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2017年07月09日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十三 西築出の痕跡編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十三 西築出の痕跡編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

地味〜なとこばかり紹介しておりますが、今回もよろしくお付き合いくださいm(_ _)m

さて前回ご紹介したのは、昔、三原城の西築出(にしつきだし)という曲輪(くるわ)にあった御作事奉行所の門(順勝寺山門)でした。

今回は、西築出だったと思われる場所に残る三原城の痕跡を探します!

三原城には、本丸、二の丸、三の丸のほかに、東西に築出(つきだし)と呼ばれる曲輪がありました。

そのうち、東築出(ひがしつきだし)についてはこのシリーズの第七回第八回で触れました。今回は西築出です!

さて、まずはいつもの幕末の三原城絵図にて西築出の場所を確認しましょう!

コチラ!


このややナナメになった四角い形をよく覚えておいてください。

で、現在の地図で見ると…


このあたりになります。

みなさん、この○の範囲内をよ〜く見てみてください。


こういうことだと思うわけです!!


この四角具合!このナナメ具合!

どう見ても西築出です!!

さて、ここからはそれを検証してきいたいと思います(^^)

検証するのにやっぱり役立つのは西浜変遷図!これ見たら一目瞭然!


色が白の部分が元々の城地、色がついてる部分が埋め立てた土地です!


ほら、やっぱりね(о´∀`о)

さて、ここからは現地の写真と合わせて、ひとつずつ確認していきましょう!

まずは東!

西築出東の縁(へり)の石垣は帝人通りの下に埋まっていると、『三原市史』に記されています。


カメラマークを付けている場所で写真撮ってきました。

まずは国道の北側。北から南を向いて撮影。


お次は国道の南側。南から北を向いて撮影。


お次はこの小路。


御作事通りです。


この御作事通りなんて、たぶんここの通りの名残りだと思うんですよ。


というのも、この通りのすぐ北にある西築出の出入口の酉門を基準に考えると、道路の位置が一致するんですよね。

酉門跡


酉門跡の石碑


どちらにも、酉門のすぐ南には西に向けて道が通っていますね。


もう一度、御作事通りの現地の写真を。

おそらく、右の自販機とか駐車場は堀の跡、お好み焼き屋さん辺りが木材置場で、この道をまっすぐ進んで右にワキ役所、左に御作事奉行所、といったところでしょう。



この公園あたりが御作事奉行所跡かな?


と、いうことになると、さらにここも一致すると思うんです。


道幅は変わってるんでしょうけどね。


国道の向こう側にも小路の跡が続いてるのがわかります。


ちなみに、ここのセブンイレブンあたりには、吾往館(ごおうかん)という施設があったそうです。


セブンイレブンのすぐ東側、西築出の東の縁(へり)である帝人通りと国道の交差点に吾往館の説明板があります。


吾往館の説明板。




西築出の南東にあった吾往館は、江戸時代後期に作られた武術の鍛錬をする場だったそうです。

城絵図から吾往館の部分をピックアップしたものが『三原市史』に載っていました。ので、それを似せて作ったのが下の図です。

『三原市史』第97図 吾往館 慶応年間の備後国三原城絵図による(の模写)


吾往館の敷地内には、剣とか槍とか書き込まれています。お隣には佐分利槍術とあり、説明板の内容とも一致しますね。

『三原市史』によれば、

安政3年(1856)、浅野忠助(三原城11代城主)は家督を忠英に譲って三原に隠退したのち、家臣の武芸を鍛錬するために、翌4年(1857)、講武所に加えて西築出に吾往館(ごおうかん)を創設し、ここで家臣やその子弟たちを集めて修行させた。

とあり、剣術、槍術、砲術などを教えていたとのこと。

黒船が浦賀に来航したのが嘉永6(1853)年なので、この時期は西洋の脅威が迫っていましたから、軍備を整えることが喫緊の課題だったのでしょう。なお、東築出に構武所や大砲鋳造場が作られたり、城内に大砲が設置されたのもこの時期です。

おっと、話が逸れました。

さて、残すは西築出の南と西の縁(へり)の確認です!

