館林城跡
投稿日 : 2008年07月22日
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今回訪れたのは群馬県館林市の館林城跡です。
看板にある「城沼」の文字に城の名残を感じます。
かつての城域は、市役所などの公共施設と公園・運動場になっています。
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館林城は「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。
現在も水辺があり、当時の面影が偲ばれます。
また市役所などの公共施設の辺りの地形が少し高くなっているのも、城の名残でしょうか。
館林城の築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたものの中に、「赤井照光」によって築かれたとするものがあるが、実際には、明確な記録は現在まで発見されていない。
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案内板が見つからずウロウロしていると、怪しげな茂みを発見。
現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明三年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
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やっと発見(〃゚д゚;A アセアセ・・・
赤井氏の後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つ巴の攻防の中で、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
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三の丸の土橋門(復元)
城跡として整備されているのはここだけのようである。
城の建物の大半は明治七年(1874)に焼失したが、現在でも本丸・二の丸・三の丸・稲荷郭・城下町などの土塁の一部が残されている。
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夏の緑が白い塀に映えて綺麗です。
築城にあたって霊狐伝説がある。
ある年の正月、赤井照光が村童にいじめられている子狐を助けた。その年の七夕の夜、照光の夢枕に衣冠束帯の貴人がたち「汝大業をなさんとせば館林に移るべし」と言って姿を消した。やがてどこからか老狐が現れて、金山のあたりから尾を曳きながら城の縄張りを教えたという。
かくして館林城は、三方を湖沼に面した要害の地に築かれた。
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門をくぐると、すぐ住宅地です。
赤井氏→長尾氏→北条氏と城主が変わり、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際、石田三成ら二万の大軍が攻め寄せた。豊臣勢は城の三方から銃撃を加えたが、五日間にわたる攻撃にも微動だにしなかった。
そこで三成は城の中心に突入することに決め、人夫を集めて沼地に二筋の道を作らせた。ところが不思議なことに夜が明けると道は沼中に没し、跡形もなく消え失せてしまったという。
三成は、神がかった館林城をこれ以上武力で攻めることを断念し、北条氏直を通じて城兵を説得させたという。
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土橋門からカギの手状に延びる土塁。
「蔀土居(しとみどい)」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないように工夫されている。
天正十八年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人・榊原康政が十万石で城主となり江戸時代を迎える。寛文元年(1661)にはのちの五代将軍・徳川綱吉が二十五万石で入城し、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として幕府に位置づけられた。
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