<最初に>
すみません。今回もまた車ネタは一切登場しません。
仙台観光とか歴史に興味の無い方はスルーすることをお勧めします。
最近は車に関係ない観光ネタが続いていて、いい加減「みんカラ」ではなく「みんトラ(みんなのトラベル)」とでもした方がいいかもしれません・・・汗
先週末、学生時代の友人の結婚式に出席するために仙台市に行ってました。
20代後半頃から、いわゆる「結婚ラッシュ」が来てたくさんの式に招待してもらいました。
一体ご祝儀でどれだけのお金が飛んで行っただろうと、計算したら中々の金額になる気がします(笑)
しかし何回出ても結婚式は良いものです。
式に呼ばれたのは何回目か想い出せない位ですが、今回もまた感動的な素晴らしいものでした。
私は新婦の友人として参列したのですが、ウェディングドレス姿は不覚にもドキッとしてしまう位にキレイだったし、とても幸せそうで嬉しかったなぁ。
末永く、幸せに過ごしてほしいものです。
人と人が愛し合う。
この世で一番素敵で、尊いことです。
だからこそ70億人が過ごすこの地球上で、お互い愛し合う者同士が巡り合う奇跡ってものすごい事なのだと思います。
既に人生の伴侶を得ている方は、この機会に改めて相手のことを想ってみてはどうでしょうか。
さて、仙台市は、私の一番好きな戦国武将である伊達政宗がその礎を築いた街。
そういった歴史的背景もあり、実際に住んだことは無いですが日本で一番好きな街です。
そのため、空いた時間には観光も楽しんできました。
まずは「杜の都」との異名通りの、溢れる緑が美しい定禅寺通り・・・
木々の緑が繁る季節では無かったのが残念。。。
本当なら・・・
この遊歩道の両側2列と、それぞれの歩道の脇に1列ずつ、計4列の欅が都会の真ん中とは思えない美しい景観を作り出してくれるはずなんですが(^^;)
(↑の画像のみ、web上からの拾い物です)
ブラブラ歩いていると・・・
「愛宕上杉通り」
素敵な名前ですね。
調べてみると予想通り、これまた伊達政宗に所縁のある「愛宕神社」にちなんだ名前だそうです。
ちなみに不勉強なうp主は、当初この道を「あたご
うえすぎどおり」と読んでいましたが、正しくは「あたご
かみすぎどおり」と読むそうです。
「うえすぎ」と言うと、上杉謙信とか上杉鷹山の上杉家を想像し、「そう言えば上杉景勝の時代に活躍した家老・直江兼続の兜の前立ては漢字の『愛』という字で、それは愛宕神社からきているってどっかで聞いたな。もしやその愛宕神社もここに所縁があるのか・・・」とか色々妄想したのですが、どうやらそれは思い違いだった様です。
(冷静に考えたらそもそも地域が違うしw)
道路沿いにはこんな一角もあり、とても美しくきれいな街並みだと感じました。
仙台市役所が見えてきました。
何!?今年は伊達政宗生誕450年!
