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2010年10月31日 イイね!

長野駅イルミネーション

長野駅イルミネーション 
長野は小雨が降っています。

飲み会が終わってこれから帰宅です。


Posted at 2010/10/31 21:01:05 | コメント(1) | トラックバック(0) | モブログ
2010年10月29日 イイね!

明日天気になぁれ!

明日天気になぁれ!
スゴい夕焼けでした。
台風は心配ですが、明日も良い天気だと良いなあ。



Posted at 2010/10/29 17:45:03 | コメント(3) | トラックバック(0) | モブログ
2010年10月27日 イイね!

信州発 その2

 
神代の時代、大国主の長男建御中主尊が大和方の武甕槌神と相撲をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、武芸の神として尊崇を集めた。

弥生時代から古墳時代にかけての科野は、更級・埴科あたりの千曲川流域であり、県内最大の前方後円墳「科野の大王」の墳墓と目されている森将軍塚古墳を筆頭とした埴科古墳群が残されている現在の千曲市から、川柳将軍塚古墳のある長野市南部にかけての一帯が中心であったとされる。

645年の大化改新で科野国が設置。704年の国印制定により「科野」から「信濃」へ国名表記が改められた。

飛鳥時代には、本多善光の開基による善光寺や長谷寺などが建立され、特に善光寺は諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。

672年の壬申の乱には、科野の兵が大海人皇子(天武天皇)の側に立って活躍。685年には「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせている。691年の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。

奈良時代には官営による16の勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。

平安時代には桓武平氏の平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど、信濃は平安時代初期における平氏内紛の舞台ともなった。888年に千曲川が仁和大水と言われる大洪水を起こした。院政時代には院分国として白河法皇や鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。

鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏、新田義貞らの有力御家人が寝返った。得宗北条高時を討って、幕府を滅ぼすと北条氏の御内人であった諏訪頼重らが高時の遺児北条時行を奉じて鎌倉を奪還するなど(中先代の乱)、信濃においては朝廷方と北条方による抗争が繰り広げられた。

南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられた。桔梗ヶ原の戦いで小笠原氏が勝利すると諏訪氏や仁科氏などが北朝側に組して、信濃南朝勢力の衰微は決定的となる。南朝の衰退後は、信濃においては強力な支配権を持つ守護大名は登場することはなかった。

室町末期まで在地豪族の諸勢力が拮抗を続ける。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であるが、他にも小笠原一族で信濃守護代を務めた大井氏、越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏、関東管領上杉氏を後ろ盾とした海野氏、北部の名族井上氏などの旧来の名族の流れを汲む一族も健在であった。

戦国時代には隣国甲斐国との関係が深くなり、諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏・村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが、同年に甲斐で晴信(信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、以降は晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は小笠原氏や村上氏を追い、木曾氏を傘下に下すなど、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。川中島合戦は最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。

信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼が引き続き支配したが、織田信長との抗争に敗れ滅亡。その後は織田家の版図に加えられ、毛利長秀や森長可らに与えられた。しかし本能寺の変後、織田家の勢力は瓦解し、徳川氏・北条氏・上杉氏の勢力が進出。北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により撤退し、徳川と上杉の対立は徳川家康と豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従し関東に移封されると、信濃は豊臣氏方の武将の支配下に収まった。

関ヶ原の戦いの直前、徳川秀忠の軍勢は、かつて徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原において西軍方についた真田昌幸、信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(上田合戦)。関ヶ原の戦いにおける第2の舞台である。真田昌幸は関ヶ原以後、高野山に流された。その後、東軍の真田信幸が松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の役で武名を挙げることになる。

江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松本藩、上田藩、飯山藩、小諸藩、岩村田藩、龍岡藩(田野口藩)、高島藩、高遠藩、飯田藩、須坂藩、松代藩)。

また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領であり、伊那郡内には美濃国高須藩及び陸奥国白河藩、高井郡内には越後国椎谷藩、佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地があった。

その他善光寺、戸隠神社、諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島の4つの代官所、交代寄合旗本(伊豆木陣屋の小笠原氏等)の知行所などが置かれた。

この時代には多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸狂言に多く詠まれている。

幕末になると、外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多かったが、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868年)4月下旬、越後から進出した衝鋒隊が飯山城下を占領すると、信濃各藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争、会津戦争に転戦した。

