2008年06月25日
ホンダ・ニュージェネレーション・ストーリーVol.1 -VTEC-その2
■昨日の続きです。後半となっております。
井上が責任者となり、テーマ名は「90年代をリードする段違いの高効率小型軽量ハイパワーユニットの徹底研究」とされ、トランスミッションまで含めた研究が始まった。
しかし実際には、当然苦労の連続となった。特にこの機構の場合には、ひとつひとつのパーツにおいて「これまでにない精度の高さ」が要求されたからである。
簡単に言えば、「2輪のREV機構に対してパーツを追加しただけ」ともいえる可変バルブタイミング&リフト機構だっただけに、知らない人間からは「2輪のアレにパーツを足しただけね」と言われた。しかし実際にはパーツをひとつ追加したことにより、切り替え精度の確実性を上げるため、いかに高い加工精度を確保し、それを量産につなげられるかがキーとなった。
しかしパーツの加工を行うサプライヤーの側が、可変バルブタイミング&リフト機構用のパーツを作ることに対し当初は首を縦に振らなかったのだ。理由は小さなひとつのパーツに作ることに対して、精度を上げるには膨大な投資が必要となるため。これを受けて今野は言う。
「もともと当時のガソリン・エンジンは6000-6500回転まわれば良い方でしたが、この時の可変バルブタイミング&リフト機構を備えたコンセプト・エンジン(1.2L)は、8500回転まで回すことになっていました。結果的に従来のエンジンよりも2000回転多く回すことになるわけですが、これを動弁系で実現するのはツラいことでした。例えばそのために加工精度がどのくらい必要かというと、パーツの要求加工精度は5ミクロン。部品と使われる場所にもよりますが、大体5-10ミクロンという感じでした」
さらに問題はあった。
「この機構はロッカーアームが3つで動弁系が重くなるため、スプリングを強化する必要がある。するとスプリングの圧力が高くなるためロッカーアームが摩耗するのです。実はその摩耗は開発後期まで起こっていました。また同時に動弁系を軽くする必要もあり、軽量化には苦労しました。それとこの時のコンセプト・エンジンは、バルブ休止するものだったので、切替時に失敗することがあって、我々はこれを『首飛び』と呼んでいました」
長弘は言う。
「だから当時はみんなが、お前の首が飛ぶのが先か、バルブが飛ぶのが先か、なんて言っていましたよ」
こうして研究開発領域(R領域)において開発されたコンセプト・エンジンは、1986年に完成を見た。そしてここから、実際の量産開発領域(D開発)に移っていった。
その後の歴史を簡単に記すと、この後すぐに油圧タペットを用いアコード用のエンジンとしてD開発が始まったのだが、これがボツとなった。そして1989年に登場するインテグラに搭載するためのエンジンとして、メカニカル・タペットでD開発が行われていった。
1989年2月、デトロイトで開催されたSAE(ソサイエティ・オブ・オートモービル・エンジニア)の大会で「VTEC」と名付けられたこの機構が初めて世に発表され、1989年に発表されたインテグラに搭載され世に送り出された。
実際にVTECエンジンが発表されると、それは大きな話題と衝撃を呼んだ。多くの絶賛を受けると同時に高い人気を得て、一般ユーザーにおける評判の高さはもちろん、1989年にVTECが発表された瞬間にF1のレギュレーションで可変バルブタイミング&リフト機構が禁止と記されたほど。
しかもVTECが偉大だったのはその後の展開。インテグラに搭載された時にはVTEC=高回転・高出力と認識されたが、その後には燃費や排ガスを意識した仕様が用意された。これはもちろん、もともと長弘が頭に描いた可変バルブタイミング&リフト機構が目指していたものである。
そしてVTECは、その後のエンジンのトレンドを作るきっかけになった。長弘もこのように言う。
「この技術を出した後で、世界中のエンジンでバルブの可変化が加速したのはエンジニアとしてとても嬉しいことでした」
事実VTEC登場の以前と以後では、他社におけるバルブの可変化に対する取り組みは著しく変化したのだった。
実はこの連載を始めるにあたり、僕・河口まなぶはまずVTECを皮切りにしたいと考えた。理由はもちろん、VTECが世界中に大きな影響を与えたものであると同時に、この技術がとても「ホンダらしさ」に溢れるユニークなものだったからだが、実は違う理由がもうひとつある。
僕らの知らない昔から、ホンダといえばエンジン、というイメージがある。
それだけに市販モデルで「超高回転」が実現されることに対し「ホンダらしい」という表現がなされるが、実は乗用車エンジンでホンダが超高回転を当たり前のものとしたのは、VTEC以後という風に見ることもできる。もちろんそれ以前にもホンダには超高回転エンジンが存在したが、スポーツカーではなくいわゆる普通の乗用車に搭載されるエンジンで、これほどの高回転を実現するようになったのは、VTEC以後で顕著なのだ。
その意味でもVTECが登場した1989年以降のホンダというのが、普段我々が頭の中に描く「ホンダのイメージ」に近いのでは? と思えた。だから今後この連載では1989年以降の歴史を取り上げ、ホンダにおけるニュー・ジェネレーションがいかに築き上げられてきたかを見ていこうと思う。
さて、話がすっかりそれてしまった。長弘や今野はその後年に一回のペースで「串刺しの会」と称し池袋のヤキトリ屋で、初期のメンバーで集うという。
さらにVTECを生み出した2人は今、図らずも同じグループに属して新たな研究を行っている。その研究とは、最近アコードに搭載され「さすがにホンダらしく今までのものとは全然レベルが違う」と絶賛され、話題となっているディーゼル・エンジン。長弘はディーゼルの責任者であり、今野は同じグループのスタッフなのである。
1989年のVTEC、現在のディーゼル…そこにはまさにホンダらしい「独創性」がある。そしてもちろんそれは、長弘や今野といったエンジニアの中に脈々と息づく精神そのものでもある。
他人と違うことをする…ホンダに流れるそんな精神こそが、我々を驚かせる革新的な技術を生み出す根源であり、それは今も確実に受け継がれている。
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Posted at
2008/06/25 18:36:24
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