スバルの「名車」といえば、その“プロジェクト”が某有名TV番組で採りあげられたりで、やはり「テントウ虫の360!」というのが定番であるかもしれない。しかし、そんな“名車度”で言うなら、この「1000」も負けず劣らずであり、そして実はこのクルマも、その「360」と同じ開発チームによって作られたものであった。
しかし、「スバル360」はリヤエンジン/後輪駆動だが、これはフロントエンジン/前輪駆動(FF)ということで、メカニズム的には前後がまったくひっくり返っている。ただ、そのあたりがまさに、このチームが“独創を好む”精神の結果であったのではないか。
1960年代当時、“普通のクルマ”では「FR」が常識だったが、スバルは新しい小型車で「FF」を選択する。「富士重工50年史 六連星はかがやく」には、この「1000」が「FF」を採用した理由として、「長いプロペラシャフトでリヤへ動力をつなげ、さらに駆動軸を経て車輪に至るというFRのパワートレーンは、乗用車としてはいかにも合理的ではない」という技術陣の言葉が紹介されている。
ここでは名前が登場しないが、この言葉を発したのが「スバル360」の開発を指揮した百瀨晋六技師であることは、業界では知られている。もともと中島飛行機のエンジニアで、根っからの「ヒコーキ屋」であった百瀨技師にとって、わざわざエンジンから離れた場所に駆動輪(プロペラ)を設定するようなレイアウトは、とても納得できるものではなかったのであろう。
そういえば、このクルマがショーで公開された1965年という時点で(発売は1966年5月)、わが国の普通乗用車で「FF」を採用していたのはこのモデルだけだった。つまりこれは、日本車における初の“本格FF”という栄誉を担うクルマでもあるのだ。(FF方式は、軽自動車では1950年代にその採用例がある)
また、そもそも前部エンジン/前輪駆動の方式を「FF」と呼ぶという慣わしは「1000」登場時にスバルが言い出したものという説があり、実際にもこのクルマは、エンジンをサイズアップした際には車名を「FF-1」と改めている。
また、車名の通りに1000ccのエンジンを積んだ、今日でいうリッターカーでありながら、車重がわずか670㎏(スタンダード)しかなかった(注1)というのは、軽量車体を実現するために腐心した、あの“テントウ虫”と共通のスピリットから生まれたものだった。
ボディの構造は、当時の最新コンセプトであるモノコック。そしてエクステリアのデザインは、どうすればボディが軽量に仕上がるかというテーマとつながっていて、決して“デザインのためのデザイン”ではなかった。たとえばCピラーの造形は、剛性を実現しつつトランク容量を十分に取るための、ほとんど唯一の形状だったといわれる。
そして、この駆動方式だけでなく、(いまのスバルにまでつながっている)アルミ合金を多用した軽量の水平対向エンジン、またインボード・タイプの前輪ブレーキといったメカニズムも、それぞれ日本車では初だった。さらには、デビュー後1年を経た1967年の時点で、145SR-13という聞き慣れないサイズのタイヤを履いたスポーツ・セダンがシリーズに追加されたが、ラジアルタイヤを標準で装備したのも、このスバルが日本での先駆であった。
ただ、こうして、独創性に満ちたセダンとして生まれた「スバル1000」だったが、残念ながら、機能性とも密着した、このプレーンかつクリーンなデザインは長くはつづかなかった。
このモデルが1100ccへと排気量をアップした「FF-1」(1969年)へ、さらにホンダ1300と対抗したという「1300G」(1970年)へと“成長”するに伴い、スタイリングは少しずつ暑苦しくなって、ディテールでの虚飾が増えていく。そして、1971年(注2)。「1000」に始まったスバルのコンパクト車は、あのアグリーな(!)「レオーネ」へと“進化”して、その第一世代の幕を閉じるのである。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
○注1:軽量であることにこだわった1966年に登場のニッサン・サニーは、車重は625㎏でまとめていた。
○注2:百瀨晋六技師は「360」と「1000」、そしてサンバーの開発を指揮したが、この時には既にクルマ開発の現場から去っていた。
Posted at 2016/12/30 07:07:55 | |
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