
フォードがマスタングⅠ~GT40へと発展、さらにロードバージョンのGT40MkⅢ(通称 GT44)、
そしてさらに、マッハⅡへと発展したが、結局は成功したのはGT40のみという、ミッドシップスポーツ計画。
フォードは「こりゃ、自分とこではあかんわぁ」と、デ・トマソとのコラボを始動させていた。
ちょうど同じころ、経営陣が刷新され若手首脳陣となり、起死回生を図るメーカーの存在があった。
その名は「AMC」
モータースポーツに積極的に参戦し、スポーティなイメージ創りを目指していた。
そんな中、ミッドシップスポーツの計画が立ち上がるのは必然的であった。
が、それは前途多難な道であった。
まずは、AMX/2と名付けられたモデルの試作がスタート。
68年にメカニカル・パッケージが完成し、ボディデザインをジュジアーロに委ねる。
だが、AMC首脳陣が納得するような仕事はしなかった、いや出来なかったのである。
彼は当時、まさにイタルデザインの設立で大忙し、それどころではなかったのである。
自社デザインにより、なんとか69年のシカゴショーに展示されたそれは、
あまり注目される事は無かった。
AMCという、企業故の事だったのかも知れない。
しかし!ここで引き下がるAMCでは無かった。
さらにミッドシップスポーツカーの計画は続行、「AMX/3」の計画が始まる。
そのためにフォードから、根菜のごとく、生産技術者のハル・シーゲルが引っこ抜かれた。
(そういえば、フロント・ミッションの中で同じ名前があったなぁ・・・・・
ディアブルアビオニクスのCEOか、って知らん人には何の事やら)
彼はプロトの製作に対し、イタリアのカロッツェリアを模索。
ピニンファリーナを介し、スタイリング及びメカニカル面も委ねらる、ジオット・ビッザリーニを紹介される。
早速AMCはエンジンをイタリアへ送り込む。
送られたエンジンは当時のAMCの中では最強のユニット、
ジャベリンやAMXのオプションパッケージ内にある6.4Lエンジンだった。
ミッションはZFが定番だが、OTOメラーラ製のミッションを搭載。
あの防衛関連企業のOTOメラーラ製だった。
しかし!またもや、ここで大事件が発生する。
それは、つまらなーい理由だが、大きな問題だった。
AMX/3のベースは、もちろん、AMX/2である。
当然、資料もビッザリーニの手元にあったわけだが、
その中のデザイン試作時にイタルデザインが作成した資料が、
あろうことか、アメリカのインチ表示をミリ表示に修正する際に計算ミスをやらかしていた。
それを参考にしたもんだから、エンジン・ミッション等のパワートレイン一式が、
車体に収まらない事が判明した。
気を取り直して、ハル・シーゲルがなんとか事をおさめ、
晴れて、シルバーのボディをまとった初号機はBMWによるテスト評価を受ける事になった。
なぜ?バイエルン?
昔々、60年代に儲かった際に「なぁBMWさん、うちに身売りせーへん」という計画があり、
この時の伝手を利用し、「あんときは偉そうにすんまへん、ちょっと、うちのボンボンを見たってもらえまへんか?」
と、走行テストを依頼したのである。
BMWは50年代に一時的に危機的な状況だったんですよね。
で、59年に700及び1500シリーズの登場で危機を脱出したばかりで、
色々と不安もあったのでしょう。
今思えば、AMCがBMWを買収やねんてーと・・・・
さて、その評価は、スタイリングが起因のノーズリフトや、その他、一部にダメ出しがあったものの、概ねハナマルを頂けたそうです。
その後、勢いに乗って、6台の試作車を完成させる。
この時、69年の秋の事であった。
さて、方やフォードもすったもんだの末に、デ・トマソ・パンテーラを自らのマーキュリー部門から
販売すべく、70年4月のニューヨークショーで発表の準備を進めていた。
ニューヨークショー直前の3月23日、リー・アイアコッカは、ノンキに社長の座を狙っている場合では無くなる
事態が発生する。
(実際にはノンキじゃなかった、必死のぱっちだったんだが)
AMCがAMX/3のプレスリリースしたのである。
「こらあかん!」
翌、24日にフォードは「デ・トマソ351」として、パンテーラのプレスリリースを行う。
アイアコッカのお尻の火がまだ消えぬ、同24日。
AMCはAMX/3をローマにて広報写真の撮影を行う。
そこをスクープした、ニューヨークタイムズ紙は翌25日に、
パンテーラの写真と並べて掲載したのである。
そう、フォードvsAMCのミッドシップバトルがクライマックスを迎えたのである。
AMCは自社での生産ではなく、パートナーとして、工作技術の高い、
カルマンに生産委託を打診していて、その計画は年産約5000台。
そのための量産化へのデザイン変更の準備も進めていた。
それは、ニューヨーク・ショーで好評だっただけに、急がれた。
マーケットリサーチの結果、販売価格は8000~1万2000ドル。
だが、原価は、軽く12000ドルオーバーしており、もし、市販しても赤字は明らかだった。
そんなおり、AMCはそれまで順調だった、イメージリーダーカーの、ジャベリンやAMXの売れ行きも
下降線をたどる一方となり、
その他のモデルの売れ行きも芳しくなかった。
「計画は白紙撤回」
これは正しい判断であった。
ジオット・ビッザリーニによると、AMX/3はモンツァを1分56秒台で走ったそうである。
これは、彼の力作「5300GT」のコンペチオーネと同等の性能だと。
当時、彼が作ったクルマの中で最高の仕上がりだったいう。
それはAMCが十分すぎる開発資金を投入した故であった。
こうして、フォードとAMC、パンテーラとAMX/3のミッドシップ頂上バトルは、
幻と消えた。
LxWxH 4450x1950x1150mm
HB 2642mm
トレッドF 1540mm
トレッドR 1555mm
車両重量 1400kg
V8OHV 6389cc
345Hp/5100rpm
59.4kgm/3600rpm
フロント/リア ダブルウィッシュボーン
鋼板溶接モノコック
最高速度 258km/h(ノーズリフトが顕著なため抑えられた)
6台のプロトと10台分のボディのうち、
現存するのは、赤い個体とノーズリフトの対策をした黄色の個体の2台ではないか?
と、されているが、定かではない。