南側の縁(へり)は、セブンイレブンの南側の小路です。




この写真の小路の右=南側はもう海だったんですね。何の痕跡もありませんが。

道がまっすぐなのが西築出の南側の石垣があった名残りでしょうか。

そして、西築出の西の縁(へり)はこの小路。




ここで先ほどの御作事通りとぶつかります。


で、たぶん、安井歯科から南に伸びる小路も西築出の名残りでしょう。






こちらも国道の向こう側まで小路が続く。


というわけで、いかがでしたか?

三原城の西築出を歩き回ってみましたが、これが城の跡だというわかりやすい痕跡は正直ありませんでしたが、どうもそれらしいと思える小路はありました。

地図と絵図を見比べると場所も一致するし、色々調べていく作業はなかなか面白かったです!(^^)

長い文章になりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました!

三原城シリーズ、まだまだ続きます!



つづく



Posted at 2017/07/09 19:27:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年05月19日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十二 現存建造物③順勝寺山門】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十二 現存建造物③順勝寺山門】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

最近、マニアックなネタばかり続いたので、久しぶりにわかりやすい遺構をご紹介します!

三原城内にあった門は4棟現存しています。

これまでに、このシリーズでも、糸碕神社神門極楽寺山門をご紹介いたしました!

今回は現存建造物シリーズ第3弾として、順勝寺山門をご紹介します!

この門は、三原城の西築出(にしつきだし)にあった御作事奉行所の門を順勝寺に移築した=一度解体してリサイクルした門なのです!


門の手前には石碑と説明板が設置されています。




三原城内にあった御作事奉行所門を明治10年(1877)に順勝寺に移したものである。
築城当時の建築物が、当時の状況を保存して現存するものは非常に少なく、貴重な遺構で、永禄から天正年間(1558〜92)の作と推定される。


・・・って、えぇぇ!?∑(°д°;)

なんかサラッとすごいこと書いてありますが、永禄から天正年間の作と推定!?

小早川隆景が三原城築城を開始したのが今から450年前で、それが永禄10(1567)年ですよ!?

この門は、その当時造られた可能性がある・・・と!?

ウソだぁ〜!!ホントかよ〜!!

ちなみに永禄10(1567)年といえば、大河ドラマ『おんな城主 直虎』をご覧の方なら分かっていただけるかもしれませんが、ちょうど5月14日放送の第19回「罪と罰」のお話の中で登場したエピソード「武田信玄が息子の義信を幽閉した」のがこの年ですよ!?

織田信長だって、この年にようやく尾張・美濃の2ヶ国を治めるようになった頃ですよ!?

それに、天正年間の作だったとしても十分古いですよ!?

信長が室町幕府の将軍足利義昭を京都から追放して、それから天下統一の過程で信長は死んじゃいますけど、そこから豊臣秀吉が天下統一する頃までが天正ですから。江戸時代はまだまだ先の話です。

それの何がすごいのかって話ですが・・・

基本的に城とは戦いのための施設ですから、戦や時の為政者の方針なんかで破壊されることもあるわけで、城郭の建造物でそんな時期のものが残っているとなると、ものすごい貴重な代物だってことです。

この門、ホントにそんな古い建造物なのかなぁ(^_^;)

