• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

まっつん.のブログ一覧

2017年10月28日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十七 二の丸編③明善堂跡】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十七 二の丸編③明善堂跡】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

これまで、ただでさえ知らない人の方が多い三原城の、しかもマニアックな痕跡ばかりを辿って参りましたこのシリーズ。

前々回から、ようやく城の主要部の二の丸に攻め入っております!

さぁ、今回はどんな痕跡を確認するのでしょうか。

早速参りましょう!コチラです!


二の丸の中でも飛び出しているこの部分の…


ココです!前回ご紹介した西札門を入ってすぐです!

その痕跡が、トップ画像にも載せたコチラの写真!


旧藩校明善堂址と記された石碑が、駅前の帝人通りに佇んでいます。




現在の地図ではここになります。


明善堂の石碑には藩校と記されています。

正確には、おそらく広島藩が設置したものではなく、三原浅野氏が私的に設置したものなので藩校ではないと思うのですが…

要するに明善堂とは、武士の子弟の教育機関です。

明善堂について、『三原市史』にはこんな記述がありました。

文政2(1819)年三原城二の丸に創設。
漢学が中心で、四書の素読を終えて五経もしくは『唐詩選』『三体詩』『文選』等の素読をし、次に四書や『蒙求』等の講義を授け、かたわら輪読をさせ、史書の講義も授けた。とくに学力優秀な者に自習させて教授に質問させ、他の書物を読ませるなど、ほとんど朝陽館同様の教育であった。


※朝陽館…三原浅野氏が広島の屋敷内に設置した構学所。

授業時間も五つ時から九つ時で、生徒は6~9歳の間に入学し、21、2に至って退学した。生徒は200人で、学校経費は1ヶ月に現米300石があてられた。なお、明善堂は学堂と称され、文政9(1826)年町奉行所が石井豊洲に依頼して、月1~3回、東西両町の町医・町役人とその倅までを対象に学堂で教導講釈を行わせたことは注目される。教育内容は論語・小学の講釈であったが、督促にもかかわらず出席は芳しくなかったようである。明善堂は維新後廃止されている。

※石井豊洲(いしいほうしゅう)…竹原出身で三原浅野氏に仕えた儒学者。頼春水(らいしゅんすい)に師事し、その息子の頼山陽(らいさんよう)とも親交を持った。

特徴としては、明善堂で教えていた内容は、江戸時代に各藩にあった藩校の標準的なもののようです。

あと、武士だけでなく、町医や町役人とその子どもたちにまで対象範囲を広げているところは身分制社会である江戸時代にあってなかなかおもしろい試みではありますが、残念ながらあまりはやらなかったようですね(^_^;)

武士の子弟の皆さんはここで座学を受けて、西築出の吾往館で武術を学んでいたのでしょうか。

というわけで、今回は三原城にあった教育機関についてご紹介いたしました!

次回も二の丸の痕跡を辿ります!



つづく
Posted at 2017/10/28 18:01:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年09月24日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十六 二の丸編②西札門跡】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十六 二の丸編②西札門跡】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

長い時間をかけて、ようやく城の主要な部分をご紹介していくわけなのですが、前回は、二の丸の概要に少しだけ触れました!

今回からは、城の中枢である二の丸があった場所を実際に歩きながらその痕跡を探していこうと思います!

さて、今回ご紹介するのは、三原城二の丸の西側の正門だった西札門(にしふだもん)です!




