世界最古のモータースポーツイベントのモンテカルロラリーが100周年を記念したのはつい先日のことですが、実際は、戦前のモータースポーツ事情などは、なかなか実感をもって知るところは少ないようです。
それが、旧共産圏のことならなおさらでしょう。
さて、今回はそんなソビエトの自動車メーカーのお話。
1920年、ロシア革命直後のソビエト連邦は黒海沿岸のロストフ村に一つの小さな自動車メーカーが生まれました。
その名も「ポリカルポフ自動車製造」。
元々は地元の農家のためのトラクターなどを修理する工場を営んでいた創業者のアレクセイ・ポリカルポフは、それらのあまりにも粗悪な製造品質に業を煮やして叔父の営む鋳鉄工場の片隅を借りて互換性のあるエンジン部品などの生産を始めたのです。
その代替部品の生産はいつしかエンジンそのものにまで発展し、そこからシャーシを含めた車体全体の生産にまでたどり着くにも大して時間はかかりませんでした。
ただアレクセイが生産を始めたのはトラクターではなく、当時まだ希少であったスポーツカーでした。
ロシア革命でソ連に併合された隣国ウクライナから戦火を逃れて移り住んできたアレクセイの目に映った、ソ連高官がこっそりと乗り回していた当時の西ヨーロッパ製のスポーツカーは宝石のように輝いていました。
と同時に、「あんな車に渡り合えるスポーツカーを自分の手で作りたい」という強烈な感情が彼の心に芽生えます。
とはいえ、情熱だけではスポーツカーなど作れるわけもありません。
アレクセイの作る試作車は、ことごとくまともに走らないまま、ついにテストドライバーを兼ねていたアレクセイ自身がテスト中にクラッシュで大けがを負ってしまいます。
当時のソ連という国情を考えると、そもそもスポーツカーの生産自体がほとんど非合法ともいえる状況の中では、意気消沈するアレクセイに力を貸してくれる人もほとんどいませんでした。
加えて、ウクライナからの移民であるアレクセイは、ロストフでも変わり者扱いされており、彼の孤立はますます度を深めていったのです。
ところが、そんな中、ドン川をはさんだ対岸の町ヴァタイェスクの豪農、スベルノスキー家だけは違いました。
当主タラス・スベルノスキーは地方でも指折りのクラークと呼ばれる自営豪農で、以前からトラクター修理を依頼していたアレクセイの腕に絶大な信頼を寄せていたのです。
加えて、もともとの黒海沿岸の自由な気風と、折からの政府の集団農場化政策への反発から、アレクセイの夢にいつしかタラス自身の夢を重ね合わせるようになっていました。
彼は自らの屋敷の一部を工場としてアレクセイに提供するとともに、息子のボリスとコプチェフの兄弟をテストドライバーとしてアレクセイにゆだねたのです。
タラスの協力を受け、また怪我から回復したアレクセイは以前にもまして精力的に車の開発にのめりこんでいきます。
しかし、ソビエトの体制は年を追うごとに厳格さを増し、工場の経営に対する圧迫も年々強くなる一方でした。
そして、1927年、いよいよ自社製スポーツカーの開発に限界を感じるようになったアレクセイは、乾坤一擲の賭けに出ます。
それは、今まで一度もまともなレースに出場させたことのない自社製品とドライバーを、当時、苛酷さでは世界有数とうたわれていたミラノ=テヘランラリーに出場させるというものでした。
このラリーは毎年1月1日にミラノを出発、オーストリア・ハンガリー・ルーマニアを抜けてソビエト連邦に入り、黒海北側をクリシュナウ・ドネツクと抜けてカスピ海西岸を南下しテヘランまで下る、総走行距離4500kmに及ぶ過酷なラリーでした。
アレクセイがこのラリーに照準を定めたのには二つの大きな理由がありました。
一つ目は、その苛酷さ。
西ヨーロッパで行われるラリーでは勝ち目がないポリカルポフのスポーツカーも、サバイバルラリーであるこのイベントではまだ上位入賞のチャンスがあるように思われたからです。
そして二点目はその行程。
地元に程近い黒海・カスピ海沿岸を走るため、車のセッティングや道の状況を読む感覚、天候を先読みする経験などは、すくなからず役に立つと思われたのです。
