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家村浩明のブログ一覧

2016年04月01日 イイね!

ラルト RT23 《2》

ラルト RT23 《2》さて、いまにして思うと「菅生」でのF3000レースは、ミハエルにとってはたった一度だけの“F3000体験”だったことになる。日本のファンに、若くて速くて強いドライバーというのが何十年にひとりという感じで現われることを示して去ったのだが、その時のシューマッハの愛機がこのラルトRT23であった。

このマシン、車体にコンストラクター名として貼られているラベルには、マーチ・エンジニアリング/コルンブルック・ディビジョンと記されている。つまり、このラルトはマーチ製である。……あれ? マーチは日本資本に買収されて、名前が変わってしまったのではないか? そう思われるかもしれないが、マーチのすべてが日本資本の手に渡ってしまったわけではないのだ。名前が変わってしまったのは、主にF1関連の部門のみ。

マーチ・エンジニアリングは1988年の10月にラルトを吸収・合併していて、その後に、F1セクションだけを売り渡しただけだという。したがって、ラルトRT23とは、1989年のマーチのF3000シャシーだが、その時には日本資本による買収劇が絡んでいて、「マーチ」の名がF3000やF1では使えなかった。どうやら、そういう事情のようである。

ラルト=RALT、このコンストラクターの歴史を振り返ってみると、これまた日本との関連が多いコンストラクターであることがわかる。記憶に新しいところでは、あの「ラルト・ホンダ」である。1980年に“ホンダ・イズ・バック!”として、ヨーロッパF2シーンに、レーシングエンジン・サプライヤーとしてホンダが還ってきた時に選んだシャシーがラルトだった。

ホンダF2エンジン+ラルトは、登場してすぐ、1981年にチャンピオンとなる。ドライバーは、F1を狙ったが果たせず、日本のレース・シーンに自身のキャリアの展開を求めて、そして今日でもトップレンジにいる男、ジェフ・リースだった。

この時の「ラルト/ホンダ」の強さは圧倒的で、ヨーロッパのF2シーンをホンダのワンメイクに近いものにしてしまい、ついに1984年末には「F2」というカテゴリーそのものを消滅させてしまった。いまF1のすぐ下のレースがF3000になっている遠因は、実はラルトなのである。そしてこの時、「ラルト/ホンダ」のマネジャーだったのが、ラルトの創始者ロン・トーラナックであった。

「RALT」とは、彼と、彼の弟オースチン・ルイスの名、それに姓のトーラナック、それぞれのイニシャルを並べたものだ。彼、トーラナックは、イギリス生まれのオーストラリア育ち。同じくオーストラリア人で、1950~60年代の名ドライバー、ジャック・ブラバムが独立した時にイギリスに呼ばれ、以後ずっと、ヨーロッパで活動を続けている。

ロン・トーラナックの作るレーシングカーの特徴は、とにかく堅実なこと。ロータスの創始者コリン・チャップマン、1970年代のゴードン・マーレイ、あるいは今日の、去就が注目されている“優勝請負人”ジョン・バーナードなど、異才や天才がもてはやされるレーシングカー・エンジニア/デザイナーの中で、ロン・トーラナックは目立たぬながら、常に的を外さないクルマ作りをしてきた。

いま、フォーミュラのシャシーを市販して、きちんと商売になっているコンストラクターは数えるほどしかない。F3000ではローラ、レイナード。F3ではレイナード、そしてダッラーラ。アメリカのインディ・カーでもローラとペンスキー。これだけである。

速くなければ、誰にも買ってもらえないこの世界──。ロン・トーラナックと彼のラルトは、1975年の初のF3マシン製作以後、F3、そしてF2(後のF3000)のフィールドで、ずっと生き続けている。ロン・トーラナックは1925年生まれ、国際レース界における“豪州人脈”の重要なひとりだ。

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/04/01 18:15:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年04月01日 イイね!

ラルト RT23 《1》

ラルト RT23 《1》その22歳のドイツ人は、日本のレース・シーンを鮮やかに駆け抜けて、F1へと去った。そして10月の「鈴鹿」には、F1パイロットとして、その“サーカス”の重要なメンバーのひとりとして、ふたたび日本のサーキットに還ってきた。

たった一年間の間に、日本のファンの前で、F3、F3000、F1という三種類のレースを闘って見せた男というのは、おそらく空前にして絶後だろう。それが、ミハエル・シューマッハである。

まず、1990年末の「富士」だった。マカオGPを闘ったチームとドライバーを日本に呼んで、わが国のF3ドライバーと競わせようというイベント(「インターナショナルF3リーグ」)の初回だった。

「富士」はストレートが長くて、コーナーが少ない。人よりマシンの勝負になると定評のあるコースだが、そこに非力なVWエンジンのレイナード893を持ち込み、やっぱり勝って見せたのがミハエルだった。

