今回は4種類
中島 特殊攻撃機 橘花
橘花(きっか)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発していたジェット攻撃機である。
エンジン開発は主に空技廠が担当し、機体を中島飛行機が開発製造した。
ネ-12B装備型を「橘花」、ネ-20装備型を「橘花改」と正式には呼称する。
試作機はそれぞれ、「試製橘花」、「試製橘花改」と呼ぶ。海軍略符号は無い。
【開発】
本機は日本初の純国産ジェット機である。ドイツが開発した世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262に関する技術資料をもとに、海軍が開発した。
哨戒艇用に日本が開発した小型ボート用のディーゼルエンジンが欲しかったドイツ側と、戦闘機用にメッサーシュミット Me262のエンジンが欲しかった日本の合意のもと、ドイツの占領下のフランスのツーロン軍港から日本とドイツの潜水艦で設計図を運んだ(遣独潜水艦作戦)。
輸送に用いられた潜水艦はお互い1隻のみであり、ドイツの潜水艦は1944年(昭和19年)頃に日本占領下のインドネシア(オランダ領東インド)のバリクパパンに到達、上陸の後に日本海軍士官と情報交換した。
その後、日本海軍潜水艦はバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受け沈没。
また、ドイツ潜水艦が無事にドイツに帰還したかに関しては不明である。
ドイツから得たMe262に関する情報は、潜水艦が撃沈されたためにシンガポールで零式輸送機に乗り換えて帰国した巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われてしまい、肝心な機体部分やエンジンの心臓部分の設計図が存在せず、結果的に大部分が日本独自の開発になった。
開発にあたり、橘花は固定武装の機銃を装備せず、胴体下に500kgまたは800kg爆弾を1つ搭載し、陸上から発進して敵艦に対し水平爆撃・緩降下爆撃を行うものとして計画された。
一説には「三式25番8号爆弾または仮称四式50番8号爆弾」という反跳爆弾を用いた反跳爆撃も計画されていたという(試製橘花計画要求書案記載)。
1944年(昭和19年)8月、日本は高高度を飛行するための過給機付き高性能レシプロエンジンの開発にも行き詰まり、燃料事情も悪化していく状況にあった。
海軍は低質燃料、低質潤滑油でも稼動し、レシプロエンジンに比較して構成部品が少なく簡易で高性能なジェットエンジン(噴進機関、タービンロケット)を装備した陸上攻撃機を「皇国二号兵器」と仮称して開発を企図した。
初期原案は3案あり、第1案は胴体の上下にエンジンを配置する胴体上下コンパウンド型(双ブーム支持)、第2案はエンジンを胴体側面に埋め込む胴体埋め込み型、第3案はMe262と同様に主翼下にエンジンを懸架する翼下懸架型であった。
第2案が最も進歩した方式であったが、ネ20の小さい出力と製作工程での簡易化が検討された結果、第3案が採用された。技術面の問題もあったと言われている。
【製作】
本機の外観はMe262に似るが、それよりサイズが一回り小さく(当初搭載予定のネ-12Bジェットエンジンの推力が小さいため、機体を小型軽量にする必要があった)、Me262の後退翼と異なり、無難な変形テーパー翼を採用するなど、実際にはほとんど新規設計である(ちなみにMe262の後退翼は重心バランスを取るための苦肉の策であり、遷音速から音速域の速度を見越しての翼形の採用ではない)。
また、本機は掩体壕(えんたいごう)に隠せるよう、外翼部を人力で上方に折り畳む事ができた。
降着装置は前輪式であり、開発期間短縮と部品調達の合理化の為、前輪には爆撃機「銀河」の尾輪を、主輪には零戦の主輪を流用している。
(試作機では改良する時間が無かったためブレーキは零戦用のままだった。これが試験時のオーバーランの原因となる)。
エンジンは低推力を補うために2基を主翼下に懸吊していた。
エンジン推力が低い為、全備状態での離陸には、固体火薬式の離陸用補助ロケット2本を主翼下付け根に装備する必要があった。
また大戦末期のジュラルミンなどの資材不足に対応した設計の為、なるべく軽合金の使用を節約し、ブリキやマンガン鋼などの鋼板・鋼材といった代替素材を多用しているのも特徴である。
この資源節約は陸軍の火龍の設計にも応用されることになる。
また大量生産に適するよう、簡素化と生産工数削減を考慮し設計され、零戦の2分の1の生産工数で製作する事が出来た。
機体の製作は群馬県にある中島飛行機の小泉製作所3階にある設計部で、松山健一主任の製作指揮の元に行われたが、ボーイングB-29による大規模な空襲で工場は壊滅状態となった。
橘花も、格納庫が被害を受けるが何とか無事であった。
その後機体は空襲を避けるため工場から疎開し、現在の東武伊勢崎線木崎駅付近にあった農家の養蚕小屋に分散して組み立てが行われた。
試作機は1945年(昭和20年)6月に完成し、エンジンの耐久試験もパスしたあと、飛行試験を行うため木更津基地に運ばれ、エンジンと機体が組み合わされた。
【初飛行】
8月7日に松根油を含有する低質油を16分間分だけ積んだ軽荷重状態で飛行を行い、12分間の飛行に成功する。これが日本で初めてジェット機が空を飛んだ瞬間であった。