でも・・・


この扉の壊れ具合・・・


この屋根の痛み具合・・・


確かに、古い建造物なのは間違いなさそうですけど・・・。

あと、飾り気が全くなくシンプルなつくりというか質素というか。城門ってもう少し装飾が施されてるように思います。

もう一つ気になるのは、説明板で構造形式が四脚門とされていますが、そうじゃないような気がして。

これらの点について、江戸時代初期につくられたという別の四脚門の説明板を見ながら考えてみました。

これは同じ三原市内にある宗光寺山門の説明板なのですが、左の図にご注目。


門を横から見た図ですが、四脚門は本柱の前後に控柱がそれぞれある、要するに、本柱の数は数えないで、控柱が4本あるから四脚門というらしいのです。


そうして見ると、やはり順勝寺山門の構造は四脚門とはいえないと思います。


あと、この門に装飾がないというのもお分りいただけるかと。

まあ、そもそも、奉行所の門としてのこの門の格式と宗光寺山門の格式が同じではないと思うので、単純には比べられないとは思いますが。



では、元々この門があった御作事奉行所とはどこなのか確認してみましょう。

三原城の西築出(にしつきだし)のちょうど真ん中に御作事奉行所はありました。




で、さらに御作事奉行所を拡大して見てみるとこんな感じです。


これは、慶応期の城絵図から御作事奉行所のみを書き出したものですが、『三原市史』に載っていたので一生懸命紙に書き写してみました!ご覧の通り、御作事奉行所には門が3棟あったようです。

順勝寺に移築された門は、このうちのどれか一棟なのでしょう。

最後に、御作事奉行所があったあたりの現在の様子を確認しておきましょう。

大体、このあたりかと推定します。


上のGoogle mapで○印を付けたあたりの風景はこんな感じ。


このあたりには、御作事っていう地名がちゃんと残っています。


ちなみに作事奉行とは、
鎌倉・室町・江戸幕府の職名。殿舎の造営・修理や土木などの工事をつかさどった。(goo国語辞書より引用)

江戸時代250年間、広島藩の支城であるにもかかわらず50万石クラスの大大名が本城としていてもおかしくない規模だったとも言われている三原城。

250年あれば、建物も石垣も、色んなところが傷みます。地震や台風で壊れたため幕府に修理を申請したという記録もありました。規模が大きい城だから、あちこち修理が大変だったことだろうとお察しします。

と、いうわけで、今回は貴重な三原城の現存建造物をご紹介しました!

残る現存建造物は、佐木島にある安楽寺の山門!

天気の良い休日にでも島に取材に行くかなぁ〜(о´∀`о)



つづく




【平成29年7月3日 追記】
ボロボロだった順勝寺山門が修理されておりました!


ジャーン!


ずいぶん綺麗になりました!


ボロボロに朽ちて立て掛けてあった扉もご覧の通り綺麗に!良かったねぇ(T_T)


屋根も綺麗!


美しく塗られた白い壁!


築城450年事業のチカラで復活した順勝寺山門!

みなさまもぜひ見に行ってあげてください!(*´-`)
Posted at 2017/05/19 20:08:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年05月16日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十一 水尾(みお)編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十一 水尾(みお)編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

だんだんと城郭には直接関係ない痕跡ばかり取り上げるようになったこのシリーズ(^_^;)

前回の西浜なんかはまだギリギリ城の外郭あたりのお話でしたが、今回のコレなんてもはや直接的な城の設備ですらございません。

そんな第21回目のテーマは、水尾(みお)!

いわゆる導流堤というやつです。

導流堤とは…
流水の方向や速度を一定に保つために設けられた堤。多く、土砂の堆積を防ぎ流路を維持する目的で、河口や合流・分流地点に設けられる。(コトバンクより引用)

このシリーズで、三原の川は土砂の堆積作用が強く、河口の港も土砂で水深が浅くなってしまうため、たびたび浚渫(しゅんせつ)=掘り浚えをしなければならず大変だったということに触れました。恐らく、今回取り上げる水尾はその痕跡だと思われます。

まずは幕末の慶応期の城絵図で確認。


恵下谷川と西野川の河口にバッチリ描かれておりますね。


現在の姿をGoogle mapの航空写真と現地で撮った写真で確認するとこんな感じ。


恵下谷川と西野川が交わるところに2本の水尾(導流堤)が確認できます。

手前が恵下谷川、奥が西野川。


コンクリートで補修されてます。


さて。ここで、もう一つ絵図で確認。

上の幕末慶応期の城絵図から遡ることおよそ20年前に描かれた紙本著色備後三原絵図(1840年)を確認。


水尾(導流堤)に関しては、城の設備じゃなく城下町の設備なので、この絵図のほうが正確に描かれているだろうと思われますが、川の河口に3本の水尾(導流堤)が描かれているのが確認できます。

そのうち、恐らく下(南側)の2本が今も残っている水尾(導流堤)なんだろうと思います。


一番下(南側)の水尾(導流堤)については、『みはら雑学王』にこんな記述を見つけました!