現在、西札門跡付近には説明板が設置されています。






説明板の図をもとにしてみると、実際にはこの辺りだったのかな、と。帝人通りのカーブしてるところがこのへんなので。






見る限り、それらしき痕跡は何一つ残っていないようです。

で、説明板にも書いてあるように、この門を通過するためには入城許可の札(ふだ)を見せなければならなかったので、札門(ふだもん)と呼ばれたようです。まさに、城に入るための正門であり関所であるというわけです。


西札門の形式は、東西の大手門と同じ櫓門だったことが絵図から読み取れます。


櫓門の例:広島城表御門


さすがは城の二の丸の正門です。入城許可札なしで突撃しても、こんな櫓門があったのでは返り討ちにされておしまいです。


また、折れ横矢掛かりの仕掛けもバッチリです。

門(虎口)の手前で道を直角に折れ曲がらせることによって敵兵の勢いを削ぎつつ、櫓門で敵兵を足止めし、櫓門と横の塀から正面・側面の同時攻撃を加えて一網打尽にしてしまおうという意図があると思います。

さらに、前回少しご紹介したように、このエリアは馬出(うまだし)としての機能が備えられていると思われる
ので、敵兵からすれば、二方向からの攻撃に怯んだときに、この大きな門の扉が開くと相手の兵士が一気に飛び出してきて蹴散らされる…というそれは恐ろしい仕掛け。

このように、二重三重にも防御の仕掛けが施されていることからも、まさに城の正門として重要なポイントであったことがわかります。

残念ながら、その遺構は現在全く残っていませんが、ここには三原城に入るための正門があったんだなぁ…なんてことに思いを馳せながら帝人通りを歩いてみるのはいかがでしょうか(^^)




つづく
Posted at 2017/09/24 19:00:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年09月10日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十五 二の丸編①縄張りについて】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十五 二の丸編①縄張りについて】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

この不定期連載を始めて1年半。

マニアックな痕跡をチマチマと追いかけて参りましたが、いよいよ城の主要部である二の丸の痕跡を探していきます!

まずは、

三原城の二の丸ってどの部分なの?

ってところからです。

本当は今回のこの記事を書くつもりはなかったんですが、二の丸の痕跡の記事を書いていくうちに、最初に触れとかないと文章がいちいち長くなってしまいそうなので書いておくことにしました(^_^;)

さて、本題に戻ります。

三原城の二の丸ですが、いつもの幕末慶応期の三原城絵図で示すと、この部分になります。


結構範囲が広いんです。

そもそも、三原城の縄張りについて少しだけ触れておかねばなりません。

◯分類
三原城は元々海だった場所にあった二つの小島をベースに、付近の海を埋め立てて造った平地にあるお城なので、平城に分類されます。

ちなみに、ざっくり言うと、山の上なら山城、平地とそこにある低い山や丘を利用していれば平山城といった具合です。

平城の例:広島城


平山城の例:姫路城


山城の例:備中松山城


◯縄張り
次に縄張りですが、城の主要な曲輪=郭(くるわ)の配置がどのようになっているかを見ていきます。三原城の場合は、本丸を角に配置し、それを二の丸、三の丸が三方向を包むようにして配置されています。

このような特徴を持つ郭の配置は、梯郭式(ていかくしき)といいます。


縄張の基本のかたち(枻出版『再入門 オトナのための城』p116より引用)

連郭式


梯郭式


輪郭式


梯郭式の説明の中で背後に自然地形を応用するとありますが、三原城の場合は本丸の背後に位置する桜山詰の丸として整備し、背後の備えとしています。

本丸天主台と桜山の位置関係


詰の城
一つの城の中で最終拠点となる地域,または曲輪(くるわ)。本丸一帯をさす場合と,本丸よりもさらに重要な曲輪を設けてそれをさす場合とがある。(三省堂大辞林より抜粋)

◯馬出(うまだし)
実はこの三原城の二の丸のこの部分、広島城の二の丸と作りが良く似ていると思うんです。


安芸国広島城所絵図(城の主要部を拡大したもの)


広島城二の丸


広島城二の丸は、馬出(うまだし)という構造になっていて、その狙いは、敵が攻め寄せて来たときにこの郭の虎口(門)の内側に自軍の兵士を待機させておき、そこで敵を迎撃することもできるし、一気に出撃させることもできるというところがポイントです!