この時橘花には離陸用補助ロケット、アンテナ、前脚のカバーが装備されていなかった。
また、脚を出したままの飛行であった。
10日に陸海軍幹部が視察に来る中、燃料を満載しての第二回の飛行が予定されたが空襲で中止され、翌11日は悪天候で順延となり、実飛行は12日に行われた。
しかし離陸中に滑走路をオーバーランして擱坐。
機体を修理中に終戦を迎えた。離陸失敗の原因は、離陸補助ロケットの燃焼終了による加速感の減少を、パイロットの高岡迪がエンジン不調と勘違いしたもので、離陸を中止しようと試みたが停止し切れず、滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損したものである。
本機はそのまま3日後に終戦を迎えた。
なお、雲龍型航空母艦の三番艦の葛城に紫電改や烈風ではなく、ジェット機である本機を搭載する予定があったとも伝えられている。
三菱 局地戦闘機 秋水
WW2 ヨーロッパ戦線末期ドイツMe163 VS B-17の戦闘
秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争中に日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めたロケットエンジンの局地戦闘機である。
ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。
正式名称は十九試局地戦闘機秋水。海軍の機種番号はJ8M、陸軍のキ番号はキ-200である。
秋水の名称は、岡野勝敏海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。
1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で横須賀海軍航空隊百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された。
この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない。
【開発まで】
第二次世界大戦中、日本とドイツの技術交流は、独ソ戦によってシベリア鉄道ルートが閉ざされ、英米との開戦により水上船舶ルートも困難になってしまった。
両国の人的交流、物的交流は、インド洋を経由した潜水艦輸送に限定されるようになった(遣独潜水艦作戦)。
日本から技術供与できるものは少なく、アジア各地の天然資源である生ゴム、錫、タングステンなどの戦略物資をドイツに輸送する見返りとして、ドイツはジェットエンジン、ロケットエンジン、原子爆弾などの新兵器の技術情報を日本に供与した。
1944年4月、日本海軍の伊号第二九潜水艦は ロケット戦闘機 Me163Bと ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262の資料を積んでドイツ占領下フランス・ロリアンを出発し、7月14日、日本占領下のシンガポールに到着したものの、シンガポール出港後バシー海峡でアメリカ海軍のガトー級潜水艦「ソーフィッシュ」(USS Sawfish, SS-276) に撃沈されてしまった。
しかし、伊29潜に便乗した巌谷英一海軍技術中佐がシンガポールから零式輸送機に乗り換え、空路で日本へ向かっていたために「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。
だが、もたらされた資料は本機のコピー元である Me163B の機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、ロケット燃料噴射弁の試験速報、巌谷中佐の実況見分調書のみであった。
そのため、資料不足から設計そのものを完全にコピーすることはできなかった。
第二次世界大戦末期、高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のB-29の邀撃に、高々度用の過給機を装備していない、在来の日本軍レシプロ戦闘機では高度を維持することすら困難で、邀撃しても1撃から2撃を行うのが限度であった。
レシプロ戦闘機と異なり、ロケット戦闘機は酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めなかった。
したがって高高度の希薄な大気に影響されないエンジン特性を持つ。
そこで、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、数分の飛行時間しかないロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下され、陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発が急がれた。
手に入ったMe163の設計資料が不十分であるため、日本の技術で保管する必要があった。
Me163B の機首部に見られる発電用プロペラを廃し、無線装置とその蓄電池搭載のために機首部は延長されており、内部の桁構造やキャノピーなども日本独自の設計となる。