西野川のヘビ石
西野川の運んでくる土砂が宮沖干拓地の排水口を塞ぐのを防いでいる。




確かに。西野川の流れが宮沖新開(干拓地)の排水口に近づけないよう水尾(導流堤)で遮ってあることがわかります。


で、真ん中の恵下谷川河口の水尾(導流堤)は、恵下谷川自体の流路の確保と、もう一つは、やはり西野川からの土砂が西浜港へ流入するのを防ぐ目的があったのだろうと思います。

その辺りに関することを探ってみたところ、『三原市史』の第二巻に以下のような記述がありました。

慶安2(1649)年、西浜に藩の米蔵が置かれて、年貢米の納入や搬出の基地となった。
(中略)
元禄期(1688~1704)以降に西船屋敷が設置され、ついで安永年中(1772~81)に新土手築調に取りかかり、天明元年(1781)に西浜新地(土手)が完成した。
(中略)
西浜は、西野川の土砂流入によって航路が埋没するという問題を常に抱えていたので、航路の保全には多額の費用が必要であった。明和8年(1771)、西町の町人は建て替えた水尾の浚渫費を回収するため、入港船から徴収する上げ荷賃を100石につき米1斗から、1石につき銀3厘に改め、問屋に徴収させている。


西浜は、広島藩の米蔵がある重要な港。常に船が出入りできる状態を保つために、多大な費用と人手をかけてそれを維持してきたことが伺えます。

この公共事業をするのに藩にもお金がなかったから、三原西町の町人から借金をしたということかな?

さらには、宮沖新開も元々は海だった場所を埋め立てた土地。戦国時代のように、戦争をして領地を拡大できない江戸時代にあって、三原を治めた浅野の殿様と西町の町人にとって、いかにして土地を確保し、そこから生産性を高めて、少しでも人々が豊かに生活できるようにしていくかというのは本当に重要なことだったのだろうと思います。

そういったことを維持するために必要な浚渫(川浚え)の作業は大変なので、少しでも負担が減るように、この水尾(導流堤)が築かれた、ということなのでしょう。


今まで、「この石は何なのだろう?」とは思っていましたが、色々調べた上で「水尾(導流堤)なのだ」という意識で同じものを眺めたときに、先人たちの苦労と努力というものが垣間見えて、同じ風景なのに一味違った印象を持つようになった、という今回の取材でした。



つづく
Posted at 2017/05/16 19:12:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年03月29日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十 西浜編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十 西浜編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズも今回で二十回目を迎えます!

こんなに続くと思ってなかった(笑)

まだまだ出していないネタがありますので、よろしくお付き合いくださいませ♪

さて、今回はマニアックでわかりにくい痕跡を一つご紹介です!

と言うか、そもそもマニアックな痕跡の方が多い連載ですけどね(^_^;)

トップの画像にも載せておりますが、今回取り上げるのは、

その十八 河原谷川編② でもちょこっと登場したこのワキ洋裁店の脇の小路の…


その先の…


コレです!


小路に佇むこの石柱。

南側の面には敷石紀念碑と記されており、


北側の面には、明治29年2月成功と。下には人の名前が彫られています。


さて、これは一体何なのでしょうか?

付近には、説明板等もありませんが、こちらの本にちゃんと載っておりました!




西浜のもやい柱
敷石記念碑とあるこの石碑は明治時代、西浜港の雁木(がんぎ)を築いたときの寄付者名簿だ。船をつなぐもやい柱としても使われていたようだ。

もやい柱とは、漢字で舫い柱と書き、要するに港にあるコレのことらしいです!


あの石柱は、昔、西浜港がそこにあった痕跡だということです!

