圧政から逃れた来た白系ロシア人やユダヤ人、ソ連に抵抗する蒙古人、台湾や半島から移住してきた台湾人や多くの朝鮮人がいた。

満洲国に人種差別が無かったとは言わない、日本人の中にも職業や貧富の差別はあった。

大陸の覇権に出遅れていたアメリカも満洲の利権を狙い、ソ連は中国赤化による領土侵略を企み、支那軍閥と左右思想、民族間の勢力争いに中国人同士が殺し合っていた。

荒野を開発し満洲の産業発展と近代化に努力した日本は搾取する悪の帝国にされている。


果たして関東軍が行動を起こさなければ、居留民達は満洲で安全に暮らせたであろうか。

現地の居留民や関東軍からの緊迫する訴えに国際連盟常任理事国であった日本政府は南京政府や欧米列強の思惑に対し北京議定書、日清通商航海条約、満州善後条約、日英同盟に基づき国連や二国間交渉で政治的に大陸の権益を守る外交戦略を尽力すべきであった。

日本は例え再び三国干渉されても国際連盟を脱退したのは大間違いだ。



ソ連赤軍の侵攻に日本軍は邦人居留民を置き去りにして逃げた言う論調がある。

1945年8月9日 越境侵攻してきた圧倒的な兵力と重装備で優勢なソ連赤軍と中国兵に対して、日本軍はただ敗走したのではない、陸軍は南方方面の作戦に兵力を転用され、兵員不足に火力も不十分ながら各師団は最後まで抗戦し多くの連隊、部隊が全滅している。


ポツダム宣言受諾後、日本軍は一切の武力行動禁止が命じられたが領土拡大を企むソ連赤軍は侵攻を止めなかった。

千島・占守島では陸軍 第91師団、満洲から転出した戦車第11連隊と海軍警備隊が強力に抵抗しソ連赤軍を撃退して、日魯漁業の女子従業員達の脱出後に停戦、降伏した。


また北支・内蒙古の警備に当たっていた駐蒙軍司令官 根本博 中将は1927年の南京事件の際に無抵抗の命令を受けた日本軍が防御戦闘を行わなかった為に外国人と日本人が入城した中国軍の一方的な暴虐に遭い、婦女子は強姦され南京領事館付武官であった自身も領事館内で発砲され銃剣で突き刺されて重傷を負った経験から根本中将は停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下し駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍の攻撃も抑えて、4万人の在留邦人が内蒙古から避難し天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い避難民を守り抜いた。

1946年8月 終戦から一年後、北支那方面軍司令官を兼任していた根本中将は在留邦人の帰国と北支那方面の将兵35万の内地復員を終わらせた最後の船で帰還した。

1949年 根本中将は在留邦人と将兵の復員帰国協力また国体護持への恩義を蒋介石に返すべく台湾に渡り金門島の戦いを指揮し殺到する中共軍を撃破して台湾の独立に貢献する。



撤退には、優勢な敵に陣地や防衛線を突破された際、抵抗しつつ味方の損害を最小限に抑え戦線を後退する退却戦、または局所的な攻勢に出て敵の進撃速度を低下させる遅滞戦と急速に部隊を拠点まで撤退させ戦力を整える迎撃戦がある。

撤退に付いて行けない落伍兵や民間人が犠牲になる事は欧州戦線に於いても多くあった。

1946年4月迄、有効な日ソ中立条約を破って侵攻したソ連はクソであるが、条約を当てにし不穏な動きを察知しながら、居留民の夫人子供を退避させなかった政府と軍にも責任がある。


関東軍の罪は独断で軍事行動を起した事と条約を守らない強盗ソ連赤軍と蛮族支那兵に対し邦人の安全が確保される前に停戦を受入れ武装解除に従った事だ。

張作霖の爆殺は張学良の個人的な恨みと不信感を強め、より反目するようになった。

奉天軍閥を倒閥、武装解除し旧態に復すれば国際世論も敵に回す事もなかったであろう。

また早い時点で反共、北伐の蒋介石と手を結び、反ソ的な張学良との仲介も可能であった。


日本の歴史番組や左巻きが偏った思想で作った映画の中では日本政府と財閥や帝國陸海軍、特に関東軍は悪役にされ中共軍やパルチザンは正義と人民の味方である様に描かれている。

