その22歳のドイツ人は、日本のレース・シーンを鮮やかに駆け抜けて、F1へと去った。そして10月の「鈴鹿」には、F1パイロットとして、その“サーカス”の重要なメンバーのひとりとして、ふたたび日本のサーキットに還ってきた。
たった一年間の間に、日本のファンの前で、F3、F3000、F1という三種類のレースを闘って見せた男というのは、おそらく空前にして絶後だろう。それが、ミハエル・シューマッハである。
まず、1990年末の「富士」だった。マカオGPを闘ったチームとドライバーを日本に呼んで、わが国のF3ドライバーと競わせようというイベント(「インターナショナルF3リーグ」)の初回だった。
「富士」はストレートが長くて、コーナーが少ない。人よりマシンの勝負になると定評のあるコースだが、そこに非力なVWエンジンのレイナード893を持ち込み、やっぱり勝って見せたのがミハエルだった。
やっぱり……というのは、その七日前のマカオ・グランプリでも、彼は見事なウイナーだったからだ。マカオは公道、タイヤはヨコハマ。「富士」はまったく性格が違うコースで、かつ日本のF3レースはブリヂストン・タイヤのワンメイク。違っていることはいっぱいあったものの、勝利者の名だけは同じだった。
そして、1991年の7月。「菅生」にシューマッハがやって来た。F1並みに高度に進化した(これは本当である)日本のF3000レースにスポット的に参戦しても、好成績はまずムリ……。これは事実に基づいた定説であったのだが、初めて、例外というものがあることを示したのが彼だった。
予選で、グループ別2番手。決勝も、2位でフィニッシュ。予選用の特殊な「Qタイヤ」を見事に使いこなし、決勝でも、果敢にして的確なパッシング・シーンを何度も見せ、なお終盤の勝負どころのために「タイヤ性能」を残しておいた。こういう内容のレースで、恐ろしいほどに速くてシュアだった。
「ぼくはF1への勉強をするために、Qタイヤのある日本のF3000に来た」と語ったシューマッハの「菅生以後」は、その通りのストーリーとなる。まず、新進気鋭のチーム、ジョーダンへ。そしてそこから、強豪ベネトンへと電撃移籍した。
F1へ行ってからのシューマッハの“超・新人”ぶりは、この移籍劇ひとつを取っても明らかだが、1980年代に、同じようにトールマン(現・ベネトン)からロータスへという事件を起こして、裁判沙汰になった新人ドライバーの名前をここに書いておこう。そう、アイルトン・セナである。
このセナの、F1初戦での予選順位は16位。ジャン・アレジも、初のF1は16位スタート。アラン・プロストのデビュー戦は13位だった。これは新人ドライバーにとってのF1グランプリのシビアさを示す非情の数字だが、しかし、ミハエル・シューマッハはここでも並みではなかった。スパ・フランコルシャンという難コースを舞台に、初のF1で8番手の予選タイムをマークしたのである。
……ただ、シューマッハも凄いが、彼を抱えるメルセデスの周到さも、ちょっと目を見張らせるものがある。メルセデスは、ミハエルを含む1989年ドイツF3の1位から3位までのドライバー三人を、すかさずゲット。そしてヨッヘン・マスの指導のもとに、メルセデス「Cカー」のジュニア・チームを作った。ここでスポーツカー・レースの経験をさせつつ、ビッグ・フォーミュラも合わせて体験を積ませる。シューマッハのベネトン移籍劇を作ったのは、実はメルセデスだし、「鈴鹿」の日本GPには、レイトンハウスのF1チームに、もうひとりの秘蔵っ子であるカール・ベンドリンガーを送り込んでいる。
要するに、地元ドイツの有望な若手ドライバーを“メルセデス学校”でしっかり抱えておき、そこでさまざまな修業をさせているのだ。そして、いつの日か──いや、遠くない将来に「メルセデスF1」のチームが誕生した時にまとめて呼び戻し、ドイツ人ドライバーとドイツ製マシンによるナショナル・チームを作る。こういうプランなのである。
メルセデス、F1へ進出……! これは確実だが、このカタいメーカーにF1参入を決意させたのは、ミハエル・シューマッハというドライバーが出現したからだという説さえある。そのくらいの逸材が彼なのだ。
(つづく) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/04/01 07:30:11 | |
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