ロシア語で「誇り」を表す「ゴルダスト号」と名付けられたお世辞にも美しいとはいえない「スポーツカー」は、なんとミラノまでの3000km以上の道のりを馬車で1ヵ月かけて運ばれたのでした。
もちろん、途中で故障してしまうことを懸念したアレクセイの考えもありましたが、一方で、当時のソ連ではガソリンさえも自由に買えなくなりつつあるという事情もありました。
しかしながら、長旅の果てにスカラ広場にたどり着いたを待ち受けていたのは、エントラント達の好奇の目線と嘲笑でした。
それもそのはず、広場に並んだ車たちはAlfa Romeo RL Turismo、FIAT 529、Bentley 3-litre、Renault 40CV、Citroën Type C、そしてMercedes-Benz SSKなどが居並ぶ中での「ゴルダスト号」は、車高の低いトラクターにしか見えなかったのでしょう。
ボリスとコプチェフのスベルノスキー兄弟の内に秘めた闘志は、観衆や他のエントラントの嘲りと憐れみをうけても微塵も揺らぐことはありませんでしたが、実際にスタートした後の兄弟の苦労は大方の予想通りのものでした。
2週間かけて争われるこのラリーですが、もちろん一日たりともステージ優勝などからはほど遠く、白状してしまえば他車のリタイヤ以外に順位を上げる術がないというのが現状でした。
それでも、10日目までは出場48台中20台がリタイヤする中で、最下位28位ながら走り続けていたスベルノスキー兄弟と「ゴルダスト号」は称賛に値するといわねばならないでしょう。
しかしながら、1月11日夜、黒海の北方50kmにあるザポリージャ村に宿泊していた兄弟のもとに急電が届きます。
ロストフで兄弟の到着を心待ちにしていた父親タラスが急病で倒れたというニュースでした。
かねてより心臓に持病を抱えていたタラスですが、ソ連政府からの圧力による心労が重なって自宅で倒れ、そのまま病院に担ぎ込まれたのです。
この知らせを受けたスベルノスキー兄弟は、しかしながら、ラリーを続行する決断を下します。
「いま病院に駆け付けたとしても親父は喜ばないに違いない、アレクセイとともに抱いた夢がつまったこの車が世界に通用するところを見せてやりたい」ただその一念でした。
そして夜が明けた12日早朝、天は彼らに味方します。
ホテルの前に広がるのは一面の銀世界。
前夜より降り始めた雪はあっという間に数十センチの高さにまで降り積もっていたのでした。
スタート順が最後だった、つまり、上位陣がある程度踏み固めた道を走れることが「ゴルダスト号」にとって有利に働きました。
また、スベルノスキー兄弟の雪道の経験と、アレクセイの用意してくれたトレッド面にボルトを貫通させて締め付けたスペシャルタイヤも威力を発揮することになるのです。
このタイヤはもともとは泥濘路を走るトラクターのトラクションを稼ぐためにアレクセイが作ったものですが、今回のラリーでも雪を想定して2本を積んでいたのでした。
これが世界初のスパイクタイヤと言われています。
5分間隔でスタートする各車。
トップのMercedes-Benz SSKから2時間15分後に出発したスベルノスキー兄弟の「ゴルダスト号」は、次々と前を走る優雅なスポーツカーを追い抜きつつ雪原の中を激走していきます。
もちろん、トータルでのタイム差はあまりにも圧倒的で、今日一日飛ばしたところでとても自力では順位は上がりません。
ただ、父親が入院しているロストフ郊外の病院の前を通過するまでに、トップに立ちたい。
付き添っているアレクセイに、自分の車がトップを走っているところを見せてあげたい。
その気持ちがボリスのアクセルを緩めさせません。
しかし、降り続く雪がボリスのゴーグルに積もって視界を奪います。
極限の状態で運転し続けるボリスはその雪を払い落す余裕さえありません。
その時、隣に座っていたメカのコプチェフが雪の中に身を乗り出して大声で道を読み始めます。
片手をドアノブ代わりの革ベルトに縛り付け仁王立ちになりながらも声の限りにコーナーの状況を叫び続けるコプチェフ。
そして、ついに兄弟の目はトップをひた走っていたMercedes-Benz SSKのテールを視界に捉えます。
折しも差し掛かったのは病院から数キロ手前のラボーチキン峠。