やっぱり……というのは、その七日前のマカオ・グランプリでも、彼は見事なウイナーだったからだ。マカオは公道、タイヤはヨコハマ。「富士」はまったく性格が違うコースで、かつ日本のF3レースはブリヂストン・タイヤのワンメイク。違っていることはいっぱいあったものの、勝利者の名だけは同じだった。

そして、1991年の7月。「菅生」にシューマッハがやって来た。F1並みに高度に進化した(これは本当である)日本のF3000レースにスポット的に参戦しても、好成績はまずムリ……。これは事実に基づいた定説であったのだが、初めて、例外というものがあることを示したのが彼だった。

予選で、グループ別2番手。決勝も、2位でフィニッシュ。予選用の特殊な「Qタイヤ」を見事に使いこなし、決勝でも、果敢にして的確なパッシング・シーンを何度も見せ、なお終盤の勝負どころのために「タイヤ性能」を残しておいた。こういう内容のレースで、恐ろしいほどに速くてシュアだった。

「ぼくはF1への勉強をするために、Qタイヤのある日本のF3000に来た」と語ったシューマッハの「菅生以後」は、その通りのストーリーとなる。まず、新進気鋭のチーム、ジョーダンへ。そしてそこから、強豪ベネトンへと電撃移籍した。

F1へ行ってからのシューマッハの“超・新人”ぶりは、この移籍劇ひとつを取っても明らかだが、1980年代に、同じようにトールマン(現・ベネトン)からロータスへという事件を起こして、裁判沙汰になった新人ドライバーの名前をここに書いておこう。そう、アイルトン・セナである。

このセナの、F1初戦での予選順位は16位。ジャン・アレジも、初のF1は16位スタート。アラン・プロストのデビュー戦は13位だった。これは新人ドライバーにとってのF1グランプリのシビアさを示す非情の数字だが、しかし、ミハエル・シューマッハはここでも並みではなかった。スパ・フランコルシャンという難コースを舞台に、初のF1で8番手の予選タイムをマークしたのである。

……ただ、シューマッハも凄いが、彼を抱えるメルセデスの周到さも、ちょっと目を見張らせるものがある。メルセデスは、ミハエルを含む1989年ドイツF3の1位から3位までのドライバー三人を、すかさずゲット。そしてヨッヘン・マスの指導のもとに、メルセデス「Cカー」のジュニア・チームを作った。ここでスポーツカー・レースの経験をさせつつ、ビッグ・フォーミュラも合わせて体験を積ませる。シューマッハのベネトン移籍劇を作ったのは、実はメルセデスだし、「鈴鹿」の日本GPには、レイトンハウスのF1チームに、もうひとりの秘蔵っ子であるカール・ベンドリンガーを送り込んでいる。

要するに、地元ドイツの有望な若手ドライバーを“メルセデス学校”でしっかり抱えておき、そこでさまざまな修業をさせているのだ。そして、いつの日か──いや、遠くない将来に「メルセデスF1」のチームが誕生した時にまとめて呼び戻し、ドイツ人ドライバーとドイツ製マシンによるナショナル・チームを作る。こういうプランなのである。

メルセデス、F1へ進出……! これは確実だが、このカタいメーカーにF1参入を決意させたのは、ミハエル・シューマッハというドライバーが出現したからだという説さえある。そのくらいの逸材が彼なのだ。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/04/01 07:30:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年03月27日 イイね!

ダッラーラ F391 《2》

ダッラーラ F391 《2》1991年シリーズのF1、スクーデリア・イタリアのドライバーは、日本のF3000で育ったエマニュエル・ピッロだ。そして、チームメイトがJ・J・レート。エンジンはジャッドV10で、シャシーのコードネームは「ダッラーラ F191」──つまり、フォーミュラ・ワン(1)の“1991”である。

そして、今回本誌が撮影したモデルが、ご覧の「ダッラーラ F391」。コードネームの通りに、F3の最新、91年型。サイズでいうと、ほぼ6分の5のミニチュアのF1ということでもある。

ダッラーラF3の歴史は意外と長く、1981年には、イタリアのフォーミュラ・シーンにその姿を現わしていて、1985年以降は圧倒的なシェアを誇り、イタリアでのチャンピオン・シャシーとなっている。現・F1ドライバーであるニコラ・ラリーニやジャンニ・モルビデリも“ダッラーラ育ち”であり、ラリーニには1986年、モルビデリは1989年のイタリアF3のチャンピオンである。

また、現・ティレルで、中嶋悟のチームメイトであるイタリア人ドライバー、ステファノ・モデナは、カートからF3へと移行したが、そのキャリアの中にイタリアのF3チャンピオンというのが含まれていない。彼がイタリアでF3を闘ったのは1986年で、その翌年には、インターナショナルF3000に闘いの場を移した。