主翼も木製になり左右が10 cm程度ずつ延長されている。
機体の特徴である無尾翼はすでに東京帝国大学航空研究所で木村秀政研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は昭和15年より陸軍航空技術研究所で開始されていた。
この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によって誘導弾イ号一型甲、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。
さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においては酸素魚雷に次ぐ魚雷の駆動力として回天二型向けに高濃度過酸化水素と水加ヒドラジンの化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。
【開発】
秋水が開発されるにあたり、セクショナリズムの弊害が目立っていた日本軍で陸海軍共同の製作体制を構えたことは画期的な事であった。
官民合同研究会席上、機体の製作を海軍主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍が主導で行うこととなった。
これは陸軍で「特呂二号」、海軍で「KR-10」と呼称された。
しかしここに来て三菱は無尾翼機の開発経験がなく、前記の通り外見図も簡単な3面図のみだったため翼形を決定できなかった。
そのため三菱は依頼当初「開発は不可能である」と返答した。
しかし海軍航空技術廠が翼形の割り出しや基本的な空力データの算出を急きょ行った。
苦肉の策ではあったが量産工場と研究機関が連携を取れた数少ない例である。
機体の設計は基本となるデータが入手できたため経験で開発を進められた。
しかしロケットエンジンという未知のエンジンの開発にレシプロエンジンでつちかった技術はほとんど役に立たなかった。
当初の予定では、エンジンは機体の完成と同時期に 2 基が完成しているはずであったが、12月初めの機体完成の時点で試作機の製図作業が済んでいたにもかかわらず、飛行の可能な完成機については具体的な目処すら立ってはいなかった。
さらに同年12月には東海地区を東南海地震が襲い、アメリカ軍のB-29による爆撃も開始された。地震によりエンジン開発を行っていた三菱航空機名古屋発動機研究所が壊滅し、研究員は資料をもって横須賀市追浜の空技廠に移動して作業を続けることとなった。
秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」は Me163 に搭載されていたヴァルター機関「HKW-109/509A型」のコピーとなるはずであったが、機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。
そのため手持ちの資料を参考に自主開発するよりなかった。
燃料は燃料概念図を参考にし、濃度 80 % の過酸化水素を酸化剤に、[メタノール 57 % / 水加ヒドラジン 37 % / 水 13 %] の混合液を化学反応させるというシステムである。
日本は前者を甲液、後者を乙液と呼んだ(ドイツはT液とC液)。
また安定剤兼反応促進剤として甲液にはオキシキノリンとピロリン酸ソーダを、乙液に銅シアン化カリウムが加えられた。
これらの燃料は人体を溶解してしまう劇薬で、特に甲液の高濃度過酸化水素は無色透明のうえ異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があり、秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならなかった。
かなり簡単に言えば、甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、このロケットの構造はとても複雑で、甲乙の液を単に反応させれば良いというものではなく、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合をはじめ、デリケートなセッティングが必要だった。
基本的な構造を理解していても燃料噴出弁の調整をミリ単位でも間違えば出力が上がらなかった。
なお、乙液の配合については、理化学研究所の女性化学者加藤セチ博士のアドバイスを参考にしており、第二次世界大戦中に日本の航空機開発に女性が参加した希有な事例となっている。
【試験飛行】
全木製の軽滑空機MXY8「秋草」が1944年12月26日に、海軍三一二航空隊の犬塚大尉によって滑空飛行テストを行った。
当初は着陸に成功するだけで「万歳」の声があがる有様だったが[2]、滑空機としてのテストは順調に回を重ね、操舵感覚は良好で機体設計そのものに問題なしとの評価を受けた。
実験後の宴会では、国民の士気を高めるために重滑空機の塗装をオレンジではなく真紅にすることが提案され、実現した。
1945年1月8日にはエンジンと武装が外された状態の実機と同じ状態の「秋水重滑空機」が、やはり犬塚大尉の手によって試飛行を行った。
312空司令柴田武雄司令が新興宗教(お光教)に傾倒していたことも開発に影響を与えた。
