こんばんは。え~、ほぼ毎回の様に
昭和プロ野球名選手列伝などと勝手に命名してやらせてもらってますが、今回はこの御方、関根潤三翁(失礼)をやってみようと、色々調べましたら、さすが
日本プロ野球の生き証人と言われるだけあって、出るわ出るわ、なかなか興味深いエピソードなどがありまして、とてもブログ終わりにチョコッとでは収まらないので、1ブログそっくり使って取り上げようと思います。
長文、乱文になってしまったので、お暇な時にでも読んでくださいマセ。
事の発端は、今年のオールスターで
日ハム大谷翔平選手が、関根潤三氏以来52年振りの快挙!野手、投手、両部門でのファン投票で選出!とニュースになりました。
大谷選手は一昨年、外野手部門で選ばれ、昨年は投手で監督推薦での出場でしたが、今年は遂に先発投手部門のファン投票で選ばれ、快挙達成となりました。
一方、関根さんは1953年に投手、63年に野手で選ばれてる。と、ココまではニュースで見ました。
「そう言えば、関根さんの監督、解説者時代は知ってるけど、現役時代は生まれる前だし、知らないな~。大谷選手みたいに二刀流だったの?」と
自称昭和プロ野球研究家(笑)の血が騒ぎまして、色々と調べてみました。
まずヤクルトの監督を勇退→フジTV解説者となって、プロ野球ニュースで「アノ頃の近鉄は大砲、長距離打者が居なくて、ピストル打線なんて言われててね。」と言ってたのを思い出して、近鉄の選手だったのは分りました。しかしポジションは?どんな選手?映像は無いかな?と検索したみたら、たった10秒チョイの動画ですが↓が、
エ~!?巨人じゃん!!巨人にも居たの?しかも左打ち?ホームラン打ってベース一周後に迎えた背番号1は間違いなく若かりし王貞治選手ですね。と言う事は打順は二番か?などなど、謎は深まるばかりです。益々血が騒ぎ(笑)調べたので、順を追って紹介しましょう。
関根潤三 現在88歳 投手、外野手 左投げ左打ち
選手 1950~64近鉄パールス、バファローズ 1965読売ジャイアンツ
コーチ 1970広島東洋カープ 1975読売ジャイアンツ 二軍監督 1976読売ジャイアンツ
監督 1982~84横浜大洋ホエールズ 1987~89ヤクルトスワローズ
戸籍上は1927年(昭和二年)3月15日生まれですが、実際は1926年(大正十五年)12月25日だそうです。御本人曰く「丁度、生まれた日に大正天皇が崩御されて(亡くなられて)、オヤジが届出に行ったら、役所も何も全部閉まってたんですよ。で、そのまま三ヶ月くらいオヤジが忘れちゃってね。」だそうです。ちなみに、全く同じ日に生まれた植木等さんも同じ様な理由で、戸籍上の誕生日が違うそうです。
「でも、そのおかげで戦争に行かなくって助かったんだよ。大正生まれから順に戦争に行って、もう人が居なくてね。でもその頃戦争が終わったから。」と、同じ様な話を、昭和三年生まれの私の父からも聞いてます。六人兄弟の末っ子の父の御兄さんは大正一桁生まれですが、開戦間もない頃のニューギニアで戦死してます。その後大正二桁生まれが召集されて。と言う訳ですね。父も旧制中学の卒業が一年早まってます。「あと一年も戦争が続いてたら俺も分らなかった。」と、いまだによく言ってますね。
また話が脱線しちゃいましたが、関根さんは旧制日大三中で、二塁手、その後投手として活躍。左の二塁手ですが、「3回ほどダブルプレーを成功させた。」らしいですが、どんな事やったのでしょうか?
