古府散歩の二日目は、今回僕が一番楽しみにしていた躑躅ヶ崎館。
云わずと知れた、戦国大名武田氏三代の居館ですね。
躑躅ヶ崎館は三回目ですが、今回は武田神社のお参りとしてではなく、しっかりと中世城郭としての見学です。
現在躑躅ヶ崎館は、東・中・西曲輪を中心とした主郭部は残ってますが、他は耕地・宅地化されてます。
掲載させてもらう縄張り図には、既に隠滅されている遺構もあるので、注意して下さい。
躑躅ヶ崎館
永正16年(1519)に武田信虎が石和から居館を移し、築かれた。
武田信玄の代になると、武田氏の首都にふさわしい城下町の繁栄をみせたが、勝頼が継ぐ頃には飽和状態となり、天正9年(1581)に新府城へ移転となる。
翌年に武田氏が滅びると、徳川家康が領する事となり、平岩親吉が城代となって改修を受けるが、文禄年間に甲府城が築かれると廃城になった。
現在は、武田神社が建つ。
い 参道
ガイドブックなんかでよく紹介される構図ですが、此れは大正時代に武田神社が建てられる際に作られた物なので、当時の物ではありません。
中高年の団体客が、城の石垣だと思ってしきりに感心してましたが、勿論武田氏の時にはあるはずもなく(笑)
城の南側の堀は水堀になってます。
は 武田神社
中曲輪と東曲輪は、武田神社が建てられており、勿論祭神は武田信玄。
甲斐の国の人にとっては正に神様だろうけど、信濃じゃ鬼畜外道なんだけどねえ。
当時あった土塁は、神社を造る際に壊されてしまったので、現在では中・東曲輪に区切りが無い状態です。
其れと北西隅に天守台跡があるんですが、此処は立ち入り禁止。
躑躅ヶ崎館に天守!?と思いますが、此れは徳川氏時代の物。
に 井戸
日常に武田信玄も使ったであろう井戸。
建物は残ってなくても、井戸があると日常生活の息吹が感じられて良いですよね。
ほ 西曲輪
始め躑躅ヶ崎館は単郭で、西曲輪は天文20年(1551)武田義信の婚儀に合わせて新設されたもの。
此処には旧睦沢小学校校舎があったのですが、他に移転した為、現在発掘調査の真っ最中。
此の日、雨上がりの為か作業してませんでした。残念。
へ 枡形虎口其の壱
西曲輪南の虎口は内枡形になっていて、当時は橋が架かっていた様です。
此の外の梅翁曲輪は、徳川氏時代の物。
宅地化されており、南西に堀が残っているそうですが、今回は未訪。
と 枡形虎口其の弐
西曲輪の北も枡形虎口になっていて、こちらは土橋。
堀も空堀です。
ち 北(味噌)曲輪
婦人達の居館と伝わる北曲輪は、現在田畑に。
とは云え、馬出しの名残や土塁もしっかり残ってます。
他の箇所もそうですが、土塁の基底部には石積みによる補強がされているのが分かるでしょうか?
り 大手虎口
東曲輪の東が大手。
流石に他の虎口よりも幅広く、土塁も高い。
土橋は石積みによる補強がしっかりとされてます。
ぬ 空堀
大手周辺の堀は空堀で、幅も広くて深さも深い。
流石に此処に降りてみようとは思いませんでした(^▽^;)
る 石積み
各虎口には、石積みによる補強がありますが、流石に大手の物は石がデカい。
を 石塁
大手の東は発掘調査が行われ、奇麗に整備されてました。
此の石塁には階段もあった事から、上に何らかの建造物があったと考えられる様です。
で、此れは徳川氏又は豊臣氏による物で、此の下には三日月堀が出て来ました。
三日月堀、つまり半月型の堀で、おおっ、武田氏必殺の丸馬出しではないか!
でも、山梨県内で丸馬出しがあるのは、新府城に続いて2例目なんだって、意外。
わ 惣堀北側虎口
城の一番外にある惣堀には2本の土橋がかかってました。
北側の虎口には、石段が見つかったそうです。
初めて城として見て廻りましたが、館と云うには思ったよりも土塁も高く、堀も深くて立派。
とは云え、武田氏の首都とするとやっぱり狭いよなあ。
武田勝頼が此処を捨てて、次世代の戦国大名へ脱皮しようとしたのは、正しい判断だと実感しました。
参考文献:日本城郭大系8、現地案内板
本日は此れ切り。
Posted at 2011/08/28 20:57:17 | |
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