1945年4月11日空技廠会議で柴田は「神のお告げにより秋水の初飛行を4月22日横須賀地区で行う」と発言し当時技術者を茫然とさせる。
その後もお光教のお告げとして柴田が秋水試験飛行を厚木基地から追浜基地に変更させた際は、三菱の技師らから狭いので危険と指摘があったが、狭いのなら機体を軽くせよと命じる。
神のお告げで1.5トンの機体が500キロにさせられた。
また、突然燃料を少量にし、エンジンの持続時間を2分でいいと決め、エンジン完成を待ち7分持続できるまで待つべきとする技師らの意見は黙殺された。
設計資料を入手してから約1年の1945年(昭和20年)7月7日、横須賀海軍航空隊追浜飛行場で秋水は試飛行を迎えた。
陸海軍共同開発機とはいえ「メーカーとのロケットエンジン共同平行開発」「実験・実施部隊創設」を進めていた海軍が陸軍に先んじ試飛行をおこなうこととなった。
当初は4月12日に強度試験機「零号機」による試飛行も検討されたがロケットエンジンが間に合わず、幾多の試行錯誤を経て3分間の全力運転が達成された後の試飛行となった。
テストパイロットは犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)。
神奈川県足柄山中の「空技廠山北実験場」から横須賀市追浜の夏島に掘られた横穴式格納庫内に運ばれたKR-10(特呂二号)は、実施部隊である三一二空整備分隊長廣瀬行二大尉(海軍機関学校五十二期)と、特呂二号に関しての特別講義を受けた上等下士官たちによって秋水に組み込み整備された。
試飛行当日、全面オレンジ色の試作機カラーで垂直尾翼に白い縁取りの日の丸を描いた秋水は飛行場に引き出された。
ここで、整備分隊士によって車輪投下実験が入念に行われ確実に作動することが確認された。午後1時には上級将校も列席。
だが午後2時に予定された発進はエンジンがかからず再整備のために遅れた。
翌日延期も検討されたが、犬塚の決心は固く、試運転は続行された。
午後4時55分、滑走を開始。翼を持ったまま10メートルほど秋水と一緒に走って廣瀬大尉は手を離した。
滑走距離220メートルで離陸、成功を確認した三一二空山下政雄飛行長が合図の白旗をあげた。
高度10メートルで車輪投下、しかし連動しているはずの尾輪が上がらず(収納されたという証言もある)、機体は角度45度で急上昇に移った。
「試飛行成功か」と思われた瞬間、高度350mほどのところで突然尾部から噴出する炎が黒煙となった。
異音とともにエンジンが停止。エンジン停止後余力で150メートルほど上昇した。
廣瀬大尉の指示により東京湾には本牧あたりまで救助艇が用意されていたものの、不時着水せずに右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めた。
エンジン再起動が二度試みられるも果たせず、甲液の非常投棄が始まった。
しかし非常投棄はなかなか進まず、第三旋回時点の高度は充分に高かったが、その後の沈下速度がはやく高度を失った。
残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指した。
それが第四旋回の遅れとなり失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首上げ、右翼端が監視塔に接触。
そのまま追浜飛行場に隣接していた鷹取川で反跳し、飛行場西端に不時着大破した。
残留甲液によるもうもうたる白煙が発生したが、消防車による放水と同時に整備分隊士が犬塚大尉を操縦席から救出した。
意識のあった犬塚大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、頭蓋底骨折のため翌未明、殉職した。
事故の原因は燃料タンクの構造上の問題であった。
秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇する。
しかし燃料の取り出し口はタンクの最前部上面に取り付けてあった。
これでは急上昇の際に液面が傾くと燃料を吸い出せなくなる。
さらに試験当日は燃料をタンクの1/3しか積まなかったため、上昇する際に燃料がタンクから吸い出せなくなり、エンジンがストールを起こしたと結論付けられた(本機原型のMe163も、飛行中燃料供給に支障が出ることがあった)。
またエンジン不調のため長時間試運転が続けられ、燃料が不足していた可能性も搭乗員達の間で指摘されていた。
ただちに試作二号機の製作が始められたが、肝心のエンジンが試験中に爆発して失われて頓挫。
開発陣の中には「秋水は、昭和二十一年になっても実験段階どまりだったろう」と評するものもいる。
生産2号機が陸軍のキ-200として、千葉県柏飛行場の飛行第七〇戦隊へ運搬され、荒蒔義次少佐はロケットエンジンを使う前にまず重滑空機で飛行特性をつかむ試験を行っていた。
ロケットエンジンを搭載すれば飛行可能となる状態が維持されたまま終戦を迎えた。
秋水の開発は終戦の日まで続けられたが、ふたたび動力飛行を行うことは無かった。
【運用計画】
秋水は試作機製造と平行して量産型の図面化も進行していた。
秋水量産計画は安来工場などもあわせ日立製作所中心の5工場で製造し東京周辺の飛行場に1945年3月に155 機、1945年9月に1,300 機、1946年3月に3,600 機を実戦配備するという無茶な計画で、当時の日本の工業力では夢の話だった。
