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家村浩明のブログ一覧

2016年12月30日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.12 スバル1000

【 20世紀 J-Car select 】vol.12 スバル1000スバルの「名車」といえば、その“プロジェクト”が某有名TV番組で採りあげられたりで、やはり「テントウ虫の360!」というのが定番であるかもしれない。しかし、そんな“名車度”で言うなら、この「1000」も負けず劣らずであり、そして実はこのクルマも、その「360」と同じ開発チームによって作られたものであった。

しかし、「スバル360」はリヤエンジン/後輪駆動だが、これはフロントエンジン/前輪駆動(FF)ということで、メカニズム的には前後がまったくひっくり返っている。ただ、そのあたりがまさに、このチームが“独創を好む”精神の結果であったのではないか。

1960年代当時、“普通のクルマ”では「FR」が常識だったが、スバルは新しい小型車で「FF」を選択する。「富士重工50年史 六連星はかがやく」には、この「1000」が「FF」を採用した理由として、「長いプロペラシャフトでリヤへ動力をつなげ、さらに駆動軸を経て車輪に至るというFRのパワートレーンは、乗用車としてはいかにも合理的ではない」という技術陣の言葉が紹介されている。

ここでは名前が登場しないが、この言葉を発したのが「スバル360」の開発を指揮した百瀨晋六技師であることは、業界では知られている。もともと中島飛行機のエンジニアで、根っからの「ヒコーキ屋」であった百瀨技師にとって、わざわざエンジンから離れた場所に駆動輪(プロペラ)を設定するようなレイアウトは、とても納得できるものではなかったのであろう。

そういえば、このクルマがショーで公開された1965年という時点で(発売は1966年5月)、わが国の普通乗用車で「FF」を採用していたのはこのモデルだけだった。つまりこれは、日本車における初の“本格FF”という栄誉を担うクルマでもあるのだ。(FF方式は、軽自動車では1950年代にその採用例がある)

また、そもそも前部エンジン/前輪駆動の方式を「FF」と呼ぶという慣わしは「1000」登場時にスバルが言い出したものという説があり、実際にもこのクルマは、エンジンをサイズアップした際には車名を「FF-1」と改めている。

また、車名の通りに1000ccのエンジンを積んだ、今日でいうリッターカーでありながら、車重がわずか670㎏(スタンダード)しかなかった(注1)というのは、軽量車体を実現するために腐心した、あの“テントウ虫”と共通のスピリットから生まれたものだった。

ボディの構造は、当時の最新コンセプトであるモノコック。そしてエクステリアのデザインは、どうすればボディが軽量に仕上がるかというテーマとつながっていて、決して“デザインのためのデザイン”ではなかった。たとえばCピラーの造形は、剛性を実現しつつトランク容量を十分に取るための、ほとんど唯一の形状だったといわれる。

そして、この駆動方式だけでなく、(いまのスバルにまでつながっている)アルミ合金を多用した軽量の水平対向エンジン、またインボード・タイプの前輪ブレーキといったメカニズムも、それぞれ日本車では初だった。さらには、デビュー後1年を経た1967年の時点で、145SR-13という聞き慣れないサイズのタイヤを履いたスポーツ・セダンがシリーズに追加されたが、ラジアルタイヤを標準で装備したのも、このスバルが日本での先駆であった。

ただ、こうして、独創性に満ちたセダンとして生まれた「スバル1000」だったが、残念ながら、機能性とも密着した、このプレーンかつクリーンなデザインは長くはつづかなかった。

このモデルが1100ccへと排気量をアップした「FF-1」(1969年)へ、さらにホンダ1300と対抗したという「1300G」(1970年)へと“成長”するに伴い、スタイリングは少しずつ暑苦しくなって、ディテールでの虚飾が増えていく。そして、1971年(注2)。「1000」に始まったスバルのコンパクト車は、あのアグリーな(!)「レオーネ」へと“進化”して、その第一世代の幕を閉じるのである。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)

○注1:軽量であることにこだわった1966年に登場のニッサン・サニーは、車重は625㎏でまとめていた。
○注2:百瀨晋六技師は「360」と「1000」、そしてサンバーの開発を指揮したが、この時には既にクルマ開発の現場から去っていた。
Posted at 2016/12/30 07:07:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月25日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.11 パブリカ

【 20世紀 J-Car select 】vol.11 パブリカ日本のモータリゼーションとその「大衆化」は、1966年に登場したニッサンのサニーとトヨタのカローラがその両輪となって本格的に進展した。この見方は、やはり正しいと思う。

ただ、サニーやカローラ以前にも、多くのコンパクト車が存在した。いや、むしろ、1950年代後半から1960年代前半という時期での日本メーカー各社のさまざまなトライと提案があったがゆえに、それらを基盤として、1966年以降の爆発的な「クルマの大衆化」現象が起こったと考えるべきであろう。

