※このブログには東日本大震災の内容が含まれています。
5年前の3月。
私は高校受験の追い込みをかけていました。
すると大地が異様な揺れ方で揺れ始めました。
急いでテレビを付けて、大きな地震が来たというとを知ります。
しかし、昼間ということもあって被害はそこまで大きなモノではないだろう、と思いました。
数時間後、親がリビングで声をあげています。
三陸の街が津波に飲み込まれていく様を、テレビを通して見ていました。
これは現実か??
本当にこんなことが起きているのか??
私には何もできませんでした。
ただ街が津波に飲み込まれていく様子を生中継のテレビで見ていることしかできませんでした。
5年たったいま、あの街はどうなったのか?
そんな思いがずっと心の中にありました。
5年経った今、私は東北を訪れました。
旅行3日目は、松島からスタートです。
この日は曇りで、朝日は見ることはできませんでした。
9時ごろ、旅館を後にして、三陸海岸の南、女川を目指します。
道中の街並み
不自然な空地、仮設の道路、新築の家が密集する地区、
おそらくこの辺りも震災の影響を受けて、復興が進められているのでしょう。
そして三陸海岸へ
ちいさな漁港がありました。
震災の影響か、堤防が割れているところもあります。
もう少し進んだところ。
コレは完全に堤防のコンクリートが流されています。
割れているところもありました。
防潮堤が意味をなしたのか?そうでないのか?
それは一目瞭然でした。
奥の山、よく見ると
削られたような跡が…
あの高さまで山が削られるとは、、、
津波の恐ろしさが伝わってきます。
この場所は石巻市雄勝町というところなのですが、地図で見ると
実際にここは不自然な空地が多かったです。
ようやくがれきの処理が終わったという感じで、その後の復興は全く手付かずでした。
その後は北上川と並走。
そして見つけた場所。
白浜の美しい海岸です。
海側は、、、
険しくも美しい海がありました。
非常に荒々しい波が岩を打ち付けていました。
青く透明な海は本当に綺麗でした。
その後もクルマを走らせました。
そして南三陸町に入ると、ここからがもっとも被害の大きかった地区。。。
この標識が立っています。
言葉通りですが、この標識の区間は津波の被害がが非常に大きいものでした。
南三陸町を走行中、我々は思わず声を上げてしまいました…
道中にあった有名な防災庁舎。
私は運転中だったので母が撮影したものです。
立ち止まるためにコンビニに入りました。
↓これが停まったセブンイレブン志津川十日町店。
↓少し引いた写真。
↓さらに引いた写真
↓コンビニの向かい側
この町は無くなっています。
恐らくかつて道があった場所。
そこを歩いて行きました。
この町は津波の被害によって大きな被害を受けたようです。
近くの山を削って、そこに家を建てるという計画が進んでいるそうです。
その山を削ってでた土は、かつて町があったこの場所に積みあげているようです。
港橋という橋がありました。
津波を受けて柵が曲がってしまっています。
道路脇の歩道。
かつての姿は知らないのですが、ここに町があったという姿を想像しました。
雑草の生えた盛土。
道だけは残っていますが、道路以外の場所には土が積まれています。
右上に見える白いものは?
この建物です。
ブライダルパレス高野会館という結婚式場だったそうです。
津波が襲ってきた時、この会館の屋上に327人の人が避難し、その全員が助かったそうです。
この建物は4階建てですが、3階部分までガラスが割れています。
3階の高さまで水がきたそうです。
この建物は震災の記憶を残すため、保存するよに話が進められているようです。
しかし実際は、
地震の揺れ、津波の衝撃、塩害などを受けてかなり老朽化しているものと思われます。
記憶を残すという意味では、取り壊さずに残して欲しいものです。
これは恐らく、漁港があった場所。
防潮堤は崩れて倒れています。
あの高さの防潮堤が全く意味を成さなかったことがわかります。
大量に土嚢が積まれています。
左奥に見える大きなホテル。
震災後に避難所として多くの被災者が暮らしたそうです。
海側には新たな防潮堤ができています。
写真では伝わらないと思いますが、かなり大きな防潮堤です。
個人的にはこの写真が1番伝わりやすいものかと思います。
かつてはここに町があったのです。
南三陸町の受けた被害の大きさ、目の当たりにすると本当に辛いものです。
なぜこんなことにならなければならなかったのか、怒りさえ覚えました。
この時点で12時を過ぎていました。
予定では海岸を宮古市まで行くつもりだったのですが、無理そうだったので陸前高田までとしました。
その分、しっかりと見て回ることにしました。
陸前高田に向かう途中、
道路の上に橋がありますが、たぶん三陸鉄道の線路があったのだと思います。
残っているのか、残しているのか、、、
お昼ご飯を食べるために、お店を探しました。
道沿いにあったこの
開花屋食堂 歌津という食堂に入りました。
震災後、「温かい食事を提供してくれる食堂が欲しい」との声を受け、三重県に本拠を置くチェーン店の開花屋食堂がこの南三陸に出店したそうです。
暑くてもげんきが欲しかったのでラーメン!
