2016年01月30日
過去にありえた「祭政一致」と政治は宗教じゃないという当たり前の話
政治に宗教を持ち込むな、
とはよく言うけど何故だと思うかという様なお話。
昔は祭政一致はありえたから、
現代においても政治を宗教にしようとする人達がいる。
個人崇拝とか
この人を信じるとか
こ奴は悪魔だとか(苦笑)
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正直片腹痛いけど…
とにかく「まじない」を現実に持ち込むと迷信になる。
何故昔々は
祭政一致が成立しえたかを
書こうかななんて。
それは単純で祀りを司る祭祀者が
何処までも地道に
現実的な政治を行ったから
なんだよね。
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でも当時の科学は未発達で
分からない事だらけ。
割り切れない事だらけで
誰も分からない、
でも決断しないといけない。
その時に、政治を司る祭祀者が
自らの責任という事を示す為
神の意を伺い、或いは占いやまじないを行い
出来るだけ多くの人の合意を得た
それが外れれば、人々の逆恨みは
祭祀者に及ぶ。
でも人間のやること、
賭けに常勝はできない。必要な人を
濡れ衣で粛清するなんてことは、
古代でもよくあった。
それを誤魔化す為に作られたのが
御霊、即ち怨霊なんだ。
つまり怨霊は人が作る物
そして人は勝手に怨霊を祀り奉る
本当の姿を知ろうともしないで、
そして勝手に滅したがる。。
陰陽師も、本来は人と御霊を
「とりもつ」役割で、人の心ひとつで
それらの姿も捉え方も変わる物ではあるんだよね。
逆に言えば人こそ危い生き物
と言えるかもよ。
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だから、祭政一致というのは
宗教に頼ったのではなく、何処までも現実的に
でも責任から逃げなかった
そういう祭祀者の歴史でもある。
だから今の陛下も
権力はないけど
祭祀を背負い、
権もないのに己の責を背負おうとしている
そうすることで一定の目を
己に向け、注意をそらす事も出来るからね。
また、それは日本人のあり方にも
もちろん影響を与えてはいる。
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翻って政治に勝手に信仰を持ちこむ人もいる。
勝手にすればいいけどね。
政治は何処までも現実的で多面的で
そして、それは権力のせめぎ合いでもある。
幸い今は民意を持って、政治に携われるけど
それ自体が物凄く稀有な事ではある。
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スターリンにしろ、毛沢東にしろ
個人崇拝の行く末と結末と
犠牲者は膨大なものだ。
それは崇拝の名のもとに思考を停止して
責任を人任せにしようとする人が
沢山いるから、なんだよね。
虎の威を借る狐が増えると
国は乱れる。
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要するに正義の名の元
思考を停止すれば、殆どの物は滅ぶ。
祭祀とは思考の果てに己が責を背負うもの
という事を人は容易に忘れ得る。
思考を停止し、価値観や感情の出し入れを始めると
無限にその、「バランスシート」は広がるけど
多くは無駄でもあるんだよね。
(その無駄に価値がないとは思わないけど
それを、勝手に
プラスやマイナスに変えてしまうと大きな
ツケを負う事になる。)
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かつて春秋の中国では
祀りを失う事を恐れた。
祀りを失った民族は
アイデンティティを失いやがて
巨大部族に同化される。
そういう蟲毒の中で出来たのが
中華民族という、祀りのない
何でも食べる、拡大と共食いをする
不思議な部族なんだけどね。
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もっとも祭りと祀りを
区別しない人も多いし
もちろん祭りの中に祀りもある訳で.
故に古代日本では従わない人達を
「まつろわぬ」民や神と称していたりする。
大抵そういう物を失うと
変なアイデンティティとか
火病祭りとか
そういう方向に行くのは
民俗学的にも興味深くはある。
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そんな訳で祀りと政治は別れる事になって久しいけど
これらはそれぞれ
人と国と民の基本である事は
変わりがない。
だってまじないとは、呪いであり
呪いとは、予言であり
それゆえ神職は祝(ほうり)ともいう
昔はほふりと書いてほうりと読ませたみたいだけど。
皮肉にも血と祀りは極めて近く
それ故、日本の天皇家は
万世一系であるべきとされていたりするんだけどね。
それを理解しない人は、例えば
盛んにこの女の血は汚れている
この穢れた女の血が入ったらもう駄目ニダとか言うんだけど
それを愛国だと思うなら、
やっぱり片腹痛いとしか言いようがない。
攻撃の時によくある常とう手段なんだけど
そんな神や悪魔は平易にいない(笑)
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そういう世界だからこそ
祭政は分けられた。
政に携われば、いわれなき
逆恨みや中傷を受けやすくなる。
ただ何ゆえ祭政一致が存在し
どうやってそれが維持されていたかと考えると
理知的や科学的である事と
祀りを保つ事は、古より対立する物ではない
(共産主義が宗教を否定しつつ
宗教である様なものかもね)
そういう証左ではある。
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とは言え、
自分の様な
下々の者は普通に日々を頑張っていれば
それでいいんだけど、(笑)
好き嫌いの話で言えば
正義の名のもとに皇室や日本に仇為す
「まつろわぬ者」になるのは
自分は嫌なんだよね。
もちろんそういう人たちは、
使命感や正義に囚われて足元を
壊そうとする。
禍つ者になっている事には気づかずにね。
分を誤れば自らも、そして廻りも滅ぶ
己の非才を恥じることも多いけど
非才であるからこそ分を過たないのは
幸いなのかもと思うことも多々ある。
その分努力は必要で、
苦労は絶えないんだけど、
それは仕方のないことだと思うしね。
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Posted at
2016/01/30 22:05:03
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