そんなメモリアルイヤーだったとは知らなんだ。
昨年3月の大阪に続き、今回も結婚式のお陰で素敵なホテルに泊まることが出来ました♪
あんなホテルに自腹で泊まることはそうそう無いので、目一杯寛がせてもらったのは言うまでもありませんw
ホテルの窓から望む景色。
下の写真の赤丸のあたりが、仙台城址の本丸(あの有名すぎる伊達政宗の騎馬像がある所)です。
チェックアウト後、まずは瑞鳳殿へ。
手水舎にて。
ひぃ、ひぃ、はぁ、はぁ。。。
老体には堪えます・・・って私の年齢で「老体」なんて言ったら、諸先輩方に怒られますねw
さて瑞鳳殿。
ここは仙台藩祖である伊達政宗を祀る霊廟。
政宗の遺命により、2代目藩主の伊達忠宗が造営されました。
豪華絢爛で鮮やかな装飾が印象的です。
敷地内には資料館もあり、伊達政宗の甲冑や副葬品を再現したものなどが見られました。
合わせて2代目忠宗を祀った感仙殿、3代目綱宗を祀った善応殿も。
また敷地内にはこんな碑も。
戊辰戦争で命を落とした兵の命を慰める碑がありました。
かの戦争で旧幕府軍に属した仙台藩。
数多の命が失われたのでしょう。
(余談ですが、都道府県庁所在市名が都道府県名と異なる地域の多くは、戊辰戦争で旧幕府軍についていたそうです。ここ仙台市も宮城県・・・その通りですね)
さてそこからいよいよ、一番のお目当てだったあの場所へ。。。
仙台城址。
まずは入口にあたる大手門脇櫓。
大手門から本丸へ続く道。
難攻不落の山城だけあって、急峻で曲がりくねった上り坂が延々と続きます。
戦災に見舞われ、また度々大地震に見舞われるこの地域。
石垣の作りはどれも見るからに新しいため、きっと後から再建されたものなのでしょう。
段々本丸に近づいてきました。
いざ!!
遂に辿り着いた本丸の跡地。
かの有名な伊達政宗の騎馬像です。
独眼竜、勇猛果敢。
ちなみに↓の写真は、資料館の展示にあった仙台城の再現ジオラマです。
手前の東側(仙台駅側)は急な崖、西側(奥側)は自然の山林が奥羽山脈まで続きます。
また写真では分かりづらいですが南側も険しい竜ノ口渓谷があることで、北以外の三方は天然の要害となっており、北側(私が上ってきた方角です)からしか城には近づけないつくりになっています。
故に、この城は北側にしか石垣が存在しません。
先ほどの模型を南側から見た図です。
ご覧の通り、南側からも敵は近づけません。
本丸から望む景色。
仙台の城下町、現在の仙台市街が一望出来ます♪
政宗公も毎日こうして城下を眺めていたのでしょうか。
「杜の都」と謳われし、緑あふれる街の景色を。
ちなみに仙台の市街地は広瀬川が作り出した河岸段丘の上に立地している・・・のですが、この写真では分かりにくいでしょうか(汗
川の両岸とも崖になっていて、崖の向こうに広がる平坦な台地の上に市街地が作られています。
仙台城址の敷地内にある、護国神社へ。
ここでもお参りをしてきました。
この後、一度仙台駅周辺まで戻り、昼食と休憩を採った後に、再度観光へ。
そう、大崎八幡宮へ。
写真を撮り忘れましたが、96段の階段がそびえます。
階段を上ろうとしたら・・・
何と、あの伊達政宗が仙台の城下町へ水を行き渡らせるために作らせたという、四ツ谷用水がありました。
まさか、お目に掛かれるとか全く期待してなかったので、オドロキですww
仙台の城下町は先述の通り台地の上に作られているため、常に水の確保が課題となります。
そのため、上流から大規模な工事によりこの用水を引いたのです。
現在、支流の多くは使われていないそうですが、本流は工業用水として現役だそうです。
残念ながら暗渠化されていて、水の流れは見えません。
さて、ゼェゼェハァハァ言いながら階段を登り切りました。
おお!!
イーグルス!!
と、思いきやまだまだw
ベガルタに・・・あとはよく分からないですが(殴
地元で慕われていることが伺えます。
さて、本殿です。
ここも伊達政宗により造営されました。
瑞鳳殿と同じく豪華絢爛な造りが印象的で、何れも桃山建築の特徴が良く出ている・・・らしいです(笑)
こういった文化財も、多くの方の支えで成り立っています。
今回の旅では、瑞鳳殿、護国神社、大崎八幡宮と寺社仏閣を立て続けに訪れることになり、その都度お参りをしてきました。
一生懸命お祈りしてきたのですが・・・人生中々うまくいきませんorz
いや、こうやって五体満足でいられるだけ儲けもんです。
希望を捨てずにいればきっとまた良いことがあると信じて、明日からも前を向いて生きていきましょう。
ちなみに奉納された品々をみていたら・・・
ありました!!