仮に量産化が行われ実戦配備されても、航続距離が短い秋水は自機が発進した飛行場上空しか防衛できない上、Me163B がそうであったように滑空中を敵戦闘機に撃墜されたと予想される。
航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法はレーダー施設などの索敵施設との連携が鍵であり、当時の日本にはとても望めるものではなかった。
実際に実戦配備が行われたとしても秋水の出番は皆無、もしくは事故続出で戦闘以上の被害を出していたと想像される。さらに燃料というべき甲液、乙液は一回の飛行で2 トンあまりを消費する上、生産設備はB-29の本土空襲により必要量を満たすだけの生産量を確保できなくなっていた。
たとえ、新規に工場を作ったとしても空襲により早晩破壊されるのは明白だった。
秋水は特攻兵器として開発されたものではない。
しかし、312空では、秋水の速度が速すぎるために機銃の照準が困難と分かり、柴田武雄司令のもと山下政雄飛行長の提案でB29編隊中で爆弾自爆する特攻戦法が採用された。
多数の士官らの会議において秋水の機首に3号爆弾2発搭載でまとまっていたが、数日後の会議で山下飛行長から「秋水の機首に600キロ爆弾を搭載して敵編隊の中でボタンを押して自爆する戦法をとる」と特攻の決定が申し渡された。
1945年6月に土浦航空隊で14期甲飛を中心に800名の秋水要員(秋田分遣隊)編成。
15日渡邊孝次郎少佐が秋水による特攻要員訓練であることを明かす。
312空、362空、322空が秋水の特攻部隊として予定されていた。
林安仁陸軍中尉は「上昇時と下降時に一撃づつかけるだけですが、空戦をやってみたかった」という。
荒蒔義次陸軍少佐は「こんな(空戦時間が)4分じゃつまらない」「秋水だけは怖かった」「飛行を開始したら特兵隊のパイロットが次々死んでいく予感があった」という。
有滝孝之助陸軍大尉は「伝習教育が終わったら火竜でやりましょう」と話していた。
九州 陸上哨戒機 東海 一一型
陸上哨戒機「東海」(りくじょうしょうかいき「とうかい」)(Q1W)は第二次世界大戦の日本海軍の陸上対潜哨戒機である。
Q1の名が示すように哨戒機として開発された日本最初の機体である。
153機が生産され、終戦時には68機残存した。
なお、派生型に並列複操縦方式を採用した練習機タイプ(Q1W1-K)もあった。
連合国コードネームは『Lorna』。
【開発】
太平洋戦争が激化するにつれて本格的な対潜攻撃能力を持つ沿岸哨戒機の必要性を感じた海軍は、1942年(昭和17年)9月に、渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に17試哨戒機の開発試作を命じた。
計画において要求された主な点は、
低速で長時間飛行が可能なこと(航続時間は10時間以上)
急降下攻撃が可能なこと
というものだった。
渡辺では直ちに設計にとりかかり、九州飛行機と改称した1943年(昭和18年)12月に試作1号機を完成させた。
設計には戦前に海軍がドイツから「双発急降下爆撃機」研究用として購入していたユンカースJu88爆撃機のデータが参考にされた。
テストの結果は、方向安定性にやや問題があった他は概ね良好だったため、尾翼の位置や面積を改修した試作機・増加試作機を8機製作した後に制式採用を待たずに1944年(昭和19年)4月から量産が開始された。
その後、機体装備の変更や武装の強化が行われ、1945年(昭和20年)1月に東海11型(Q1W1)として制式採用された。
【機体の特徴】
低馬力のエンジンで低速で(巡航速度は約70ノット)長時間哨戒飛行を行う機体である。
潜水艦を発見すると同時に急降下攻撃を加えるよう要求され、250kg爆弾2発を装備している。
予定していた新型電探が間に合わなかったため、旧式なH-6電探の性能を補う目的で三式一号潜水艦磁気探知機KMXを搭載し、広い視界を得るため機首を大きなガラス張りとした独特な形状をしている。
操縦席は偵察員と並列複座となっていた。
また一部の機体は、地上局から超長波を発信すると、潜水艦上空で干渉波が生じる現象を応用した「C装置」を装備していた。
【運用】
最初に東海を配備されたのは佐伯海軍航空隊で、1944年(昭和19年)10月に東海による部隊が初めて編成された。
当初は生産機は全て佐伯海軍航空隊に配備され飛行や整備の訓練を受けた。
その後、佐伯から各地の航空隊に配備されていくことになったが、館山基地の第九〇一海軍航空隊に配備された機体が多かった。
本機は主に済州島摹瑟浦基地などより、東シナ海、小笠原諸島方面において対潜哨戒活動に従事した。
戦後には、目視による捜索に加え潜水艦磁気探知機KMXを使用して、1週間に米軍潜水艦を7隻も撃破したとのエピソードも語られているが、日本側の公刊戦史および米軍側資料に同様の記録は記載されていない。
また、制式採用された頃には、日本軍は本土周辺海域の制空権すら失っていたため、本機のような低速かつ貧弱な自衛武装の機体での対潜哨戒活動は極めて危険であり、敵戦闘機に遭遇した場合、反撃も逃げ切ることも出来ずただ餌食となるだけであった。