そして、空前のヒット作となったサニーとカローラは、小型のクルマでありながら、メカニズムとしては平凡な「FR」だった。これら以前のコンパクト車の方が「RR」だったり「FF」だったりと、機構的にははるかにチャレンジングでバラエティに富んでいた。それは「カローラ以前」のトヨタ車においても、実は例外ではなかった。

1955年に政府筋が発した、クルマをこの国で一般化させようという「国民車構想」にトヨタも呼応し、その翌年にはプロトタイプを作っていた。その時の小さなクルマが、空冷の水平対向2気筒エンジンをフロントに置く「FF」だったのだ。

そのスモールカーは、のちに「パブリック・カー」を縮めた「パブリカ」という名で世に出ることになるのだが、しかし、そのデビュー時には「FF」という方式はさまざまな意味で時期尚早だとして、採用が見送られた。

その「FF回避」の理由の中には、その頃の道路状況もあったと、後年、パブリカの開発陣が明かしている。「当時の日本の道路はあまり舗装されてなく、蒲郡のある旅館の玄関まで着けるのに、砂利道の急登坂路があって、その登り坂をFFの試作車では、前輪の荷重が軽くなって、滑って上れなかった」と証言するのは、パブリカの開発に携わった佐々木紫郎氏だ。

そして、これに続けて氏は、「設計技術もよくなかったけど、精密な加工技術がなかったので、等速ジョイントの良いものができなかった。この二つが、パブリカのFFを諦めざるを得なかった理由だったと思う」と語っている。(「トヨタをつくった技術者たち」2001年・刊より)

さて、こうして「FFではなくなった」パブリカ(UP10型)が発表されたのは、1961年の6月だった。このモデルは“光りもの”がほとんどないシンプルかつプレーンなデザインのクルマだが、ただ、後のカローラほどのヒット作にはならなかった。……というより、このパブリカでの“失敗”を踏まえて、トヨタはカローラで大成功を収めることになるというのが史実に近いだろう。

その理由として、カローラはパブリカと違って「豪華」だったからというのがあって、これはもちろん正解である。ただ、もうひとつ。ここで、当時の「大衆」がクルマに対して持っていた「意識せざる願望」という要素を挙げておきたい。

当時、つまり1960年代の初頭。日本の“一般ピープル”にとって、クルマというのは生涯に初めて買うことになる超・高価な商品だった。ゆえに、自分たちがようやく買おうとしている大衆的なサイズと価格のクルマが、それまでに見てきた普通車あるいは上級車とは異なるコンセプトであったり、また、小型車特有のメカニズムであることを(無意識のうちに)望まなかった。「大衆」のために“別仕立て”になっているクルマではなく、上級車と同じようなものでありつつ、しかし安価な自動車を希求したのである。

そんな状況を経ての1966年、それまでに見てきた上級車と同じメカニズムで、そしてサイズだけを縮小版にしたようなクルマが登場した。さらに、そんな小型車を、それまでに上級車を作っていた二つのメーカーが作ってくれた。この時、「大衆車」という言葉も、ポジティブなものに変わった。それが「サニーとカローラ」だったのではないか。

ただしトヨタは、この“失敗作”パブリカのために作った「空冷水平対向2気筒」というパワーソースをムダにしなかった。1967年、この小さなエンジンと軽量ボディを巧みに組み合わせたスポーツカーが誕生。通称「ヨタハチ」、トヨタ・スポーツ800である。初代パブリカのための“心臓”はしたたかに生きて、歴史に残る傑作スポーツ車へその命をつないだのだ。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/25 23:39:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月23日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.10 コルト・ギャランAⅡGS

【 20世紀 J-Car select 】vol.10 コルト・ギャランAⅡGSこの2002年の秋、三菱は同社にとって歴史と伝統の名である「コルト」を新しいコンパクトカーの名として復活させる。……ところで、このネーミングということでは、1970年代の三菱にはちょっと奇妙な(?)習慣があった。それは、あるひとつの車種に派生的なモデルを設定しては、その新しい派生モデルを次々と独立させていったことで、その大々的な例が1970年代の「ギャラン」の“増殖”であった。

ギャランは、まず派生モデルとして、1970年に「ギャランGTO」を発表。そして、クーペの「FTO」を1971年に設定し、やがて、それぞれを独立した車種とした。さらに、セダン車型である本線のギャランについては、1976年に「ギャラン・シグマ」を設定し、後年には「エテルナ」という次世代モデルに進化させる。歴史書によれば、このシグマが登場した時に「車名から“コルト”が消えた」ということになっている。