才能溢れるドライバーのモデナが、なぜイタリアF3のトップに立てなかったか? そのワケは、ステファノがF3で乗っていたマシンがレイナードだったから……とは、イタリアでは真顔で語られるエピソードだという。そのくらいに1986年は、イタリアF3でダッラーラ全盛の時であった。

イタリアは、多くのレーシング・ドライバーを世に送り出しているだけでなく、エンジニアやコンストラクターなどの「レースする人々」を生み続けている“熱い国”である。また、一旦フォーミュラに関わると、結果はともかく、何が何でもF1シーンまで駆け上るという傾向も見える。

ビッグ・フェラーリだけでなく、いまイタリア系のF1チームというのは、ミナルディ、オゼッラ(現・フォンドメタル)、コローニ、モデナ(実質的にランボルギーニ・ワークス)、そしてスクーデリア・イタリアと、五指に余る数だ。

そのような風土の中でのダッラーラだが、ここは、頼まれれば何でもするというプロフェッショナリズムを見せる一方で、フォーミュラ・レーシングのベーシックな部分を支えるF3マシンを黙々と作り続けた、そんな“スクーデリア”である。そして、そのダッラーラF3は、単なる走りのためだけを超えて、優美さと造型の妙も盛り込まれた、とても綺麗なフォーミュラだ。

日本へのデビューは、1986年の「鈴鹿」だった。ダッラーラのF3(F388/ニッサン)はほとんどぶっつけ本番で、そして非力なエンジンでありながら、予選7位、決勝でも3位という鮮やかなリザルトを残す。その時のドライバーが、いまや日本のF3000シリーズでトップ・コンテンダーに成長したマウロ・マルティーニだった。(彼は、1988年のイタリアF3では2位)

今年、2台のダッラーラF3が日本のF3レースを走る。この繊細にして美麗な“紅いエレガンス”は、果たして、どんなドラマを刻むだろうか。

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/27 06:39:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年03月26日 イイね!

ダッラーラ F391 《1》

ダッラーラ F391 《1》1991年のF1シーン、その開幕直前を賑わした話題のひとつに「ラルース事件」がある。1990年シーズンをエスポ・ラルース/ランボルギーニとして闘った、このチームのシャシーを作っていたのは、日本のF3000でもお馴染みの、あのローラ──。

もちろんこれは、秘密でも何でもなく、関係者のみならず、ファンの一部でも知っていて、当然、F1の主催者側も了解の上で、シーズンは進んでいたはずだった。そして、記憶に新しい「鈴鹿」での鈴木亜久里の3位入賞など、新興チームとしてはめざましいリザルトを残し、選手権ポイントも獲得して、ラルースは中堅チームへとジャンプ! ……したはずだったのだが、突如、クレームが付いたのである。

理由は、シャシーが「外製」であったこと。F1の場合、基本精神として、シャシー・コンストラクターがそのままエントラントであるべしというのがあり、ラルースはその点に違反しているというのであった。

じゃあ、ベネトンっていうのはどうなんだ? 単なるアパレル・メーカーの企業名じゃないかってことになるが、これはチームの「オーナー名」ということで問題なし。ニッポン資本が絡むマーチ・レイトンハウス、アロウズ・フットワークも、同様の理由でオーナー名であり、これらはシャシーを「内製」しているとみなされている。(こうして見ると、マールボロは“謙虚”だ。ビッグ・スポンサーでありながら、あくまで「マールボロ・マクラーレン」として、シャシー屋を立てている)

「内製」「外製」という一点にこだわれば、意味なきクレームではなかったけれど、しかし、誰もが知っていたことをシーズン終了後に初めて問題にするという奇妙な騒動は、結局は、何でもなかった(!)という不思議な結末で終わった。

F1世界というのは複雑にして怪奇……。あるいは、ヨーロッパ及びヨーロッパ人の奥の深さ……。そんなことをわれわれアジア人に教えてくれたような“事件”ではあったが、さて、もしマジにシャシーの「内製」ウンヌンを問題にするのなら、ラルースのように告発されなければならないチームは、実はもうひとつあった。

それは、フェラーリと同じようなカラーリングの、もう一台の真紅のマシン、スクーデリア・イタリアである。このチームもまた、シャシーそのものを自製してはいなかった。ただ、“イタリアン・ワークス”と英訳できるようなチーム名そのままに、イタリア一色でチームを固めてはいたが。

このイタリアのレース屋の心意気が結集したようなチーム(集合体)で、シャシー部門を受け持っているコンストラクター。それがダッラーラである。(ただラルースと違って、このチームは1990年シーズンでは入賞ポイントを得ることはできなかった)