このため、本機は運用の開始が昭和19年10月と戦争末期であったにも関わらず、終戦時には全生産機の半数以上が失われているなど、極めて高い損耗率を記録している。
本機の最大の弱点は、滞空性能を向上させるために低出力省エネエンジンを採用したことで、発電力に余裕がなく搭載電子機器に拡張性を持たせることができなかった点である。
九〇一空以外では、九〇三空でも使用された。
中島 艦上攻撃機 天山 一二型
天山(てんざん)は、日本海軍が九七式艦上攻撃機(以下、九七式艦攻)の後継機として開発・実戦配備した艦上攻撃機。
機体略号はB6N。設計・生産は中島飛行機。
連合国軍のコードネームは「Jill」。
【開発の流れ】
昭和14年(1939年)10月、海軍は制式採用直前の九七式三号艦攻の後継艦上攻撃機として「十四試艦上攻撃機計画要求書」を中島飛行機に提示した。
開発要求書に記載されていた内容は概ね以下のようなものだったとされる。
最高速度463.0km/h以上航続距離(雷装時)3,334km以上発動機護または火星
これを受けた中島飛行機では、社内名称BKとして松村健一技師を設計主務者とする設計陣が開発に当たることとし、昭和15年(1940年)5月から本格的に開発を開始した。
【名称について】
開発中は当時の命名基準に従い、計画開始年度(昭和)と機種名を並べて十四試艦上攻撃機と呼称されていた。
制式名称は「○式艦上攻撃機」となるはずだったが、制式採用直前の命名基準改定により「攻撃機は山に因む名称とする」と規定されたため、昭和18年8月の制式採用時に天山と命名された。
【発動機選定】
開発開始当初に問題となったのは、他の日本機と同じく搭載発動機の選定だった。
開発要求書で指定されていた護は九七式一号艦攻等で実績のある単列9気筒の光を複列14気筒化した1,800馬力級の中島製発動機で、火星は九六式陸上攻撃機等で実績のある金星のボア・ストロークを拡大した1,500馬力級の三菱製発動機だった。
海軍は非力ではあるものの既に十二試陸上攻撃機(後の一式陸上攻撃機)試作機に搭載されて各種試験が進められていた火星を推していたが、中島側は自社製であるため改修が容易に行えること、現状でも火星より大馬力であるが2,000馬力級まで出力向上が見込めること、火星より燃料消費量が少ないこと等を理由に護を推していた。
議論の末、海軍が中島の主張を入れる形で昭和16年(1941年)3月に搭載発動機を護とすることに決定した。
【難航する実用審査】
昭和17年(1942年)2月20日にB6N1試作一号機が完成、直ちに試験飛行が開始されたものの、護の振動が激しい上に故障が多く、しかも大馬力故の強トルクにより離着陸滑走中に機首を左に振るという艦上機としては大きな問題点が発見されている。
それでも完成から4ヵ月後の7月19日にB6N1試作一号機は海軍に引き渡され、実用試験が開始されている。
海軍の実用試験では排気管等の改修が行われた他、雷撃試験において超低空での高速雷撃時にプロペラ後流の影響で魚雷の海中突入角度が浅くなって海面で跳躍することが判明、魚雷懸吊架の改修と新型框板の開発で解決されている。
昭和17年末から開始された離着艦試験では着艦制動索切断が多発した。
当初は九七式艦攻より重い上に着速が速いことが原因と考えられていたが、調査の結果、着艦フックの形状不良が原因であることが判明している。
また離陸滑走距離が長いことが問題視され、実用試験中だったRATOを搭載することが決定されている。
海軍は実用試験の終了を待たず、基地航空隊用としてB6N1を130機程度生産することを中島に指示した。
その一方、昭和18年(1943年)1月には発動機を水メタノール噴射装置の追加によって1,800馬力級となった火星二五型に換装した仮称B6N2の開発も開始されている(海軍からの正式な指示は昭和18年4月)。
前者は現用の九七式艦攻より約100km/h速い新型艦攻を一刻も早く前線に送るための措置であり、後者は不調で搭載機の少ない護の生産を中止し、中島飛行機の発動機生産を当時実用試験中だった誉に集中させるためだった。
試験飛行時から問題になっていた離着陸滑走中の左回頭については、B6N1量産開始後に垂直尾翼の取付角を機軸に対し左に傾けることで一応の解決とされている。
B6N1の量産と部隊配備が進められる一方、同年7月にB6N2試作一号機が完成、発動機の信頼性が向上した他、航続距離以外の性能全般の向上が確認されたことから、同年10月にはB6N1に代わってB6N2の量産が開始されている。
【設計の特徴】
B6N1とB6N2の設計には以下のような特徴があった。
■胴体
大直径の護に合わせて雷電(最大幅1.50m)に次いで太い最大幅1.45mの胴体を採用しているが、爆弾倉は設けられておらず、魚雷や爆弾は胴体下に懸吊する。
前下方視界が九七式艦攻より悪化したことから、視界確保のために操縦員の座席を2倍の高さまで調整できるようになっており、前部風防上面の一部を立てて風除けにすることができた。
操縦桿には伸縮機能があったが、ラダーペダルについては何の措置もとられなかったため、小柄な搭乗員の場合、操縦席を上げるとラダーペダルに脚が届かなくなることがあった。
空母のエレベーターの寸法に収めるため、垂直尾翼後端を前傾させることで着陸姿勢での全長を短くしている。
