今日では、「FF」は実用系、日常使用重視、そして「FR」はスポーツ/高性能系といった分類が定着してしまった気配だが(例外は「FFスポーツ」にチャレンジしつづけるホンダの「タイプR」軍団か)、しかし1960~70年代は、状況はそんなに単純ではなかった。
当時は、既存のシステムとしての「FR」や「RR」がまずあって、それに対抗する新興勢力としての「FF」というイメージが形成されつつあった。そこから、メーカーにしてもカスタマーにしても、この新しい駆動方式に注目することが「コンサバティブでないこと」の証明だという雰囲気まであったはずだ。
したがって、この時代においては、「技術」をオモテに出したいメーカーほど「FF」を早期に採用したという見方も可能。その意味では、1960年代にいち早く「FF乗用車」を商品化したのがスバルとホンダだったというのは、当時の“空気”を伝えるには、けっこう好適なエピソードであるのかもしれない。(日本初ということでは、1950年代に軽自動車のスズライトが既にFFを採用していた)
そして当時の「ビッグ2」でいえば、トヨタよりもニッサンの方がFF車開発に関しては積極的だった。ただし、トヨタが「FF」に無関心であったということではなく、最初の大衆車であるパブリカは、その初期にはFF車として企画されていた。(実際の商品化の段階になって、1960年代初頭の国道に多かった未舗装路の登坂能力の問題などで前輪駆動は時期尚早とされ、市販パブリカでは「FR」が選択されたという)
チェリーは、そんな時期のニッサンから、メーカー初のFF車として登場したクルマで、そのセダンのデビューは1970年の9月だった。サニーのコンポーネンツを利用し、エンジンを横置きにしてFF化したものだが、その外観は上級車の縮小版であったサニーとは異なり、別ジャンルの「小型車」なのだという主張性を掲げた、異色ともいうべき造形でまとめられていた。
そんな注目デザインのチェリーだったが、当時のFF車の走りというのは、実はどれも“くせ者”ばかり。ステアリングを保持するのにチカラは必要だし(トルクステアが強い)、またハンドルを切りながらアクセル・オフすると、ノーズが急速にインを向く(タック・イン)という傾向もあった。そして、この二つの傾向は、エンジンのパワーが上がれば上がるほど強まるのも常だった。
セダンの登場から1年後に、チェリーにクーペ・バージョンが加わり、そして、そのクーペにオーバー・フェンダーを装着の「X-1R」が登場したのが1973年である。セダンよりも全高を下げ、デザイン的にも精悍さを増した「クーペR」のエンジンは、セダンでも使われていた1200ccバージョン。
スペック的にはさしてモンスターとは思えなかったが、走らせてみると、当時のFF車としては、やはりパワフルに過ぎた。FF特有のクセとして一部には嫌われていたトルクステアとタック・インの傾向はさらに強まり、ジャジャ馬という言葉が似合うクルマになっていたのだ。
このチェリー・クーペX1-Rは、“ファイター系FF”として日本自動車史に残る「悍馬」であり、そして、モータースポーツ・シーンでも大活躍した「駿馬」だった。雨のレースで鬼のように速いといわれた星野一義選手は、このFFチェリーでの活躍を機に、メジャーなシーンへと駆け上っていく。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
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2016/12/13 11:54:04