馬出は、戦国時代に東日本の城郭でよく用いられ、豊臣秀吉も京都の聚楽第(じゅらくてい)にこの仕掛けを用いたようです。毛利輝元が築城した広島城は聚楽第を模して作られたといいますから、毛利家家臣で豊臣政権の重鎮でもあった小早川隆景がその影響を受けて三原城にも取り入れたんじゃないかな〜と想像します。

なお、馬出は慶長期(1596年〜1615年)に築城された近世城郭に取り入れられているものもあり、例えば、江戸幕府が天下普請で築城した名古屋城なんかにも馬出が存在しています。

◯主要な家臣の屋敷
江戸時代の初期を除けば、明治時代に至るまで浅野氏が三原城を治めました。三原城主となったのは、本家である広島藩浅野家の家老であった三原浅野氏ですが、実は、幕末になるまでは城主といえども主家の家老ですから、広島藩の藩政に参加するために広島の屋敷で生活をしていました。

なので、三原城には年に数回来る程度。代わりに、城代として三原城を預かっていたのは、三原浅野氏の重臣・戸田氏でした。

彼らのような城代クラスの重臣たちの屋敷が二の丸には並んでいました。ちなみに、城代を務めた戸田氏の屋敷はコチラ!


二の丸南東部にある船入櫓(ふないりやぐら)の付け根のような場所に位置していたようです。

ちなみに。三原城代の戸田氏歴代のお墓が三原市中之町に存在します。

写真はコチラ!


草ボーボーです(^_^;)

場所は、上でも少し触れた桜山の北側を通る大目木峠に位置しています。元々ここには戸田氏の菩提寺であった正法寺があったので、ここにたくさんのお墓が存在しているとのこと。なお、現在の正法寺は三原市本町に移転しています。




しかしながら、維持をするのも大変なのでしょう。この場所に足を運んだのは今年の8月初旬でしたが、三原築城450年事業の力で何とかしてあげられないものなのでしょうか。。


さて、三原城の二の丸に関する予備知識はこのへんにして、次回からはいよいよ三原城の二の丸の痕跡を探っていきます!!



つづく
Posted at 2017/09/10 20:23:50 | コメント(1) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年07月31日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十四 酉門(妄想)編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十四 酉門(妄想)編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

今回は、前回ご紹介した西築出(にしつきだし)の出入り口にあった酉門(酉ノ御門)をご紹介します!

通して読んでいただいている方の中には記憶に残っておられるものもあるかもしれませんが、これまでもこのシリーズでは、三原城の城門跡(石碑が建っているところ)について取り上げてきました。

その十三 東大手門(妄想)編
その十四 後東門石垣編
その十六 西大手門(妄想)編

なので、この酉門についても色々と考えてみたいのですが、何せ、城絵図くらいしか資料がないものですから、あとは自分なりに妄想していきます!

さて、上の画像にもあるように、三原市港町にあるしまなみ信用金庫の正面玄関の所に石碑が建っています。








今となっては何の痕跡もありませんね。

一方、城絵図で確認するとこのような感じで。

正保期(1645年〜1649年)の絵図




幕末慶応期(1865年〜1868年)の城絵図




絵図を見る限り、江戸時代を通じて城門の形式は変わっていないようです。まぁ、武家諸法度という法令で改変を禁止されていましたからね。

一、新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事
訳:新たに築城することは厳禁する。居城の堀、土塁、石塁などが壊れたときは、奉行所に申し出て指示を受けること。櫓、塀、門などは元通りに修理すること。(Wikipediaより引用)


で、絵図で見る限り、その形式は、東西の大手門のような櫓門ではなく、後東門と同じように薬医門もしくは高麗門であったのではないかと思います。

櫓門の例(広島城二の丸表御門)


薬医門の例(相方城移築門)


高麗門の例(松本城黒門枡形の高麗門)