この措置と太い胴体のため、九七式艦攻と比較して寸詰まりという印象を受けた搭乗員もいた。
発動機のトルクによる左回頭性の対策として、垂直尾翼をB6N1 19~29号機は機軸に対して左に3度、30号機以降は2.1度傾けて取り付けている。
B6N2は発動機の重量が軽くなったことから、前後の重量バランスを取るため機首が延長された他、工数簡略化のために引き込み式だった尾輪を固定式にしている。
実戦配備開始後、急激な横滑り操作(敵戦闘機の銃撃回避操作として行われていた)による荷重によって垂直尾翼が破損、空中分解が多発したため、全機に垂直尾翼と方向舵の取付部の補強が行われている。
■主翼
胴体長同様、空母のエレベーターの寸法の関係から、主翼面積と翼幅は九七式艦攻よりわずかに小さい37.202m2、14.894mに抑えられており、翼端から3.85mの位置で折り畳むことが出来た。
翼型は後に彩雲の設計にも関わる内藤子生らが開発した中島飛行機独自の層流翼型であるKシリーズの初期型(翼根K121、翼端K119)を採用、高揚力装置として九七式艦攻が装備したスプリット式より能力の高いファウラーフラップの一種である蝶型フラップを装備している。
しかし、実用試験中に低速での降下率が要求よりも大きいと指摘されている。
要求性能にある長大な航続力を達成するため、主翼上面が燃料タンクの一部で構成される大容量のセミインテグラルタンクを採用している。
その他に胴体タンクも装備しており、B6N1では離昇用燃料タンクとして使用されていたが、B6N2以降は水メタノール用タンクに変更されたため、航続距離が幾分短くなる原因になっている。
これまでにない重量級の艦上機であることから、主脚には高い強度が与えられているが、実戦配備後に主脚取付部の破損が多発したため、補強が行われている。
■発動機
護一一型は光をベースに開発されているが、ボア、ストロークとも光より幾分小さいものを採用している。
整備性を良くするために余裕のある設計になっていたが、発電機の向きが従来とは逆だったため、小型機では調整が難しくなると海軍から指摘されている(機体を調整しやすい構造にすることで対応)。
B6N1の他には、十三試陸上攻撃機/試製深山に搭載されたのみで、生産数も約200基と少ない。
火星二五型は開発開始時にも搭載発動機の候補だった火星一〇型に水メタノール噴射装置を追加した性能向上型で、護一一型とほぼ同じ離昇出力を発揮できた。
プロペラ減速比等を除けば二二型以降の一式陸攻や二式大艇一二型等に搭載された火星二一型、二二型と基本的に同じ発動機である。
エンジンカウルには、気化器用空気取入口が上面に、潤油冷却器用空気取入口が魚雷との干渉を防ぐために正面から見て下面のやや左に寄った位置にそれぞれ突出して装備され、排気管はB6N1では集合式だったが、B6N2以降は増速効果があり、かつ排気炎の小さい推力式単排気管に変更されている。
また、日本機として初めて全金属製4翅プロペラを採用している(B6N1は直径3.5m、B6N2は3.4m)。
■武装および防弾
主兵装である航空魚雷には、九一式航空魚雷改三(開発開始当初は改二)を予定していたが、B6N1試作機での雷撃実験の結果、強度不足が明らかとなったため、改三を補強した九一式航空魚雷改三(改)または改三(改)の改良型である九一式航空魚雷改三(強)が搭載された。
九七式艦攻同様、懸吊位置を機軸より右に寄せることで潤油冷却器用空気取入口との干渉を避けている。
雷撃実験で明らかになった高速雷撃時の魚雷の海面跳躍対策として、機軸に対して魚雷を2度下向きに懸吊するようにした他、空中雷道と海面突入角の安定用として魚雷の尾部に取り付けられる框板を、従来の九七式から高速雷撃に適合した四式に変更している。
後上方銃座の他に後上方銃座の死角となる後下方からの襲撃に備えて収納式の後下方銃座を装備している。
後下方銃座は、昭和15年頃に研究されていた800kg爆弾を用いた高高度水平爆撃時の使用を想定して装備されたものだが、実際には敵戦闘機の迎撃を受けやすい水平爆撃はほとんど行われず、低空雷撃が主な攻撃法となっていたことと、銃座を射撃可能状態にするのに時間がかかるため使用頻度は低かった。
B6N1 70号機までは、日本海軍の艦上攻撃機としては珍しく左主翼内に7.7mm固定機銃を搭載していた。
これは雷撃時に敵艦の対空機銃を制圧するために装備されたものだが、71号機以降は廃止されている。
また、昭和19年4月から開発が進められていた対潜水艦用有翼旋回魚雷「空雷六号」の母機として、B6N1及びB6N2が予定されていた。
防弾装備については不明なところが多いが、燃料タンクに炭酸ガス噴射式の消火装置が装備されている。
しかしこれでは不十分であったため、昭和19年10月に自動防漏式タンク装備機が試作されたが、不具合が多く量産には至らなかった。
■その他
昭和19年3月頃からB6N2およびB6N2aには3機に1機の割合で、H-6型電探が搭載されており、マリアナ沖海戦時の第六〇一航空隊にも電探搭載型が数機配備されている。
また、夜間雷撃に投入される機体の中には、電波高度計を追加装備したものもあった(主翼下面にアンテナを追加装備)。
九七式艦攻より航続距離が大きく向上したため、操縦員の疲労軽減用に自動操縦装置が標準装備されている。
