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ちょこば(旧chocovanilla)のブログ一覧

2012年06月06日 イイね!

【775年その3】内親王&王子の抹殺に伴う祟りの記録【平安遷都に繋がる歴史】

■もう半分趣味の世界ですね^^;
さあ、放射線が降り注いだ775年、日本には面白い記録がありました。
政変とそれに伴う「祟り」のスタートです。

vol.129 井上(いがみ)内親王②聖女の死と祟り

井上(いがみ)内親王は、天皇を呪い殺そうとしたという罪を着せられて、皇后を廃されてしまいました。
 しかし、井上内親王は皇后の立場にあり、しかも自らが産んだ他戸親王(おさべ・しんのう)は皇太子の地位にあったのです。
 夫の光仁天皇(こうにん・てんのう)は既に六十四歳なので、当時の平均寿命を考慮しても、あと何十年も皇位にあるとは思えません。
 あと少し待てば他戸親王が皇位に就くことは明確ですから、わざわざ井上内親王が夫を呪い殺す必要があるとは到底思えないのです。
 では井上内親王が廃后とされることによって利益を得るのは誰だったのでしょう。
 光仁天皇の第一子の山部親王(やまべ・しんのう)は、母の身分は高くありませんが、既に藤原南家の藤原吉子(よしこ)が嫁いでいて、二人の間には伊予親王(いよ・しんのう)が産まれていました。
 藤原氏にとっては、他戸親王よりも山部親王が即位した方が、遥かに好都合だったでしょう。しかし、事実は謎に包まれたままです。
 そして、二人が幽閉されてから二年後の宝亀6年(775)4月27日、二人は同じ日に亡くなりました。
 同じ日に亡くなるということは尋常な死に方ではありません。他殺か自殺であると考える方が自然でしょう。
 鎌倉時代初期に書かれた『水鏡(みずかがみ)』は、井上廃后は亡くなるとそのまま龍に成ったと記します。
 また、その後について、宝亀7年(776)7月には二十日日間ほど毎夜、瓦・石・土鬼(つちくれ)が降るという怪奇現象があり、冬には宇治川の水が絶えようとするまで雨が降らなかったと記します。
 そして、12月には光仁天皇と皇太子山部親王と藤原百川(ももかわ)が同時に、甲冑(かっちゅう)を着けた者百人ばかりが百川の命を取ろうとする不吉な夢を見、これを廃后と廃太子の霊と思った光仁天皇は、二人の鎮魂のために諸国の国分寺に命じてお経を読ませたと記します。
 また正史『続日本記(しょくにほんぎ)』も、同年9月に毎夜瓦・石・土鬼が降ったことを記す他、5月には災変が度々起きるので邪気を祓(はら)う儀式をしたことや、翌年3月には、宮中でしきりに妖怪がでるので同じように邪気を祓い、その他にも地震・日照り・暴風雨・内裏(だいり)への落雷などを記し、さらに宝亀9年(778)に井上内親王の墳墓を改葬し、「御墓(みはか)」、つまり貴族の墓の待遇としたことを伝えています。
 また他戸親王墓は山陵(みささぎ)と称し、天皇陵と同格とされました。
 しかし、このような読経や改葬などによっても井上母子の怨霊は収まらなかったようです。
 光仁天皇と皇太子山部親王の病気が続き、藤原蔵下麻呂(くらじまろ)・藤原良継(よしつぐ)・藤原百川らが相次いで命を落としました。
 これらも井上母子の祟りであると恐れられたのです。
 なかでも山部親王の病気は深刻で、重度の精神疾患に陥り、怨霊の勢いを抑えるためのあらゆる努力の甲斐もなく、一年もの間治る兆しが見えず、最後には皇太子自ら伊勢の神宮に行って病気の快復(かいふく)を祈願しました。
 皇太子の参宮は神宮の歴史においてこれまで先例がありません。やはり皇太子が遠路遥々参宮した甲斐あってか、健康を取り戻すことがでました。

 ところが、続けて光仁天皇の病気が悪化し、皇太子へ譲位して崩御(ほうぎょ)することになります。
 皇太子山部親王が即位して桓武天皇(かんむ・てんのう)となり、その同母弟の早良(さわら)親王が皇太子となりました。兄を天皇に、弟を皇太子に据えたのは、父光仁天皇の考えでした。
 桓武天皇即位直後には、廃后の御墓の近くに井上母子の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う寺が建てられました。
 でも井上母子の怨霊はその後も衰えることなく、遷都後の平安京でも暗躍し、怨霊として恐れられることになるのです。
 そしてついに延暦19年(800)、井上廃后に皇后の追称(ついしょう)を贈り、御墓を山陵と称して、皇后の墓と同格として扱うことになりました。これによって、井上内親王は二十八年ぶりに名誉が回復されたのです。
 その後も、天変地異などが生じると井上母子の祟りと考え、山陵を清掃し読経を行うといったような鎮魂が繰り返されました。
 後に、京都には上御霊(かみごりょう)神社と下御霊(しもごりょう)神社が創建され、二人の御霊が祀られました。現在もこの二つの神社は実在しています。