さて、門の形式もさることながら、ここの門の防御の特徴は、やはり横矢掛かりでしょう。

以前、後東門の時にもご紹介しましたが、侵攻してくる敵兵を側面から攻撃する横矢掛かりという仕掛けがここにも施されているように思います。人間って目が前にしかついていませんから、横からの攻撃には弱いです。そのために、城の二の丸や本丸には石垣の上に塀や櫓(やぐら)が建てられているのに対し、敵兵が進んでくる道や西築出側にそのようなものがないのは、明らかに側面攻撃を狙っている証拠。おまけに敵兵の勢いを削ぐために道幅も途中で狭めてあります。

そして、酉門の所で道を屈曲させている食違虎口(くいちがいこぐち)。ここで酉門を閉ざしておけば、敵兵は二の丸に背中を向けることになるので討ち取り放題…。

小早川隆景が築き、福島正則が機能を強化させたこのお城。なんとも恐ろしい仕掛けが満載ですねぇ(^_^;)

また、このあたりの縄張りは、馬出しのようにも思えるのですが、これについては二の丸を取り上げるときにご紹介したいと思います!

というわけで、今回は西築出の出入り口の酉門を妄想全開でご紹介しました!

さて、ここまでマニアックな城の痕跡を中心に追いかけてきたこのシリーズも、次あたりからはいよいよ城の主要部について取り上げていきたいと思います!

この不定期連載を始めておよそ1年半。ようやくここまで来ました(^_^;)

というわけで、次回をお楽しみに〜


つづく
Posted at 2017/07/31 19:05:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記
2017年07月09日 イイね!

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十三 西築出の痕跡編】

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十三 西築出の痕跡編】三原城の痕跡を辿るこのシリーズ。

地味〜なとこばかり紹介しておりますが、今回もよろしくお付き合いくださいm(_ _)m

さて前回ご紹介したのは、昔、三原城の西築出(にしつきだし)という曲輪(くるわ)にあった御作事奉行所の門(順勝寺山門)でした。

今回は、西築出だったと思われる場所に残る三原城の痕跡を探します!

三原城には、本丸、二の丸、三の丸のほかに、東西に築出(つきだし)と呼ばれる曲輪がありました。

そのうち、東築出(ひがしつきだし)についてはこのシリーズの第七回第八回で触れました。今回は西築出です!

さて、まずはいつもの幕末の三原城絵図にて西築出の場所を確認しましょう!

コチラ!


このややナナメになった四角い形をよく覚えておいてください。

で、現在の地図で見ると…


このあたりになります。

みなさん、この○の範囲内をよ〜く見てみてください。


こういうことだと思うわけです!!


この四角具合!このナナメ具合!

どう見ても西築出です!!

さて、ここからはそれを検証してきいたいと思います(^^)

検証するのにやっぱり役立つのは西浜変遷図!これ見たら一目瞭然!


色が白の部分が元々の城地、色がついてる部分が埋め立てた土地です!


ほら、やっぱりね(о´∀`о)

さて、ここからは現地の写真と合わせて、ひとつずつ確認していきましょう!

まずは東!

西築出東の縁(へり)の石垣は帝人通りの下に埋まっていると、『三原市史』に記されています。


カメラマークを付けている場所で写真撮ってきました。

まずは国道の北側。北から南を向いて撮影。


お次は国道の南側。南から北を向いて撮影。


お次はこの小路。


御作事通りです。


この御作事通りなんて、たぶんここの通りの名残りだと思うんですよ。


というのも、この通りのすぐ北にある西築出の出入口の酉門を基準に考えると、道路の位置が一致するんですよね。

酉門跡


酉門跡の石碑


どちらにも、酉門のすぐ南には西に向けて道が通っていますね。


もう一度、御作事通りの現地の写真を。

おそらく、右の自販機とか駐車場は堀の跡、お好み焼き屋さん辺りが木材置場で、この道をまっすぐ進んで右にワキ役所、左に御作事奉行所、といったところでしょう。



この公園あたりが御作事奉行所跡かな?