つまり、「シグマ以前」のギャランは、あくまでも「コルト」からの派生モデルだったということ。この「コルト」は1962年に端を発する車名で、それまでの三菱車は、単に「三菱500」などと呼ばれるだけで、とくにニックネーム(車名)は付いていなかった。そして「コルト」登場以降、これに排気量を組み合わせた名前(コルト1100など)で歴史を作ってきた。

そんな三菱=コルトが、外観としても内容としても、それまでのヤボったかったコルトのイメージを一新するニューモデルを発表したのが1969年のこと。そして、その新型車には、新世代への脱皮ぶりを象徴するような「ギャラン」というサブ・ネームが付けられていた。「コルト・ギャラン」の誕生である。上記したようなギャラン・ファミリーのその後の増殖と発展も、この1969年の「コルト・ギャラン」が成功したゆえであった。

そういえば三菱は、1990年代にオフ系のモデルの名をすべて「パジェロ」系として統一してしまったが、そのスタイル(方法)の原型としてあったのが、1970年代ギャラン・ファミリーの設定と成功だったのかもしれない。

さて、この最初の「ギャラン」だが、まず、スタイリングが新鮮だった。ダイナウェッジ・ラインと呼ばれたその造形には、若きジゥジアーロも噛んでいたといわれ、その低いボンネット内には、新設計のOHCエンジンが収められていた。そして、最も高性能なAⅡGS(1500cc)は、当時の高性能車の“お約束”のひとつだったSUツインキャブが装着されて、その出力は105psに達した。

この時のギャランに搭載されたSUキャブは、アイドリングもあまり安定せず、また異様に高回転を好むエンジンで、市街地ではトップギヤ(4速)が使えないほど。しかし、ドライバーがその気になって回した際の伸びは豪快で、スポーツ・フィールに充ちていた。

1970年代の三菱は、この「初代ギャラン」の成功を基盤に、上記のようにギャラン・ファミリーを発展させ、それと併行して、軽量・コンパクトなスポーティ・モデルとして、弟分のランサーを設定。ラリーも視野に入れた三菱的なスポーツ車の系譜を作っていく。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/23 14:28:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月21日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.09 ダットサン・フェアレディ1500

【 20世紀 J-Car select 】vol.09 ダットサン・フェアレディ15002002年の秋、「Zカー」としては5代目にあたる「Z33型」が登場して、話題沸騰のフェアレディZ。だが、このニュー「Z」のデビューでは、ニッサンの開発陣とあのカルロス・ゴーンとの間で、ちょっとしたやり取りがあったという。

ブラジル生まれのフランス人であるゴーンは、むろん英語を解する国際ビジネスマン。その彼にとって、日本における「Zカー」のネーミングである「フェアレディ」というのはとてもフシギだったようだ。ゴーンは開発陣に、こう問いかけたという。「このモデルの(日本での)ネーミングは、これでいいのか?」

フェアレディという英語は、訳してみれば「美しい貴婦人」といった意味になるはず。そしてそこには、スポーツカーらしい逞しさや、また速さを暗示するような意味は含まれていない。一方でこのモデルは、輸出仕様「ダットサン240Z」時代からずっと、親しみを込めて、世界中で「Zカー」(ズィーカー)と呼ばれてきた。そしてゴーン自身も、米国滞在時代には、そのZカーに乗っていた。

この最新の「Z33」登場を機に、たとえば「350Z」というのを世界共通の名前にしてしまってもいいのではないか? こんなゴーンの問いかけに対し、Z33フェアレディZのチーフ・プロダクト・スペシャリストである湯川伸次郎は、ニッサンの開発陣を代表するかたちで、次のように答えたという。
「日本人は《フェアレディ》を英語としての意味ではなく、スポーツカーの代名詞として解釈しているのです」

このキメ台詞の結果、ブランドを大事にするゴーンも了承し、Zカーは日本ではやっぱり「フェアレディZ」として販売されることになった……というのだが、さて、ひとりの日本人としての感覚では、たしかに、フェアレディという語で思い浮かぶのは何台かのスポーツカー。そして、その英語としての意味はあまり考えたことはなかったというのが実感でもある。ついでにいえば、ニッサンのスポーツカーがこの名になったのは、1960年代のアメリカでのヒット・ミュージカルで、オードリー・ヘップバーンの主演で映画化された「マイ・フェアレディ」がその元ネタであるとされている。

さて、では日本人の脳裡に、フェアレディとはスポーツカーの代名詞であることを刻み込んだモデルというのを探せば、やはりこれになるのか。最後のオープン・ボディとしてのフェアレディ、つまり、1969年の「ダットサン・フェアレディ2000」(SR311)だ。