しかし、先頭を走るSSKのドライバーにもトップを走るプライドがありました。
他のマシンのように道を譲ることはせず、長い車体を滑らせながら狭い峠道を攻め立てます。
運転席では凍傷になりかけた指でハンドルを必死に操作するボリス。
しかしSSKのノーズは「ゴルダスト号」が前に出るのを許してくれません。
そして、2台はついに病院の建つ緩くて長い右コーナーに差し掛かります。
イン側に張り付いてブロックラインを塞ぐSSK。
しかし、SSKのクルーは次の瞬間信じられない光景を目にします。
「ゴルダスト号」がほぼノーブレーキのままアウトから並びかけてきたのです。
「Verrückter!!」
罵り声をあげながらも追いすがることのできないSSK。
実は、兄弟には勝算がありました。
この病院前の道には道路の中央に排雪用の溝が掘ってあることを知っていたのです。
左側のタイヤをこの溝に落としながらコーナーを曲がっていく「ゴルダスト号」の前には、この瞬間一台の車もいなくなったわけです。
詰めかけた観衆と家族、そしてアレクセイが見守る中、スベルノスキー兄弟のマシンは堂々とトップに躍り出たのです。
しかし、このときすでに「ゴルダスト号」の車軸は限界に達していたのでした。
病院の前を通過した次の瞬間に、彼女のフロントアクスルは突如完全に千切れてしまいます。
ボリスが反応する間もなく、マシンは道路の脇に積まれた雪だまりに激突しそのまま横転、破片をまき散らしながら酒屋の店頭に突っ込んでしまいます。
一瞬にして静まり返る沿道の観客。
その中から走り出てきたのは、なんと絶対安静で入院していたはずのタラス本人でした。
その後ろを顔面蒼白で追いかけてくるアレクセイと病院の先生・看護婦たち。
息子たちのマシンが横転するのを目の当たりにしたタラスは超人的なスピードで病室を飛び出して行ってしまったのでした。
店舗に飛び込んでもはや残骸と化した「ゴルダスト号」から息子たちを助け出そうとするタラスとアレクセイ。
そのタラスをなんとか引き留めようとする病院関係者。
その横に、後続のSSKが急停止するなりクルーが飛び降りてきます。
しかし間口の狭い酒屋の店先に嵌り込んだ形になってしまったマシンは容易に引き剥がれません。
SSKのクルーは、自車を回してくるとバンパーと残骸をつないで引き出そうともしましたが、凍りついた路面では思うようにトラクションも稼げず、後輪はむなしく空転するばかりです。
と、続々と到着する後続車。
一台また一台と、それぞれのバンパー同士をつないで、さらに、それらのマシンを観客や住民が押して、ようやく少しずつ「ゴルダスト号」は引き出され始めます。
固唾をのんで見守る観客たち。
残骸をけん引していたマシン達もエンジンを止め、あたりは静寂に包まれます。
と、その時でした。
よろよろと残骸と瓦礫の隙間から歩き出てきたのは、すでにウォッカの瓶をぶら下げたボリスとコプチェフのスベルノスキー兄弟の姿でした。
割れるような歓声と祝福が飛び交う中、肩をすくめて両腕を拡げてみせる兄弟の目には満足気にほほ笑むタラスの姿が映っていました。
そしてアレクセイはというと、数時間前まで「ゴルダスト号」だった残骸の前で我に返ってこう叫んでいましたとさ。
「俺のクルマが~!!!!!!!」
めでたしめでたし!
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ということで、木曽の圧雪クローズド林道ウハウハヒルクライムのイベント名称は、この兄弟の功績をたたえて「スベルノスキー・ラリー」に決定しました!
ええ、もうお気づきのように、上のストーリーは全てがフィクションですので小指の先ほどの資料的価値もありません~。
時間をかけてお読み頂きまして本当にありがとうございました。
決して「滑るの好きー」とかいうダジャレが恥ずかしくて書いたわけではございません!
イベントも「ラリーレプリカ」ですから、ヒストリーも「レプリカ」にしてみたという次第でして。
ホントですよ~!!!
ここまでお付き合いいただきました皆様、ぜひエントリーをご検討くださいませ~!
一緒にボリスとコプチェフの夕べを楽しみましょう~♪
(まだ言うか!)