1868年9月17日 - 明治政府の府藩県三治制導入により、信濃国の旗本領・幕府領が伊那県となる。
1870年10月11日 - 伊那県のうち北信および東信の旗本領・幕府領が中野県として分立するも、その年に中野県庁が中野騒動により全焼。
1871年8月8日 - 善光寺領を編入。県庁が中野から長野に移転し、長野県が発足。
1871年8月29日 - 廃藩置県により、信濃国内の諸藩が県に置き換わった。
1889年4月1日 - 市町村制施行に伴い、15町376村が発足。
1948年 - 長野県庁庁舎一部焼失をきっかけに分県論が勃発。県議会で採決されるも議場を埋め尽くした県民の「信濃の国」大合唱により流会、結局否決される。これが後の県歌制定の素地となる。
1965年7月16日 - 県営松本空港(愛称:信州まつもと空港)開港。
1968年5月20日 - 信濃の国を県歌に制定。
1972年2月19日 - あさま山荘事件発生。
1993年7月17日 - 信州博覧会開会。
1994年6月27日 - 松本サリン事件発生。
1998年2月7日 - 長野オリンピック開会。
1998年3月5日 - 長野パラリンピック開会。
2000年10月26日 - 田中康夫が県知事に当選。
2006年8月6日 - 県知事選挙で村井仁が田中康夫を破り初当選。
2010年9月1日 - 阿部守一が県知事に就任。


次回は・・・どうしましょ・・・




「長野県」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C)。2010年10月15日 (金) 11:41 (日本時間)より参照。

「信濃国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)。2010年9月23日 (木) 09:33 (日本時間)より参照。

「信濃の国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E3%81%AE%E5%9B%BD)。2010年8月16日 (月) 14:11 (日本時間)より参照。



Posted at 2010/10/27 19:14:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2010年10月26日 イイね!

信州発 その1

 
さて、行楽シーズンも真っ只中。ということで(どういうことだ?)我が「長野県」を(勝手に)PRしようと思います。

長野県は本州の内陸部、結構真ん中に位置しています。海に面していない「海なし県」で、長野県人は海が見えると「オーッ!」と声が上げると言われています。(確かに・・・)お隣の新潟県の直江津あたりは「長野県民の海」と呼ばれるほど長野県人が海水浴を楽しんでいて、休日ともなれば長野ナンバーの車ばかりが目に付きます。

長野県は群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県・富山県・新潟県の8県に隣接していて「日本で最も多くの都道府県と隣接する県」だそうです。(一字違いの長崎県は隣接県が最も少ないそうです。へぇ~!)

面積は全国第4位(東京、神奈川、埼玉、千葉の合計面積くらい)ですが、盆地や山が多いため、可住地面積はたいしたことありません。「信濃の国」とか「信州」と呼ばれることも多く、特に観光ガイドでは「信州」と呼んでイメージアップを図っているようですね。太古の昔は「科野(しなの)」と呼ばれていたようです。

「日本の屋根」と呼ばれ、山ばかりが有名な「信州」ですが、いくつかの山脈に分断された盆地を中心に地域が作られています。これは県歌「信濃の国」にある「松本、伊那、佐久、善光寺」の四区分にも象徴されていて、北信(長野地域、善光寺平)、東信(佐久地域、佐久平)、中信(松本地域、木曽地域)、南信(伊那地域、諏訪地域)の四つの地域は、自然地理や歴史や交通、文化などの各面で、特徴が全く異なっています。

ということでここで、県歌「信濃の国」の説明を。

県歌「信濃の国」は長野県人なら誰でも(たぶん・・・)歌えるんです。昭和の頃は県内のほとんどの小学校・中学校ではいろいろな行事の時に歌われていて、フルコーラスは無理としても「信濃の国を歌えない者はよそ者」といわれるほど長野県人に知れ渡っています。最近は長野県内でも「信濃の国」を歌わない学校が増えてきていて「信濃の国」を歌えない長野県人も増えているようですが、公共放送でのジングルや列車等の車内アナウンスでも採用されています。以下に歌詞を載せます。ネットでは曲を聴くことができるそうです。聴いたこと無いけど・・・。



  長野県歌 「信濃の国」
                          浅井 洌 作詞
                          北村季春 作曲


1. 信濃の国は十州(じっしゅう)に境(さかい)連らぬる国にして
聳(そび)ゆる山は いや高く 流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平(たいら)は肥沃(ひよく)の地
海こそなけれ 物さわに 万(よろず)足(た)らわぬ事ぞなき
2. 四方(よも)に聳ゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀(よど)まず ゆく水は 北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり
3. 木曽の谷には真木(まき)茂り 諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し
民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼(こが)いの業の打ちひらけ
細きよすがも軽(かろ)からぬ 国の命を繋(つな)ぐなり
4. 尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
木曽の棧(かけはし) かけし世も 心してゆけ久米路橋(くめじばし)
くる人多き筑摩(つかま)の湯 月の名に立つ姨捨山
しるき名所と風雅士(みやびお)が 詩歌に詠みてぞ伝えたる
5. 旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛(のぶもり)も
春代(しゅんだい)太宰先生も 象山(ぞうざん)佐久間先生も
皆此の国の人にして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず
6. 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ)  嘆き給いし碓氷山
穿つ隧道(とんねる)二十六 夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