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気になるのは、
宝亀7年6月4日、太白、昼に現れる
何??太白??
でも宝亀7年は776年なんですよね。惜しい^^;

いずれにしても平安時代の到来には、
こんな事件があったというのは面白い物です。
疫学的には平凡でも、
秋篠寺は怨霊を鎮める為だったのかと思うと
感慨深いですね。

何気に今の弟宮は秋篠宮、ほう、因果は巡りますか…
思い切って775年に原発事故が
あったとするのはどうでしょうね(冗談です)


宝亀6年4/27からの数カ月いったい何があったのか…
天武朝断絶に関わる秘事が、放射性物質に絡むとは
日本は凄いですね^^;

あ、お隣からも史書が出るかもしれませんよ(皮肉)

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護国の盟友・最澄のこころ(3) 
ところが光仁天皇の即位を後押しした式家(藤原宇合家)兄弟の藤原蔵下麻呂
が宝亀六年四十二才の若さで死去、天変地異も重なり、祟りを怖れた天皇は秋
篠寺を建立するなどしたが、式家兄弟の連続変死と天変地異はその後も収まら
ず、
宝亀八年、天皇と山部親王(後の桓武天皇)が相次いで病に床に伏し、鼠の大
群、飢饉、台風、洪水、地震、流星、太白昼行(戦慄の余り彗星か流星の類を
金星と見間違えたかと思われる)、干ばつ、落雷、蝗の大群、地震、疫病、宮
中の怪異などが相次いで起こり、天応二年までのわずか五年間に藤原良継以下
四人と光仁天皇あわせて五人が次々と死去ならびに崩御、

極めつけは先帝喪中に起きた天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデター未遂
事件で、最早南都の政治腐敗と混乱は誰の目にも明らかな状況となっていた。

光仁天皇の御代、年を追う毎に、政情は悪化の一途を辿った。

皇后であった井上内親王と他戸親王が変死、大混乱期に突入した宝亀六年(七
七五)から、長岡京遷都の行われた延暦三年(七八四)までの九年間とは、お
よそ世人にとり、かって想像したこともないような期間であったに違いない。

試みに最澄の年齢に当てはめてみる。と、九才から十八才となり、およそ学齢
期から多感な青春時代に当てはまっていることがわかる。

では、後の盟友・空海の場合はどうだろうか。

宝亀六年と言えば空海は一才、遷都があった延暦三年でも、空海は十一才に過
ぎず、伯父について初学に就いたのは十四才というから、すでに遷都も進み、
桓武天皇の御代も十年に達している。この違いは小さくない。

そもそも最澄は理想家肌の構想者タイプであり、空海は実践家肌の創造者タイ
プ、元来がウマの合う間柄ではない。が、意識し合いながらも引き付け合い、
交歓したのは、互いがそれぞれの理想を高め合う存在であることを大いに認め
合ったからに他ならない。
Posted at 2012/06/06 21:49:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 過去の歴史と放射線 | 日記
2012年06月06日 イイね!

【775年その2】庶民は死ななかったが,貴人には異常が起きていた【20倍の放射線】

2012年06月04日
775年という平凡な年(宇宙線は20倍降り注いだけど)

の続きです。

屋久杉の年輪にあった20倍の宇宙由来の放射線の跡…
歴史書にかかれるような、疫病の発生はなかった年なのですが
貴人の世界ではいかがだったのでしょうか?


この時勢は桓武天皇の父光仁天皇の時代
ウィキでも覗いてみましょう

即位後、井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、宝亀3年(772年)3月2日、密告により皇后である井上内親王が呪詛による大逆を図ったとして罪し、皇后を廃した。5月27日、皇太子の他戸親王も廃し庶人とした。翌 宝亀4年(773年)高野新笠から生まれた山部親王を立てて皇太子とした。のちの桓武天皇である。この背景には、藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王の陰謀があったとされる[2][3]。さらに、宝亀4年(773年)10月14日、天皇の同母姉で二品の難波内親王が薨去されたことから、10月19日井上内親王は難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、大和国宇智郡の没官の宅に幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王も ともに幽閉されてしまう。やがて、宝亀6年4月27日(775年5月30日)、二人とも変死という運命を辿る。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。ところが、藤原式家の兄弟も、かつて皇后であった井上内親王の変死後に相次いで亡くなることになる。
宝亀6年(775年)、藤原蔵下麻呂(九男)、42歳で没。
宝亀8年(777年)9月18日、藤原良継(次男)没。藤原清成(三男)没
宝亀10年(779年)7月9日、藤原百川(八男)没。
天応2年(782年)、藤原田麻呂(五男)没。


