去る平成28年04月03日(日),11年振となる「大飯盛物祭(おおめしもりものまつり)」が和歌山県紀の川市貴志川町国主1番地にある大國主神社(オオクニヌシジンジャ)で粛々と執り行われました。
この祭りは,別名「貴志の大飯祭(きしのおいまつり)」とも呼ばれ,元応年中(1319~1320)、約700年前の鎌倉時代から貴志川に伝わる全国的にも珍しい神事であり,市の無形民俗文化財に指定されています。
又,県の重要無形民俗文化財への届け出がまだ出ていなかった事から,生涯学習局長が実地調査に来られていました。
この祭りは,江戸時代までは毎年開催されていたが,祭の費用は地元の素封家が出しており、毎年実施するには負担が大きいため,明治以降年数が空き、昭和10年(1935年)以降は、昭和56年(1981年)→平成05年(1993年)→平成17年(2005年)→本年の平成28年(2016年)開催となっています。
祭りの由来は,国主淵(くにしぶち)に住む,明神の使いである大蛇に供える為と言うものや,大蛇が娘の生け贄を要求して困った為,代わりに大飯を国主淵に放り込んだと言う説や,淵に住む龍神が度々暴れて大きな被害をもたらす為に,龍の怒りを沈める為の祭りと言ったいくつかの説があるようです。
最近の見解では,貴志川が元々氾濫の多い川であった事から,それが龍の仕業で人々が拐われたと考えられたのではないかと言うものです。
ただ,「国主淵の伝説」と言うものと関連付けられているようで,こちらを見ると 3つの生き面(翁の仮面、三番そうの仮面、鬼の仮面) が登場するのと,「オイは、3月(旧暦3月3日の祭り)、もり物3本。」と言われており,西・中・東の三貴志から各1本ずつ奉納され,道中の国主淵で薦を取り,50個程の餅を国主淵に投げ込む神事をし,大國主神社まで曳きながら練り歩いたと言う記録もあります。
祭りの準備は,本年01月13日より山から真竹30本を切り出し,中貴志コミュニティにーセンターて竹割り作業を行い,続いて神社の境内で餅つきを行い,組み立て・注連縄作りを行ったとの事で,大きな注連縄は,40人の人々が集まり,餅藁を編んだもので,全て手作りの祭り道具であるとのことです。
餅は小学校の体育会を借り,約135人の方で制作したとのこと。
そして祭りの様子を,貴志川高校の生徒達が紙芝居にし,小学校の子ども達にこの祭りを伝えていくとの事です。
同祭には,2-6歳の稚児が途中で合流,中西小学校の新5-6年生が107名が参加,地元消防団66名に地区から300人を越える参加者があり,総勢800人を超える行列となりました。
盛物とは,高さ約 5m 幅約 3mの竹と藁で作られた上部が球状で下が萎んでいる,電球(熱気球)のような形をした物を心柱を頼りに竹ひごで作り,そこに筵(むしろ)を被せ,頂部から全面に垂らした藁縄に,直径約7cmの餅に竹串を横方向に挿した物をこの盛物の形に添って約6,000個吊るし,更に薦(こも)を巻いた物です。
行列は,獅子舞を先頭に,神主さん・太鼓・神輿・船・歌い手,そして木製の台車に組まれた盛物を最後尾にし,中貴志コミュニティにーセンターから大國主神社まで約2.0kmを行列で歩きます。
船には道中配布用のお神酒と歌い手用の太鼓などが積まれ,引き手は新5-6年生の児童のみで行い,盛物は崩れないように回りから支える為の棒を持った人達や,頂部から出た藁縄でバランスを保ちながら大人の手に引かれ,途中前方に稚児約140人を合流し,神社の境内まで運ばれました。
川沿いから境内までの道が,道幅も狭い急な登り坂となっている為,盛り物が無事登り切る事が出来るのかが随分と心配されましたが,皆の心配するに及ばず,無事全ての行列が境内に入りました。
境内に入ると,盛物の回りに紅白の幕を掲げ目隠しをし,その中で薦を外す作業が行われ,その作業の間には巫女さんによる舞の奉納が神舞殿で行われました。
舞の奉納が終わり,紅白の幕が外されると,綺麗な餅が張り付いた盛物本来の状態が披露されるという仕掛けになっており,参加者を沸かせました。
盛物を前に神事が執り行われた後には,関係者により餅が外され,小袋に入れて参加者に配られました。
全て餅を外された盛物の骨は,解体後にお焚きあげされるとの事です。 又,台車はいつ頃に制作された物なのかは不明で,戦前か戦後の物であるとの事でした。
次回の開催は,11~12年後を目安にしているとの事でしたが,はっきりとした事はまだ分からないとの事でした。
今回の画像は,同
フォトアルバムにも掲載しています。
Posted at 2016/04/22 05:54:12 | |
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