さて、その「ダッラーラ・アウトモビーリ」を率いるジャンパオロ・ダッラーラの経歴というのが、ちょっと凄い。試みに、いくつかの車名を並べてみる。ランボルギーニ・ミウラ、ランチア・ストラトス、ウルフ/カンナム、BMW-M1、さらには、ランチアのグループCカー……。

エキゾチック・カーの始祖あり、ミッドシップで究極のラリー・スペシャルあり、速さで注目された耐久マシンありと、多彩極まる顔ぶれだが、これらに共通するものがひとつだけある。そう、ここに挙げたモデル/マシンは、すべて、ジャンパオロ・ダッラーラによるものなのだ。

20代半ばという年令で、エンツォ・フェラーリに招かれたのを手始めに、フェラーリ、マセラティ、ランボルギーニ、デ・ソマソといったメーカーに籍を置き、1970年代には自身のワークショップを持った。そして、求めに応じて、シルエット・フォーミュラ、グループCカー、そしてF1、さらにはラリー車まで。あらゆるカテゴリーのコンペティション(競争)のためのクルマを作ってきた。

「スクーデリア・イタリア」という名でF1シーンに打って出ようとした、イタリアはブレシアのレース好きの実業家、ジュゼッペ・ルッキーニが、この歴史と実力を有する自国のコンストラクターを見逃すはずがない。こうしてダッラーラは、1988年からF1レースに参戦し、今日に至っているのだ。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/26 14:50:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年03月24日 イイね!

ティレル 019 《2》

ティレル 019 《2》この「ティレル019」のうち、シャシーナンバー「004」を刻んだマシンが、いま日本にある。1990年のカナダGPから、日本人で初めてF1ドライバーの座を得たサトル・ナカジマのために新たにおろされて、それ以後の九つのグランプリを彼とともに闘った、そのクルマそのものである。

「♯004/サトル」の9戦では、デビュー戦のカナダで11位。高速コースで知られるモンツァ、イタリアGPでの6位というリザルトが光る。そして「♯004」の10戦目にあたるポルトガルで、風邪で体調の悪かったナカジマは決勝前のウォームアップ走行でクラッシュ。「♯004」の役目はここで終了となり、以後は「♯007」の「019」がナカジマの愛機となった。したがって、鈴鹿を走ったティレルは7号機ということになる。

ちなみに、ティレル「019」は7台作られた。ラルースあたりの状況を思い起こせば、ティレルというのは資金的にもかなり豊かなチームであることがわかる。

さて、この「019」の開発を指揮したエンジニアの名前は、ちょっと長いが覚えておきたい。ハーヴェイ・ポスルズウェイト。1970年代からF1の世界へ入り、ヘスケスというオリジナル・マシン(ジェームス・ハントが乗っていた)を作った後に、1980年代は、イギリス人でありながらフェラーリに在籍していた。あのエンツォ健在の頃のフェラーリで、そこがイギリス人を雇ったというのはビッグニュースだった。

1982年、1983年と続けて、フェラーリにコンストラクターズ・チャンピオンをもたらし、1988年にジョン・バーナードがフェラーリ入りして、ハーヴェイはチームを去った。そして、仲の良かったミケーレ・アルボレートとともに、ティレルへ移籍。

そのミケーレに代えて起用したジャン・アレジが1989年後半と1990年のシーズンにティレルで大活躍して、1991年にフェラーリのシートを得たのはご存じの通り。ただ、1990年に “ハイノーズ革命” を引き起こしたハーヴェイ・ポスルズウェイトは、その後ティレルで役員までやったが、この「019」を残して、チームを去った。

そして、サトル・ナカジマは1991年のシーズン半ば、ドイツGPで、今年限りでF1ドライバーであることをやめると表明。ロータス、そしてティレルへ。チームメイトは、アイルトン・セナ、ネルソン・ピケ、ジャン・アレジ、そして今年はステファーノ・モデナ。こうして見ると、トップレンジのチーム/ドライバーとともに、中嶋はF1でずっと仕事をしてきたことがわかる。

1987年に、日本人として初のフル・エントリー・ドライバーとなり、その初参戦の年に早くも入賞して「グレーデッド・ドライバー」の地位を獲得したのは記憶されるべき戦績だ。

そして、はじめから志向がフォーミュラであり、その頂点には「F1」があることを知って、自身のレース活動を行ない続けた。この意味でも、中嶋悟は日本で初めてのレーシング・ドライバーだった。また、日本人でも「F1」が夢だけのことではないことをカラダで示してくれた。この事実も大きい。若いレーサーが、「夢はF1です……」と語ることができるようになったのは “ナカジマ以後” のことだ。

1991年10月の「鈴鹿」は、5年間の中嶋F1生活での、最後の日本でのステージになる。1991年のティレルに載っているのは、ホンダのV10エンジン。グッバイ、ナカジマ! そして、サンキュー・サトル! 

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/24 21:38:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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