濃くて美味しかったです!
食後は天気が心配になってきましたが、
陸前高田市に着きました。
陸前高田は、"奇跡の1本松"があることで有名です。
この施設は、「奇跡の1本松 茶屋」というお店で、道の駅のようなものです。
ここから1本松まで歩いていくことができます。
まるで工事現場のようです。
急ピッチで作ったのでしょうか。
そして
遠くからでも見えていた1本松の近くまで来ました。
縦にして全体像。
予想よりもはるかに高く立派な木です。
横には道が続いていたようです。
今は川に沈んでしまっています。
奥には貯水施設?か何かが残っています。
この松の付近は整地されていませんでした。あえてそのままの姿を残しているのでしょうか。
掲示板にはかつての姿が載っていました。
現在の姿。
この1本だけが残ったというのはまさに奇跡ですね。
塩害によって根が枯れてしまい、現在は人工的な処置を施されているそうです。
この松は震災の記憶を後世に語り継いでくれることでしょう。
この松の周囲の様子です。
南三陸町同様、更地になってしまっています。
大きな防潮堤を作る工事が進められていました。
この地に人が住むことができるのはまだまだ先になりそうです。
(少し海から離れた丘の上に30軒ほど家を建てていました)
一本松 茶屋に戻り、ここでお土産をたくさん買いました。
少しでもお金を落としてこれたかなと、思います。
松を見たあとは、もう一つ気になるものを見に行きました。
これはちょっとショッキングなモノですが、、、
気仙中学校。
校舎全体が大きなダメージを受けています。
校舎の画像の左上、「TUNAMI 14.2m」と書かれた看板があります。
中にいた生徒たちは無事だったのか…
すごく心配です。
校舎のガラスは全て割れ
教室と教室の間の壁も無くなり
教室内には机や椅子や、かろうじて壁に残った掲示物が散乱しており
校庭は雑草が茂り、、、
ひどい状態です。
こんな姿の学校を目の当たりにして、心打たれました。
思い出すとゾッとします。
しかし、校舎には
こんな言葉が掲げられています。
「ぼくらは"生きる"」
被災された方々も、強く生きているということを感じました。
偶然か、学校からは1本松が見えます。
今回の旅、岩手県の宮古まで北上するつもりだったのですが、あまりに時間をかけ過ぎてしまい、宮古まで行くことはできませんでした。
今回は陸前高田まで、次回 東北に来た時は、その先も見て回ろうと思います。
石巻、女川、南三陸、気仙沼、陸前高田の海沿い(R45他)の道を走りながら、被災地を周ってきました。
1番は、津波の引起した被害の大きさに驚きました。
思ったよりも広範囲に、海から離れた場所も、被害にあっていて、あの時の津波の恐ろしさを実感しました。
それと、復興はまだまだ進んでいないというとこも思い知らされました。
ようやくガレキの撤去が終わり、今は家や施設を建設している段階のようです。
しかし、南三陸町や陸前高田(気仙町)の町がかつてのような街並みを取り戻すにはまだ時間がかかりそうです。
それともう一つ感じたこと、
私と同じように、他県から三陸の状況を見に来ている人が多かったこと。
"観光"というとおかしいかもしれませんが、そういう形であっても、東北を訪れて、震災の被害についてることはとても大切なことだと思います。
その人たちが、お店で食事をして、旅館に泊まって、お土産を買って行けば、三陸の経済はどんどんよい方向に行くと思います。
今年中に「三陸を訪れる」と決めていました。今年の目標は達成しました。
近いうちに、陸前高田以北を目指して、また三陸を訪れたいと思います。
次に訪れた時、街はどうなっているか、人々の思いはどうなっているか、とても気になります。
今回、被災地にカメラを向けることは失礼にあたるかもしれないと思い続けていました。
しかし、こうしてブログに記しておくことで記録・記憶になると思います。
不謹慎な画像、表記がありましたら、お申し付けください。
夢と希望を持って!がんばろう、日本!!