ただし、この「フェアレディ」という名の原点はもっと古く、1959年に「ダットサン・スポーツカー」として少量生産され、翌年に輸出専用車として左ハンドル・モデルが作られた際に、当時の川又克二社長が「フェアレデー」と命名し、後に「フェアレディ」に改められたと歴史書にある。(モーターファン別冊 国産車100年の軌跡 1978年・刊)

そして、そのモデルが1962年の10月にフルチェンジ。これは国内でも発売され、多くの人が「フェアレディ1500」と呼んで、本格スポーツカーの誕生を拍手で迎えた(タイトルフォト)。これがダットサン・フェアレディ(SP310)で、このモデルは1963年の第一回日本グランプリ(鈴鹿サーキット)に出場し、SUツイン・キャブによるチューンの威力を見せつけて優勝。「フェアレディ」という名を日本の人々のココロに深く刻むことになる。

さらに1967年には、エンジンを強化した「フェアレディ2000」がラインナップに加わる。アメリカへの輸出が本格化し、またモンテカルロ・ラリーにも参戦して、ダットサン・スポーツが国際舞台で活躍する基礎を作ったのは、この「2000」だった。

そして、1969年の10月。ついに“Zの名が付いたフェアレディ”が誕生。車体はオープン・モデルからクローズド・ボディとなり、1973年には、その「240Z」がサファリ・ラリーで総合優勝する。世界の「Zカー」としての歴史は、こうして拓かれて行ったわけだが、ただ、そんな歴史を知っても、私たちにとっては、このクルマはやっぱり「フェアレディ」なのではないか。ゴーンを説き伏せたニッサン開発陣の歴史観に、ここで改めて賛意を表したい。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整) (文中継承略)
Posted at 2016/12/21 20:59:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月15日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.08 セリカ1600GT

【 20世紀 J-Car select 】vol.08 セリカ1600GTいまはあまり使われないクルマ用語のひとつになってしまったようだが、日本初の「スペシャリティ・カー」という栄誉を担うクルマが、このセリカである。「スペシャリティ・カー」とは、1960年代アメリカでのヒット作、フォード・マスタングが初めて名乗ったとされており、メーカー側の言い分としては、「これまでになかったような、特別なタイプのクルマをお仕立てしました!」ということになるだろうか。そして、その「特別性」には高性能であることも含まれていた。

しかし、そうでありながら、たとえばスポーツカーの新型であるといった表現にならなかったのは、当時のスポーツカーがみな、どことなく「ストイック」で、また性能一辺倒で作られているというイメージがあったからであろう。1950~60年代のスポーツカーは(いまでもそうかもしれないが)、一般カスタマーに向けて“開かれた”存在ではなかった。

……というわけで、スポーツカー並みの性能を持つクルマでありながら、同時に、セダン(日常使用車)と同等以上の快適性や使い勝手も保証し、かつ、デザイン的にもみんなで楽しめるようなクルマ。まあ、こんな定義をするより、マスタングみたいな……といってしまった方がハナシは早いのかもしれないが、そんな「スペシャリティ・カー」が1970年代になって、ついに日本にも出現。それが、このセリカだったというわけだ。

そのデザインは見ての通りで、このクリーンでキリッとした2ドアクーペの造形は、今日の眼から見ても、なかなか新鮮に映る。そして、そのボンネットの中には、最新鋭の1600ツインカム(DOHC)「2T-G」115psユニットが収まって、性能的にも当時の第一線級のものだった。

……というのは、もちろん事実なのだが、それは実はGTグレードだけ。このクルマの場合、一方では、1400エンジン+ATで、新しいこのスペシャルなクルマを楽しんでくださいという“配慮”もちゃんとあった。そのへんが、スポーツカーではなくスペシャリティ・カーであるという守備範囲の広さであっただろう。

さて、こうして性能的にも注目されたセリカGTだったが、しかし、当時の「走り好き」な人々が本当に憧れたのは、このGTから1年遅れの1972年に登場した、スポーツ・サスペンションで武装して車高が下がった「GTV」だった。

そしてこの時、同じようにGTVに注目した若きスウェーデン人ラリーストがいた。彼はすぐに、トヨタとコンタクトを取る。こうして、セリカによるトヨタのワールド・ラリーへの参戦が始まり、それはセリカがモデルチェンジしても続いて、やがて、ワールド・チャンピオンの獲得にまで至る。そのスウェーデン人が、そう、オベ・アンダーソンだった。

その「オベとトヨタ」の関係は今日でも継続していて、この2002年からは、そのオベ・アンダーソンを代表とするトヨタ・チームがF1マシンを走らせている。この初代セリカは、モータースポーツ界でのそんな“縁結び”の契機となったモデルでもあった。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整) (タイトルフォトはセリカGT、トヨタ博物館にて)
Posted at 2016/12/15 07:06:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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