F1史上初の6輪車、
「ティレルP34プロトタイプ」
僕らが「タイレルフォード」と呼んでた時代。
1974年、デザイナーのデレック・ガードナーは、
空気抵抗の減少を狙い、フロントに小径タイヤを履き、
それをスポーツカーノーズの陰に収めるレイアウトを考案。
タイヤ接地面積の減少は、フロントタイヤを4輪とすることで補ったのが始まり。
このアイデアには当初ケン・ティレルも当惑しまくりましたが、
シャーシ名を「〇〇×」ではなく別プロジェクト「P34」として開発を許したんです。
ロンドン・ヒースロー空港ホテルでの発表時、
マシンを隠すシートはリアから剥がされ、
エンジンが見慣れたフォードDFVで有る事が解ると、
会場はため息につつまれたが、フロントの4輪が見えると、
一転して静まりかえり、そのあまりに奇抜なスタイルに、
ジョークと勘違いした一人の記者が笑ったのをきっかけに、
会場は止むことの無いどよめきに変わったらしい。
P34のマシン開発ドライバーは、主にパトリック・デパイユ。
結局、後輪が通常の径のため、当初期待された前影投影面積の低減は得られなかったが、
むしろドライバーにとっては6輪の為にブレーキ性能が上がり、
コーナーの奥深くでブレーキングできる副次的要素のほうが好評だったらしいです。
1976年、P34のデビューは第4戦のスペインGP。
プロトタイプP34を実戦投入のため燃料タンクの拡大を含めた、
モノコックの刷新とカウリングの変更、
新レギュレーションに対応したインダクションポッドの小型化、
フロントタイヤの様子を見るためのサイドミラー下の小窓や、
シフトノブの当たりを逃がすカウルのふくらみの追加等を行い、
P34/2として1台のみデパイユのドライブで登場しました。
翌第5戦ベルギーGPから、ジョディ・シェクターもドライブし、
第6戦モナコでは2・3位、続くスウェーデンGPにおいてデビュー4戦目にして、
なんとワンツーフィニッシュで初優勝!!!
このシーズンにチームはコンストラクターズ3位を獲得したんですよねぇ~!
最終戦の富士では、雨の中デパイユが一時トップを走行し最終2位でフィニッシュしました。
ところが、、、
1977年、チームはシーズンオフにエンジンまで覆うフルカウルを開発。
テスト並びにシーズン序盤の予選時に好成績を収めたんですが、
あくまで前年のモノコックの流用で有ること、
新カウルの重量過多などで次第に低迷。
グッドイヤーが新たに参入してきたミシュランとの競争に力を入れるために、
特注の小径タイヤの開発に難色を示し、開発規模を縮小。
フロントタイヤが小径のためコンパウンドを通常より硬くしなければならないが、
硬すぎると温まりにくくなるというようにP34のフロントタイヤの開発には、
タイヤメーカーとの連携が不可欠であった。
よって開発の進むリアタイヤと開発されないフロントタイヤとのグリップバランスに苦しみ、
第5戦スペインGPには前年型のカウリングを装着したP34が持ち込まれたが、
状況は改善されず、デザイナーのガードナーの離脱が発表されるなど、
体制の不安定も手伝い、チームのモチベーションも著しく低下。
第9戦フランスGPから、前輪のグリップを改善させるために前輪をワイドトレッド化、
更にデパイユ車はオイルクーラーをリヤからフロントノーズ先端に移動し、
フロント加重の増加によるハンドリングの改善を狙ったマシンを投入。
(ピーターソン車は第12戦オーストリアGPより)。
フロントタイヤをノーズの外側に広げたことで、
開発当初の空気抵抗の減少という利点を減少させ、
オイルクーラーの移動や度重なる改造による車両重量の増加が、
マシンの俊敏性を奪ってしまったのが完全なデメリットとなったようです。
シーズン後半は成績も多少好転しましたが、1977年終了とともにP34は消えて行きました。
今でも印象に残るマシンだったけど、子供心に目を奪われましたね!
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