長野業正 (1491〜1561) 上野箕輪城主。関東管領山内上杉家臣。長野氏は在原業平の後裔と云われる。
長野氏は、周辺の豪族・国人のまとめ役立場で、「箕輪衆」と呼ばれた。
また、娘を上野の豪族に嫁がせて結束を固め、長野十六槍を編成した。
関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れて、上野を去った後も北条氏に従わず、対抗し続ける。
光治3年(1557)から武田信玄が10回に渡り、侵攻し続けるが、居城箕輪城に立て籠り撃退する。
手こずった武田信玄は、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と行ったと云われる。
永禄4年(1561)死去。箕輪城落城は、業正の死から5年後の事である。
みん友のうらん4989さんのリクエストで描いてみました。
上野を代表する知勇兼備の武将ですね。武田信玄の猛攻を何回も跳ね返してるんだから凄い。
ただ、籠城戦は得意だったみたいですけど、野戦はどうだったのかな?と思う所もありますが。
其れと14歳の嫡男、業盛に残した遺言が凄い。
「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」
まだ少年に「死ね」だなんてあまりにもムゴい話。戦国時代の厳しさよのう。
因みに業盛は19歳で遺言通り、落城の時に自害して果てました。哀れ。
併し、此の遺言は「関八州古戦録」と云う江戸時代の軍紀物に書かれている話でして、此の史料の信頼性を考えると、怪しい話なんですが。
本日は此れ切り。
Posted at 2009/12/12 19:03:33 | |
トラックバック(0) |
武将絵巻 | 趣味