この頃に、アノ沢村栄治投手とキャッチボールをして、直々に指導も受けたそうです。
その後、法政大学に進み、本格的にエースとして、同時に打者としても活躍しました。
卒業後は社会人野球の新日鉄八幡の野球部に就職が内定してたそうですが、日大三中→法政大学と恩師だった藤田省三さんが、近鉄の監督になった為に誘われて、50年に近鉄入り。51年、53年と開幕投手を努めるなど、当時は万年最下位だった近鉄で、8年間エースとして活躍。
その後、外野手に転向したそうですが「当時は中三日も開けてくれない登板間隔で、20勝して一人前なんて言われてたから、もう投手として限界を感じてたんだよ。どんなにやっても16勝止まりだったしね。」と言われてました。確かに最多勝が30勝、40勝なんて時代ですから、20勝で一人前ってのも分かる気がします。
しかし私が調べた所、投手時代の通算成績で、先発が157試合、内完投が87試合と半分以上完投してるのですよね。しかも通算勝利数が65勝ですから、勝ち数より完投の方が多いんですよね。万年最下位のチームでなく、もっと打線の援護があったら楽に20勝してたのでは?などと想像してます。それと、投手時代も打数は少ないですが、2シーズン3割打ってます。
で、首脳陣に野手転向を申し入れたら「転向しても下位打線では困る。」そリャぁそうですよね。チームのエースがいきなり抜けちゃうんですから、打者でもソレ相応な成績を残してもらわないと。って事ですよね。
そこで、試験的に5番ライトで3試合限定で出場したら、初戦でいきなりのホ-ムランを含む3安打!2戦目も2安打、3戦目も3安打と活躍。しかし転向してそんなすぐに打てるんだから凄いですよね!
こうして57年からピストル打線の中軸選手となりました。
その後、65年に巨人に移籍。現役最後の1年で、自身初のリーグ優勝、日本一を経験しました。後にこの年が、巨人栄光のV9の最初の年となりましたね。
通算50勝、1000本安打は2リーグ制になってからは、他に誰も居ないそうです。
この時38歳で、当時は30台前半の引退が殆どでしたから、川上監督以外はコーチを含め全て年下だったそうで巨人ナインには「お父さん」と呼ばれてたそうです。「アノ歳まで現役を続けられたのも、両方やったから。大谷君も二刀流だと、どっちつかずになるかも?だからドチラかにしたほうがいいと思う。30過ぎても打者には転向できるけど、逆はキツイね。」と言われてました。
その頃、長嶋さんと仲が良く、長嶋邸で深夜まで野球談義にふけったそうです。「だから一茂は幼稚園の頃から知ってるんだよ。アイツを一人前にしてやれなかったのが、唯一の心残りかな?」後に、
人材育成の名手と言われた関根さんならではですよね。一方「池山、広沢は体が頑丈だったからね。どんなにシゴイても壊れないって安心感があったよね。弱い選手だと壊れそうで怖くってね。」「一茂も頑丈だったけど、チョッと不器用だったかな?」その後、野村ヤクルトが90年代に黄金時代を迎えた訳ですが、関根さんが育てた選手が活躍しましたよね。一方、一茂選手は冷遇されて、巨人にトレードされましたね。
その他では、広島コーチ時代の、衣笠、山本浩二、三村、水谷。大洋監督時代は、遠藤、後に近藤監督の下、スーパーカートリオで活躍した、屋敷、高木豊、加藤博一(加藤選手は阪神をクビになりそうな時に、関根さんが大洋に入れて開花したそうです)、関根さんの育てた選手は数え切れない
です。
解説などで温厚な人柄が滲みでてますが、実は怒らせたら凄い怖いそうで、広島で同時期コーチをやってた広岡達朗さんも「関根さんは怒らせてはいけない人。」学生時代~近鉄でバッテリーを組んで、広島時代は監督だった、根本陸夫さんは「インテリやくざ」と言うくらい。
ヤクルト時代はピンチでマウンドに行くと、ギャオス内藤、川崎憲次郎投手などの足を思い切り踏みつけながら「ここで打たれたら怒るよ。」と笑顔で言いながらやってそうです(笑)。
普段温厚な人って怒らせると怖いって本当なんですね。
現在もフジTV系の解説者として、毎回ではないですが、
ご意見番的にCS版プロ野球ニュース、ニッポン放送で活躍されてるそうです。
通算成績
投手 244試合登板、65勝、94敗、防御率3.43 打撃成績(投手時代も含む)1417試合出場、1137安打、59本塁打、42打点、打率.279
2003年野球殿堂入り