帝國陸軍は民間人を凌辱虐殺し、八路とソ連赤軍や朝鮮パルチザンは兵隊だけを殺したか。

日本降伏後の満洲を見よ

蛮族は葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件麻山事件を起こした。

敗戦の結果、内地の農村で貧困に喘ぎ、満州・大陸に夢と希望を求めて移住した人々は家財総てを失い家族や命まで失う事になった。

帰国出来た人達は幸運であり、無事に日本に帰れなかった方々が沢山いる。


戦勝国を名乗る中ソの蛮行は、一例も戦犯として裁かれる事は無かった。

戦後、中共と日本国内の左巻連中が史実を隠蔽し、70年経った今でも南京事件は捏造水増しされ反日のプロパガンダに都合良いツールとして利用している。

全てを日本の侵略悪業にして共産主義者と偏狭左翼は尼港事件も無かった事にするな。

共産主義とは分け合うのではなく他人から奪い盗り恥ずかしげも無く嘘をつく事か。

祖父は停戦命令に拠り武装解除され、八路に外套、時計、万年筆など私物を身ぐるみ剥がれたが、まだましであった。

近所の叔父さんは火事場泥棒のソ連赤軍の捕虜となり終戦後に8年間もシベリアに抑留され強制労働させされラーゲリで足先を失い痩せ細って帰還した。

ソ連は約107万人を終戦後に抑留し強制労働させ、約34万人の日本人を殺している。


「武装解除に応じず最後まで戦って死んだ方が良かった。」

叔父さん達はシベリアの冷たく固い土を掘り戦友の亡骸を埋めながら涙を流した。

帝國軍人は戦場で戦って死ぬ覚悟をする。

しかし火事場強盗のソ連に強姦され、扱使われて命と領土まで盗られる覚えはない。

日本人なら帝國と陸海軍を一方的で阿漕な侵略者と決めつけず史実と経緯を検証すべきだ。



欧米列強は支那の植民地化を企み中国人に阿片を売りつけ中毒にして奴隷の如く搾取した。

支那軍閥は権力勢力争いに明け暮れ国家を分割破壊して山賊の如く庶民から略奪し農民から糧を徴収し殺し犯した。

日本は満洲鉄道支線を延長し鉱山を開発、ダム、工場、農場を作り産業を発展させ雇用を産みだしインフラを整備し、銀行、学校、図書館、病院などの公共事業施設を街に創り未来に投資した。


日本やドイツ、現在の韓国、フィリピンはアメリカの傀儡国家なのか。

満洲国を傀儡と言うならば、他国の力を借りて独立し保護された国は皆、傀儡国家になる。


独立主権国家であっても援助支援を受ける国の影響を受け傾倒するのは当然の事だ。

親日、親米、親ソ、親中国家になり、同盟、連邦を構成し、自治州に取込まれるという形もある。

戦後、NATOとワルシャワの条約機構で東西に別れ資本主義と共産主義は互いに牽制してきたが、東側共産主義陣営の縛りは厳しいものであった。


中共は自治州・解放と言う欺瞞と武力で統治し、チベットやウイグル自治区に独立を絶対に認めず、思想粛清と人権弾圧を行ない独立運動を潰し他国からの暴力的弾圧に対する抗議を内政干渉だと跳ねつける。

戦前、大日本帝國、大英帝國、ロシア帝国、帝政を敷く国だけでなく、国外に覇権を求めて植民地を持つ国は総て帝國主義であり、列強と並び日本も国際連盟常任理事国であった。


敗戦で日本は帝國主義侵略国家と呼ばれ続け戦後、多大な賠償と国際貢献をして来たにも拘らず中露の政治戦略的な妨害により未だに敵国扱いされ国連常任理事国になれないでいる。



民主主義独立主権国家である日本が何時まで戦犯国扱いされるのか。




太陽の帝国 上海事変 に続く。


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Posted at 2013/10/12 17:39:41 | コメント(1) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記

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「ガザの嵐。
メイ「ハマスの攻撃は全パレスチナの民意」
違うな。イスラエルは倍返しが国是である。
ハマスは米国市民を人質に取ったことで、
米軍デルタやシールズに参戦権を与えた。
ハマスは中東全域を再び戦火に巻込みたいが
度を超した攻撃は被害者を加害者にする。」
何シテル?   10/14 10:20
元・気楽な海上サラリーマン  現・厳しぃ陸上自営隊  時々・トランスポーター 
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