Google mapで確認してみるとここになります!


かつては、もやい柱の位置から左側は陸地、右側には雁木とその先に港があったんですね。


いつもの幕末慶応期の城絵図だとこの辺り。


今じゃ完全な陸地と化し、港の跡形もないですが、この小路は、


ここの名残りってことですね。


ま、幅はもっと広かったはずでしょうけどね。

ちなみに、この場所の変遷を城絵図で確認しましょう!

まずは1644(正保元)年の備後国之内三原城所絵図。


江戸時代前期の、築城の時期に最も近い絵図ですが、この時点では港町も未発達で、もやい柱のあの道もまだ途中までしかないようです。

お次は、1709(宝永6)年の紙本著色三原西町絵図。


埋め立てたのか、土地が南に向けて広くなり、港町が発展しているのがわかります。あの道はまだ途中まで。

そしてお次は、江戸時代後期の1840(天保11)年の紙本著色備後三原絵図。


土地の埋め立てはさらに進み、港町も道も、右隣の西築出(にしつきだし)よりも南側に突き出した地形に変化しています!

こんなふうにして、この場所は江戸時代265年の中で姿を変えてきたようです!

ちなみに、この西浜の港は、三原城の結構大事な役割を持った港だったようです。

三原城は、城郭と港が一体化した城ですが、以前ご紹介した東築出(ひがしつきだし)には、船問屋が立ち並ぶ港町だったようですが、『三原市史第三巻』によれば、西浜には広島藩の浦辺蔵所があり、年貢米の輸送が行われる拠点としての機能を有していたそうです。


浦辺蔵所とは、藩への年貢米を納入するための蔵なのですが、本来年貢米は、広島藩のエリアならば広島城下にある米蔵(御蔵所)に納めるのが正しい方法らしいのですが、それだと非常に不便なので、町村の便利のために備えられた蔵が浦辺蔵所ということらしいです。

ちなみに広島藩では、三原以外にも尾道、忠海、竹原、三津、三次にも浦辺蔵所が設けられていたそうです。

『三原市史』によれば、大事な役割を持つ西浜の港には、

船乗りたちの便宜を図るため、文化14(1817)年に西浜に髪結い床が、天保2(1831)年には雪隠(公衆トイレ)が設置された

といったような面白い記述もありました!

しかし、そんな西浜港にも弱点が。

三原浦に流れ込む沼田川が運んでくる堆積物のおかげで船入の水深が浅くなってしまい、しばしば掘り浚えが必要となり、これが当時の三原西町の人々にとって大変な負担だったということが、三原市史に記されていました。

良港の条件とは、①水深があり ②囲まれていて波が静かで ③荷物の輸送に便利で ④大都市に近い というのが、2月18日放送のブラタモリ(#64「神戸の港はなぜ、1300年も良港なのか?」)で紹介されておりました。


水深が深くなければ、入港できる船舶は限られてしまいます。

その点、江戸時代後期に造られた糸崎の松浜港は水深が深く、明治時代に入ると港としての重要性は松浜港、ひいては糸崎港へとシフトしていったのでしょう。


やがて鉄道も開通し、昭和に入ると西浜は港としての役目を終え、完全に埋め立てられて陸地となっていったようです。


西浜変遷図によれば、西浜の港はピンク色と黄色に塗られているので、徐々に埋め立てられていったのがわかります。


もしかすると、もやい柱の小路の横のピンク色の部分は、冒頭で触れた西浜の港に雁木が築かれたことを示してるのかな?明治29年だし。

明治31年測量の地図を見ると、もやい柱の小路に沿ってL型に埋め立てて人工的な入り江が造られており、西浜変遷図の情報とも合致します。


探してみると、三原市のホームページに、明治から昭和初期までの西浜港の写真もありました!