と、いうことになると、さらにここも一致すると思うんです。


道幅は変わってるんでしょうけどね。


国道の向こう側にも小路の跡が続いてるのがわかります。


ちなみに、ここのセブンイレブンあたりには、吾往館(ごおうかん)という施設があったそうです。


セブンイレブンのすぐ東側、西築出の東の縁(へり)である帝人通りと国道の交差点に吾往館の説明板があります。


吾往館の説明板。




西築出の南東にあった吾往館は、江戸時代後期に作られた武術の鍛錬をする場だったそうです。

城絵図から吾往館の部分をピックアップしたものが『三原市史』に載っていました。ので、それを似せて作ったのが下の図です。

『三原市史』第97図 吾往館 慶応年間の備後国三原城絵図による(の模写)


吾往館の敷地内には、剣とか槍とか書き込まれています。お隣には佐分利槍術とあり、説明板の内容とも一致しますね。

『三原市史』によれば、

安政3年(1856)、浅野忠助(三原城11代城主)は家督を忠英に譲って三原に隠退したのち、家臣の武芸を鍛錬するために、翌4年(1857)、講武所に加えて西築出に吾往館(ごおうかん)を創設し、ここで家臣やその子弟たちを集めて修行させた。

とあり、剣術、槍術、砲術などを教えていたとのこと。

黒船が浦賀に来航したのが嘉永6(1853)年なので、この時期は西洋の脅威が迫っていましたから、軍備を整えることが喫緊の課題だったのでしょう。なお、東築出に構武所や大砲鋳造場が作られたり、城内に大砲が設置されたのもこの時期です。

おっと、話が逸れました。

さて、残すは西築出の南と西の縁(へり)の確認です!

南側の縁(へり)は、セブンイレブンの南側の小路です。




この写真の小路の右=南側はもう海だったんですね。何の痕跡もありませんが。

道がまっすぐなのが西築出の南側の石垣があった名残りでしょうか。

そして、西築出の西の縁(へり)はこの小路。




ここで先ほどの御作事通りとぶつかります。


で、たぶん、安井歯科から南に伸びる小路も西築出の名残りでしょう。






こちらも国道の向こう側まで小路が続く。


というわけで、いかがでしたか?

三原城の西築出を歩き回ってみましたが、これが城の跡だというわかりやすい痕跡は正直ありませんでしたが、どうもそれらしいと思える小路はありました。

地図と絵図を見比べると場所も一致するし、色々調べていく作業はなかなか面白かったです!(^^)

長い文章になりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました!

三原城シリーズ、まだまだ続きます!



つづく



Posted at 2017/07/09 19:27:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 三原城の痕跡を辿る | 日記

プロフィール

「かつて三原城内にあったという現存する移築門4棟、ついにコンプリート!(*´-`)
#糸崎神社神門(生駒氏邸門)
#順勝寺山門(作事奉行所門)
#安楽寺山門(御成御門)
#極楽寺山門(町奉行所門)
#三原城の痕跡を辿る
何シテル?   06/03 19:04
まっつん.と申します。 野球が好きです。 広島カープが大好きです。 多分、石橋を叩いて渡るタイプです。 カープ25年振りのリーグ優勝お...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2018/1 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   

リンク・クリップ

シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その二十二 現存建造物③順勝寺山門】 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2017/05/19 22:04:52
シリーズ【三原城の痕跡を辿る・その十四 後東門石垣編】 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2017/02/08 22:52:36
関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか? 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/12/09 01:19:34

ファン

2 人のファンがいます

愛車一覧

マツダ CX-3 マツダ CX-3
ワゴンRがガタガタになったので、新車購入しました!
その他 その他 その他 その他
2010年4月に購入。色はもちろん「赤」! 運動のために、通勤時に使おうと購入しましたが ...
スズキ ワゴンR スズキ ワゴンR
2007年3月中古で購入。 人生初のマイカーで、今もがんばって走ってくれています。 20 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
©2018 Carview Corporation All Rights Reserved.