1941年12月8日、ハワイ真珠湾への攻撃とイギリス領マレー半島への上陸が開始、後の太平洋戦争の開戦だった。
日本軍は破竹の進撃を続け多くの地域を占領、開戦前よりの目的であった。 南方資源地帯の確保に成功する。 石油を筆頭に ボーキサイト 天然ゴム 各種希少金属類 等の重要戦略物資が手に入った。
しかしこれを本土まで運んで戦力化するには多くの困難が伴う事をこの時はたいして関心を持たず只只浮かれ上がっていた。
最初こそ上手く運んだ輸送も17年度後半よりハワイを基地とした米潜水艦による無制限通商破壊が活発化し多くの輸送船が失われて行く事になる。
無論これに護衛をつけねばならないが元から決戦型海軍であった日本海軍にそのような護衛の概念は殆ど無く、主力たる駆逐艦も広がりすぎた戦線と他の用途で全く足りてなく回す余裕は無かった。
一線を退いた旧式駆逐艦も動員するも全く足りていなかった。 日本海軍は此処にきて海上輸送護衛用の艦艇を建造する。 いわゆる「海防艦」だった。
元々海防艦は旧化した大小様々な艦艇を沿岸警備用にしたもので速度や航続距離ではなく防御と攻撃性を重視していた。昭和17年に「海防艦」の定義を見直し、軍艦としての類別から除外新造の護衛艦を新たに艦艇の一種である「海防艦」とした。
いわゆる他国で言う「フリゲート」の分類になる艦を至急大量に必要とした。それの元になったのが「占守型海防艦」だった。 占守型は元は日ソの漁業紛争のための漁船護衛のために建造された艦船であり、寒冷地装備等を施した800トンクラスのフリゲート艦だった。
でこれを元に 択捉型海防艦(甲型) 御蔵型海防艦(甲型)日振型海防艦(甲型)鵜来型海防艦(甲型)等が建造されたが戦時急増型としてはまだ建造過程が複雑で生産性が悪かった。
戦雲は急速に悪化の一途を辿り昭和19年頃になると各所で制海権制空権を喪失し多くの船が輸送中に敵潜水艦や敵航空機の攻撃を受けあいついで沈められた。 もはや物資は届かず資源は枯渇しつつあった。
その中で船団護衛は急務中の急務となり、その護衛の中核たる「海防艦」の大量建造が急がれた。 そしてその決定型といえるのが 丙型海防艦と丁型海防艦だった。

丙型はそれまでの海防艦を元に 対空 対潜能力 を重視しながらも更なる簡略化を行い生産が比較的容易な方であった艦本式23号乙型ディーゼルを搭載×2を搭載し機関部の統一化と簡略化を推し進め一番艦は1943年9月に起工し、1944年2月には竣工している。133隻の建造計画が立てられたが、53隻が戦争中に完成した。

丁型海防艦は丙型のディーゼル機関ではなく戦時標準型の蒸気タービンを使用している。 出力自体は1900馬力→2500馬力となり速力は向上するも燃費の問題で航続距離確保のため丙型より多くの燃料を搭載しなければならなかった。一番艦は1943年10月に起工し、1944年2月には竣工している。最短で起工から竣工まで74日の艦があり、量産性の確保には成功している。143隻の建造計画が立てられたが、63隻が戦争中に完成した。
建造に当たり簡略化を進めるため ブロック工法や電気溶接の全面採用等後の造船業界への技術を蓄える事になる。
だがそれらの海防艦が就任した頃になるともはや戦況は絶望的となり本土と資源地帯は分断され 制海権 制空権 は完全に喪失、日本近海に至っても敵潜は頻繁に出没 敵機動部隊艦載機による空爆等もはやどうにもならない状況となっていた。
それでも多くの海防艦は危険な海に出撃し強力な敵と必死に戦った。 元から正面切っての戦いを挑む船ではない。 それと日本の対潜技術は大幅に遅れをとっており大半の海防艦は返り討ちにあった。
そのような状況でも最善の努力をしようと終戦のその日まで海防艦は海を駆け回った。 終戦までに完成した海防艦171隻のうち72隻が失われるなど、甚大な被害を受けている。 その奮闘も空しく日本輸送船団は完全に壊滅して日本への資源輸送は完全に途絶した。
この悲劇は全て日本海軍という組織が「海上輸送」に対してあまりにも無関心であった事に尽きる。 元が近海での決戦を主軸とした艦隊整備を行って来たのにも関わらず資源確保のため広大な戦線を構えてしまった事がそもそもの間違いだと、 しかしなったものは仕方ないが其処から資源輸送への対応が遅く対応は全て後手後手に回り気づいた時には既に手遅れだった。
元から四方を海に囲まれその他資源を海運によってその産業を動かしていると言っても過言ではない程重要で尚かつそれを維持するための「南方資源地帯」の確保だった筈だ。 油が無いから戦争が出来ないと言いながら取ってからその先を全く考えていないというのは如何な事か??
第一次大戦と第二次大戦での英国がドイツのUボートの通商破壊で国家転覆の危機にまで落ちいっている純然たる教訓と事実がありながらもそれに真剣に検討したのは見当たらない。 結局対応したのは己に被害が出てからであって、結局喉元に突きつけられなければわからないと言う事だろう。
無論回すだけの余力も無かった訳だが、それもこれも対応がきかないだけ広げすぎた戦線事態が大きな失敗だ。 無論資源を確保するにはある程度の拡大は仕方なし・・・・・・ いやもはや開戦した時点でもう敗北は決定していたんだ。
このような総力戦へ対して日本と言う国家自体がそれに絶えうる基盤と、大いなる認識不足が国家破綻へのと導いた。 無論それと至までの経緯自体が最大の問題であり、完全に「外交」に失敗したといえるだろう。
その中で多くの人が犠牲となった。 海防艦もその中の一つだろう。 花形的な主力艦艇達の様な華やかさは無くとも国家を動かす為の資源輸送の大役を最期まで貫き通し戦った彼ら海防艦こそもっと脚光を浴びても良いと思う。
多くの海で国家を守るため最期の最期まで奮戦し、その後の海上自衛隊の「シーレーン確保」の基礎となった海防艦の乗組員と国家の産業と戦争遂行の重要なる任を帯びた輸送艦の乗組員の英霊に哀悼の意を捧ぐと共に今の日本に同じ様な状況にならぬ事を願う。
輸送艦隊の悲劇についてはお暇ならこちらをどうぞhttps://minkara.carview.co.jp/userid/381409/blog/25908716/
ブログ一覧 | 日記
Posted at
2014/03/12 22:44:48