(三原市ホームページ→検索コーナー「組織で探す」→教育委員会教育部「文化課」→「三原市歴史民俗資料館」→「みはら情景」→新みはら情景「西浜港(第22回)」の順に辿っていけばみれます。)


ちなみに、最近何度も登場するこの西浜変遷図、実はもやい柱の小路に設置されているのです。


そしてこのもやい柱の小路を南に、国道を渡ってさらに進んでいくと、前回も少し紹介した西浜の名前がついた西濱中大師堂に辿り着きます。




これももしかすると…


ここにあった休堂の名残りだったりして!

ま、妄想ですけどね。

と、いうわけで今回は、完全に陸地と化した場所が実は昔は港だったというお話でした!

ちなみに、今回紹介した場所の現在の町名は「港町」。その由来はきっと今回ご紹介したようなことなのでしょう。



つづく
Posted at 2017/03/29 19:31:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年02月10日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十九 浮世川堀編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十九 浮世川堀編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

前回は、三原城の西側の外堀であった、以前の河原谷川の痕跡を辿りました。

今回は、その過程で気になっていた石組みの溝について考えてみました!

というか、三原城のことを調べ始めるよりも前から、仕事でその近くを通るたびに気になっていて、城の痕跡なんじゃないかな〜と妄想してました。

さて、それはどこなのかといいますと、地図でいえばコチラ!


幕末慶応期の城絵図だとコチラ!


そして現地の写真はコチラ!


そうです、この溝が気になるのです!


ご覧ください、このいい感じに古そうなこの石積みを!


左右、もしくは上下で石の積み方が違っていたりして。


今は駐車場になってますが、以前は、この溝がある場所、家が建っていて、その家が倒されたと思ったらこの溝が出現しました。


僕にはこれが「堀の跡」に思えて仕方がないのです。

というのも、最近よく登場するこの図。


ここに注目すると…


この斜め左に上がっている道路の上下が緑色に塗られていますが、これは元々の水路や堀を埋め立てられたことを記しています。


と、いうことは…


この写真は、上の図の○印の地点を東から西を向いて撮影したものですが、この中央の斜めの道が昔からの道なんじゃないかな…と思うのです。で、もしそれが正しければ、元の河原谷川は右の家が建っている場所の辺りを流れていたはずで、道の左に接するこの溝の位置には…


浮世川堀があったはず!

以前にも、元々は三原城の堀だった場所が現在も一部分が残されて水路として利用されている(と思われる)例をご紹介しましたが、今回のコレもそうなんじゃないかと思ったんです。

西浜変遷図を見る限り、浮世川堀の跡説はいい線いってるんじゃないか…?(笑)


ただし、この石組みが当時から現存するものかどうかは別の話。仮にそうであっても、それはあくまで一部分でしょう。

あと、慶応期の城絵図や西浜変遷図を見て分かるように、堀の縁(へり)の形状がそのまま残されているならば、溝の西端は北から南へ折れ曲がっていなければならないはずですが、この溝の西端の形状は…


南から北へと折れ曲がっています。

逆方向に折れ曲がる形に改変されているようですね。

この石の積み方、なかなか古そうな印象を受けますが、実際のところ、いつ積まれたものかまでは僕には判別できません。。

あと、この溝の両方の先は暗渠(あんきょ)になってますが、どこに、どんなふうに繋がっているのだろう?

北側は、宗光寺方面か…?

南側の地下の水路は、地上からは見えないけど、浮世川堀の跡を利用して整備されてたりして。

まだまだ気になることが多いです!

この溝のことは、これからも継続して調べてみようと思っています!



つづく
Posted at 2017/02/10 19:26:03 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記

プロフィール

「かつて三原城内にあったという現存する移築門4棟、ついにコンプリート!(*´-`)
#糸崎神社神門(生駒氏邸門)
#順勝寺山門(作事奉行所門)
#安楽寺山門(御成御門)
#極楽寺山門(町奉行所門)
#三原城の痕跡を辿る
何シテル?   06/03 19:04
まっつん.と申します。 野球が好きです。 広島カープが大好きです。 多分、石橋を叩いて渡るタイプです。 カープ25年振りのリーグ優勝お...
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シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十二 現存建造物③順勝寺山門】 
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