九六式陸攻等の中・大型機で既に実績のある装置だったが、初めての単発機への搭載だったためか、本機では自動操縦中に飛行姿勢が突然変わることがあり、あまり使用されなかった。
離陸滑走距離短縮用のRATOの装備が予定されていたが、B6N2での搭載試験とRATOの配備がマリアナ沖海戦後になったため、実際に空母上で使用されることはなかった。
【実戦】
制式採用直前の昭和18年(1943年)7月、開隊直後の第五三一航空隊にB6N1が初めて配備された。
同年8月にB6N1は天山一一型として制式採用され、11月半ばに同隊の一一型12機がラバウルのカビエンに進出、第五八二航空隊に編入された。
翌月の第6次ブーゲンビル島沖航空戦に初めて実戦投入され、一一型6機が九七式艦攻5機と共に米機動艦隊に対して夜間雷撃を行い、第五八二航空隊艦爆隊、陸攻隊と共同で空母3隻、戦艦及び重巡各1隻撃沈といった戦果を報じている。
この戦果により天山を開発した中島飛行機は海軍から表彰されたが、米海軍の記録によるとこの戦闘における沈没艦はなく、現在ではほとんどが夜間故の誤認と考えられている。
昭和19年(1944年)2月17~18日のトラック島空襲後の索敵や同年6~7月のマリアナ諸島攻防戦にも投入されたが、これといった戦果を挙げることはできなかった。
■マリアナ、そしてフィリピンの攻防
第三艦隊(後に第一機動艦隊に編入)の各母艦航空隊には、昭和18年(1943年)12月頃からB6N2の配備が開始されている。
翌昭和19年(1944年)3月にB6N2は一二型として制式採用されているものの、天山の生産が前線での消耗に追いつかないため、第一機動艦隊への配備数はなかなか増えず、結局第一機動艦隊の天山隊は定数(99機)に対して7割に満たない充足率で6月のマリアナ沖海戦を迎えている。
この海戦では第六〇一航空隊の29機が昼間雷撃を行ったものの、F6Fヘルキャットの迎撃と対空砲火により出撃機の8割を超える24機が未帰還になるという大損害を受けている。
同年10月の台湾沖航空戦ではT攻撃部隊に編入された第六〇一航空隊攻撃第二六二飛行隊の23機が米機動部隊に対し夜間雷撃を行い、第二航空艦隊からは第六五三航空隊所属機などで編成された計56機が昼間雷撃を行ったものの、17機が出撃した第七〇一航空隊攻撃第二五二飛行隊が巡洋艦2隻の炎上を報じた一方、同隊は隊長機1機を残し未帰還となるなど損害は深刻であった。
続くレイテ沖海戦においても、第三航空戦隊所属の瑞鶴以下の空母4隻に合計25機(定数の約5割)が搭載されているが、索敵や対潜哨戒、爆装した零戦で編成された攻撃隊の誘導が主な任務だった。
■北東方面と海上護衛
1944年に入ると北海道〜アリューシャン方面でも米軍の活動が活発化したため、同年4月終わりに本土で搭乗員養成を行っていた第五五三航空隊の所属機が九七式艦上攻撃機とともに占守島に進出。
その後も天山の追加配備を受けながら占守島や道東から哨戒活動に就いていたが、フィリピン方面の戦局悪化により、10月に部隊は天山1機と九七式艦上攻撃機数機を残して移動した。
残存機は直ちに「北東航空隊」に編入、引き続き対潜哨戒にあたったが、1945年春に天山は事故で失われた。
このほか第九〇一航空隊といったシーレーン防衛を担う航空隊でも天山は船団護衛や対潜哨戒任務に用いられていたが、1945年初頭に南方航路が事実上寸断された後は艦船攻撃任務に充当されることとなった。
■硫黄島、沖縄戦から終戦まで
マリアナ諸島攻防戦、台湾沖航空戦、フィリピン攻防戦と立て続けに生起する激戦により、母艦航空隊は壊滅、基地航空隊も大きく消耗したため、少数機での夜間または薄暮、黎明時の雷撃が陸攻・艦攻の主な対艦攻撃法となっていく。
九州沖航空戦や沖縄戦(菊水作戦)では、鹿屋等の九州南部の基地から沖縄周辺に展開する米機動艦隊や輸送船団などに対して新装備の機上電探を活用した夜間雷撃を行っているが、F6F-5Nナイトヘルキャットの迎撃や対空砲火に阻まれ、大きな戦果を挙げることは出来なかった。
しかし、終戦の3日前の昭和20年(1945年)8月12日の夜半、九州・鹿児島県の串良基地から出撃した第五航空艦隊麾下の第九三一航空隊攻撃第二五一飛行隊所属の天山隊4機が沖縄の中城湾に停泊していたペンシルベニアを夜間雷撃で大破させている。
また、フィリピン攻防戦や硫黄島の戦い、沖縄戦(菊水作戦)では、零戦や彗星よりは少ないものの、特攻にも投入されている。
昭和20年(1945年)2月21日に第三航空艦隊麾下の第六〇一航空隊所属の天山8機(雷装4機、爆装4機。途中で2機脱落)が第二御楯特別攻撃隊(他に零戦9機(直援)、彗星12機)として香取基地を出撃、八丈島を経由して硫黄島沖の米艦隊を攻撃、天山隊の爆撃と体当たり攻撃によりサラトガと輸送船を大破させている(この他に彗星隊の体当たり攻撃により、ビスマーク・シーを撃沈している)。
昭和19年(1944年)夏から海軍は生産機種の絞り込みを計画し始め、昭和20年(1945年)1月に彩雲を単発攻撃機及び夜間戦闘機兼用機とし、天山を生産中止とすることに決定した。
この決定に従って彩雲の攻撃機及び夜間戦闘機改修工事が行われているが、B-29による爆撃等のため生産を切り替えることは出来ず、終戦まで天山の生産が継続されている。終戦時の残存数は187機。