1番は長野県紹介の導入ですね。多くの隣接県のことと「松本、伊那、佐久、善光寺」の盆地の説明があります。
2番では地理が歌われています。御嶽山、乗鞍岳、駒ヶ岳と群馬県境の活火山、浅間山は有名です。
分水嶺があり、北側の犀川、千曲川は合流して信濃川となり、日本海に注いでいます。南側の木曽川、天竜川は太平洋側へ流れます。
3番は名産品ですね。木曽は豊富な森林資源があり、諏訪湖はワカサギ漁が盛んです。
絹糸はナイロンが発明される前の必需品であ、諏訪地方は世界的にも有名な絹糸の生産地でした。「ああ野麦峠」の題材でもあります。
4番は名所旧跡の紹介です。園原は昔の信濃への入り口となる阿智村東山道神坂峠のことだそうです。浦島太郎の寝覚め伝説(知らなかった・・・)に由来する「寝覚の床」は、木曽川の岩とエメラルドグリーンとのコントラストが綺麗です。「桟橋」は、木曽川と絶壁に阻まれた中仙道の難所に架けた桟橋。久米路橋は、北信の犀川に架かる橋ですが、下流にダムが出来てしまって渓谷水没してしまいました。筑摩の湯は、松本の美ヶ原温泉。姨捨山の民話や「田毎の月」は有名だと思います。ちなみに、信濃の国の三大景観は、この姨捨からの景色・塩尻峠の諏訪湖越しの富士山の景色・杖突峠からの諏訪盆地の大パノラマなのだそうです。
5番は文武の偉人の紹介。木曾義仲、仁科五郎信盛(盛信の誤り)が挙げられていますが、真田幸村あたりの方が今となっては有名なのかもしれません。太宰春台は飯田出身の経済学者。佐久間象山は松代出身の開国の思想家で幕末に活躍しました。
6番。碓氷峠は日本武尊(やまと たけるのみこと)の時代から、信濃へ入る峠で、難所でもありました。日本武尊は、この碓氷峠で、弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲んで、「東南を望りて三たび嘆きて曰く「吾嬬はや」とのたまふ」と日本書紀に書かれています。信越本線は26のトンネルで碓井峠を結び、そこにアブト式のレールを敷いた路線で、麓の横川駅は駅弁でも有名でした。長野新幹線の開通で、この横川・軽井沢間は廃線になってしまいましたが、今も訪れる人が多いと言います。

次回は信州の歴史です。



「長野県」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C)。2010年10月15日 (金) 11:41 (日本時間)より参照。

「信濃国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)。2010年9月23日 (木) 09:33 (日本時間)より参照。

「信濃の国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E3%81%AE%E5%9B%BD)。2010年8月16日 (月) 14:11 (日本時間)より参照。



Posted at 2010/10/26 18:01:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2010年10月22日 イイね!

MacBook Air 刷新

 
フラッシュストレージ採用のMacBook Airが登場しましたね。
iPadの発展型とも言えるノートPCのようです。

今やメインで使っているiPadのレスポンスの良さは使いやすさに直結しています。PCを立ち上げない日はあっても、iPadを立ち上げない日はありません。ネットにつないでニュースのチェックやみんカラ徘徊やツイッターまでこなしてくれます。

そのiPadと似たような感覚で使えるノートPCならば、なかなか魅力的じゃないですか。エクセル、ワード等が使えればちょっとした出先での仕事もカバーしてくれそうです。
11インチと13インチのモデルがあるようですが、iPadは9.7インチでもなんとかこなしているので、メイン機としては難しいかもしれませんが、11インチでもモバイルとしては十分だと思います。かえってこのくらいの大きさの方がモバイルPCとしては使えるかも。

とはいえ安い買い物ではないですからね。型落ちのインテルの入っていない昔のMac miniを騙し騙し使っていくことになるのかな。


MacBook Air、欲しいけど買わない(買えない)新機種で終わりそうです。

Posted at 2010/10/22 08:36:19 | コメント(1) | トラックバック(0) | Apple | 日記

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