仙台独特の豪華絢爛な青ダルマです(笑)
これも、伊達者でならした伊達政宗のダンディズムの現れでしょうか?w
そう言えば、「伊達者」という言葉に「伊達」という漢字を充てるようになったのも、伊達政宗がきっかけなのだとか。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍するために、伊達政宗の軍勢が京に入った時、家臣が皆とても華やかな出で立ちで、京都の人々が驚いたことにちなんでいるそうです。
ここにも、ダルマww
さて、存分に堪能してきた今回の仙台観光ですが、最後に少しだけ余った時間を利用して、高等裁判所や東北大学などがある一角へやってきました。
この辺はその昔、武家屋敷街として多くの武家屋敷が立ち並んでいた一角だそうです。
期待通り、かなり古そうな石垣がありますね。
・・・て、実を言うとこれは偶然見つけた訳ではなく、私の大好きなテレビ番組であるNHKの「ブラタモリ」でやっていて事前に知っていただけなのですが(笑)
この辺りは、それこそ江戸時代のもの・・・でもおかしく無さそうな積み方です。
・・・と、突然大きな石が現れ、それ以降は明らかに新しい石垣になります。
こんなカンジに。
そしてしばらく歩くとまた巨大な石によって石垣が分かれていて、そこからまた古い石垣が・・・
「ブラタモリ」でもやっていた通り、おそらくその昔、ここに屋敷の門があったのでしょう。そして門があった場所に後から石垣を足したと思われます。
現在この辺りには、先述のように大学や高等裁判所や、他にも小学校などが立ち並んでいます。
ただこの様に古い石垣が残っているということは、江戸時代の武家屋敷のために造成された区画をそのまま利用し、その上にこれらの建物が建てられた・・・のかもしれません。
伊達政宗は、一時は120万石もの石高を誇っていたものの、戦乱の荒波に抗う中で領地を失い、62万石にまで落ち込んでしまいました。
それでも政宗は家臣をリストラせずにそのまま抱えます。
しかし十分な禄を与えられなくなってしまったため、武家屋敷の庭で林檎やら栗、柿、梨、柘榴、杏子・・・などなど、色々な木を植えさせたそうです。
自分で家計の足しにしろということでしょう。
他にも建材や燃料に使える杉・松なども植えられたし、生垣には茶が使われたのだとか。
またこの様に石高が減らされた結果、仙台の城下町の面積の7割は、武家屋敷が占めていたそうです。
その7割を占める武家屋敷でこれだけ色々な植物が植えられていたのだから、さぞかし緑が溢れる城下町だったことと思います。
故に仙台市はやがて「杜の都」と呼ばれるようになり、記録によるとその景観は第二次世界大戦の大空襲で焼け野原となってしまうまで続きました。
現在、仙台駅前はこのブログの最初で紹介した定禅寺通りを初めとして、市街地にも関わらず緑が美しい場所が沢山あります。
それは戦後の復興を進める中で、伊達政宗の時代から続く「杜の都」を現代にもう一度蘇らせようとした、仙台の人々の苦労の結晶なのです。
ちなみにこの日私がウロウロしていた武家屋敷街があった場所ですが、その場所から山の方を見てみると・・・
ちょうど写真の中央が、城の本丸があった場所です。
うっすらと白っぽい台座らしきものが見えるでしょうか。
あれが、あの有名な伊達政宗の騎馬像です。
ここから城が見えるということは、城からもこの一帯が見渡せていたことを意味します。
在りし日の政宗も、きっとこの屋敷街を見下ろしていたのかもしれません。
大好きな仙台の街を、伊達政宗がその礎を築きあげた大都市を堪能できました。
出来れば次こそは、眩いばかりに緑が街を覆い尽くす季節に足を運んでみたいものです。
その時こそ、「杜の都」が本領発揮した姿を見られることでしょう。。。