光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を謀った藤原蔵下麻呂が急死したことを受け、宝亀7年(776年)、祟りを恐れた光仁天皇自身により秋篠寺建立の勅願を発せられる。開基は善珠僧正。(山部皇太子の第一皇子として出生した安殿親王(後の平城天皇)も病を得られるが、善珠僧正自ら回復祈願を行い見事平癒した。)

だが、天変地異は続いた。

宝亀6年 7月から8月、黒鼠の大群・雹・飢饉・野狐・風雨。 8月22日、伊勢・尾張・美濃で風水害。伊勢斎宮を修理。 9月20日、霖雨。(幾日も降り続く雨) 10月6日、地震。

翌 宝亀7年 2月6日、流星。 4月1日、日食。 6月4日、太白、昼に現れる(国の乱れる凶兆)。 6月18日、京と畿内で大祓を行う。旱魃のため黒毛の馬を丹生川上神に奉献する。 7月19日、西大寺西塔に落雷。 8月13日、大風。 8月15日、全国で蝗の害。 9月、毎夜瓦・石・土塊が内豎所の庁舎や京中の家々の屋根に落下。20日余り続く。 10月9日、地震。

翌 宝亀8年2月28日、畿内五ヵ国で疫神を祀る。 2月30日、日食。 3月19日、宮中で頻りに怪異、大祓を行う。 4月、雹・氷が降る。また太政官・内裏の建物に落雷。 5月、霖雨。(幾日も降り続く雨) 8月、霖雨。


宝亀8年(777年)11月1日、光仁天皇が不豫(病)となり、12月、山部親王(桓武天皇)も死の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てた。『水鏡』は記す。「冬雨も降らずして世の中の井の水みな絶えて宇治川の水 既(すで)に絶えなむとする事侍(はべ)りき」。

これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の3日後の同年12月28日、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。
宝亀9年に入り、皇太子平癒のため東大寺・西大寺・西隆寺の三寺で誦経が行われた。
宝亀9年 3月24日、皇太子が病に臥して、病状思わしくない状態が何ヶ月も続いていることから、天下に徳のある政(まつりごと)を示すために大赦の勅を発することとなった。
宝亀9年 3月27日、皇太子回復のため、幣帛を伊勢神宮と天下の諸社に奉納された。畿内と畿外の各境界で疫神を祀らせた。
宝亀9年10月25日、皇太子自ら病気平癒の御礼のため伊勢へ。

70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月、第一皇女能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、崩御。皇后死後、6年と8ヶ月のことであった。

和風諡号は「天宗高紹天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)である。




ほほう、どうやら「祟りが相次いで」
史書の一部の記録が消されてますね


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■この時の祟りと貴人の死は内部被ばくの障害であった可能性があります。


20倍とすれば、人間も最大50000bqを体に取り込んだ可能性があり
食が豊かな貴人程、危険性は成り立つという仮定が成り立ちます。



775年は宝亀6年、
ちなみにウィキでも死人として登録される人が急きょ伸びてました(笑)


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■昔の事なのでよくは分からないんですけど
体内バックグラウンド(いろいろ含めて7000bq)が数倍に伸びると
謎の症状が伸びるのかもしれません。
(可能性は残しておいた方が面白い)

■ちなみに気になるのが1054年のかに星雲


但し7000光年のかなたです。
もしもオリオンのベテルギウスが超新星爆発を起こしたら
その謎は解明されます。

■もしかすると内部被ばくは…贅沢病なのか^^;
折角なのでちょっとそんな発想に浸ってみるのもいいのかもしれませんね。
桓武天皇が歴史上内部被ばくで記録された第一号だったとすれば
非常に面白いですね^^

宝亀6年 7月から8月、黒鼠の大群・雹・飢饉・野狐・風雨
く、黒鼠??笹の花でも咲いたんでしょうかね?

真偽はどうあれちょっと面白い話が出てきましたので書いてみました。
原因不明の祟りの正体が放射線だったとしたら面白いですね。
ただ、太陽の調子がおかしく相当天変地異が起きたようです。
なかなか不思議な話ですね^^

■さて平穏な年としましたが、平穏じゃなかったかもしれない。
でも6割や7割死んだわけじゃなさそうです。
なかなか興味深いかもしれませんね^^

Posted at 2012/06/06 21:16:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 過去の歴史と放射線 | 日記

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貧困解消省として再出発すりゃいいのに。」
何シテル?   06/23 21:41
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