久しぶりにお花見をしようということで、O23と桜を見に行ったが人の群ればかりであり、満開の木の下で黙々と飲食をしている人たちばかりであった。
それに枝を見上げて桜を愛でている人など誰もいなかった。
まあ、ウチもおんなじようなもんだが、、、。
パッと咲き、パッと散る桜は日本人に取っては無常の象徴でもあるのだろう。
やはり桜は遠くで見る方が美しく、また桜が放つ妖しい色香は日本人として組む込まれているであろう無常感のDNAを再生してくれるかのようでもある。
桜はそのために咲くのかもしれない。
そして私は、この時期になると坂口安吾の短篇小説 桜の森の満開の下のホラー小説のような妖しく未知なる世界の情景が今持って脳裏に浮かぶ。
桜の森の満開の下12世紀の鈴鹿峠。
山賊は山に棲み通りがかった旅人を殺し女は気に入れば女房にしていた。
この山のすべてこの谷のすべては自分の物と思っていたが桜の森だけは恐ろしいと思っていた。
桜が満開のときに下を通ればゴーゴーと音が鳴り気が狂ってしまうのだと信じていた。
ある春の日山賊は都からの旅人を襲って殺し連れの女を女房にすることにした。
女は連れを殺した山賊を怖れもせずに指図をする。
女は山賊に家に住まわせた7人の女房を次々に殺させた。
ただ足の不自由な女だけは女中代わりとして残した。
やがて女は都を恋しがり山賊は女とともに都に出た。
都で女がしたことは山賊が狩ってくる生首をならべて遊ぶ首遊びである。
さすがの山賊も嫌気がさし都暮らしにも馴染めず山に帰ると決めた。
女も山賊と一緒に戻ることにした。
山賊は女を背負って山に戻ると桜の森は満開であった。
山賊は山に戻ったことがうれしく忌避していた桜の森を抜けることにする。
だがゴーゴーと音の鳴る中桜の下をゆく山賊が振り返ると老婆の鬼が追いかけてきて山賊の首を絞めるのだった。
山賊は必死で鬼を振り払い鬼の首を締め上げた。
我にかえると女が桜の花びらにまみれて死んでいた。
山賊は桜吹雪の中、声を上げて哭いた。
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O23はお花見弁当を食べるのに忙しく私が頭の中で何を考えているか、何を夢想しているかなどはなどにはまったく関心がない。
私が桜を愛でながら考えていたこととは最近、再び40肩の症状が現れ40肩との診断を下した医者の予言通り今度は腰痛も出てきた。
適度な運動を欠かさないにも関わらず、、、。
こうやって少しづつ身体機能が壊れて行き私は老い死んでゆくのだろう。
病は気からなどと言われても自然の摂理である老病死は気持ちの持ちようだけでは防ぎようがない。
私の横で弁当をパクついているO23とあと何回の桜を見られるのだろう、、、。
妖気で人を惑わす桜も人間も散る寸前がいちばん美しく妖しく魅惑的な様相を示すものなのかもしれない。
縁あって結ばれた二人
子を作りその子が家庭を作り、そしてそんな風に家族はどんどん脹らんでゆく。
みんな自らの血で繋がっている。
その中で唯一血の繋がりが無いのは夫婦です。
生まれも育ちも違う二人
性格が正反対ならば考え方も真逆
仲良しの時もあれば喧嘩に明け暮れる事も
そんな二人が33年間も番いで
天に在らば比翼の鳥、地に在らば連理の枝と言う諺もあるが別にそんな夫婦を目指してきた訳ではないが。
見た目は仲良し夫婦
これも一重にO23の努力のたまもの。
美人は3日も見ると飽きると言うが我が奥方は一生見飽きない。
星の王子様の著者でもあるサン・テグジュペリがいい言葉を残している。
愛し合うこと、それはお互いに見つめ合うことではなく、2人で一緒に同じ方向を見つめることである。
幸か不幸か私達はいつもこの言葉のように見つめる方向は同じだったように思う。
最後までみて頂いたみなさんありがとうございました。
Posted at 2015/04/28 21:44:45 | |
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